92 コロナパンデミックも、戦争も、いつかは終わる。その先の未来の建設を考え続けよ。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、降魔成道記念日を迎えて、あらためて「悪魔」とは何かを、主の御教えから振り返ってまいります。本日は経典『悪魔の嫌うこと』より降魔についての学びを振り返ります。経典をお持ちでない方は、この機会に是非ご拝受ください。【税抜き1600円】
―本書には、エル・カンターレの説く、悪魔の嫌う三箇条が明らかにされている。精読の上、くり返しお読み頂きたい。その価値は無限で、国民全員に、そして、全世界の人々に読んでほしいと痛切に願っている。
大救世主降臨を知らずして、今、知るべきことはない。求めよ、さらば与えられん。真実の智慧を体得するがよい―「まえがき」より
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■『悪魔の嫌うこと』
5 悪魔の嫌うこと③―明るく積極的な生き方
〇悪魔は暗くて、じめじめした人が好き
それでは、悪魔が嫌うことの三番目は何であろうかを考えてみましょう。
一番目には、「悪魔は、正直で嘘がつけない人を嫌う」と述べました。二番目には、「悪魔は、勤勉な人、コツコツと努力をする人を嫌う」と述べました。
三番目は何かというと、「明るく積極的な考え方をする人」、「どのような苦難や困難のなかにおいても、自分の可能性を見つけ出そうとする人」です。そういう心の傾向性を持つ人、常にそういう考え方をする人を、悪魔は嫌います。
悪魔は、暗くて、じめじめした人が好きなのです。悲観的で、「自分は駄目なのだ。自分の前途は真っ暗で、自分には、もう可能性はないのだ」と愚痴をいう人と、仲間になりたいのです。
逆に、雨の日や嵐の日、風の吹く日にも晴れの日と同じような心を持って生きようとしている人は、悪魔にとっては苦手な人です。
雨が降れば、それを言い訳にしてサボりたくなる人、あるいは、何か自分にとって都合のよいことや逆風になること、自分の勉強や仕事などのやる気をなくさせることが目の前に現われたら、「待ってました」とばかりに、すぐに、それを人生の暗い材料に使う人、こういう人が、悪魔にとっては手ごろな仲間の一人なのです。
しかし、どんなに苦しくとも、そのなかから可能性を見いだして、明るく積極的に生きようとしている人は、悪魔にとっては非常に付き合いにくい人なのです。
〇「与えられた材料のなかで何ができるか」を考える
例えば、「お金がない」という場合があります。
そのときに、「お金がないために、自分は不幸である」と考えたならば、不幸の言い訳はいくらでもつくれるでしょう。
「お金がないために、おいしいものが食べられない」「お金がないために、結婚相手に恵まれない」「お金がないために、車が手に入らない」「お金がないために、よい家に住めない」など、いくらでも出てきます。
「お金がないために、できないことがある」というのは、現実にはそのとおりでしょう。どんな人も無限にお金を持っているわけではありません。お金というものは、よい仕事をして、人に認められたら、それ相応に入ってくるものです。
「お金がないために、自分は不幸である」という言い訳をする人は、「不幸を愛している」という言い方は極端かもしれませんが、「お金がないのだから、自分が不幸なのは仕方がないのだ。当然なのだ」と考えているのです。要するに、貧乏であることを恨んでいるわけです。
さらには、「人間関係でうまくいかない」という場合があります。例えば、「友達ができない」「親が自分に対してつらく当たる」「先生が自分を悪く取り扱う」「会社の上司が自分をいじめる」「会社の同僚が自分を仲間はずれにする」「会社の後輩が自分を蔑(ないがし)ろにする」などということがあります。
そのように、「人間関係でうまくいかない」ということで、人生を恨んだり呪ったりすることだって可能でしょう。
あるいは、「夫婦関係がうまくいかない」という場合に、「夫のせいで自分はうまくいかない」「妻のせいで自分はうまくいかない」という言い方もできるでしょう。
うまくいかないことの理由はいくらでもつくり足せるのですが、「そのなかで、今自分は何ができるか」ということを、明るく考えてみることが大切です。「与えられた材料のなかで、何ができるか。どう戦えるか」ということを考えていただきたいのです。
そして、わずかな可能性のなかからも、自分の生き筋、人生の筋道というものを見いだしていくことが大事なのです。
〇勇気を奮い起こし、「もうひと努力できないか」と考える
