(12/14-1)【基礎教学通信】348【2025年12月14日神戸正心館落慶】『太陽の法』を読む81「太陽のメッセージ」愛の力・神秘の力5―「悪魔の嫌うこと」悪魔は現実に存在する―『復活の法』善悪に対する考え方

『太陽の法』


88 従業員の家族を護るためにも、営業員は、二枚腰、三枚腰で粘り抜け。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】

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本日1214日(日)は神戸正心館の落慶日です。皆様まことにおめでとうございます。本日この聖なる日にエル・カンターレ祭を開催させていただきます。

事前プログラムとして、1230分より「神戸正心館」落慶感謝式典を開催致します。そして、13時より、エル・カンターレ祭を神戸正心館より中継します。

12/14(日)~21(日)まで、「エル・カンターレ祭」を開催させて頂きます。本年は「主なる神を愛し、日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進めよう!」のスローガンのもと、創造主であられる主への愛を深め、なお、一歩を進め続けた一年でした。そこで、「エル・カンターレ祭」では、今年一年、主が与えてくださった数多くの愛を振り返り、心からの感謝を捧げさせて頂きます。皆様全国の支部・精舎・拠点に参集ください。主への感謝と報恩の誓いを共にさせていただきましょう。

さて、降魔成道記念日を迎えて、あらためて「悪魔」とは何かを、主の御教えから振り返ってまいります。本日は経典『悪魔の嫌うこと』より降魔についての学びを振り返ります。経典をお持ちでない方は、この機会に是非ご拝受ください。【税抜き1600円】

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『悪魔の嫌うこと』

〇まえがき(抜粋)

悪魔の現実に存在する。それは他人の不幸を喜び、仲間を増やそうとして、今、宴会の最中である。

しかし、今、本仏としての仏陀が下生した。イエス・キリストに「天なる父」と呼ばれ、イスラム教では「アラー」とも呼ばれ、日本神道的には、「天御祖神(あめのみおやがみ)」と呼ばれ、中国では「天帝」といわれた存在である。

本名はエル・カンターレ。あなたがたの主である。

本書には、エル・カンターレの説く、悪魔の嫌う三箇条が明らかにされている。精読の上、くり返しお読み頂きたい。その価値は無限で、国民全員に、そして、全世界の人々に読んでほしいと通説に願っている。

大救世主降臨を知らずして、今、知るべきことはない。求めよ、さらば与えられん。真実の智慧を体得するがよい。

二〇二〇年 四月十七日 

幸福の科学グループ創始者兼総裁 大川隆法

『悪魔の嫌うこと』

1 悪魔は現実に存在する

「悪の魔の嫌うこと」というテーマで話をしたいと思います。

ずいぶん変わった表題ですが、「裏側から見た悟りの実体」と考えてよいかもしれません。

悪魔というと、昔話のようで、その存在を信じられない人も多いでしょう。今、白昼堂々と悪魔を論ずれば、少々、常識はずれのように思われるかもしれません。

しかし、人間の生きている、目に見え、耳に聞こえるこの世界を超えた、「現実世界」とも言うべき霊の世界には、悪魔は厳然として存在しています。

その実在世界は、いってみれば「心の世界」です。人の心のなかで描くことの可能なものが、すべて存在する世界です。

つまり、人の心のなかに悪魔というものが存在しうるのであるならば、実在世界においても、それは実体として存在するということです。

あなたがたが、奉仕の心で天使のごとく生きることができれば、実在世界にも天使という存在がありえます。同じように、あなたがたの心が、小説などの文学において、悪魔といわれる存在のようなあり方をすることが可能であり、その在り方が、一人だけでなく他の人々にも可能な存在形態であるならば、悪魔は死後の世界にも必ず存在すると言わざるをえないのです。

また、抽象的なレベルの話ではなく、現実の問題として、私が霊的に知覚する範囲で、悪魔というものは存在します。

「世の中には、よい人間と悪い人間が存在する」という分け方が認められるするならば、悪魔というのは、悪い人間の心のあり方を持った存在です。しかも、その悪い人間のなかでも、特に、悪辣(あくらつ)、悪質な人の心のあり方を持った存在といってよいでしょう。

それは、「積極的に悪をなそうとする心、あるいは、悪を広めようとする心」「他の人々を罠に陥れ、悪に誘おうとする心」など、悪の拡大を支持する考え方といってよいと思います。

