80 地球という修行場は、宇宙人類(スペース・ピープル)のためにも、その使命を果たさねばならない。
【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】
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さて、降魔成道記念日を迎えて、あらためて「悪魔」とは何かを、主の御教えから振り返ってまいります。本日は経典『悪魔の嫌うこと』より降魔についての学びを振り返ります。経典をお持ちでない方は、この機会に是非ご拝受ください。【税抜き1600円】
―本書には、エル・カンターレの説く、悪魔の嫌う三箇条が明らかにされている。精読の上、くり返しお読み頂きたい。その価値は無限で、国民全員に、そして、全世界の人々に読んでほしいと痛切に願っている。
大救世主降臨を知らずして、今、知るべきことはない。求めよ、さらば与えられん。真実の智慧を体得するがよい―「まえがき」より
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■『悪魔の嫌うこと』第3章「悪魔の正体の見破り方」
3 悪魔が狙ってくるポイント
「唯物論」の学者や僧侶にも、悪魔の手は忍び寄っている
例えば、エクソシストものの映画等を観ても、医者やジャーナリストなどは、だいたい「まず疑ってかかる」というスタイルで出てきます。「あなたは神父だから信じているかもしれないけれども、こちらは証拠がないかぎり信じられない」というように、必ず、やり合う感じになるのです。
今も、そういう人はけっこういるでしょう。
脳科学者といって、脳の生理学者のような立場で本を書いたり、テレビに出たりしている人もいますが、そういう人は、魂や霊などを信じたくなくて、すべてを脳の機能に戻してしまうのです。中身をよく見たわけでもないだろうに、「脳が万能機械のように、すべてを取り仕切っている」という感じで、「すべてが脳のせい」というようにしてしまう人もなかにはいます。
さらに質の悪い人になると、脳の学者でありつつ、僧侶の資格も取り、伝統宗教の僧籍を持っていながら、「霊はない。あの世はない。そういうことを言うやつは、みんなインチキだ。詐欺だ」などと言って回っているのです。そういう人が世の中にはいて、本を書いたり、テレビに出たりしています。
こんな人には、悪魔が入り放題でしょう。要するに、「宗教を破壊するために活動している」「悪魔の走狗になって手伝っている」ということです。
彼らは、この世的に頭が悪いわけではありません。単なる「邪見」なのです。つまり、「魂などはなく、すべて脳の機能である。だから、死んだら何もかもなくなる」と思っているわけで、最初の”思い込み”のところが間違っているのです。
そういう状態では、いくら勉強しても無駄でしょう。その上にいくら積んでも、もとが違っているのであれば駄目なのです。やはり、車を分解したところで、「なぜ人間がつくられたのか」という、それをつくった者の意志は、見破れないものには見破れません。分解だけしても無駄なのです。
そうした、「あの世を信じず、霊を信じないのが仏教だ」などという人に、僧籍を与えるような宗教も困ったものではありますが、実は、そのように積極的に宗教を妨害しているような者のところにも、悪魔の手は忍び寄っているのです。
〇「傲慢さ」や「うぬぼれ」も悪魔が入ってくる入り口
もちろん、唯物論であっても、医学部系や工学部系などでは役に立つようなところがずいぶんいるので、私は、それを全部否定する気はありません。
実際に、ある種の栄養分を摂らなければ体が悪くなることもあれば、逆に、ある種のものを摂りすぎたことで体が悪くなることもあります。「標準から見て、あまりに外れている数値が出ているものについては、改善しなければ病気になる」というようなことも現実にあるわけです。
やはり、単に「奇跡が起きるのか、起きないか」だけの問題ではなく、「日ごろ、合理的な生活をしているかどうか」という目で見ることも、とても大事だと思うので、それを全部否定する気はまったくありません。それはそれでよいでしょう。
しかし、「自分たちが分からない領域」について、それを全部否定するような考え方は、傲慢だと思うのです。
そういう意味で、「悪魔の入ってくる、もう一つの入り口」とは、「傲慢さ」や「うぬぼれ」、あるいは「謙虚さのなさ」であり、そこにもズバッと入ってくるのです。
