99 この世の成功を、神仏の栄光で満たそうとせよ。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、降魔成道記念日を迎えて、あらためて「悪魔」とは何かを、主の御教えから振り返ってまいります。本日は経典『悪魔の嫌うこと』より降魔についての学びを振り返ります。経典をお持ちでない方は、この機会に是非ご拝受ください。【税抜き1600円】
―本書には、エル・カンターレの説く、悪魔の嫌う三箇条が明らかにされている。精読の上、くり返しお読み頂きたい。その価値は無限で、国民全員に、そして、全世界の人々に読んでほしいと痛切に願っている。
大救世主降臨を知らずして、今、知るべきことはない。求めよ、さらば与えられん。真実の智慧を体得するがよい―「まえがき」より
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■『悪魔の嫌うこと』第3章「悪魔の正体の見破り方」
1 「悪魔対策」が必要な理由
本章では、「悪魔の正体の見破り方」という、”恐ろしい”題を掲げました。
幸福の科学の信者はともかく、こうしたテーマの話を一般の人々に話そうとしても怖がられてしまい、なかなか聞いてはいただけないかもしれません。たた、これは、実に大事な話でもあるのです。
今、当会ではさまざまな活動をしていますけれども、救世運動ということを強く推し出していくと、必ず妨害が出てきます。そうした妨害の主役として、裏で活動しているのが、この悪魔という存在なのです。
したがって、救世運動を強めていくためにも、「悪魔対策」というものを考えておく必要があります。単なる興味本位の話だけではないのです。
【大川隆法『悪魔の嫌うこと』第3章「悪魔の正体の見破り方」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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■『太陽のメッセージ』Part2
第3章「新しき世紀へ獅子のごとく」
1 もう一人の自分に気づく
悟りの話をいろいろとしてまいりましたが、いちばんだいじなことは、まず目を開くということです。世の中にはあまりにも、目の開けていない方が多すぎるのです。その目を開くことによって、まず第一歩がはじまるといってもよいと思います。
では、目を開くということは、いったいどのようなことでしょうか。それは、もう一人の自分に気がつくということであります。すなわち私たちは、どうしてもこの目で見える肉体がイコール自分であると思っているのですが、実際はそうではなく、この肉体舟を支配しているもう一人の自分がいるということに気がつくことがまず出発点であるということなのです。これに気がつかずに一生を終わってしまう方が、いったいどれほどいるかと思うと私は残念でなりません。
幸いに気づくことができた人のなかにも、もつと早い段階で、もう一人の自分に気づいていたならば、その人の人生はおそらく変わっていたということもあるでしょう。みなさん方のなかにも真理に出会われてからと、出会う前とでは考え方がガラリと変わってしまったという人は数多くいらっしゃることと思います。私自身もまったく変わってしまった一人です。
もう一人の自分を知るということは、結局、あらたな視点を得るということと同じです。自分自身をみつめ、自分の人生を考える意味で新たな視点を得るということです。その新たな視点とは何かといえば、それを言い換えれば「霊的人生観」ということだと思うのです。
この「霊的人生観」の観点から自分を見つめたときに、まったく違った自己像というものが浮かんでくるのです。それまでみなさんは、少なくても肉体の我という視点で、ご自分をみつめて、あくせくしたり、悩んだり、苦しんだりされていたと思うのですが、霊的自分、もう一人の自分と出会ったときに、その世界観はおそらく違ったものになるであろうと思います。
2 使命の自覚
私自身、前にも語りましたように、霊的世界があることを気持ちのうえでは一〇〇パーセント、実感としても九九パーセント信じていたわけであります。しかし、実際にそのような世界が、厳然としてあるということを知ったときには、やはり、これは容易なことではないという感じを受けました。
