81 死は、いつ訪れるか分からない。子供でも、若者でも、日々の覚悟が必要である。
【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】
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さて、降魔成道記念日を迎えて、あらためて「悪魔」とは何かを、主の御教えから振り返ってまいります。本日は経典『悪魔の嫌うこと』より降魔についての学びを振り返ります。経典をお持ちでない方は、この機会に是非ご拝受ください。【税抜き1600円】
―本書には、エル・カンターレの説く、悪魔の嫌う三箇条が明らかにされている。精読の上、くり返しお読み頂きたい。その価値は無限で、国民全員に、そして、全世界の人々に読んでほしいと痛切に願っている。
大救世主降臨を知らずして、今、知るべきことはない。求めよ、さらば与えられん。真実の智慧を体得するがよい―「まえがき」より
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■『悪魔の嫌うこと』第3章「悪魔の正体の見破り方」
4 「悪魔祓い」に必要なもの
「エクソシズムが成功する条件」とは
結局、「悪魔祓い」、あわゆる「エクソシズム」は、信仰心がカチッと立っている場合には、だいたい成功します。悪魔は、たいてい取れるのです。
幸福の科学には、「悪魔祓い」や「悪霊祓い」、「病気治し」など、いろいろな祈願等がありますが、精舎であろうと支部であろうと、エル・カンターレ信仰をきちっと持って、儀式や修法に則って祈願等をすれば、そうとうなききめがありますし、実際に、悪魔や悪霊を引き剝(は)がす力が出てきます。
ところが、信仰心のところが立たないと、力が弱くなるのです。「信仰心をもっていない」ということは、単に「持っていない」というだけではなく、どちらかというと、「実は、その逆のものを信じている」というのと同じ意味を持つことがあるのです。
要するに、彼ら(悪魔や悪霊)のフィールドというか、領域のなかに自分を置いていることを意味するので、剥がせないわけです。
例えば、「幸福の科学の教えには、いいところもあるかもれしないし、エル・カンターレも偉いのかもしれない。でも、こんな問題もあるし、あんな問題もある。いろいろな問題がたくさんあるじゃないか」というようなことを言い始めると、だいたい修法系のものは効かなくなってきます。
基本的には、それだけで向こうの”手下”に入っているようなもので、実際は、悪魔を信じているのと同じ効果があるのです。つまり、”向こう”のほうに近いわけで、ある癡らを信じていて手放さないから、取れないのです。そのため、調子がよくならないわけです。
『聖書』を読むと、イエスは病人を治すときに、いつも、「汝、我を信じるや」と問うています。そして、「主よ、あなたを信じます」と答えると、「あなたの思うとおりになれ」と言って、病気が治るのです。そのように、信仰心を持っているかどうかをいつも確認しています。「信ずる者は救われる」ということを、きちっと言っており、それが条件として出ているわけです。「信ずることで、信じているものと一体になる」のです。
そのため、悪魔を信じていると、結局、悪魔と一体になってきます。それは、暴力団の組員が暴力団の組長を信じていたら、それらに近づいていくのと同じかもしれません。
そういう意味で、この世の常識や理性のなかには、実は”悪魔の教え”につながるものが数多くあります。そういうものに基づいて判断すると、「迷わし」がたくさん入ってくる場合があることを知っておいたほうがよいでしょう。
〇『仏説・正心法語』や『エル・カンターレへの祈り』の威力
なお、悪魔祓いは、信仰心のところがきちっと立っていれば、基本的に、『仏説・正心法語』や『エル・カンターレへの祈り』で十分に可能です。これで悪魔は耐えられないのです。『仏説・正心法語』のCDは、全編をかけると二十分くらいだと思いますが、これで剥がせないものは今のところありません。
【※『仏説・正心法語』は幸福の科学の根本経典。幸福の科学の三帰誓願式において、仏・法・僧の三法に帰依することを誓った人にのみ授与される。『エル・カンターレへの祈り』も同様に三帰誓願者に授与されるものであり、地球神エル・カンターレへの信仰を深める経文が収められています】
しかし、本人に信仰心がない場合、例えば、(幸福の科学の教えに対して)「何を言っているの?」というような人の場合は、効かなくてもしかたがないでしょう。ただ、ずっとやっていれば、少しは効くかもしれません。