今まで幾度となく悪魔と戦ってきましたが、いちばん難しかったのは、自惚れの強いタイプの人から悪魔を離すことでした。やはり、「自分は特別な人間だ」と思っているような人から悪魔を剥がすのは、かなり難しいのです。
謙虚な人の場合、悪魔を取るのは、それほど難しくありません。簡単に取れます。なぜなら、謙虚な人は、反省できるからです。反省の習慣を持っている人であれば、悪魔を取ることができるのです。
ところが、反省ができないタイプの人もいます。そういう人は、自我が非常に強いのですが、その自我の強さは「うぬぼれ」や「慢心」というものから来ています。そういうものから出ていることが多いのです。
〇「強欲な人」や「怠け者」にも悪魔が入りやすい
また、強欲で、この世のいろいろなものを、すばやくパッと取っていく人がいます。会社であれば、「儲けになるのを、パッと取っていくような仕事をしている」、「ライバルを蹴落としたり、競合企業をぶっ潰したりしてでも勝っていこうとする」というタイプです。
そういう人のなかには、やはり、”悪魔の入りやすい素質”が一部あると思います。
あるいは、M&A(合併、買収)という、会社を買ったりする活動があります。もちろん、全部が全部そうとは言えないかもれしませんが、なかには、相手の会社の従業員のことや、よい製品を世の中に売り出すというようなことをまったく考慮せずに、「今、ここは安いけれども、将来、値上がりしそうだ」ということで買い、「値上がりしたら、すぐに売り飛ばして利益だけをあげる」というようなことがあるかもしません。
彼らは、この世的に見れば、賢くて頭がよく、金儲けがうまいわけですが、そうした人のなかにも、悪魔は必ず入れるでしょう。
要するに、マネーゲームのように巨額のお金を動かして、ウォールストリート型の商売をするもののなかにも、悪魔が入る余地はあるわけです。
そういう意味では、「頭がいい」とか、「金儲けがうまい」とかいうだけでは、必ずしも合理化できないものはあります。やはり、「強欲」というところにも、悪魔は非常に入りやすいので、この世的に見て、サボったり、怠けたり、言い訳をしたり、愚痴を言ったり、寝てばかりいたりするような人にも悪魔は入れます。
もちろん、「これの全部が悪い」とは言いません。夜中に活動や仕事をしていて、昼間は寝ている人もいるとは思います。休みの日に寝ている人もいるでしょう。
ただ、どちらかといえば怠け者と判定されるような者にも、悪魔が入りやすい気はあります。そうした人は、世間からの非難を受けて、言い訳をしたり、愚痴を言ったりするような、「自己保存の心」が強くなる傾向があるからです。
【大川隆法『悪魔の嫌うこと』第3章「悪魔の正体の見破り方」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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■『太陽のメッセージ』Part2
第3章「新しき世紀へ獅子のごとく」
13 愛の行為と真心
十六世紀のドイツにおいて、教会が免罪符を販売したという話があります。この話については『大天使ミカエルの降臨3』のなかでも触れられています。そのころ、サンピエトロ寺院修復のために、教会が金集めをしており、そのために免罪符を売っていたわけです。そして、教会はそのときに何と言っていたかと申しますと、「免罪符を買うためのお金、寄付金をチャリンと投げ込めば、チャリンという音がするたびに天国が近づく。」と、このようなことを言っていたわけでありますが、やはりそうではないのだということです。
愛の行為も、真心がこもらなければ意味がないのです。真実がなければそうしたことは意味がないのです。ですから、いくら寺院に寄付をして、お金を投げ込んでみても、そのようなものでは、ほんとうは救われることができないのです。
やはり、その行為のなかにどれだけの真実があるか、真心が光っているのかということで評価されるのです。その真心が光るためには、真実なる感謝がなければだめなのです。そのためには、自分が生かされているといことの発見、またその事実への感謝がだいじです。これか無い人には、真の感謝行はできないのです。いくらアフリカ難民にお金を使っても、この真実のところができていなくては、天国には行けません。全然関係がないのです。
