91 年齢(とし)をとっても、いつも、さわやかであれ。そして、颯爽(さっそう)としていることを心掛けよ。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、降魔成道記念日を迎えて、あらためて「悪魔」とは何かを、主の御教えから振り返ってまいります。本日は経典『悪魔の嫌うこと』より降魔についての学びを振り返ります。経典をお持ちでない方は、この機会に是非ご拝受ください。【税抜き1600円】
―本書には、エル・カンターレの説く、悪魔の嫌う三箇条が明らかにされている。精読の上、くり返しお読み頂きたい。その価値は無限で、国民全員に、そして、全世界の人々に読んでほしいと痛切に願っている。
大救世主降臨を知らずして、今、知るべきことはない。求めよ、さらば与えられん。真実の智慧を体得するがよい―「まえがき」より
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■『悪魔の嫌うこと』
悪魔の嫌うこと②―コツコツと努力する勤勉な生き方
〇悪魔は「怠けたり、サボったりする仲間」を増やしたい
悪魔の嫌がることの二番目を挙げましょう。
悪魔は、「勤勉な人」が嫌いです。「真面目に努力する人」、「人が見ていようと見ていまいと、コツコツと努力する人」、そういう人が嫌いなのです。
悪魔は人の目をとても気にします。彼らは、人の目に触れるところでは、努力しているように見せることがありますが、「人が見ていないところで努力するなんて、バカバカしい」という心を持っています。
人が見ているところでも、できれば怠けたりサボったりしたいわけですが、ほかの人から、「怠けたりサボったりしている」と思われるのは嫌なので、できれば仲間をつくりたいのです。
ほかの人も一緒に怠けたりサボったりして入れば、自分がそうしていても、あまり目立ちません。ところが、自分ひとりだけが怠けたりサボったりしていると、周りの人に見つかってしまい、自分のことを悪くいう人がたくさん出てきます。そのため、彼らは、「できれば仲間を増やしたい」という気持を持っています。
一番目に、「悪魔は、正直で嘘のつけない人を嫌う」ということを述べましたが、二番目には、「悪魔は、勤勉な人、コツコツと努力を積み上げていく人を嫌う」ということです。
そういう人は、悪魔にとっては実に嫌なものです。常に、悪魔をいじめるための武器を手入れしているように見えるのです。「刀に磨きをかけ、光らせている」という感じでしょう。”悪魔を退治する武器”をいつも手入れしているように見えるわけです。
刀がなまくらになり、錆びついていたら、物は斬れません。また、金属の刀ではなく、竹製の刀、竹光(たけみつ)であれば、人は斬れません。
そのように、人々が、間違ったものや善悪を見分ける目を曇らせていくほうが、彼らにとっては生きやすいので、きちんと善悪を分けて切るような”刀”を持っている人は嫌いなのです。
勤勉に、コツコツと、影日向なく努力する人を、悪魔はとても嫌います。
そういう勤勉な人は、「仏神から頂いた自分の一生を大事にしよう」としている人でもあるわけです。「せっかく頂いた今世の人生の時間を大事にしよう。この世には、めったに生まれることはできない。せっかく、この世に生まれてきたのだから、その人生の内容を、充実した、よいものにしたい」と考えている、心根のよい人です。
このような人を悪魔は嫌がるのです。
〇コツコツと努力する真面目な人は後光が射している
悪魔たちは、「できれば、ぐずぐずし、だらだらし、能率を下げたい。大事なことをしないで逃げたい。大事なことを避けたい。怠けたい」という気持に満ちています。
これは「悪魔の罠」であるわけです。
怠けたい人を騙したり、罠にはめたりするのは簡単です。
犯罪に引き込まれるのも、たいていそういう人です。「怠けたい人にうまい話を持ちかけて、その人を騙す」ということです。それから、怠けて遊んでいる人たちがたむろするような場所で、犯罪は多発します。
真面目に、勤勉に努力している人のところでは、犯罪は起こしにくいのですが、「何かうまいことをやって、サボれないか」と思っている人に対しては、悪魔は簡単に罠をしかけられます。
コツコツと努力する真面目な人は後光が射しているので、悪魔から見たらいやでいやでしょうがないのです。
悪魔は、怠け者や悪さができる者、ぐずぐずしたがる者などと仲間になりたがります。「酔生夢死(すいせいむし)の人生を送っている人」と言ってもよいですが、自らの人生を無駄にし、駄目にする人、サボる人、こういう人は、悪魔の友達に近いと見てよいでしょう。