悪魔という存在が、二千年前、三千年前、あるいは、それ以上の昔から現在まで連綿とあり続ける理由は、「人間の心のなかに、そのようなものを描くことが可能である」ということにあります。

つまり、「人間の本質に付随する自由性が、破壊的な方向で実現したときに、その悪の極致として、悪魔なる存在が現れる」ということです。

【大川隆法『悪魔の嫌うこと』第1章「悪魔の嫌うこと」より抜粋】

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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし

ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。

今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】

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『太陽のメッセージ』Part1

3章「愛の力・神秘の力」

15 愛が神秘の力を発揮するとき

ここに一つのたとえ話があります。三羽の雀(すずめ)の話です。

一羽は「この世で一番素晴らしいものはお天道様だ。太陽だ。」というようにいいます。二番目の雀は「水がいちばんすばらしいのではないか。」といいます。三番目は、「いや、だれもが気づかないけれど、空気こそがいちばんありがたいのだ。というように三羽の雀が話をしていました。それを聞いていた一人の子供が、このような話は人間から聞いたことがない。雀からこのような話を聞くとは、何と人間は情けないものかと思うわけです。そして長老に相談します。すると長老はこのようにいいます。

「太郎よ、よく悟ったね。人間とは、いちばんすばらしいものさえ見失っているおろかな生きものなんだよ。そのおろかな生きものであっても、お互いに愛し合うことによって、その罪を許されている。人間は醜い。しかし、その醜さばかりをいくら見つめていても、醜さは消えない。神さまは、人間の罪を許し、醜さを消すために、愛という魔法の力をお与えになった。そして、愛があるから、その神秘の力で、人間は、万物の霊長であることを許されているんだよ。」

ここに愛の存在、愛の力、愛の法則、これが何のためにあるのかという説明があるわけです。世の中を見て醜いと言う人は多いのです。人間を見て醜いという人もいます。世の中を見て悪が満ちていると人はいいます。それはそうかもしれない。目にはそう映るかもしれない。

しかし、私たちにはこのような魔法の杖が与えられているのです。魔法の力が与えられているのです。それをなぜ使わないか。こう言われているわけです。魔法の力によって、世の中の悪、悲しみ、苦しみを消していくことができるのです。ですから、現に世の中がこうだからいけないというだけではなくて、この愛の力を忘れてはいけません。そしてその力に気づく前に「足ることを知る」という意味を知りなさい。すでに与えられているもののありがたさを知らなければいけないのです。それが、この太陽であり、水であり、空気であるのです。

この感謝の気持ちというのは、自分がどれほど与えられているかということの発見です。この与えられているということの発見がなければ、魔法の杖を振るということはできなのです。魔法の杖とは、ほんとうはみなさんが手に持っているのですが、この魔法の杖は透明であって、自分の目には見えないのです。目に見えないからその存在がわからない。そして使えない。ところがこうした感謝の心を起こしたとき、自らがどれほど恵まれている存在であるか、ほんとうにありがたいという心を起こしたときに、この魔法の杖が見えるのです。

この魔法の杖が見えてきたときに、これを一振りすると回りに奇跡が起きてくるわけです。世の中の醜さや、苦しさや、悲しさが、次々と消えていくのを目にすることができるのです。この魔法の杖を手にする方法は、実はこの「足ることを知る」考えであり、また感謝ということであります。このことを知ってください。このことによって、初めて内なる力を発見できるのです。このたとえをよく心に止めて置いてください。

16 人生の苦しみにあって

愛に敵なしということを語ってみたいと思います。ここは、愛の観点からいわゆる光明転回の思想もとらえているわけです。この世に苦悩や苦しみがあるということは、私たちに選択をせまっているのです。

その選択とは何かといえば、一人一人が与えられる側の人生を選ぶのか、それとも与えられる側の人生を選ぶのか、その選択を迫られているのだということです。これはすでに光明転回理論ということで何度か語ってまいりましたが、この光明転回の理論、あるいは光明思想、積極的な人生展開の方法は、この愛の観点からも考えることができるのです。

この苦悩や苦しみから抜ける方法としては、実はそのようなときにこそ、自分たちに選択が迫られているのだという考え方をしてみなさいということなのです。人生の挫折のなかにあるときに、あるいはデッドロック(※交渉などの、行き詰まり。膠着 

(こうちゃく

状態)に陥ったときに、どうしてこれほど苦しいのか、このような失意のなかになければならないのか、とそう思ったときに、ハッと思い起こし、その瞬間に自分はいま与える側に立つのか、与えられる側に立つのかを迫られているのだと考えることが出発点となるという意味なのです。