そのように、基本的には、『仏説・正心法語』や『エル・カンターレへの祈り』で悪魔祓いは可能です。もちろん、修行の進んだ人にやってもらった方が効くのは間違いありませんが、自分でも、ある程度、可能でしょう。「教学」をして、その内容、悟りのレベルが上がれば上がるほど、効き目は大きくなってくると思います。
〇最後は「この世的なものに執着する心」との戦い
「悪魔祓い」は、最後は、「執着との戦い」になります。
やはり、この世には、いろいろと執着するものがあるわけです。”いいもの”がたくさんあって、「この世的に失いたくないもの」を数多く持っているのではないでしょうか。
ただ、何度も説いているように、この世的なものは、いずれ、すべてを捨てなくてはいけないようになっているのです。家であろうが、財産であろうが、国際であろうが、親きょうだいであろうが、子供であろうが、いずれ別れは来ます。必ず別れが来て、自分一人になるのです。
そして、魂として、あの世に旅立たなくてはいけない時が来ます。いかに親しい関係であっても、いかに大事なものであっても、かいに執着したものであっても、いずれ、それを捨てなくてはいけない時期が必ず来るのです。
どうか、そうした気持ちを持っておいてください。
船が沈みかかっているときには、もったいないのは分かっていても、船のなかの荷物を捨てなくてはいけません。それらを取引してお金に換えたかったから、たくさんの積み荷があるのでしょうが、船が沈むのであれば積み荷は捨てなければだめです。
したがって、そうしたものを捨ててください。
例えば、学歴自慢とか、財産自慢とか、家柄自慢とか、息子自慢とか、美貌の自慢とか、あるいは、地位の自慢とか、いろいろなものがたくさんあるかもしれません。しかし、どれもあの世には持って還れないので、最後は捨ててください。
持って還れるものは「心」だけです。心のなかでも「正しい信仰心」と言えるものしか持って還れるものはないのです。
最後は裸一貫になって、信仰心だけを持って、あの世へ還る気持ち、覚悟を固めれば、いかなるものも、あなたがたを支配することはできなくなります。どうか、「最後は、そういうことだ」ということを覚えおいてほしいのです。
例えば、植福(布施)等のお勧めもいろいろとしていると思いますが、これは、単に、お金や財産のようなものを差し出しているだけではなくて、やはり、「修行の一部であるのだ」ということを知っておいてください。
そうしたことは、この世の普通の価値観を持ち、普通の理性的な生き方をして、週刊誌的、あるいは、新聞的なものの見方をしている人にとっては、なかなかできることではありません。それは一種の「捨てる」という行為であり、実は、そのなかに尊い修行が潜んでいるのだということを、知らなければいけないと思います。
要するに、「最後は、この世的なものに執着する心との戦いになる。その際、目に見えない世界、神仏や霊界といったものを信じ切れるかどうか。そこにかかっている」ということです。それを言っておきたいと思います。
そこがきちっと固まっていたら、最後に、刑務所に入ったり、精神科の病院に入ったりするところまで、やられないで済むはずです。しかし、この世的なものとの間で板挟みになって苦しみ続けると、精神に障害が出てくることもあるかもしれません。そうした実態をよく知ってほしいと思うのです。
〇「信仰心」さえ立っていれば、未来は開けていく
また、”武器”としては、すでに出ているので十分戦えます。十分戦う力はあるので、どうか、信仰心を立てて伝道してみてください。それが、「救世の行」なのです。
その途中で、眠っていた悪魔が、あちこちで起き上がってくることもあるでしょう。会社のなかや隣近所との付き合い、家族、親族、学校関係など、いろいろなところで、悪魔がムクッと頭をもたげて起き上がり、障害物として現われてくることがあると思うのです。しかし、それに対しては、やはり、強い信仰心で生き抜いてください。
結局、信仰心さえ立っていれば、船の先が水を割って進んでいくようなかたちで、未来は開けていくのです。必ず、そのようになると私は思います。
【大川隆法『悪魔の嫌うこと』第3章「悪魔の正体の見破り方」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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■『太陽のメッセージ』Part2
第3章「新しき世紀へ獅子のごとく」
16 夢は時間と空間を拡大する
勇気と時間の大切さを考えてまいりましたがさらに、夢を描くことの大切さを、人生の件動力としての観点から述べていきたいと思います。