【大川隆法『悪魔の嫌うこと』第1章「悪魔の嫌うこと」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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■『太陽のメッセージ』Part2
第1章「悟りとは何か、その極致とは」
14 如心と観自在力
如心について『太陽の法』では、「如心とは、自らの守護霊以上の霊格を持つ高級神霊界の指導を受けられる段階、すなわち、指導霊と霊的交流ができる段階です。この指導霊とは、七次元菩薩界以上の高級霊たちであります。」と、このように一応は定義しています。しかし、これは一つの考え方で、もちろんこれ以外に如心についての考え方はたくさんあります。
この如心とは、どういうことかといいますと、心というもの、それは人間の心もあるし、自分の心、他人の心、高級霊の心、神の心もありますが、そのような心というものの全体について、手に取るように分かってくることを如心というのです。まさに読んで字のごとく、心の如しと書いてありますが、そのようにいろいろな心というものの働きがわかってくる段階のことを如心と言うわけです。自分の心もそうであるし、人の心、それから高級霊の心、神の心、だいたい心というものがどういうものかということが、スーッとわかってくる感じになれば、如心に達したと言えるわけです。
この、わかってくるという段階に差があるのは当然でありますが、小さな心だけではなく、全般的な心というものの感じがわかってくるのです。それはちょうどレーダーのように、ずっとはりめぐらせて心とは何かがわかってくる感じです。このような段階が如心の最初の段階なのです。そうなるためには、やはりある程度は菩薩クラスの指導霊たちの影響が出てこないと、なかなかそう簡単には実現しないということです。
阿羅漢の上ぐらいにある如心の説明としては、魔が寄りつけなくなるとか、心がいつも謙虚で高ぶることなく、他人に対する奉仕に生きていますと、このようなことがあげられます。いわゆる菩薩の自覚の部分の如心についていうと、このようなことがあげられます。
それと如心のもう一つの面も、『太陽の法』では「観自在に近づいてくると居ながらにして、何百キロも離れている人のことが手に取るようにわかるということです。たとえば、ある人の名前を見ただけで、たとえ地球の裏側に入る人であったとしても、その人の現在の心境、悩み、憑依霊、前世、前々世、前々々世、未来世までが一瞬にしてわかるようになります。」と説明されておりますように、このあたりは観自在にだいぶ近づいてきています。如心の段階のなかには、広い意味での観自在が入っているのです。
この関係をどのように感じ取るかということなのでありますが、わかりやすく図示いたします、【※経典には図解がありますが、ここでは省略。説明文には、「観自在力は、六次元あたりから起点を発し、上へゆくほど大きくなります。また、梵天界における観自在力を狭義の観自在力ということがあります。如心は7次元菩薩界と8次元如来界の二つの領域にまたがっています」とあります。】五、六、七、八、九、十次元という段階があります。観自在力というのは六次元あたりから起点を発して、上へゆくほどだんだん大きくなってまいります。如心というのは、どうかといいますと、図のような範囲で存在しているという感じなのです。観自在能力というのは究極の神に向かって発展していく能力のことをいうので、上へいくほどどん
どん広がってゆくわけです。
この如心がなぜこのあたりの段階にあるかといいますと、やはりこれは多少人間的感覚をさして言っていることは事実なのです。多少なりに、心がわかるという感じであるからなのです。ですから、だいたい七、八次元のこのぐらいの領域にレーダーのように器として如心という段階が存在します。
観自在能力というのは(狭義の観自在能力というものはこのあたりのことで話をします)、霊的能力のなかで上のはるかなる高次元から縦長にスーッと入っています。如心というのは、主としてだいたいこの七、八次元のことを言います。すなわちこのあたりの霊域がいちばん人間の心とは何かというのを考える部分なのです。この七次元の菩薩界、八次元の如来界、このあたりが心とは何かということを深く考えるところなのです。「正しき心の探究」いっておりますが、このあたりがこころについての本当の中心領域といいますか、勉強の中核なのです。
観自在のほうは、心とは何かということではなくて、もう少し多方面にわたった能力的なものをいうのです。このあたりに質的な違いがあります。講師補セミナーくらいになりますと詳しい話もできますので、早く講師補になっていただきたいと思います。