「こんな状況の下で、どうして心が明るくなれるのか。どうして積極的になれるのか。暗く消極的になるのが当たり前ではないか」という人も多いでしょう。
ただ、そういう人は、いわゆる”凡人”というべき人ではないでしょうか。
それは、ちようど、「川は上流から下流に流れてくるだから、川の中にいたら流されるに決まっているではないか」と言っていることと同じです。
しかし、川の魚は、上流から下流に向かって泳いでいるだけではないでしょう。同じところで泳ぐ場合もあれば、上流に向かって泳いでいくこともあります。流れに逆らって上流に泳いでいくこともできるのです。
そのように、「上流にも泳いでいけるし、その場でも泳げるし、下流にも泳いでいける」という自由さを手に入れているから、彼らには彼らなりの幸福があると言えるのです。
もし、「川の魚は、流れのとおりに川下にしか泳いで行けない」ということであれば、川には魚は一匹もいなくなるでしょう。みな、海のなかに流し込まれてしまうからです。それは、結局、川の中には生き物はいられなくなることを意味します。
人生においても、苦難や困難、都合の悪いことはたくさんあるでしょうが、それを言い訳にして、「だから、自分は駄目なのだ。だめで当然なのだ」と思うならば、人生を生きる人はいなくなるのです。
「人は、生まれてきたら、みな流されてしまい、人生は失敗になり、地獄に堕ちる」ということであれば、この世に生まれること自体に、もはや値打ちがなくなると言わざるをえません。
自分を鍛えてください。
苦しい時や悲しいとき、つらいときに、踏みとどまって、勇気を奮い起こし、もう一歩、前向きに歩いてみることです。
「疲れた」と思ったときに、「もうひと努力できないか」ということを考えていただきたいのです。「自分には、この問題は解けない」と思ったときに、もうひと粘りをしてみるのです。「自分には、これ以上の努力は無駄だ」と思っても、もう一回、チャレンジしてみるのです。「万策尽きた」と思ったときに、「しかし、まだ何かヒントがあるかもしれない」ということを考えてみるのです。
易々(やすやす)と諦(あきら)めてしまわないことです。
〇「泥沼に見事な蓮の華を咲かせる」という釈尊の教え
悪魔が嫌うこと、すなわち、悪魔の仲間にならないための方法は、「明るく積極的な心の持ち方を大切にする」ということです。そして、「どのような立場にあっても可能性を見いだしていく」ということです。
インドの釈尊も、そのように教えました。「塵芥(ちりあくた)が捨てられる、ごみ捨て場のようなところや、泥沼のようなところに、きれいな蓮の花が咲くであろう」と釈尊は説きました。
汚い泥のなかに、その材料からは、とても考えられないような、見事な蓮の花が咲き乱れ、極楽のような景色ができてくるのです。不思議です。
どのような材料のなか、どのような環境のなかにあっても、きらりと光る人生を生きることが、とてもとても大事なのです。
そういうことを考えてください。
【大川隆法『悪魔の嫌うこと』第1章「悪魔の嫌うこと」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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■『太陽のメッセージ』Part2
第1章「悟りとは何か、その極致とは」
17 神通力
①狭義の観自在力
この一即多に入る前に、もう少し観自在についてお話いたします。狭義の観自在力、あるいは、代表的な観自在力の部分はどこかといえば、梵天界のところがいちおう代表的な部分になっています。大きな意味での観自在はもちろんもっと幅広い領域からあるのですが、代表的なものはこのあたりです。
なぜかといいますと、梵天のあたりにこの六大神通力がいちおうのかたちでそろってくるのです。だいたいこのあたりがわかってくるのです。ここについては、『漏尽通力』のなかでも説明はされてあると思います。
まず、天眼(てんげん・てんがん)という霊視能力です。それから天耳(てんじ・てんに)、霊たちの声を聞く能力です。霊言能力もこれに入れてもよいでしょう。他心(たしん)、いわゆる読心能力のことを言います。
宿命(すくめい・しゅくめい)、想念帯を読み取ったりして、その人の過去・現在・未来を見通す能力です。これもレベルによってそうとう差がありますし、はずれることもやはりあるように思います。
②過去世と方便
はずれると言うのでは問題があるかもしれないので、方便と考えたほうがよいかもしれません。釈迦もこの宿命通力にひじょうにたけていました。そして過去世物語をそうとう語っています。これは仏教の物語で、読まれた方も結構いらっしゃると思いますが、ではそれが本当にすべて当たっているかどうかということを考えてみますと、はっきり言って当たっていないのです。