前の章では、同じ一生を生きるのであれば、時間を無駄なく、どう大切に生きるかということでありましたが、夢をいだくということは、けっきょく時間というものをふくらませるということなのです。自分の時間をふくらませ、空間をふくらませるということです。滅多に出てこれる地上ではないのですから、どう生きるか。これは、自分自身のキャンパス、画用紙と言いますか、画風、これらをできるだけ拡大していろいろなものを描いてみたいという思いであると思います。
〔謙虚さは発展の過程にこそ生きる〕
「夢をいだく」ということのなかには、人を酔わせる何かがあると思います。ここで、大事なこととして、『太陽の法』の一節に「世に立って、後世に残るような偉業を成し遂げた人で、夢を抱かなかった人は、おそらく一人もいないと思います。人間として生まれて、この世に生きる以上、大きく生きてみようとする気概は、ひじょうに大切です。ミノ虫のように小っちゃくなっているからといって、それが謙虚だということではないのです。」と書かれています。この部分を、よく読み込んでおいてほしいと思います。
ミノ虫のように小さく生きるからよいのだということではないのです。謙虚さというのは、自らが多くなっていこうとする過程にこそ必要だと言えます。自らが自信満々に生きているからこそ、謙虚さということが必要なのです。謙虚さとはすなわち車のブレーキです。こういう考えが大切であると思います。自らが大きくなっていこうとする過程にこそ必要なのが謙虚さなのです。ミノ虫のようになって、自分が謙虚だといっても、それは違うと言われているのです。よく胸に手を当てて反省してみてください。「可もなく、不可もなく、大過なく過ごしました。」これではダメなのです。「外に出なくて、風邪もひきませんでした。」やはりそれではだめなのです。生まれてきた以上、ミノ虫になったらいけない、その殻のなかから出・
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�きなさい、這(は)いなさい、羽をはやして飛びなさい、と言っているのです。そこまでやって、それでよく自分を見つめて反省してみなさいと言っているのです。そこまでやって、それでよく自分を見つめて反省してみなさいと言っているのです。何もしないで、「可もなく、不可もなかった。」ではだめなのです。
私も昔、そのようなことを考えたことがあります。もう何をやっても失敗する。人を傷つけたり、いろいろするので、もう何もしないのがいちばんよいことなのではないかと思っていたことがあるのです。たとえば、人と会わなければ罪が生じないのであるとか、このようなことをだいぶ以前ではありますが、思ったこともありました。
しかし、それではやはりだめなのです。人と会えば、確かに人を傷つけることもありますし、失敗することもあるけれども、そこをあえて一歩踏み出して、自分の世界を大きくしていくようでなければならないのです。その過程において失敗はもちろんあるでしょうが、それも前向きに受け止めていくことです。まず、リスクを恐れてはいけない。向かっていくときの傷は、やはりやむをえないと思っていくべきです。そして、起こってしまったことについては、謙虚に反省することです。このように思ってください。
はたして自分がミノ虫になっていないか、反省と言いつつ反省の袋小路のなかに、殻のなかに入ってミノ虫になっている人はたくさんいます。おそらく読者のなかにもいるかもしれせん。とにかく反省しておけばよいのではないか、ということで、どんどんと小さくなり点のようになっている、そのような人がいらっしゃると思います。ですから気をつけてください。それではだめなのです。出てきなさい。歩きなさい。這いなさい。そして飛びなさい。それで失敗したのならば反省すればよいのです。そういうことなのです。
しないことのほうを反省するということ、何もしないこともまた反省の材料であるということ、これを言っておきたいと思います。ブレーキもだいじ、アクセルもだいじ、両方一体になる、ということを知っていただきたいということなのです。
17 勇気の原点
「勇気という言葉を聞くと、私は、大木のなかに打ち込まれてゆく鉞(まさかり)を思い出します。カーン、カーンと早朝の森林にこだまするあの勇ましい生命の鼓動を聞いているような気持ちにさせられます。この勇気という名の鉞があるからこそ、私たち人間は、人生の苦難という名の大木を切り倒していけるのだ、と私は思うのです」と、私は『太陽の法』の一節のなかで語ったことがあります。
確かに人生は困難に満ちていますし、手さぐりに近い部分もそうとうあります。しかし、一本の鉞を私たちは授かっているのです。そのままであれば、もうどうしようもない、もはやこの運命の森のなかから出ることができないのです。どちらに行ったらいいのかが分からない。日は暮れて、草はしげり、木は黒々となり、ふくろうは鳴き、というような状況のなかで、ひじょうな不安に襲われるわけであります。