これが第一段階の如心の話です。観自在のなかで、次の段階の如心の話をしてみたいと思います。『太陽の法』では「如心というのは、霊道をひらいた菩薩の心境だといってもいいでしょう。あるいは、如心とは、如来界の人の悟りだともいえます。」と、こう書いてあります。ここでは、多少矛盾するような言い方をしておりますが、これは最初の段階の如心が、霊道開いた菩薩の心境をさしていっています。
次の如来界の人の悟りというのは、この如心という言葉が如来の心というような、そのような意味での如心になってまいります。ちょっと違ってくるのです。
15 ネガ・フィルムによる三次元世界の未来予知
さて、この如心、観自在力の話ではありますが、これは地上界で悟りを開いた方のことばかりではなくて、あの世においてももちろんそのようなことはあります。
そしてあの世の霊なら何もかもわかるかといいますと、そうではなくて、そのわかる範囲においてはそうとうの差があります。ですから、この点を注意しないと、地上にいる人は混乱をすることになるということです。
その典型的な例として、予知の話があります。一九八九年の四月には『ノストラダムスの新予言』のセミナーを開催いたしましたが、そのときにも予知のことについては、ご説明いたしました。ここでは、未来には未確定事件と流動的事件があるということが大切なところです。すなわち、決定済みのことと、このままいけばこうなるであろうという予測的な段階があるということです。
この流動的事件に関しては、地上人の努力、守護・指導霊の努力で変更が可能な部分であり、この点については天上界の霊の予言も外れることがあります。
私もいろいろな守護霊と話をしていて、予言のことを考えるときに、だいたい明らかになってきたといいますか、彼らが感じていることと、地上人の人間が感じることのイメージの違いというのがわかってきました。この天上界の霊が思っている予知、あるいは未来のビジョンというものは、地上世界にあるものでたとえるならば、写真のネガ・フィルムのようなものなのです。
したがって、あの世の世界から見ていて「あ、こうなる。」というような明日の地上界のビジョンというものが、白黒テレビや白黒写真のネガのように見えるわけです。ところが実際、地上に出てくるときには、これがカラー写真に変わってくるのです。このあたりのところに違いが出てくる原因があるのです。
ですから、彼らにしてみれば、だいたいこのようになるだろうということは印象として分かるのですが、この写真が具体的に現像されてみるとどうなるかというところで多少違うことがあるのです。このフィルムのネガの一コマ、これを見て「ああ、このようなものだろう。」と思って言ってくるのです。ところがこれを実際に焼いてみますと、いろいろと変わってくるのです。色もカラフルになってきます。これは具体性を帯びてくることを意味しますし、それで、印象の差もずいぶんと大きくなったりします。
このように、いろいろと違いがあるので、彼らに未来のことを聞いたときには、このネガのような感じでビジョンが見えているという推測がつくわけです。ところがこのビジョンであっても、さらに気をつけなければならないことは、時間の座標軸のなかにもズレがあるということです。十年後のことが、彼らにはほんとうにすぐ近くに起きるように感じていることもあるのです。ネガの段階で見てしまうがために、三次元的展開になったときにどのような階段を経て具体性を帯びてくるのかというところが、ひじょうに分かりにくいのです。
幸福の科学もはじめてから二年半くらいになります。【※1989年説法当時】この間、私も人間的にいろいろと努力して行ったこともありますし、指導霊たちのアドバイスを受けて行ったこともあります。指導霊たちのアドバイスを受けていて、結果はそのとおりにならないことがいくつもありました。それでもおもしろいことに、そのときは予言どおりにならなくても何か月かしますと、別のかたちで必ず実現してくるのです。それは結果的には前より良かったことのほうが多いのです。最初にこうなればいいと思っていたイメージより良くなって出くることのほうか多いのです。【※「真説・八正道」p271~276参照・もしくは配信メール「77『仏陀再誕』を読む」を参集ください】
けっきょく、やはりネガの段階での判断であるから、このように出てくるであろうということは予想することができるのではありますか、実際に液【※写真の現像液】を通して、いろいろと焼いてみますと、多少違ってくることがあるということです。いろいろなものが入ってくるという感じなのです。ですから二、三ヵ月のズレはよくあるのです。
16 霊速度とのギャップ