行為だけでは、ある意味で、虚栄心によるものかもわかりません。あるいは自分の罪悪感、つまりいろいろと悪いことをしてきたので、これでもって罪滅ぼしをして、許してもらおうと思ってやっているのかもしれないけれども、どちらも許されません。外面的な、うわべだけの善行といわれることでは、罪は許されないのです。その善行、善い行いの奥に、真心がこもっていなければ、真実のものがなければ、これは霊的に見てはゼロなのです。ここが大切なところですが、外に表われた結果や外面だけではないのです。
これは「貧者の一灯」という言葉についても当てはまることです。長者の万灯より貧者の一灯ともいいまして、貧しい人の一灯のほうがだいじであるというように言われております。なぜかということでありますが、これは別に数量的にいっていることではないのです。お金持ちが、蝋燭(ろうそく)を百本買ったり、一万本買ったりするコスト、その負担感よりも貧乏人の一本の負担感のほうが大きいために、貧者の一灯のほうが立派だと言っているのではないのです。そのなかにこもっている真心が問題になるのです。どれだけの真心をこめるかということなのです。
大金持ちが寄付せがまれて、それでは金はいくらでもあるから一万円持っていけと言って、ポンと出して、何も気がついていないのと、貧しい人が何とか神仏のためにと思って、自分の少ない貯えのなかから、生かされていることへの感謝の意味で、蝋燭(ろうそく)一本を供える、その感謝の念とを比べれば、ほんとうの真実がこもっているところのもののほうが値打ちは高いと言っているのです。
行為といっても、そこに真心がこもらなければ、これは霊的には意味がないのです。これを私は言っておきます。愛といっても、そのなかに真心が伴わなければ意味がないのです。そんなものではないということです。
以上、説明いたしましたような観点から、「反省」と「進歩」というこの二本の物差しによって自分を日々点検されることをみなさん方に期待しているわけです。
14 人生に光彩を放つ瞬間
①病という試練を越えるもの
人生に光彩を放つ三つの瞬間を考えてみたいと思います。第一番目は、病から立ち直ったときという瞬間をあげることができるでしょう。これは、病の意味をある意味で積極的に評価し直してみた考え方です。
病というものは、代表的な苦しみの一つです。ほんとうに、自分が自分でないときです。どうしようにもできないのです。自分がどうにもならない。ひじょうに、肉体的な、あるいは精神的な苦しみです。このときにも、また、ひとつの試練と戦うことによって、その人の人間性は試されるのです。
まことに残念なことでありますが、人間というものは、ある程度試練を受けなければ、ほんとうに目覚めないのです。人生には、このような砥石の面があるのです。みなさんのほとんどが、平穏無事な人生を祈るのですが、実際は人生の途上において、ほんとうにいろいろな障害物が立ちはだかります。神よ、このような障害物を取り除きたまえと、祈りたいところだけれども、取り除くことができないのです。障害物というものは、どうしても出てくるものです。そして対決せざるをえないのです。しかし、それがやはり長い目で見れば、試練というものは、魂にとっての修行になっているのです。
このような意味で、一度もう少し大きな視野で、人生全体を見直すつもりで、自分の困難を眺めてみる必要があります。それはある意味でひじょうに巧妙な愛です。神様の巧妙な愛なのです。
病気で苦労してみなければわからない人には、病気が与えられることもあります。それも大きな愛であることが多いのです。傲慢な方、あるいは自分流のわがままな生き方をしてきた方は、たいてい病を通してはじめて人のやさしさに触れることができるのです。
自分が元気なときに、やりたい放題、したい放題で、やり手の経営者などと言われて、何でも自分の思うとおりにならないことはない、人も自分の思うとおりにならなければきがすまない、このようなタイプの方、あるいは、出世のみが生きがいとばかりにガリガリと猛烈サラリーマンの生き方をする人、また、猛烈社長として何十年も生きてきたような方、こうした方がたは、人の意見で自分の信念を変えることは、かなり難しい部分があると思います。それは不可能に近いのです。こうした方がたに考える時間を与える、このために病というものを送ることもあります。
それだけ、突っ走ってきた人が、病気になって、一年間入院をしてみます。このときにはじめて、自分の人生をふり返ることができるのです。自分が求めていたものは、何だったのだ、会社の利益とはいえ、それはいったい何だったのだろう。名声とはいったい何だったのだ。それよりも、今は、自分に対するやさしい言葉のひとつのほうがうれしい。そうなのです。再起できるかどうかわからない自分、そのような立場に追い込まれてみれば、やさしい言葉のひとつがうれしいのです。