しかし、私たちの腰には、この鉞がぶら下がっているのです。これを用いなければいけないのです。よし、と思ってこの鉞を振り上げて、切り開いていくときには、もう障害物はなくなっているのです。実は、これを振り上げる勇気がないだけのことが多いのです。この恐怖の森も、夜が明けてみれば、たいしたことはないのです。平和な森なのです。それが、いろいろな恐怖の怪物が出たり、幽霊が出たりするような森に見えることがあるのです。そのなかで立ちすくんでいることがあります。しかし、腰に鉞があるということを思い出さなければいけないのです。
〔「大力量人」のたとえ〕
禅の『無門関』という書のなかに「大力量人」という話が載っております。難しい漢文についてはどうでもよいことでありますが、けっきょくのところ、このなかではこのようなことを指摘しているのです。すなわち、道を求める人、悟りを求める人のなかにも、自分自身を縛って小さくしている人が大勢いるということです。
人間の犯す罪について、などといって、罪の探究、追究をして、何やかやといい、その結果、
自分をくくっているのです。この自分自身をくくって、がんじがらめにしていく傾向が、人間にはどうしてもあるようです。このときに、やはり気がついたならば、運命の糸を思いきって断ち切らなければいけない時もあるのです。時おり、ジレンマ、あるいは、自分でつくった罠といいますか、危機のなかに人間は陥るのです。
このような話については、同書の「香厳上樹」(第五則)のなかにある禅の公案として記述されています。まず、お坊さんといいますか、修行者というものは、道を聞かれたときに必ず答えなければいけないという大前提があるわけです。
ところが、その修行者は、木の枝にぶらさがっているのです。しかも、ただぶらさがっているのではなくて、口で木の枝をくわえ、手は縛られているかあるいは使ってはいけないという前提なのです。このようなルールがあります。口で枝にぶらさがっている。口を離せば、下に落ちて死んでしまうというよう絶対絶命の状態にあるのです。
そのとき、下にのんきな人が出てきて、「いかなるかこれ、祖師再来の意」などと聞いてきます。つまり、仏陀の教えが伝わってきたこの意味はどこにあるのでしょうか、などと聞いてくるのです。そうしますと修行者としては、これはなんとしても答えなければいけないわけです。逃げればもう修行者としては失格である。しかし、口を開ければ死んでしまう。さあどおしますかと、このようなことを一生懸命に悩むのです。
これは、ひとつの比喩ではありますが、気がついてみますと、みなさん、人生のいろいろなところでけっこう、このような状況に陥っているのです。質問には答えなければならないけれども、答えようと思えば命がなくなる、というこの公案と同じような状況に自分を置いているようなことがたくさんあります。そして、口で枝をくわえているだけではなく、自分で手まで縛っているのです。このようなことが、いくらでもあるのです。いつのまにか自然にそのようなものを勝手につくっているのです。
しかし、その自分の困難と思っているものが、ほんとうに困難なものなのであるのかどうか、実際に、やってみてどうかということです。そうでもないことが多いのです。自分で想像上でつくり、縛っているだけのことが往々にしてあります。
たとえば、自分がこの道に進めば、今までの友人を失うことになるだろう。などいうことがあります。今、自分は真理に目覚めた、ところがこの道に突き進めば、私は彼女を、あるいは彼氏を失うであろう。それとも会社のなかでの立場が悪くなるかもしれない。社員が反乱を起こすかもしれない、そのようにいろいろなことを、空想で一生懸命につくっているわけです。あるいは、奥さんの了解を得なければ、いったいどうなるかわからない、などと一生懸命考えに考えて、うんうんと唸って、あげくのはてに胃が痛くなって入院したりするわけなのです。
これはひとつのたとえ話でありますが、人生にはこのような局面がたくさんあるのです。そのようなときには、遠山の金さんではありませんが、威勢よく「この桜吹雪が見えねえか。」と言って、片肌脱ぐぐらいの気持ちにならなければいけないのです。
「なに、しゃらくさい。口を離したら死ぬ?そんなことあるもんか。」と実際、飛び降りてみれば猫のようにヒラリと降りることができたり、あるいは枝をブチ折ったり、いろいろ新しい局面も出てくるわけです。また逆に「戒律みたいなそんなもんブチ破ってしまえ。何をいうか。答えんでもよい。」という考え方もあるのです。答えなければいけないという考え方自体、そもそも間違っているという考えも成立するかもしれない。