予言とその結果のズレは、霊の個性によってもずいぶんと違います。かえってその霊人の観自在力が強くなりすぎていますと、はずれることもあるのです。あまりにも先のことまでありありと手近に見えてくるものですから、こんなことがまだできないのか、という感じ方であるのです。彼らにしてみればもう、すぐにでも起きるように思うことであっても、それは三次元的には十年かかるなどいうことがあるのです。
私もだいたい霊の本質がよくわかってきたのでありますが、けっきょく霊的になればなるほど、すぐ答えが出てくるという感じが強くなるのです。霊として純化されてゆき、意識が高くなってきて、肉体意識を離れてほんとうに霊的になってきますと、思ったことがすぐパッと出てこないと間に合わなくなるのです。認識の速度がものすごく速くなり、実現の速度がものすごく速いのです。それゆえに地上の人は混乱するのです。ここに大きな違いがあります。
現在、地上に生きていても、そのような混乱はあります。会社でも「一週間もかかってまだできていないのか。一時間でなぜできない。」などと仕事についていうことはいくらでもあるわけで、霊になるともっと激しくなるのです。たった、一秒ぐらいでできてくるのです。
これは本をつくっていると私もよくわかります。いろいろな本をつくっておりますが、守護霊たちは、ほんとうに一冊の本の内容を考えつくのに、二、三秒しかかりません。題名をつけると、高級霊は、一冊の高僧がすぐ二、三秒でできてしまうのです。
ところが地上の人間の場合は、作家などでも、構想を練るために旅行をして、ゆかたを着て、落ち着いてから「ウーン」と考えてもなかなか名案が出なくて、いよいよ編集者が来て「先生、もう締め切りです。もう待てません。だめです!」などと詰め寄られて、「そこを何とか待て!」と言い返したりすると、「もう許しません。」なんて脅されてやっと一枚書いたりしていますが、霊界の先生方であれば「こんなのはどうでしょうか。」と題をポンと出します。「いいな」と言えば、もうパッとはじまって、それで、もう本になるのです。
私たちと話しをしていて、霊言集や本をつくるときに、理論書でも一分以上かかることはありません。考えるのも、もう数秒です。それでやることを決めますと、たちまち章立てを書いてくださいます。章と節がありますけれども、すべて一気です。ですからその思考速度になかなかついていけないのです。手で書いていればとうてい追いつきませんし、しゃべってさえも追いつけないのです。一冊の本をしゃべるのに何時間もかかりますが、彼らの思考速度からいきますと、それは数秒のことなのです。それはちょうど、彼らの思想がマイクロフィルムのようにアッというまに完成されて、全体を見て出来上がっているなと感じるのと同じです。しかし、それを三次元的に展開するとなりますと、しゃべる速度でも何時間もかかってしま・
・ます。とてもついてはいけません。それほど霊速度というのは速いのです。
ですから、このような霊人たちにあまり相談してみても、かえっていろいろなことが当たらなくなるのは当然のことなのです。たとえて言えば彼らは、新幹線のように走っていますから、隣の家に新幹線で行こうとすれば、たいへんなことになるわけです。ブレーキをパッと踏んでも、もう先に行ってしまっている。このような感じなのです。ですから隣の家へは歩いて行くのがいちばんよいのです。その意味では、ほんとうに狐や狸のほうがよく当たるということもあるかもしれません。
この速度というものをひじょうに感じています。そして、私もこの肉体の不自由さを感じています。まさしくそうしたことなのです。高次元の霊が純粋化してきて、ほんとうに霊そのものになればなるほどそうです。まだ地上に近いところの霊は、ゆっくりしているものもおりますが、高次元にいけばいくほどそうなのです。
したがって、彼らはおそらく地上の人の何万倍も仕事ができると思います。パッと思っただけで本一冊分の理念が出てくるのですから、このような能力は地上の人間と比較になるはずもないのです。このようなタイプの人と仕事をしていれば、かなうはずもないのです。
ですから、そのような霊人の予言はほどほどに聞かなければいけない部分もあるわけです。高級霊によっては、「幸福の科学はなぜまだ十万人にならないのか。」【※1989年立宗三年目当時】などと言われることがあります。「もうなってもいいのではないか、」と返事をせざるをえないのです。今ごろ、そんな数になっていれば、事務局長などは目を回し、忙しさのあまりに過労で倒れて病院にかつぎ込まれてしまいかねません。二年で十万人にもなれば、会の基礎をづくりも、展望も何もできるはずはないのです。地上の人間はそれだけ遅いのですが、あの世の霊からいわせればそういうことなのです。「もう二年もたっているのに、何をやっておるんだる」という感じですから、ひじょうにその感覚にズレがあります。ようするに時間・
・・違うのです。そのようなことが言えます。