笑い話か何かのようにいわれていた地獄や悪霊や悪魔という存在が、これはやはり現実のものであり、自分とかけ離れたところにあるものではないということです。そして、この地上に生きているみなさんが、もしかすれば、今後彼らのような運命をたどるかもしれないということに気づいたときに、私は、これは大変なことになったと思いました。
この事実を知っている自分はどうしなければいけないのか。だれもが、この地上の人生だけを過ごせればよいと思っているけれども、その行く先がどのようになっているのか、それを知った人間として、自分がどうしなければならないのかを考えたときに、ひじょうに重い使命感を感じたのを覚えています。
それはちょうど、列車事故が起こりそうなことに気づいてそれを避けようとしている人のたとえにも似ているであろうと思います。少し先に行ったところで落石事故があって、線路の上に大きな石が落ちている。あるいは、レールが外れている。このような危機を発見したときに、そばには赤旗もなければ、何もない。しかし向こうからやって来る列車を何とか止めないと、これは大惨事になる。このような状況で、必死に手を振っている人の姿にひじょうに似ているように思います。
ところが、大部分のみなさんは、この列車の乗客のごとく、客車のなかではまったく安心しきっているわけなのです。そして談笑し、新聞を読んだり本を読んだりして過ごしているのです。目的地に間違いなくつくものだと信じています。ところが、その少し先に落石があって、線路がふさがれている。このときにどうやってそれを教えるのか。そして、そのことを知っている者が、自分以外に誰もいないとすれば、はたしてどうするのであろうか。たいへんな状況です。まさしくこのような感じにも似ているといえましょう。
もし、人生の早い時点でこの霊的人生観というものを持っており、そしてそれに基づいて以下に人生を見、生きてゆけばよいのかということを悟っていたとするならば、大部分の方は将来ぶつかるであろう事故から身を守ることができ、大惨事といったような未来図はなくてすむのです。しかし、あにはからんや安閑(あんかん)としているうちにそのような道をたどっていくことになるわけです。そして、この事実に気がついたときに、じっとしていられないのは私だけではなく、おそらく読者のみなさんもそうであろうと思います。冗談や、あるいは創作でこのようなものを書いているわけではありません。これは真実、そうであるから、そうだと私は書いているにすぎないのです。
3 悟りとは「これが私だ。」と言いきれること
さてそこで、そのようにもう一人の自分に気づくこと、そこから、やがて悟りというものが近づいてくるわけです。私は本当の自分に出会うということを、『太陽の法』で次のように説明しております。
「自分で自分の心を探究しないで、いったいだれがこの真実を教えてくれるというのでしようか。あなた自身が、あなたの真実の姿を語れずして、いったい誰がそれを語ってくれるのでしょうか。『悟り』とはほんとうの自分自身に出会うことです。ほんとうの自分の真実なる心を自分自身で語れることです。これが『私だ。』と言いきれることなのです。」これは私なりの悟りを語ってみたものです。もちろん、悟りの定義にはいろいろあるでしょう。いろいろなアプローチ、切り口があり、いろいろな説明ができるのは言うまでもありません。いろいろな説明ができすが、それなりに悟りというものをつかんでしまう必要があるのです。それをわかりやすく言ってみたものです。悟りとは、本当の自分自身に出会うこと。そしてほんと・
・
�の自分自身の真実なる心を自分自身で語れること。つまり、「これが私だ。」と言いきれることである、と定義したわけなのです。
禅のなかでも、「悟り」とはなにか、ということは大きな問題であるのでしょうが、基本的に禅宗などで求められている悟りというものも実はこういったことであろうと私は思います。「これが私だ。これがほんとうの私だ。」と言いきれること、このあたりと禅などでいっている悟りとは、ほぼ同義であると言っても過言ではないでしょう。もちろん、それがすべてではありません。しかし、出発点なのであります。
みなさん自身、自分をふり返ってこれが本当の自分だと語れますか。ほかの人に対して、私はこういう人間です、これが本当の私です。真実の私の姿ですということを語れますか。すなわち、言葉を換えるとするならば、神の子としての自分を見いだすことができたか、自分の内なる仏性をつかむことができたかどうか、ということなのです。これがだいじなわけです。