このように考えるときに道が開けます。与えられることだけを願ってきたからこそ、今この苦境の中にあるのではないか。その苦境のなかにあって、「そうか、これは今選択肢を提示されたのだな、よし、与える側に立とう。」と思った時に、自分としてやることは無限に出てくるはずであります。しかし、そのことに気づかず、ひたすら与えられる側に立とうとしたときに、これはいたずらに日が暮れて泣き暮らすということになるでしょう。

ですから、苦しみや、悲しみに出合ったときに、これは与える側につくのか、与えられる側につくのか、これを試されているのだと思い、そして愛の理論によって乗り切っていきなさいということです。これが愛の理論による光明転回の方法であります。

17 愛のみかえりを人に求めたとき、愛は死ぬ

愛の本質とは、やはり与えることにあるのです。そしてその根源は、神が無限の愛を私たちに供給してくださっている、というところに帰せられるということです。みかえりを求めるということは本当の愛ではない。これはよく言われていることですが、なにゆえにそうであるのかと考えますと、ひとつの答えとして、実は「愛のみかえりは、ほかの人間から来るものではなくて、神から来るのだ。」ということなのです。

人間にみかえりを求めてはいけないと言っているのです。愛のみかえりは、人間から来るものではないのです。神から来るのです。すなわち愛を与えよと言ってもなかなかそれができないのは、与えただけ損をすると思うから、そこに間違いがあるのです。

与えた愛は与えた人のものになるのです。これが神の世界の法則です。霊の世界の法則です。与えただけ豊かになるのが霊の法則なのです。与えた愛は、与えられた人のものになるのではないのです。与えた人のものになるのです。このような法則があるのです。だからこそ、みかえりを求めるなと言っているわけです。愛を与えれば与えるほどに、与えた人自身が神近き人間となっていきます。それが神の見返りなのです。これがほんとうに実感されるようになるまでには、みなさん、まだまだ年月がかかるかもしれませんが、頑張ってほしいと思います。

与えた愛は与えた人のものになる。これは真実のことです。やはり人にみかえりを求めてはいけないのです。与えるという行為を出したということ自体が、その人にとって得たことになるのです。これはみなさんが地上を去るときにわかるのですが、たいていの人は、地上に生きてきた自分の過去というものを人生のドラマのシーンとして見せられます。そのときに自分の過去のなかでいちばん光っているもの、拍手が沸くところはどこかといいますと、この愛を与えたところなのです。ここで拍手が沸き、それがその人のいわゆる得点になり、勲章になっているのです。愛を与えてときにその人の頭上に守護霊が微笑み、光を投げかけているのです。

それゆえ、愛を与えるときにはすでに、愛を与えられているということのです。ここが大切です。ところが得よう得ようとしているときに、光は降りてきていないのです。これははっきりしています。そしてたいていの場合に執着をつくって真っ黒な曇りがでてきます。このようなシーンをやがてみなさんも見せられることになるでありましょう。ですから人に求めるなというのは、このことを言うわけです。

18 与えるということの意味

では、与えるということの定義をしてみましょう。

「与えるとは、どうすれば一人でも多くの人びとが幸せに生きられるかを考えながら、日々生きているということです。与えるとは、一人でも多くの迷える人びとの心に、愛の光を投げかけてゆくということです。また、一人でも多くの人びとを困難と挫折の人生から立ち直らせ、知恵と勇気の日々を送らせるかということです。」

これが与えるということの意味であることをよく理解しておいてください。与える愛、愛を与えるとはどのようにするのかというのは、このようなことだということです。どのようにすれば人びとが幸せに生きられるかを、考えながら生きるということ、これも与えることなのです。そして、現実に迷っている人に愛の光を投げかけることも与える愛です。また、困難と挫折の人生から立ち直らせること、知恵と勇気の日々を送らせること、これも与える愛です。そうしてみますと、与えるということは単に物を与えるのではないということがわかると思います。

私たちが地上を去ったときに考えることは、たいてい、自分の過去を見て、「自分がそこにあったのに、どうして自分に縁のあった人たちを幸福にできなかったのか。ああ、また自分のまわりにああいう不幸な人が通りすぎて行った。あれは自分を機縁としてあのような不幸な人が出た。なぜあのときに、あの一つの言葉をかけられなかったのか。あの行動ができなかったのか。あのとき、手を差し伸べられなかったのか。何とかならなかったのか。」これが悔いとして残る部分なのです。