釈迦自身も自分は過去七回生まれ変わって過去七仏といわれていると語っております。そしてその前世物語を話していて、そのときは自分はベナレスに生まれてどうこうだったというように説いているのですが、すべてインドのなかでの話なのです。認識がインドを出ることがないからこのようになるのです。もちろんその当時に、自分はアトランティスに生まれ、ムー大陸に生まれたなどと説いても、わかる人はだれもいませんし、自分もわからなかったのかもしれません。ですから全部インドのなかでの話になっています。
これははたして釈尊が真実を知らなかったのか、あるいは、知っていてそういったのかどうか、このあたりはミソの部分で言えませんが、事実として見ればこれは当たっていないのです。そういうことが言えます。
それからジャータカ物語なのでも、動物がたくさん登場してまいります。釈迦の過去世をずっとたどっていくと、鹿になったり、うさぎになったりするのです。それが自分の過去世であったという話も出てくるのです。しかし、このようなことが当たっているはずもありません。これは人を教化するためにそのような話をして、動物を大事にしなければいけないということを、人間にはそういう立場になる可能性があるという話で諭しているのです。鹿の王様であったときの話など、いろいろと語っています。これには多少の方便があったと思います。
②過去世と指導霊
このように、過去世を見通すといってもそうした問題はありますし、特に指導霊がこのあたりは、ある意味で適当なことを言うことがありうるということです。指導霊の認識と、地上の人間の認識とのあいだに、ものすごいズレがあるためなのです。向こうがわかっていても、こちらの人間はもうだいたい自分の生活圏で物事を考えておりますから、地上側ではこのように考えているから、強くこうあるべきだと思っているようあるとしますと、「まあどちらでもいいことは、難しいことを説明するよりも、そのように答えておこう。」ということがありうるのです。そのようなことがあったと、※よく言われています。・・・やはり地上の人間というものは見る範囲が狭いですから、どうしてもその範囲のなかで引きあてをしようとする・
・けなのです。ところが自分が過去に知っている人の名前の範囲で超えて全然知らない人と引き当てられても何をしているかさっぱりわからないので困るであろうからということで、その人が知っている名前を言ってくことはあります。
ですからこのあたりはそれほど重視していないと見ていないと見てもよいのでしょう。指導霊たちも、過去世があるということがある程度わかればそれで役は終わっていると言っています。実際、そうであろうとも、また違ったものだとしても、それを証明する手立ては何もありませんから、その程度にしか重きを置いていないこともあるようです。ただ、これは指導霊がおおざっぱな指導霊の場合です。
神経の細やかな指導霊の場合、そうではありません。前者の例としては、具体的な名前を出すと問題があると思いますが、赤色光線の指導霊などが指導しているとそういうこともあったということを聞いています。あまり深く追及するのはよしたほうがいいでしょう。身体が大きくなると、人間はだいたい鷹揚(おうよう)になってきます。
④幽体離脱型の霊視
神足(しんそく)というのは幽体離脱、テレポーテーションだということです。これもいろいろなかたちがあります。ですから霊視能力なども発達してゆき、霊視能力とこの観自在能力、あるいは如心であれば、離れている人のことが千里眼のようにわかってくるという感じも、実は幽体離脱と多少関係があるようです。それは、けっきょくまるごと魂が出ないにしても、魂の一部分がアンテナのように抜けていくのです。そのようにして分かることがよくあります。
今はもう個人相談はしておりませんが、最初の一年目のうちはしていました。(※立宗1986年~1987年頃)ところが私は具体的に人と会って相談したりしますと一時間も二時間も時間がとられてしまうため、相談者に相談内容を紙に書いてもらって対応させていただいていたのです。読者のなかにも何人か相談された方もいらっしゃるかもしれませんが、名前と相談事項を紙に書いて送っていただいて、直接本人には会わないでもそれを見ると、いろいろなことがわかるのです。