4 悟りの道程
また、悟りの道程としては、「自らを知るとは、自らが神の子であることを知ることです。神の御心を知るということなのです。そして、目をひらくとは自らの霊性に気づき、四次元以降の実在界の存在に対して心をひらくということなのです。」【太陽の法】と説明しています。したがって真実、目を開きたいならば、まず自らの心を探究することから始めるべきであり、神の国への手がかりは、そこにあるということなのです。
自らが神の子であることにまず気づくこと。そして、四次元以降の実在の存在に対して心を開くことです。自らの内に宿る霊的なるものを知り、さらに四次元以降の世界の探究に進むわけです。ここへ進まなければなりません。
私たちが、いろいろなかたちで勉強しているものもやはり、このような手順を踏んでいるわけです。各人の心を探究していって、そして心の探究からやがて、目は四次元以降の世界に開かれていく、真実の世界への旅立ちとなっていくのです。ほんとうの世界を知りたいという思いです。そして、その思いは、おのずからそれを成就し、達成することを要請するものです。
5 自らを捨てるということ
ここで私は、「自らを知るためには、自らを捨てることです。」と提唱してみたいと思います。この「捨てる」ということは、いったい何かということですが、本物の自分を知るためには、偽物の自分を捨てなければならないということです。つまり、偽物の自分に気づくことが、偽物の自分を捨てる第一歩となります。
後生だいじに、これが自分であると、あるいはこれがいちばん大切なものであると思って握っているもの、これは各人各種あるのです。これこそが自分であり、これが失われたならば、自分は大変なことになってしまう、と思っているものが実はたくさんあるのです。
ところが、それはたいていの場合、その人の人間性にとって、本当は本質的でないことが、往々にしてあるのです。たとえば会社の社長さんであれば、その人にとっては社長であることがすなわち自分であり、これを捨てては自分の自己実現の場はない、自分にはもうこれしかないと思っていて、その地位を握りしめているけれども、ほんとうはそれを取り去ったときに、その人自身が出てくるということがあるのです。残念ながら人生はそうしたものなのです。それを握っているうちには、なかなか出てこないのです。捨てたときにはじめて現われてくるのです。これは、地位だけではなく金銭に対する考え方でもそうです。
私自身もこの道に入るときは、一切を捨ててしまったのです。もうどうなってもよい、ということで自分を捨てたわけでありますが、その結果やはり、捨てれば逆に与えられるということを経験いたしました。不思議なことです。仲間を捨てれば仲間が与えられるのです。
「今までの人間関係も、もう全部捨てよう。この道に入るために邪魔になるならすべてを捨て、清算する、今までのつきあいもいらない、お金もいらない、もう何もいらない。それでもかまわない。ただ、もうやるしかない。」ということでいっさいを捨て去ったときに、その結果、逆に仲間は増えてきたわけです。
「幸福の科学」もご存じのように、いま駆けつけてくださる人がどんどん増えてきて、ますます発展しています。不思議なくらいです。なぜこのようになるのか、私もよくわかりませんが、どんどん発展していきます。他の会社と違って資本金ゼロではじまって、儲けようという気などもさっぱり起きなかったのですが、どんどん人が増えてきて、ますます事業が大きくなり、客観的に成功していくのですから、まことに不思議です。特にそのようにしなければならないとは思っていないけれどもそうなるのです。捨てれば与えられるというのはほんとうのことなのです。
また、人間関係においてもそうです。捨てたら与えられるのです。私自身、結婚をあきらめたときに、今の家内が出てまいりました。私は、「結婚なんていうのは迷いだ。もう絶対しないで、真理の道一本でかまわない。」と思ったときに、突然に結婚の相手が現れてきました。真理の道もいいけれど、普通に結婚もしたいという気持を捨てられないでいるうちは、全然願いがかなわず、もう一生独身でよいと思ったとき不思議にも相手が出てくるのです。
6 執着を捨てる想念トレーニング