19 知恵をもって与える愛

そして、さらに与えるにさいしての注意点としては、知恵をもって与えなさいということです。これは、はっきりと言われていることです。

仏教においてもそうでありますし、イエス様もこれはある比喩で語られております。私はあまりその響きは好きではありませんが、豚に真珠を与えるなかれというような諺(ことわざ)を彼は使ったことがあります。たしかに響きは悪いのですが、これは知恵をもって与えよと言っているわけです。愛を与えるということであっても、それがほんとうに知恵を伴わなければ、人を活かさないということになる場合もあるのです。

たとえば、困っている人にお金を与えるときには、それが愛の行為になることはあるでしょう。ところが、自分のその生暖かい温情主義で、ずるずると金を出していくことによって、その人自身が自力更生して立ち上がり、独立する機会を失わせることもあるのです。このようなことはよくあることでしょう。お子さんを育て上げられた方のなかにも、このような経験をされた方はいらっしゃるかもしれません。息子が働かずにいつまでもぐうたら、ぐうたらしている。しかし、お金を送らないと飢え死にするといてワァワァいうものだから、送る。そしてまた、息子は一ヵ月ぐうたらと生き延びる。そしてまた送る。こうしていつまでたっても働かない。このようなことがいくらでもあります。

仕事の関係でもよくある話でありますが、取引先で、いろいろと危機に陥って、援助を求められることがあるでしょう。そのときに真実それがどうなのか、これをどう判定するかは難しいのです。ほんとうに梃入れをして、この人にお金を貸して、あるいは援助することによって、立ち直ってよくなると思う場合には、そうしなければならないこともありますし、逆に実はずるずると泥沼に陥っていく道であることもあるのです。両方あります。どっちがその人にとってほんとうによいのか、これはよくよく考えて,知恵を持って与えなければいないのです。

「他人に金を貸すな」という言葉でも同じようなことがあります。「金を貸すと友人を失う」という諺(ことわざ)が昔からあります。お金とか本は返ってこないものの例です。私などもやはり金を貸すのは好きなほうではないのです。何度か貸したこともありますが、そのときには、そのままあげるつもりです。もう返ってこないという感じで、自分はいくらまでならあげてよいかを、考えた上で貸しています。そして、たいてい向こうが依頼してくる金額はやはりあげないほうがほんとうはよいのです。百万貸してくれと言われたときに、そのまま返すことができないのはわかっているのです。

ですから、返ってこなくても自分が腹が立たない限度はいくらであるのか、ということを考えればよいのです。百万貸したところで返ってこないであろうな、自分としては十万ぐらいなら貸すことができるかな、余裕があれば五十万くらいいけるかな、と思うことはあるけれども、このようにして、貸したならば忘れてしまうことです。返ってくればもうけもので、当然のごとく返らないと思っていて、腹が立たない限度を考えればよいのです。

しかし、それさえしないほうが本人のためにも良いと思えば、貸さないほうがいいのです。ほんとうにいい商売があって、お金さえあればいけるのだというのは、たいてい、ダメなことが多いと思って間違いがないのです。

ほんとうにいちばんだいじなことは、その人がちゃんと自力更生できる道を開いてあげるようにすることです。突き放すだけがよいことではありませんから、やはり、仕事のしかたを知らない人には、仕事のしかたを教えてあげる。お金の使い方を知らない人には、お金の使い方を教えてあげる。このような考えが大切です。

お金に関していえば、やはり自分で元手を作って、商売を始めたような人は、お金のありがたさがわかっていますが、他人のお金だけをあてにして商売をしてきたような人は、やはりうまくいかないのです。このような人にはお金を貸しても、けっきょく失敗に終わることが多いのです。

商売を始めるときであっても、自分自身で三百万なり、五百万なり、を自分自身で一生懸命働いて貯めたお金を元手にして商売を始めていった方というのは、成功する率が高いのです。それはお金のありがたみをよく知っているからです。このような人が、たとえば、あと百万あれば、うまくゆく方策がある、というときには出してあげても成功することがひじょうに多いのです。

ところが全然元手もないし、働いたこともないけれども、思いつきがあるので、五百万貸してくだされば新しい商売が始められるからといわれて貸したとすれば、たいていはだめであるし、自分にも一生悔いが残ることになります。そのようなことがよくあります。