「ああ、こういうものに値打ちがあったのか。自分がいま求めているものは、利益でもなく、名声でもなく、地位でもない。人の優しい心だ。」ということを知るのです。あるいはそうした人の心に触れて自分自身の真の生きがいのようなものが、ふつふつと湧いてくれば、それがいちばんうれしいのです。そういうものです。けっきょく、病というもののなかに、ひとつの教訓を含んでいるわけです。
これは、ひとつの例ではありますが、これ以外でも困難はいろいろなものが考えられるでありましょう。そのなかには必ず何らかの意味があります。それは、大きな愛であることが多いのです。順調な人生よりも、大きな愛が与えられていることが多いのです。
したがって、いま現在いろいろな障害のなかで悩んでいらっしゃるとしても、多くの愛を与えられているという視点を持ってください。そのなかから学び取っていこうとしている人に対しては、もはや何ものも邪魔立てすることはできないのです。そして、その人の成長を止めることはできないのです。そういうことなのです。
一般的な話として、病気のときには、憑依霊がついていることが多いのです。やはり、憑依霊がいちばん嫌がるのは「反省」と「感謝」であるということを言っておかなければならないでしょう。これもひとつの大きな武器なのです。ただこれについては、今までに詳しく説明しているので、みなさま方のご理解も進んでいることと思われます。
②信仰における目覚めと試し
煌めきの第二の瞬間は、信仰に目覚めたときです。これも、たいせつなことなのです。信仰とは目に見えない世界です。この目に見えない世界を、どこまで信じることができるかということが、これはある意味で大きな勉強なのです。目に見えぬ世界の存在、これがあるということを知り、これを信じ、それに基づいて日々自分を律していけるということは、大いに意味のあることなのです。これは非常に高尚なことで、簡単にできることではないのです。
その逆に、目に見えるものを信じて、それに基づいて生きていくということは簡単なことなのです。たとえばこの道をまっすぐに行けば、お金が落ちているというならば、そこを通ることは簡単なことなのです。ところが、目に見えない神や、高級霊という、このような方がたの教えがあって、それに基づいて、自己を律して生きていくということ、これは難しいことです。そう簡単にはできないことなのです。しかし、いちばん値打ちのあることなのです。
実在界にゆけば、それはみなさんに知らされるのです。ですから、それまでに信仰心がなく、そのときになって、「ああ、信仰、信仰」と手を合わせたからといって、すでに遅いのです。もうだいぶ遅れをとっているのです。ですから、その前にこのように神を信ずることが、ひじょうに困難な世界において、信仰に目覚めるということは、これは大切なことなのです。
しかし、肉体を持っていると、時おり、不安感に襲われたり、不信感に襲われたりするのはやむをえないと思います。私でもそれは同じことです。毎日のように高級霊たちと話しをしていても、やはり肉体人間としての自分になると、いろいろなところで迷いが出ることはあります。そのときに、彼らは、次々といろいろなとことを私に教え、指導してくださいます。
ましてや、そのようなことをされていないみなさん方にとっては、ひじょうに苦しいことでしょう。信じられなくなることもあるかもしれません。しかしながら、信仰のなかにあって、自己に不利なことが起きたそのときに、やはり、ひとつの試しがあると、思わなければいけません。
キリスト教的に言えば、信仰には試しがあるということですが、やはり、必ず魂においてそのようなふるいがかかるときはあると思います。おそらくそれは、みなさん方にもあると思います。真実自分がどちらの道を選ぶのか、魂を取るのか、それとも他のものを取るのか、これも試されるときがあります。
イエス様の考え方からすれば、「信仰を取るか、他のものを取るかと聞かれたら、迷わず信仰を取れ」とすでに言い切っておられますが、それは霊的世界に生きている人からいえば、まったくそのとおりなのです。このことはペテロの後悔を見ればわかることなのです。二千年前に、鶏が二度なく前に、三度イエスのことを知らないといったことを、ペテロがどれだけ後悔したのかを考えたときに、信仰をとれと言われたことの、真実の意味がわかってくるのです。霊的世界においては、これはなかなかのことなのです。取り返しがつかない大変なことなのです。