お金などでも、儲けよう儲けよう思っている人がいると思いますが、あまり思っているとかえって儲からないということもあるのです。それはなぜかいいますと、執着の強い人は、周りの人から見ていると、いかにも金儲けをしようと必死にやっているな、という感じが漂ってきてだんだん嫌になってくるのです。そして、その人の商売に協力したくなってくるということがあります。
なにか知らないけれども、この人から買うよりは、よそで買ったほうがいいとか、この人に売るよりは、安くてもいいからよそに売ってやろうとか、そのような感じにだんだんなってくるのです。こういった波動というものは微妙に出てくるのです。別に、ルンペンになることを勧めているわけではありませんが、どこかで一度思いきって捨ててみるという気持も必要であると思います。少なくとも精神的に捨ててみるのはだいじなことです。
実際に預金通帳をごみに捨てる必要もありませんし、家を捨てる必要もありませんが、精神的に自分が後生だいじに思っているもの、これを取り去ればどうなるかというところを、一度真剣に考えてみる必要があるのです。これは一つの賭けと言えるかもしれませんが、意外に精神的に楽になるかもしれません。自分が、これだけは、とつかんでいるものが、意外に自分を苦しめている元凶であるのかもしれません。そういうことが、大いにありうるものなのです。
それはまことに不思議な感じなのです。会社の新入社員であれば、自分はこんな小さな会社のなかで一生過ごすなんてとんでもないこと、ほんの自己実現の足掛かりの舞台ぐらいでしかない、と思っているわけです。そしていずれは世界を股にかけておおきな仕事を、などと普通思っているのですが、入って何年かたっていくうちに、給料の百円か二百円の差が気にかかってくるのです。
またボーナスともなれば同期と比べて十円、二十円の差が気にかかってくというように、だんだん小さな自分になっていきます。いつかしらず、そういうようになっていくのです。そして、そこから逃れたい自分というものを発見していくのです。
それをいっぺん全部とりはらってみれば、意外に大きな自分が出てくるのです。ちいさなもののなかに、本当は押しこめているのです。アラジンのランプのように、出てくれば巨人となるのだけれども、ランプの中に入ってしまって、普段は小さくなっているのです。ほんとうはもっと大きなものであるはずが、小さくなっています。その自分を小さくしているもの、この偽物の自分を捨てるということを考えてみる必要があるのです。
いま自己実現のブームということもありますが、これとは逆に、「これとは逆に、「これこそが自分のすべてだ。」と思っているものをいったん捨ててみればどうなるか、想念のトレーニングをやっていただきたいのです。
たとえば、主婦の方であれば、子供が自分の生きがいという方がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。実際に、子供を捨てたりすれば問題はありますが、子供という生きがいをとられても、果たして、生きていくに足る自分であるのか、生きるに足る人生であるのか、こう考えたとき、はたと気づくことがあると思うのです。
この子こそは、この子だけはと思って、目のなかに入れても痛くないような感じを抱いている人もいるけれども、これを取ったときにどうなるのか。このこととは、いったんどこかで対決しなくてはいけないことなのです。
もし、真に捨てることに成功したならばそのときにはじめて自分というものがどれほど思いという感じで日々を生きていたのかがわかります。実際、肩やからだが重いのです。それはいろいろな精神的な執着を持っているからなのです。確かにこれは精神的なものから来ているのですけれども、ほんとうに重たいのです。
ですから、これを取り去ったときにどうなるかといえば、ほんとうに体が軽くなるわけです。その感じをたぶん得られると思います。人の心にはいつかしら、これがあって当然だというような執着がミノ虫の殻のようにたくさんついているのです。冬は寒いからこのようなミノ虫の殻のようなものがないと生きていけないと思って、葉っぱをまわりにいっぱいつけているのです。そして、これこそが自分であると一生懸命に思っている姿なのです。
【大川隆法『太陽のメッセージ』part2 第3章「新しき世紀へ獅子のごとく」より抜粋】