このようなときに、知恵を使って与えることを考えなければいけないということなのです。

20 愛と知をどうとらえるか

「愛の発展段階説」、これはよく語ってまいりましたので、ある程度はわかっておられる方も多いと思います。ある意味で、突飛な考え方ではあると思いますが、この一説が仏教とキリスト教を融合する理論であると考えています。

ここでは愛と知の問題について考えてみたいのですが、六次元の生かす愛の段階で、知性の愛、理性の愛ということがいわれています。それでは、知の部分というのは、愛のなかで六次元部分に相当するのかという考え方が出てくるわけです。

愛は知にまさるという言葉がありますように、愛は知を超えるものであるという考え方があります。もう一歩奥まで語っておけば、確かに知はこの六次元世界のものであり、それより高い愛のレベルが存在します。そしてその愛のいちばん奥にあるものはいったい何であるとかといいますと、これは叡智なのです。叡智のレベルでまた愛と知は一つに融合します。神の叡智のレベルで、大いなる愛と知が一つになるのです。このように考えてください。

そして、「生かす愛」、「許す愛」のこの境地は実際の説明としては、なかなか難しい部分があるのですが、体験を通してある程度わかることもあると思います。そして、この基準でみますと、その人の悟りの段階もわかるのです。修行の方法として、目標として、この愛の発展段階というものを考えてください。これも、必ずトータルなものではないとは思っておりますが、ある程度の目安にはなると考えています。

【大川隆法『太陽のメッセージ』第3章「愛の力・神秘の力」より抜粋】

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続きまして、教典『復活の法』の第3章より「天国に還る方法」を学びます。これは、19881120日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税抜1800円】

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「天国へ還る方法」―死後の行き先は生前の心境で決まる―

4 善悪に対する考え方

〇行為と実相を区別する

人と接していて、その人の悪いところしか見えなくなってきたら、自分の心は地獄にあると思わなければいけません。

実際には、悪く見えて当然の場合もありますが、そのときには、「行いを裁いて人を裁かず」という考え方が大事です。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もありますが、「他人のなかに、よいものを見いだす」ということは、霊的には非常に大切な考え方です。

他人の現在の言動を悪しきもと見るのは簡単ですが、その人の人格、人柄、魂のなかにあるもの自体を悪く思わずに、言動と分けて考えることは、難しいけれども大切なことなのです。

ただ、これを逆のほうに間違ってもいけません。善人の度が過ぎ、「みな、よい人だ」と言って無警戒であったために、悪いことを企んでいる人にもっと悪を行わせ、悪を増長させてしまう人もいます。こういう人は問題です。

これは行為と実相の区別がついていない例です。

有害な行為をする人、他人を害する傾向のある人、ユートピアを阻害する傾向のある人、仏の心に反する行為をする人に対しては、悪の行為を悪の行為として見ることも大事です。

ただ、実相までをも悪として見てしまうことには問題があるわけです。

逆に、「実相は善だから、行為もすべて善である」と捉えると問題があります。そこには、無政府主義、アナーキーが始まります。「みな、よいことなのだ。みな、よい人なのだ」と考えたら大変なことになります。「人間は、みな、仏の子、神の子である。だから、人間のすることは、みな、正しいことなのだ」と考えたならば、どうなるでしょうか。それを想像してみてください。

簡単なことですが、意外に、行為と実相の区別はついていないのです。

善一元論と善悪二元論の違いを考えるときも、ここが、いちばん大切なポイントです。一元論の危険なところは、実は、ここにあるのです。

実相と仮相の区別が大事です。仮相とは言葉や行動など表面に出てくるもののことですが、「実相が善だから、仮相もすべて善である」と考えたなら、もっと大きな善を逸(いっ)することにもなりかねません。

小さな善人であることは結構ですが、小さな善を得ようとして、もっと大きな善を失うことがあるのです。小さな善を得るために大きな善を失っていくならば、それは、ユートピア建設にとってマイナスに働く力となります。

たとえば、子供が火遊びをしていて、このままでは家に火がつきそうな状況のときに、「子供は仏の子、神の子だから、間違いはないのである」と考えて、知らん顔をしていると、家が燃えてしまいます。そのときには、「何をするか」と言って、厳しく叱らなければいけません。

その場合、仮相の場合、すなわち、表面に表れた行動の部分について、善悪の基準を立てて判断し、叱っているのであって、決して実相を憎んでいるわけではありません。子供を悪人だと言っているのではなく、行為自体がユートピア価値に反するからいけないと言っているのです。この区別が分からないと、一元論・二元論の議論は、まったく空虚なものとなっていきます。