時間の違いがグーッと光速度になってきて、一秒が0.000001秒ぐらいまで縮まってくればどうなるかといいますと、それが次の一即多、多即一という概念といっしょになってくるのです。時間が縮まってきたときには、私たちの目には同時にいろいろなことができるように見えるのです。
もし千分の一秒くらいの間にいろいろなことをできる人がでてくればどうでしょうか。人がまぶたを開けるか開けないかのうちにいろいろな仕事が終わっているということになります。一人で何千人分、何万人分の仕事ができるはずです。普通の人間は止まっているのと同じに見えるわけです。普通の人間が指を動かそうかどうかと考えているうちに、もう講義が終わっているというような、そのような感じになってきます。そういうことなのです。
ですから、地上的にわかるようにいえば、一即多、多即一のところもそのように理解されても結構だということなのです。このような違いがあるのです。
【大川隆法『太陽のメッセージ』part2 第1章「悟りとは何か、その極致とは」より抜粋】
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続きまして、教典『復活の法』の第3章より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税抜1800円】
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■「天国へ還る方法」―死後の行き先は生前の心境で決まる―
5六次元から七次元へ
〇菩薩の心境―私をなくして天を思う
六次元の修業が終わると、次に菩薩の段階に入っていくわけですが、「菩薩の心境とは、いったい何であるのか」ということを述べたいと思います。
みなさんの一番目の目標が阿羅漢であるならば、二番目の目標は菩薩でなけばならないはずです。
今世は、ぜひ菩薩まで行ってください。「トータルでは、どうか分からないが、死ぬ間際の座標軸で切ってみたら、心根においては菩薩とそう変わらない」という”心情菩薩”までは行っていただきたいのです。「今回の人生で、ここまで修業を積んでおけば、この次は絶対に菩薩になれる」というところまでは努力していただきたいと思います。
そのためには、まず、人間としての原点の部分についての反省が大事です。「黄金律にかなった心で生きているかどうか」ということを、いつも反省することが必要なのです。
その次に、仏法真理の学習をし、さらに、それを実践のなかに生かしていかなくてはなりません。
この実践の部分には限界がありません。精神においては、「これ以上はない」という限界はあるでしょうが、実践において限界はないのです。この実践をどこまでやったかが大事なのです。
早めに仏法真理に辿(たど)り着いた人は、「幸いなるかな」であり、喜んでよいのです。早く辿り着いた人は、それだけ実践の機会を数多く持っているので、祝福されてよいでしょう。
年老いてから仏法真理に辿り着いた人もまた幸いです。もうすぐあの世に行くことになっているので、「地獄に行くすれすれのところで救われた」という人もいるでしょう。これもまた、「幸いなるかな」です。その後は、自らの経験を生かし、「危ないところにいるが、うまく導けば、自分のように何とか天国に行けそうだ」という同胞たちを、仲間意識を持って導くことも可能でしょう。
菩薩の修業では実践行為が大事ですが、実践に打ち込んでいく際には、「どれだけ仏の心を織り込むことができたか」という点が最も重要です。
世の中の役に立つ仕事はたくさんありますが、単に、それをこなして実績を上げればよいわけではないのです。「仏のお役に立つ仕事をしながら、そのなかに、どれだけ仏の心を織り込むか。どれだけ仏の心を盛り込むか。どれだけ仏の気持ちになって行うか」ということが大切です。自分の名誉や地位、満足感のためだけに行ってはいけません。
菩薩行をする際には、心を空しゅうして、「どれだけ仏の心になり、どれだけ仏の代わりとなってできたか」ということが大事なのです。
こういう心境においては、ある意味で、個性は、あってなきがごとしです。仏の手足の一つ、歯車の一つとなって、それに徹していきます。この菩薩の修業のなかに、無私の部分、「私をなくして天を思う」という気持ちが出てくるのです。
現実に地上に肉体をもっている菩薩も数多くいますが、そういう人たちを見ていると、どこか崇高で気高い部分があります。どういうところが崇高で気高いのかというと、そういう人たちが、「自分というものをなくして、ほんとうに、仏のため、天のために殉ずる」という気持ちを持っているところです。