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ここからは、経典『地獄の法』より、「愛」「知」「反省」「発展」の四正道ついて主より教えていただきます。経典をお持ちでない方は、この機会に是非ご拝受ください。【税込2200円】
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第5章「救世主からのメッセージ」
〇「発展」―徳を積んだ者が多くの人たちを導いていけるユートピアづくりを
そして、最後に「発展」という言葉が来ますけれども、この発展のなかには「ユートピアづくり」ということも入っています。
ユートピアづくりは、いろいろな思想のなかで述べられていることではありますけれども、「ユートピアなのか、ディストピアなのか」ということを峻別できないようでは、駄目です。
【※ディストピア「dystopia」は英語のユートピアの反対語。理想とは逆の、非人道的または恐ろしい社会を指す。一般的には、抑圧的な政府、極度の貧困、または技術の乱用によって引き起こされる未来の暗黒的なビジョンを表す。例えば、ジョージ・オーウェルの「1984年」やオルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」など、多くのディストピア小説が存在する】
ジョージ・オーウェルの『1984年』や『動物農場』に書かれているような、そういう社会をユートピアと考えてはなりません。この地上において修行し、徳を積んだ者が、多くの人たちを導いていけるような、そういう国や社会を目指していかねばなりません。
いやしくも、人の上に立つ者が、嘘偽りを駆使して、そして、お金や地位や名誉を利用して、人びとを扇動する力でもって権力をつくっているということは許しがたいことだし、陰謀によって世の中を自由に動かすことも問題外だし、ましてや、マスコミを使って誤った情報のほうに人々を誘導して、全員を海のなかに突き落とすようなことがあってはならないと思います。
本来のユートピア社会は、霊天上界とも調和できるものでなければなりせん。
マスコミの原理が、「疑い」「疑」ということを中心に発展しすぎていることに対して、たいへん悲しみを感じております。
また、この世における知識の獲得を一つの身分制として、現代、民主主義社会のなかにおける身分制社会として、知の獲得を持ってそれに代替していることが流行ってきていますけれども、その「知識を得る」ということは、「智慧を得る」ということと必ずしも同じことではありません。
知識のなかにおいて、ダイヤモンドの光りを宿しているものを選び出すこと、そして、そうした本物の知識に、「人生修行」という名の経験を通すことによって智慧を作り出していくこと―これが大事なことです。
これなくして、単なる点数とか偏差値とか言うようなもので、学齢主義で、人びとを統治階級にあげるか上げないかを決めて、その偏差値でもって生まれつきの貴族のごとく、人びとを見下したり、支配したり、命令したりする根拠とすることは、残念ながら、「天上界的なものではない」と言わざるをえません。それは一つの迷妄だというふうに考えられます。
〇四正道で、唯物論やこの世的な科学主義ではない、よりよい社会をつくる努力を
ですから、虚心坦懐に考えて、
「神仏の心を心として生きているかどうか。
神仏の知恵を自分の知恵としているかどうか」、
そういうことを謙虚に反省しながら努力していく人たちが、
数多くの智慧を増やして、人々を導いていくことが大事です。
そういう世界のなかに、
愛が溢れ、
自分の間違いを認め、
真理を学習し合い、
よりよい社会をつくっていこうと努力することが大事であって、
その行く先は、
唯物論や、この世的な意味に限られた科学主義ではないということです。
いくら科学がすすんだとしても、まだ生命の神秘は解けていません。
なぜ、土の中の小さな卵が地上に出てきて、
カブトムシやクワガタムシになるのか。
それさえ十分に分かりません。
なぜ、人体ができあがって来るのか。
なぜ、体のなかの内臓が、それぞれの使命を果たすのか。
自分でつくったわけでもないのに、
脳内の組織がいろいろな機能を持っているのはなぜなのか。
DNAというものを解明したところで、
なぜ、そういうものができているのか。
人類にはそれを明らかにすることができません。
愚かな科学者には、
「DNAこそ魂の正体だ」と言っている者もあります。
そして、「親、子、孫とDNAがつながっていることが、