【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】

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本日の『永遠の法』講義「天国へ還る方法」では、「行為と実相を区別する」という難しいテーマでした。これは私も社会人経験のなかで経験したことなのですが、例えば上司から仕事上で注意を受けたりしたときに、上司は仕事上の手続きについての不備を指摘していることに対して、受け取りが感情的になり、「上司は私を嫌っている」「上司は私の見方になってくれない」または、「自分は駄目な人間なのだ」など、正しい仕事運びとはまったく関係ない受け取りをしてしまうことが若いときにありました。仕事のことで叱られることは、その人の人格を否定しているのでは絶対ないということが、その当時私には理解できていなかったのです。このように、正しい仕事運びという「行為」(仮相)について、間違っていることを指・

・することと、その人の人格「実相」は全く別の問題です。

本日は以下のことを学びました。

『人と接していて、その人の悪いところしか見えなくなってきたら、自分の心は地獄にあると思わなければいけません。

実際には、悪く見えて当然の場合もありますが、そのときには、「行いを裁いて人を裁かず」という考え方が大事です。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もありますが、「他人のなかに、よいものを見いだす」ということは、霊的には非常に大切な考え方です。

他人の現在の言動を悪しきもと見るのは簡単ですが、その人の人格、人柄、魂のなかにあるもの自体を悪く思わずに、言動と分けて考えることは、難しいけれども大切なことなのです』

「行いを裁いて人を裁かず」

「罪を憎んで人を憎まず」

日常生活において、こういう場面はよく出てきますので、善悪の考え方としてしっかり身につけておきたいところです。

『善一元論と善悪二元論の違いを考えるときも、ここが、いちばん大切なポイントです。一元論の危険なところは、実は、ここにあるのです』

とも教えていただきましたので、とても重要な問題であると感じました。

最後の箇所はとても重要なのでもう一度繰り返します。

『簡単なことですが、意外に、行為と実相の区別はついていないのです。

善一元論と善悪二元論の違いを考えるときも、ここが、いちばん大切なポイントです。一元論の危険なところは、実は、ここにあるのです。

実相と仮相の区別が大事です。仮相とは言葉や行動など表面に出てくるもののことですが、「実相が善だから、仮相もすべて善である」と考えたなら、もっと大きな善を逸(いっ)することにもなりかねません。

小さな善人であることは結構ですが、小さな善を得ようとして、もっと大きな善を失うことがあるのです。小さな善を得るために大きな善を失っていくならば、それは、ユートピア建設にとってマイナスに働く力となります。

たとえば、子供が火遊びをしていて、このままでは家に火がつきそうな状況のときに、「子供は仏の子、神の子だから、間違いはないのである」と考えて、知らん顔をしていると、家が燃えてしまいます。そのときには、「何をするか」と言って、厳しく叱らなければいけません。

その場合、仮相の場合、すなわち、表面に表れた行動の部分について、善悪の基準を立てて判断し、叱っているのであって、決して実相を憎んでいるわけではありません。子供を悪人だと言っているのではなく、行為自体がユートピア価値に反するからいけないと言っているのです。この区別が分からないと、一元論・二元論の議論は、まったく空虚なものとなっていきます』

この論点は、日本神道系の神々や日本人の妖怪性の払拭に関して重要な示唆であると考えます。すなわち、「実相が正しければ仮相も正しい」とする一元論が変じて、「仮相が正しければ実相も正しい」となった場合、たちまちこの一元論が妖怪変化して、表面だけ正しく装えば、それは正しいかのように見える」という実質が伴わない実体論になります。これが妖怪性における生産性の無さを生み出しているとも考えられます。幸福の科学は、相対的二元論に近い考え方を基本的に取っています。安易な一元論、安易な光明思想は反省の法門をくぐることができず、結果的に悟りに至ることができません。この点をしっかり学んで、妖怪性の払拭に関する精進を共にさせていただきます。

【参考】

一元論と二元論について、私は相対二元論に近い考え方を取っています。

それは、「比較的下のほうの次元においては、明らかに善悪の二元的である。しかし、高次元に上がっていくにつれて、しだいに善の一元になっていく。その途中においては、善悪二元的なものは時間の流れのなかで処理され、現時点で把握と思われることも、長い時間のなかでは、善に変わっていくこともありうる」という考え方です。

【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」p191より抜粋】

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。

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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。

We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。

One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。

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文責:蒲原宏史 

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