したがって、その信仰における不動心こそ、評価されていくのです。いろいろな、運命の流れのなかで、出来事のなかで、どれほどこの信仰の部分が動かなかったのか、あるいはそれを乗り越えてむしろ発展したかどうか、これが試されるのです。それでペテロは、やはりずいぶんと苦しんだのです。あれだけの人であっても、「師を知らない」と言ってしまったということは、もはや、なんとも自分が許しがたい存在なわけです。そういうことなのです。
ですから、そうした困難のときに、やはり試されることがあると思ってよいのです。しかしながら、これはすばらしいときです。実に、すばらしいことです。目覚めるということは、ほんとうにすばらしいことです。実体験をせずに信じておられる方は、これはたいしたことです。ものすごいことです。実際に毎日、霊的に体験をしていて、霊が存在し、霊があるということを知るということは、それほどたいしたことではありません。楽なことです。知らないのにもかかわらず、それをつかむということは難しいことであると思います。ですから、これは値打ちのあることなのです。そのように思ってください。
③自己確立と霊動現象
きらめきの第三の瞬間は霊道を開いたときです。これは難しいところでありますが、多少、後天的な才能としての部分もあります。おそらく経験される方も出てくると思います。私は、単に霊道を開くということだけを奨励したいとは思わないのでありますが、悟りのよすがとして必要なこともあり、また、それを知ることも人生にとって、プラスになることもあるでしょう。
しかし、これにのめり込むと、大変なことになります。ですから、霊道を開く前提としては、やはり自己確立をどうしてもしておいてほしいのです。自分というものを固めておかないと危ないのです。霊道現象に振り回されても、動かない自分、あるいは振り回そうとしても確固とした部分が自分のなかにあれば、これを一つの物差しとできるのです。
この確かに積み上げてきた部分、蓄積してきた部分、つくってきた部分、神の目から見ても、自分の目から見ても、これだけは間違がないという部分が、自分のなかにあれば、そうした嵐のなかにあるときにも、これを見ることによって軌道修正し、正しい生き方が分かるのです。
ちょうどそれは夜空に輝く北極星のようなものです。北極星をみれば、方向が分かるのと同じように、自己のなかに真なるものを蓄積し確立しえた人間は、一度はこのような現象に惑わされたとしても、それを見つめることによって、自己の現在の位置を確認することができるのです。
それゆえに、まず私は「自己確立」ということを、何度も何度も口を酸っぱくして言っています。霊道現象だけに興味を持って、自己確立ができていないとほんとうに危険です。
15 時間の大切さを徹底的に知る方法
人生における時間というものの大切さを知って有意義に生きる方法として、人生にはひとつの秘訣があります。それは、自分が死ぬときのことを瞑想してみるという方法があります。自分が死ぬとき、なにを考え、何を感じるだろうか、常づね瞑想してみるという方法があります。自分が死ぬとき、なにを考え、なにを感じるだろうか、常づね瞑想しておくということです。これは、執着を断つひとつの方法にもなっています。
死ぬまぎわのときに、自分がいまの自分でどうであろうか、満足がいくかどうかということを考えてみることです。私自身もいつも考えています。「いまのままで満足か、どうだろうか。」ということをいつも考えているのです。けっきょく、満足ということはありえないのです。ほんとうにどこまでやってもきりがありません。やはり、できるかぎり少しでも前進しなければと思っています。おそらくみなさんもいっしょでしょう。
反省ができないという人、自分ではどうしても反省すべきことを思い出すことができないし、何も考えることができない人は、一度、自分が死ぬ段になったと思う方法があります。ベッドに、あるいは蒲団(ふとん)の上に静かに自分が横たわっているとして、どう思うかを想像してみるわけです。
自分が今まさに死なんとしているところであると思って、そして、自分の過去を回顧するさまを想像してみるのです。そのときに見えてくるものがあるはずです。そのときに、「ああ、しまった、あの人とこうしておけばよかった。あのときのあの仕事、こうすればよかった。こう生きればよかった、あの時間は無駄であった、損であった。」といように、いろいろなことが浮かんでまいります。これが、反省のひとつの方法です。