魂の転生輪廻と同じことだ」
というふうに考える場合もありますが、
実に、「宗教的な無知が、現代において違うかたちで表現された」
というふうに言わざるをえないと思います。
〇「地球を魂の修行場として維持したい」という希望
「真・善・美」の世界を打ち立てることこそ、地上でのユートピアづくり
私の希望はやはり、
「来世以降も、この地球というものを、多くの魂の転生輪廻の場として、
修業の場として、使えるように維持したい」
ということであり、
また、「この地球が、宇宙から見て、魂修行の場として、
極めて好まれている場所である」ということを、
多くの人たちに理解してほしいというふうに思います。
教育の根本から立ち返って見直さなければならないのですが、
できれば、すべてのことを通して、
この地上に善なる世界を打ち立てることが大事だと思うし、
「真・善・美」の世界、
真なる世界であり、
善なる世界であり、
美なる世界を打ち立てることこそ、
地上でのユートピアづくりになるということだと思います。
ただ、この地上ユートピアは、決して、
永遠にこの地上に魂が執着するためのユートピアであってはなりません。
いずれ肉体を去り、あの世においては、食物も食べない、
お互いに手を握り合うこともできないような世界に移行します。
「そうした幻影のような世界に移行するが、
それが実体の世界であるのだ」ということを理解するところまで、
人間は賢くなければならないと思っています。
〇地獄界の増大と悪の蔓延のなかで、「一人ひとりの心を救う」という大きな使命を各人が果たせ
今、地獄界の増大と、
地上世界における、生きている人たちの心の借り方の、悪の蔓延に、
たいへん心配を重ねています。
どうか、人々に、強くあってほしいしと思うし、
「目に見えない世界が本当の世界で、目に見える世界が仮の世界だ」という、
実に、この世的に足場を置いている者にとっては、
分かりにくいことではあろうけれども、
「この世で目が見えている者が実は見えていなくて、
この世のものでないものが見えている者が、
本当に目が見えている者である」という、
逆説的な真理を学んでいただきたいと思います。
これさえ分かれば、
すべての宗教の根本にあることが、その意味が分かると思います。
その世のあらゆる苦しみや悲しみも、来世以降の幸福のためにあるものです。
ですから、この世の苦しみや悲しみを、
そのまま、自分の人生と同一視してはなりません。
経験は経験―。
しかし、そこから学び取ってこそ、真実は光ってくる者だということを、
忘れないでいただきたいと思います。
これから、真実への戦いの時代に入っていきます。
まだまだ、私の思いとははるかにかけ離れた現実が維持されております。
どこまで我慢ができるかはわかりませんけれども、
ただ、危機は近づいているし、現に今、起きている。
今、危機のなかを走っているのだということを、
知っていただきたいと思います。
本当に尊いものを尊いものとして、尊くないものを尊くないものとして、
見分けて生きていくことを望みたいと思います。
「救世主からのメッセージ」として私から発せられることは、以上となります。
どうか、この真意を汲み取っていただきたいと思います。
数多くの書籍群が、この内容を補っているものだと思います。
どうか、「一人ひとりの心を救う」という、そういう大きな使命を、各人が果たしてくださることを、心より祈念してやみません。
【大川隆法『地獄の法』第5章「救世主からのメッセージ」より抜粋】
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本日は、幸福の科学の大切な教えのひとつである「発展」ついて、学びました。
根本仏は、人間に自らが進化発展することに伴う幸福感を、私たち全ての魂に埋め込んでくださいました。それが仏性といわれる、私たちがそれぞれに持つ仏の性質、仏になる可能性です。
魂の進化発展には、段階があり、四次元(精霊界)→五次元(善人界)→六次元(神界)→七次元(菩薩界)→八次元(如来界)、そしてその上に人霊として最後に発展した九次元(宇宙界)があり、人類はそれぞれがもつ魂の進化と調和を根本仏から期待されています。
幸福の科学は、四正道最後の教えである「発展」によって、肉体的、三次元的ではなく、心や魂、霊的進化発展を基本として、魂の修行場としての地球や三次元世界を五次元以降の天国世界に変えるべく、「仏国土ユートピア建設」を最終目標としています。