九州のある方でありましたが、ものすごく体の具合が悪いと訴えてこられたことがありました。それで見ますと、この人に憑いているものがわかってきたのであります。その姿を写生して、このようなものが憑いているよと教えてさしあげたのですが、やはりそのとおりであったそうです。九州のほうで、ある教団の幹部になっていて、たしかに、私が書いたようなものに憑かれているのです。先生方も自覚症状があってか、わかりましたと言っていましたが、すぐにいなくなりますよと返事をさしあげたところ、いなくなったとの報告を受けたことがありました。そのようにかなりのところまではわかるのです。
どうして九州にいる人のことが見えるかといいますと、やはりこの神足に少し近いのです。たんなる霊視というよりも、むしろ幽体離脱型の霊視に近いと思います。一部分が、かたつむりの角のように、相手のところにシューッと伸びていく感じでわかってくるのです。そのような感じがします。肉体を離れると、あそらくそれがもっとはっきりとしてくると思います。
⑤漏尽
漏尽(ろじん)というのは、「漏尽通力」という本もすでに出しておりますが、「己の欲するところに従いて、矩(のり)をこえず」と喝破した孔子の境地で、高度な神霊能力を持ちながら、通常人とまったく変わらない生活をする能力です。「山にかくれたる小聖の境地ではなく、町に住む大聖の境地です。」と説明することもできます。この漏尽は、やはり霊道を開くとこの意味がよくわかってまいりますが、開かなければなかなかわからないようです。霊道を開きますと、この漏尽通力がどれほど偉大なものであり、貴重なものであるかということがよくわかります。
霊道が開いた当初はやはり霊のほうに翻弄されるようにだんだんなってまいります。これをしっかりとフィルターにかけて判断し、三次元についている自分のこの足を失わないようにするには、やはりそうとう魂的な足腰が強くないと難しいのです。この意味が分かってくる方もいると思います。
以上が狭義の代表的な観自在力で、だいたい梵天界ぐらいからこのような感じになってくるということです。ですから、霊といっても四次元・五次元の霊ぐらいであっては、ほんとうは全部はわからないのです。たとえば五次元ぐらいにいるご先祖を呼んで、「私の将来はどうなるのでしょうか。」などと聞いても、ほんとうはボヤーッとしかわからないのです。特にそうしたことに興味があって研究している霊であれば知っている場合もあるけれども、霊だから何を聞いてもわかるかといいますと、それほどわからないというのが現状です。やはりそこにも、わかるわからないの差がそうとうあるのです。関心を持っている人でありますとわかることもあるけれども、全然わからないことも多いのです。このあたりがやはり違いなのです・
・
18 如来界の如心(一即多、多即一)
①複眼的霊能力
それから一即多、多即一、これも高い意味での如心であるといってもいいでしょう。『観自在力』のほうではこうした如心のことを、複眼的霊能力という説明でしていると思います。
この前提の梵天界の観自在力というのは、ある程度このように人間的な感じでいろいろなものが見えるという感じでありますが、この高いほうの如心であります。如来界の如心になってきますと、目があっちもこっちもあるかのような感じになってくるということです。
ですから、みなさん方の目には二つしかありませんが、この目がたとえばたくさんあって部屋中に散らばって存在していたとすればどうかというと、自分自身のいろいろな角度の姿が見えるわけです。そういうことなのです。そして目が天上・壁・床に散らばっていて、テレビのカメラのように映していてたくさん姿が映っているのです。このいろいろな映像を見ながら全体のことを感じ取るような能力、これが如来界の如心の感じとなっているのです。まさしくこの感じで、感覚器官が複数ある感じになってきます。ですから一人でも一人ではないような感じがします。
これは受け取る情報でありますが、逆にアクション、活動のほうをみても、これもまた複数に動き始めるのです。ひじょうに多様な展開をはじめます。これを地上的にいうならば、前節で述べたような感じです。千分の一秒で仕事を片づけてしまえば、どうなるかということです。一時間かかることを千分の一秒ですませ、無限に縮めていけばどうなるのでしょうか。この動きはもう見えないぐらいの動きです。いわゆる千手観音のように、手が千本あるくらいの感じになってまいります。
したがって、この如来界の如心、ここでは一即多、多即一という言葉で語っておりますが、これはけっきょく、どういうことかと申しますと、数の概念がだいぶ変わってくるということです。これは別な言い方をしますと、自己イメージというのがはっきりと変革することを意味しています。みなさんが自分は一人であると思っているイメージが、一人ではなくていけるという感じです。