ですから、反省法として八正道、これがどうしてもできずに、三正道でさえも難しい人も、いろいろいらっしゃるでありましょう。
【※〇ラ・ムーの三正道①―愛の反省
人間は人を愛して生きるべき存在である。愛を人に与えたかどうか、これを毎日必ず振り返れ。
〇ラ・ムーの三正道②―天上界と心を通わせる反省
今日一日、神あるいは神近き高級霊といわれる守護・指導霊と心を通わすことができたかどうか。これを反省せよ
〇ラ・ムーの三正道➂―学びの反省
汝、今日いったい何を学びしか。これを反省せよ。一日を無駄にしていないか。学ばずして一日を終わるな。一時間を終えるな。一分を終えるな。一秒を終えるな】
このような方は、自分はもうすぐ死ぬ、今日で命が終わると思ってもよいのです。あと一時間でぽっくり逝くならば
どうするか。あの世へいくと、閻魔さんが待っているとか、自分の過去がスクリーンに映し出されるという話も聞いているでしょうが、その前に予習をしておくわけです。
死ぬ前に自分の人生を振り返ってみる。そうしてみますと、あの人と和解しておけばよかったなどということが、けっこうあるはずです。「あの人を憎んでいたけれども、ああ、失敗した。」「あの点、やはりあれだったのか。」とか、いろいろと出てくることでしょう。このあたりを考えてみていただきたいということです。
あの世での人生模様についての話は、(※)それは、やがてみなさんを待っている光景なのです。
『太陽の法』の一節をご紹介いたしますと、「死去したあと、実在界で、自分の人生模様を見せられて、ほかの人たちから拍手を送られる方もいます。すなわち、その人が、自分の人生のまちがいに気づき、神に両手をあわせて許しを乞い、その両眼から涙が流れている映像が映るとき、あの世の人びとは拍手喝采し、新米の霊人の肩をたたき、握手を求めるのです。また、そのひとが真理伝道のために一命を投げ出し、立ち上がった姿が映ると、光の天使たちは、涙を流してよろこびます。」と書いてあります。このような姿を想像できる方もいらっしゃるのではないかと思います。
私も、やがて地上を去っていく身でありますが、私より先に逝かれる方、後から逝かれる方と、いろいろいらっしゃるでしょうが、あの世へ逝けばやはり「幸福の科学」の本で勉強してくださっている読者のことが気になって、お迎えに行くでしょう。その反対に、読者のみなさん方も気になることかもしれません。このようなことは、いずれ遅かれ早かれ、読者のみなさんが経験することになると思います。迎えに行ったりすることもあるでしょうし、迎えにこられることもあるでしょう。人生をダイヤモンドのように輝かせるためには、こうした考え方もだいじです。
【大川隆法『太陽のメッセージ』part2 第3章「新しき世紀へ獅子のごとく」より抜粋】
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続きまして、経典『幸福の科学の十大原理(上)』の第一章「幸福の原理」より、学び深めます。
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③「現代の四正道」第四の原理「発展」―自分・他人・社会の発展とユートピア建設
この三番目の反省の次が「発展」なのです。反省なくして発展を求めると、つまずく人も出てきます。
なぜならば、自らの錆を落とさずしてメッキをしているからです。いくら金メッキをしても、地が出てくるのです。赤錆が出てくるのです。錆は落とさないとメッキはできないのです。金箔を貼ってもだめなのです。
ですから、まず阿羅漢の段階に達してから後の一跳躍入如来地なのです。つまり、「光一元」は、正しく説かれたなら如来の教えだということです。それゆえに、その身そのまま「如来」になるためには、光一元の神の子となるためには、まず、「阿羅漢」となり、ある程度の悟りを得て、その後、「菩薩」にならなければならないのです。
菩薩というのは人を救う段階なのです。人を救う前には、ある程度、自分を悟っていなければいけないのです。それが阿羅漢です。阿羅漢で自分を悟った人が、次に愛他・利他の行によって、菩薩となっていくのです。この菩薩が、やがて次に、「本来、闇なく、悪なく、影無し、光のみ」の世界に入っていくのです。これが如来なのです。