「発展」とは、悟りに到る幸福をともなう発展です。悟りの力によって「あの世」と「この世」を貫く幸福を幸福の科学は目指しています。
だから、今日も主のため、世のため、人のため、私たちの隣人を救い助けるために、私たちのできることを精一杯頑張り、与える愛を実践しましょう。
幸福の科学は「愛と悟りとユートピア建設」を旗印にしています。愛と、反省が導く悟りの力によって、私たちの隣人を救い助け、この地上世界をユートピアに変えていくことが、主の悲願であり、仏弟子の願いです。共に精進しましょう。
主は、「現代的四正道」を説いています。この「愛・知・反省・発展」の四つの考え方をまとめて、「正しき心の探究」と呼んでいます。正しき心の探究とは、「愛・知・反省・発展」の探究なのです。だから、伝道において四正道をしっかりお伝えすることがとても大事なことであることが分かります。
「四正道」は具現化された「正しき心の探究」であり、神の子・仏の子として持つべき心構えでもあります。主はすべての衆生に発展の道、すなわち、根本仏へと至る道を歩むことを期待しています。その意味において主なる仏・根本仏は宇宙最大の教育者であるということができます。
主の教育方法には、低次元世界における二元論的考え方【四次元から六次元世界】と高次元世界における一元論的考え方【七次元から九次元】の両方を使う『相対二元論』という概念があります。『復活の法』第3章「天国へ還る方法」ではこのように説かれています。
『一元論と二元論について、私は相対二元論に近い考え方を取っています。
それは、「比較的下のほうの次元においては、明らかに善悪の二元的である。しかし、高次元に上がっていくにつれて、しだいに善の一元になっていく。その途中においては、善悪二元的なものは時間の流れのなかで処理され、現時点で把握と思われることも、長い時間のなかでは、善に変わっていくこともありうる」という考え方です』
これは、根本仏の魂の教育方針を示したきわめて重要な教えです。「天国と地獄」「天使と悪魔」という世界が二元論的に分かれているのも、さらにその先にある統一された実相世界が「生々流転の法則」とともに実現するためであることが分かります。
「なぜ地獄があるのか」「なぜ悪魔が存在するのか」という人類が抱き続けた問いに対する仏の答えがここにあるので、極めて重要です。これは魂をより仏へと近づけるための方便であることが分かります。ここは極めて重要です。
『発展』の概念には、その基礎として地獄界の解消が前提としてあります。天上の光が地に広がることを発展とするならば、それは同時に四次元地獄界の領域が消滅するプロセスでもあります。
『今、地獄界の増大と、地上世界における、生きている人たちの心の借り方の、悪の蔓延に、
たいへん心配を重ねています。
どうか、人々に、強くあってほしいしと思うし、
「目に見えない世界が本当の世界で、目に見える世界が仮の世界だ」という、
実に、この世的に足場を置いている者にとっては、
分かりにくいことではあろうけれども、
「この世で目が見えている者が実は見えていなくて、
この世のものでないものが見えている者が、
本当に目が見えている者である」という、
逆説的な真理を学んでいただきたいと思います』
この言葉が示すように、今地上は、地獄の拡大による悪想念の汚染が広がっています。
そのなかで、私たちは、宇宙の造物主であり、地球神である、「エル・カンターレ」の御名と、その教えである「四正道」の教えを日本中に、世界中に知らせる必要があります。そして、主の愛を広げる伝道によって「一人ひとりの心を救う」使命を共に果たしてまいります。
本日も愛と天使の働きをなすために、そして私たちの隣人を助けるために、主の教えと信仰心の大切さを伝え、入会・三帰へと導いてまいりましょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
文責:蒲原宏史
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(12/25-1)【基礎教学通信】359『太陽の法』を読む92「太陽のメッセージ2」新しき世紀へ獅子のごとく1―『悪魔の嫌うこと』「悪魔対策」が必要な理由―『地獄の法』救世主からのメッセージ②
『太陽の法』