みなさんは手が二本しかありませんから、手としては二本の手で感じるものしか感じませんが、もし自分がタコやイカであったらどうかと考えてみてください。タコの足は八本で、以下は十本あります。八本か十本かの手足があると考えてみていただきたいのです。そしてそれぞれがいろいろなものを感じている。目もそのようにたくさんある感じです。このようにして自分が生きている人間という意識で生活すれば、どのような感じがするでしょうか。後ろにも目があるという感じで、足は上にも下にも左右にも自由自在という感じで天井を歩くことができるでしょう。そのような感じになってくるのです。
②拡大・分化する如来の意識作用
このようになってきますと、人間としてのまとまりの部分がけっきょくなくなってくるのです。なぜそのようになってくるかといいますと、これは意識の数だけ、あるいは作用の数だけ分化するからなのです。思っただけの数に分かれてくるのでありますから、まことに不思議です。意識体として、もう少し具体的にかたちをつけて説明すれば、私がたとえばパッと見て天上のライトが面白いなと思ったとしますと、思った瞬間にどうなるかいえば、私の胴体がキューッとくびれてくるわけです。そして見る間に細くなって、餅のようにパッと切れます。そして頭の上からシューッと足が生えてきて、天上をペタペタッと歩いて、また、そうかと思えば玄関に行きたいと意識しますと、スーッとそちらへ今度は別れていく感じです。また、・
・と駅前に行ってみたいと思えば、いきなり分身が駅前に出てきて通りを歩いている。
あるいは晩ごはんを食べずに夢中になっているうちにおなかがすいたので、あの食堂にしようかななどと思っていますと、そこにスッと分身が現われて食べているという感じになるわけです。このようなことは、人間としているときはできませんが、このかたちになってきますと、もう自由自在になってくるということです。このような感じでありますが、わかっていただければ幸いです。
一つの参考としてはカントの霊訓(『ソクラテスの霊言』所収)のなかで彼が言っておりますが、そのようなことが自己認識として、はたしてみなさんはできるかどうかということです。思いついた数だけの自分が、ようするに分光していって仕事ができるのです。このようにして統一できる自己認識がもしあれば、大したものです。これができるようになれば如来の世界なのです。それをどういうように自己の分光を出しながら仕事をするか。この総合仕事率です。いろいろなことをあちこちでやっているのを、中央でキュッとくくってトータルでまとめて管理する能力です。けっきょくはこのあたりが如来の核になってくるのです。
③梵天如来の自己認識
低い段階の如来、いわゆる梵天の上段階で、梵天如来の場合はどうかといいますと、まだこのあたりの意識のばらつきがありまして、まだじゅうぶんに収拾がついていないということがいえます。いろいろなことができるのはわかるのだけれども、まだ経験の段階があって、いろいろな経験を積むことが中心になっているのです。「不思議だな、ここで乳を搾るカントあり、あそこでコーヒーを飲むカントあり、そういうことができるのだな、不思議だな。」というような感じです。フッと思うと自分が二人になっている、オャッと思うともっと増えていて、ほかの仕事をこなしている。そのように活動しているのが、この梵天如来の段階なのです。
19 如来界の悟りとは
さらに上のほうになってきますと、これがはっきりしてまいります。自由自在になってくるわけです。このようになりますと、すごい仕事ができるのはみなさんもお分かりだと思います。如来界には五百名弱しかいないといいますが、このようなタイプの人がいれば、それはすごいのです。その下に何十億人いても、ものすごい量の仕事をこなすことができるのがわかるはずです。
もしこのような存在形態でなければ、たとえば如来というより九次元如来になりますが、イエス様などもあのような仕事をこなせるはずがありません。十億人もいるクリスチャンが、毎日イエス様の名前を呼んでいるのです。そしてさらに霊言集を見れば「わが名を呼べ」などと言われているくらいですから、普通の人にはとうていできるはずがありません。
ですから、こういうかたちの仕事に熟達しているのです。中心から放射された糸のように、いくらでもダーッと分かれて仕事ができるのです。そしてシューッと戻って意識が統一できているのです。これができなければ、そうしたことが成り立つはずはありません。