このように、ひとつのダイナミックな動きを考えてみたときに、その自分の小さな悩みが吹っ切れることがあります。ほんとうにそうなのです。ですから、自分が何かに囚われてがんじがらめになっていると思ったときに、自分がほんとうは大きな力の持主、大力量人であるということを忘れ、小さな殻のなかにとじこもっていて、「ああしてはいけない、こうしてはいけない。」というようになっているのではないかと反省してみる必要があるのです。善悪の二元論にとらわれたり、罪の意識に囚われて小さくなっているようなとき、ダイナミックな動きをもうひとつ考えてみることが大切です。
「それではどうだ。あとで考えてみて、何でこんなに小さいことにこだわっていたのか、と笑ってしまうようなこともありますが、そのとおりなのです。すんでしまえばそれまでのことです。こういう経験もぜひともしていただきたいと思います。
18 努力するという名の幸福
『平凡からの出発』や『太陽の法』のなかでも触れておりますが、私は小学校のころから「自分は頭が悪いから、人の二倍、三倍努力して、やっと一人前だ。社会に出て、ほんとうに世間の役に立つような人間となるには、ほかの人が眠っているときに、寸暇を惜しんで、人の四倍、五倍の努力をしなければいけない。」と考えておりました。
これは、謙虚で逝っているのではなく、事実そのとおりだったからなのです。自分自身を鈍いと感じておりました。そして頭も悪く、飲み込みも悪く、効率も悪い、不器用な人間だと思っておりました。ですらか、ほんとうに人の何倍も努力しなければ、追いつかないのです。ただ、このような努力を続けているうちに、不思議ではありますが、ほんとうに頭のいい人と変わらないような結果が出てくるのです。頭の中身のことはけっきょく、だれにもわかりはしないのです。頭のなかを投資できるとしても、脳味噌しか入っていないものですから、やはりなにもわからないのです。したがって、人はその結果しか見ていないのです。
ですから、ある人が軽くこなせることであっても、自分にとってはその三倍、四倍の時間がかかるかもしれないし、準備もそうとう必要なのかもしれませんが、それでも、それだけのことを仕上げれば結果としては同じなのです。人はそれまでのことで、中身はわからないのです。そういうことなのです。
努力の価値ということで、よく亀のたとえをいたしますが、私が今になっていろいろと思いますのは、頭が切れないというのも幸福なことではないかということです。たぶんみなさんのなかには、自分は頭の切れが悪いと思って悩んでいる方も多いと思います。しかし、これはある意味で、ほんとうに幸福なことかもしれません。長く修行ができるのです。長く楽しめるのです。「人生を十倍に楽しむ法」ということではありませんが、人がスース―いくところを長く時間がかかるわけで、考えようによってほんとうに楽しむことができるのです。その間いろいろな工夫もできますし、コツコツと蓄積もできます。まことにありがたいことなのです。
人生はあまり、超特急で行けばよいというものではないのです。努力をするのは時間がかかるかもしれないけれども、結果的には同じところまでいくので、途中で得られるものは、もっと大きいものが得られるかもしれないのです。結果的には同じものが出るけれども、得たものは大きいのです。
たとえば、私たちの幸福の科学の例でいえば、上級セミナーというものがあります。受かる人も落ちる人もいて、もちろん上級であるだけに落ちる人のほうが多いのでありますが、それでは、スッと受かってしまえばどうなのかという観点もあります。試験のテキストとして、二冊や三冊を勉強しただけでスッと合格したならば、それがよいことかどうかということです。それはそうでもないかもしれません。やはり、ああいうものは三年ぐらいかけたほうが、ほんとうはおもしろいのかもしれないのです。いろいろな勉強をしていって、やっとクリヤーしたほうが、達成感があってよいかもしれません。じっくり練ってきて、合格していただいたほうがよいのではないかという気がひじょうにします。
さっと二冊ぐらいで合格して、それで悟ったような気になれれば、そのあとの転落も激しいために、かえって危ないのです。じっくり実力が熟成されてきて、合格していくほうがほんとうはよいのです。けっきょく、私は多少頭が悪いぐらい、あるいは仕事もできないくらいのほうが、努力のしがいがあっておもしろいという、ひとつの悟りを述べているのです。
また、女性にも、もてないほうが得ることが多いということがあります。私にしても、その結果、おかげさまで文章力がついたのです。いまでは文を書くのも早いし、感じもずいぶん覚えました。そして、短期間のうちにかなり書けるようにもなりました。ほんとうに、ありがたいことです。それがいまに生きています。