たとえば、坂本龍馬は、幸福の科学の講師にはなれないタイプかもしれませんが、それでも菩薩界に還っています。かれは、一見、型破りに見えますが、その心根において自分を空しゅうし、大きな道のために奉仕する人生を生きた人です。その生き方を真理価値で見ると、やはり六次元光明界の上を行っているのです。
かれは、過去世において、ほんとうは真理をいろいろと勉強しているのだろうと思います。今世は、幕末において回天の偉業をなすために、あのような性格で生まれてきただけであって、あれが彼の本当の姿ではないでしょう。
菩薩は、「自分が、自分が」という気持ちがあまり強いようではいけません。「自分というものを考えずに透明な時間が流れていく」、そういう透明な時間のなかで生きていく気持ちが大切です。
菩薩の世界に入ってくると、ある意味で、「修行」というものの影が薄くなってきます。六次元光明界では、「修行」であっても、菩薩界では「修行」ではなく「仕事」になってくるのです。「仏の心に近づき、仏の教えを実践する」ということを、修行として行うのではなく、自分の仕事、天職として行うようになり、「それを行うことが楽しい。自分の仕事は、それ以外にない」という感覚になってきます。こういう考え方がとても大切なのです。
【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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本日の『永遠の法』講義「天国へ還る方法」では、私たちの修業の目標の第一が阿羅漢であること、そして二番目は菩薩であることを教えていただきました。
『みなさんの一番目の目標が阿羅漢であるならば、二番目の目標は菩薩でなけばならないはずです。
今世は、ぜひ菩薩まで行ってください。・・・そのためには、まず、人間としての原点の部分についての反省が大事です。「黄金律にかなった心で生きているかどうか」ということを、いつも反省することが必要なのです。
その次に、仏法真理の学習をし、さらに、それを実践のなかに生かしていかなくてはなりません。
この実践の部分には限界がありません。精神においては、「これ以上はない」という限界はあるでしょうが、実践において限界はないのです。この実践をどこまでやったかが大事なのです。・・・
菩薩の修業では実践行為が大事ですが、実践に打ち込んでいく際には、「取れだけ仏の心を織り込むことができたか」という点が最も重要です。・・・
「仏のお役に立つ仕事をしながら、そのなかに、どれだけ仏の心を織り込むか。どれだけ仏の心を盛り込むか。どれだけ仏の気持ちになって行うか」ということが大切です。自分の名誉や地位、満足感のためだけに行ってはいけません。
菩薩行をする際には、心を空しゅうして、「どれだけ仏の心になり、どれだけ仏の代わりとなってできたか」ということが大事なのです。
こういう心境においては、ある意味で、個性は、あってなきがごとしです。仏の手足の一つ、歯車の一つとなって、それに徹していきます。この菩薩の修業のなかに、無私の部分、「私をなくして天を思う」という気持ちが出てくるのです』
阿羅漢と菩薩の違いについては、以下のように教えていただきました。
『菩薩は、「自分が、自分が」という気持ちがあまり強いようではいけません。「自分というものを考えずに透明な時間が流れていく」、そういう透明な時間のなかで生きていく気持ちが大切です。
菩薩の世界に入ってくると、ある意味で、「修行」というものの影が薄くなってきます。六次元光明界では、「修行」であっても、菩薩界では「修行」ではなく「仕事」になってくるのです。「仏の心に近づき、仏の教えを実践する」ということを、修行として行うのではなく、自分の仕事、天職として行うようになり、「それを行うことが楽しい。自分の仕事は、それ以外にない」という感覚になってきます。こういう考え方がとても大切なのです』
このように、修業が進んで、自分づくりという阿羅漢の心境から菩薩の境地に至れば、もはや私なるものはなくなり公の部分が強くなってきます。菩薩の仕事は御仏の御手足となり、ひたすら隣人を救い愛する奉仕行としての利他が中心になっていきます。この境地を目指してともに精進を重ねてまいりましょう。そして共に今世、本物の菩薩になってまいりましょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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(12/18-1)基礎教学通信】351【12月17日】『太陽の法』を読む84「太陽のメッセージ2」悟りとは何か、その極致とは3―『悪魔の嫌うこと』コツコツと努力する勤勉な生き方―『復活の法』私をなくして天を思う
『太陽の法』