では、このようなところまで行くためには、どうすればよいかということです。そうして考えてみますと、まず経験の量ということではそうとうな幅と量の経験がなければまず無理でしょう。たとえば一つのことしかできないようなタイプ、いわゆる神界にいる学者肌で、一つの専門分野だけの専門家ではこのようなことができるはずがありません。やはりオールマイティなものが要求されています。ですからスペシャリストではだめなのです。スペシャリストは如来にはなれないのです。ここは大切なところですので、記憶にとどめておいてください。スペシャリストは途中で行きづまってしまうのです。
六次元ではスペシャリストが多いのですが、だいたい七次元菩薩界に行くにしたがって鍛えられるのです。いろいろな実務をやらされ、一生懸命働かされて、働く能力が増えてくるのです。そしてここでしごかれて、ゼネラリストになってきた人がだいたい如来に入ってゆくのです。ですから如来になりますと、いろいろな仕事ができて、才能も多方面になってきます。レオナルド・ダ・ヴィンチのように何にでも才能を発揮するような人がたくさんいるのです。
何でもできるというのは、けっきょく身体でいえば前述のタコやクラゲではないけれども、手足が何本もあってできるのと同じことです。いろいろな仕事のできるタイプの人というのはこういうことです。それだけ才能があるということは、それだけの魂修行が同時にできるということになってきます。ですから、幅広い経験が必要ですし、それと真理知識としてもそうとうな広範囲にわたっての真理知識の結集が必要です。それから行動力においても無限です。無限の行動力を持っていることがいえます。そしてエネルギーの供給においても、無限のエネルギーを受けられるような器を作っていかなければならないわけです。
このような感じと思っていただければいいのです。こうしたところに、将来の目標を置きますと、まだまだ向上の余地があることはみなさんもわかると思います。どうでしょうか。今のところ、このようになれる自信がありましょうか。日々の仕事に追われ、わずかのレジャーを楽しむくらいが精一杯という方も多いのではないでしょうか。なかなかそれ以上はいかないのですが、やはり自己認識としてそのような認識ができるようになるまでに、そうとう時間がかかるのです。如来になるとそのような認識がだんだんできてくるようになるということです。
『太陽の法』の一部にもそうしたことが書いてあります。「一万人としてわかれ出ても、それを一人として認識し統一する意識があるということでもあるのです。」このような統一意識、認識力が出れば、そうとう境地としては高いということです。
【大川隆法『太陽のメッセージ』part2 第1章「悟りとは何か、その極致とは」より抜粋】
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続きまして、教典『復活の法』の第3章より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税抜1800円】
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■「天国へ還る方法」―死後の行き先は生前の心境で決まる―
6 如来の条件
菩薩の境地の上には如来の境地があります。
如来の境地には、かなり大きな内容があり、曰く言いがたいものがありまし、霊的能力の側面で見ても、そうとうなものがあります。
人間として如来を見たとき、「如来の条件は、いったい何か」ということを考えてみると、次の基準をあげることができるでしょう。
まず、「高さ」ということです。髙さのない如来はいません。
高さとは何かというと、「普通の人が見えないところまで見渡すことができる」ということです。これは、認識力の高さと言ってもよいし、悟りそのものの高さと言ってもよいでしょう。「同時代の人たちが見えないところまで見渡せる」という意味において、高さが突出しているのです。これは、如来であるためには、どうしても抜きがたい条件です。
次に、「深さ」というものがあります。如来のなかでも、深さには違いがあります。
深さとは、「実践行為を通じて、どれだけ多くの人を感化し、どれだけ多くの人に影響を与えたか」という、感化力、影響力のことです。
この深さにも無限の世界が広がっています。釈尊、イエス、孔子、モーセなどの九次元大如来や八次元如来たち、彼らの感化力や影響力の違いは、みなさんには分からないかもしれません。しかし、さらに高次元の目から見れば、その深さは明らかに差があるのです。
もう一つ、「広さ」というものがあります。
八次元世界は、仏の根本法が、いろいろなかたちで説かれている世界であり、仏の心が、ある程度、分かってくる世界です。そういう意味で、如来界は法の世界であり、いろいろな教えが埋蔵されている世界なのです。