ですから、数えてみれば、いろいろな失敗は多いのですが、イエス・ノー、あるいはオール・オア・ナッシングで、ものごとを考えてはいけないという結論なのです。試験にしても九十点が合格ラインとすれば、八十九点は不合格になりまずか、ゼロかといえば、そんなことはないわけです。八十九点は八十九点なのです。やはりゼロから考えてみれば、八十九点だけのものは必ずあるわけです。努力したものは結果だけをみてはいけないのです。努力したものは、それだけのものが残るのです。自分のなかに残るわけなのです。ですから、人生何が幸いするかはわからないということです。(※)
〇あとがき
この『太陽のメッセージPART2』は、まさしく私からみなさんへのメッセージであります。いや、私からみなさまへのメッセージと言うのみならず、この私をして法を説かしているところの巨大なる神霊意識からのメッセージと言ってもよいでしょう。それは、みなさんご存じのとおり、今から二千六百年近い昔にインドに生命をもったゴーダマ・ブッダという偉大な生命体の光そのものであり、このゴーダマ・ブッダをして働かしているところの大日意識の力そのものでもあります。
すなわち、この『太陽のメッセージ』は、その源において十次元神霊たる大日意識、その大日意識の人格たる聖アントニウスの力を受けて説かれた法であります。
どうかこの人類最高の叡智に追っているところの本書を、二読、三読して、みなさんの魂の悦びとしていただきたいと思います。
一九八九年六月
幸福の科学 主宰 大川隆法
【大川隆法『太陽のメッセージ』part2 第3章「新しき世紀へ獅子のごとく」より抜粋】
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天使・菩薩に必要な「発展思考」を確認します。
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〇すべての世界を光に満ちたものに変えていく「発展思考」とは
そのための準備は何か。今、言ったことと同じなのです。
地上にあって、神への祈りから一日を始め、そして人助けのための仕事をし、真理をしっかりと学び、お互いに励まし合い、相和し、そして手を携えながら、「共に頑張って光の世界をつくろう。仏国土をつくろう」と、こうして誓い合って精進している人たちが行く世界が、菩薩の世界であるのです。そして、それを自分の喜びとしてやれる人、それが本来の魂としての菩薩です。
今日、来ておられるみなさんの平均年齢が例えば四十歳とするならば、みなさまにはまだあと四十年という人生が残されています。この四十年の人生を、いかに多くの人々を教え導き、多くの人々のためになる生き方をするか、これが鍵なのです。
できれば一万人ぐらいの人を導いてください。
一人で一万人ぐらいの人を導いてください。
真理に誘い、人々の心のなかに灯を灯し、
多くの人々を助けてやってください。
一万人ぐらいの人を導くことができたら、だいたい「菩薩の世界」に入れます。
そのくらいの難しさではありますが、
そのくらいの努力をすればまたは入れる世界でもあるのです。
どうが、残りの数十年、人生計画をして、
一万人ぐらいの人を正しい道に誘って、地獄に堕ちることなく真理に目覚めさせ、
そして、「共に頑張って光の世界をつくろう。仏国土をつくろうよ」
と励まし合いながら、やってみてください。
そこに魂の最大の発展への道が見出されるはずです。
かつて「常勝思考」として、
この世の苦難・困難をすべて自分の力に変え、
勝利していく道を私は説きましたが、
「発展思考」は、
「この世を超え、あの世の視点から自分を発展させる」
「あの世の視点から、この世を発展させる、人類を発展させる、社会を発展させる」
というものです。
この世という視点ではありませんが、
あの世、本来、私たちが還るべき世界から見て、
自分たちの仕事を考え、自分を引き上げて、
全ての世界を光に満ちたものに変えていく、
これが「発展思考」です。
みなさんの立っている地点を、この三次元にしてはなりません。
「七次元菩薩界」に自分の視点を築いて、
やるべきことはいったい何であるか、
なすべき仕事は何であるか、
心に問うてください。
発展の道は自(おの)ずと開けるでありましょう。
ありがとうございました。
【大川隆法 初期重要講演集ベストセレクション⑦『許す愛』第2章「発展思考」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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(12/29-1)【基礎教学通信】363『太陽の法』を読む93「太陽のメッセージ2」新しき世紀へ獅子のごとく5―『悪魔の嫌うこと』「悪魔祓い」に必要なもの―「発展思考」すべての世界を光に満ちたものに変えていく「発展思考」とは
『太陽の法』