したがって、「善悪二元」と「光一元」とは対立しないのです。(ただし「光一元」が天狗のほうとして説かれたなら対立する)それは段階です。「段階の違い」なのです。まだ、八割の人には、善悪二元のなかでの反省行が大事です。そこで垢を落とした人が、次に如来地に入っていくのです。あの世にはっきりとした霊層がある以上、これは事実なのです。(ただし八次元が如来の世界であっても、地獄界があることは否定できない)。
四次元の人が、いきなり八次元には行けないのです。四次元の人は、まず五次元に行かざるをえないのです。五次元善人界の人は、まず六次元光明界に行かなければならないのです。そのあとの菩薩であり、菩薩のあとの如来なのです。この段階がある以上、いきなりは飛び越せないのです。
そのように、「反省の後の発展」であるわけです。
これから、みなさんには発展していってほしいのです。発展のないところに、本当の幸せはありません。ですから、「幸福の原理」の最後は発展です。
そして、発展とは、「自らの発展」、それから、「他の人びとの発展」「社会の発展」「仏国土ユートピアの建設」です。最後は、ここに至るわけです。こうした過程を大事にしてください。
【大川隆法『幸福の科学の十大原理(上)』の第一章「幸福の原理」より抜粋】
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天使・菩薩に必要な「発展思考」を確認します。
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〇すべての世界を光に満ちたものに変えていく「発展思考」とは
そのための準備は何か。今、言ったことと同じなのです。
地上にあって、神への祈りから一日を始め、そして人助けのための仕事をし、真理をしっかりと学び、お互いに励まし合い、相和し、そして手を携えながら、「共に頑張って光の世界をつくろう。仏国土をつくろう」と、こうして誓い合って精進している人たちが行く世界が、菩薩の世界であるのです。そして、それを自分の喜びとしてやれる人、それが本来の魂としての菩薩です。
今日、来ておられるみなさんの平均年齢が例えば四十歳とするならば、みなさまにはまだあと四十年という人生が残されています。この四十年の人生を、いかに多くの人々を教え導き、多くの人々のためになる生き方をするか、これが鍵なのです。
できれば一万人ぐらいの人を導いてください。
一人で一万人ぐらいの人を導いてください。
真理に誘い、人々の心のなかに灯を灯し、
多くの人々を助けてやってください。
一万人ぐらいの人を導くことができたら、だいたい「菩薩の世界」に入れます。
そのくらいの難しさではありますが、
そのくらいの努力をすればまたは入れる世界でもあるのです。
どうが、残りの数十年、人生計画をして、
一万人ぐらいの人を正しい道に誘って、地獄に堕ちることなく真理に目覚めさせ、
そして、「共に頑張って光の世界をつくろう。仏国土をつくろうよ」
と励まし合いながら、やってみてください。
そこに魂の最大の発展への道が見出されるはずです。
かつて「常勝思考」として、
この世の苦難・困難をすべて自分の力に変え、
勝利していく道を私は説きましたが、
「発展思考」は、
「この世を超え、あの世の視点から自分を発展させる」
「あの世の視点から、この世を発展させる、人類を発展させる、社会を発展させる」
というものです。
この世という視点ではありませんが、
あの世、本来、私たちが還るべき世界から見て、
自分たちの仕事を考え、自分を引き上げて、
全ての世界を光に満ちたものに変えていく、
これが「発展思考」です。
みなさんの立っている地点を、この三次元にしてはなりません。
「七次元菩薩界」に自分の視点を築いて、
やるべきことはいったい何であるか、
なすべき仕事は何であるか、
心に問うてください。
発展の道は自(おの)ずと開けるでありましょう。
ありがとうございました。
【大川隆法 初期重要講演集ベストセレクション⑦『許す愛』第2章「発展思考」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
文責:蒲原宏史
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(12/28-1)【基礎教学通信】362『太陽の法』を読む95「太陽のメッセージ2」新しき世紀へ獅子のごとく4―『悪魔の嫌うこと』「唯物論」の学者や僧侶にも、悪魔の手は忍び寄っている―『幸福の科学の十大原理(上)』「幸福の原理」―現代の四正道・第四の原理「発展」―「発展思考」
『太陽の法』