広さとは、「多様な教えを、どこまで吸収し理解しうるか。また、それを、どこまで説きうるか」という、多様性の認識のことです。この広さが如来の条件の一つなのです。
菩薩には如来ほどの広さがまだありません。菩薩は、どちらかというと、一つの教えや一つの主義に殉じていきます。菩薩には特定の先生がいて、菩薩は、その先生の教えの世界に殉じていくのです。
そのため、菩薩は、宗教改革者として出る場合でも、もともとの先生である祖師の教えや経典を広げていくことに努力しています。これは菩薩特有のあり方であり、菩薩は、法の多様性を認識するまでには至っていません。
如来となるためには、やはり、広さが必要なのです。
魂の「高さ」「深さ」「広さ」の三つの総合点が、実は、如来としての格を分けるものになります。
高さという観点で、九次元の大如来である釈尊とイエスを比べてみると、ある程度、答えは出ます。「地上に生きていたときに、どこまで認識していたか」という、認識力の限界、悟りの限界を比べてみると、釈尊のほうがイエスよりも高いと言えるのです。
ただ、深さの面、すなわち、感化力、影響力で見ると、イエスの場合、深さはかなりのものがあります。あの強烈な伝道が、どけだけ人類の心を揺さぶったか、計り知れないものがあるのです。
釈尊は、現世から離れて、別世界をつくりました。釈尊は、真理の教団をつくって、高さを目指していきました。
イエスは必ずしもそうではありませんでした。イエスは、現世のなかに、自らの身を投じました。そして、のちの世に花咲くもののために身を捨て、みずからは”一粒の麦”となったのです。
このイエスの生きざまが人々の魂に与えた影響力には、すさまじいものがあります。深さは、そうとうなものです。
しかし、多様な法の認識という意味の広さを見ると、釈尊のほうがイエスよりも上なのです。
それでは、この三つでトライアングル(三角形)をつくると、トータルで、どうなるでしょうか。それは秘密の部分なのです。大如来たちも、幾転生のなかで、このトライアングルの面積を競っており、その面積が大きいほど、指導力が大きいことを意味するのですが、これは地上では答えが出ないことになっているのです。
【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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主におかれましては、1985年の夏に会社員として働きながら、霊言集を刊行されていたことや、翌年1986年7月に商社を退社独立したことが記されています。まさに空手にして立つ思いで、約束された出世への道や安定した商社マンとしての地位をすべて捨てて「幸福の科学」を1986年10月6日に立ち上げてくださっています【立宗】。
商社を退社されて、すぐに執筆されたのが、連日ご紹介しています『太陽の法』です。主におかれましては、『太陽の法』と続く『黄金の法』は、主の手書きによる執筆となっています。『永遠の法』は主の説法の口述を文字起こしたものとなっています。手書きによる経典は数少なく、『太陽の法』『永遠の法』以外では、『地獄和尚』や『鏡川竜二シリーズ』等一連の小説シリーズ等となっています。とても貴重ですので読み込んでまいりましょう。
また、手書きの著作としては、大悟される前や教団創設前の雌伏の時期に主が何を考えて、心の修行に励んていたかは、青春詩集「愛のあとさき」や詩集「Left
over」などにおさめられています。主の悟りの軌跡をかいま見ることができます。ぜひお手にとってご覧ください。
後半の『永遠の法』講義「天国へ還る方法」では、如来の条件として、魂の「高さ」「深さ」「広さ」の三つの総合点が、実は、如来としての格を分けることを教えていただきました。
また、この三つでトライアングル(三角形)のトータルの霊的力における面積が評価されているという秘密の部分を教えていただきました。大如来も、幾転生のなかで、このトライアングルの面積を競っており、その面積が大きいほど、指導力が大きいことを意味するとのことでしたので、如来においても、指導力と感化力の向上における九次元大如来への精進を重ねているということが分かりました。その点、たいへん貴重な教えであると考えられます。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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文責:蒲原宏史
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