【基礎教学通信】347『太陽の法』を読む80「太陽のメッセージ」愛の力・神秘の力4―「宗教選択の時代」ほんとうの「許す愛」とは―『復活の法』男性が注意すべき「正見」の内容

『太陽の法』

87 「リベラル」は「愛」ではなく、なだらかに地獄へと続く、舗装道路である。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、降魔成道記念日を迎えて、あらためて「悪」とは何かを、主の御教えから振り返ってまいります。本日は経典『宗教選択の時代』より降魔についての学びを振り返ります。経典をお持ちでない方は、この機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
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■『宗教選択の時代』第3章「悪とは何か」
6 ほんとうの「許す愛」とは

この世界は、霊界も含め、仏が創り、仏が統べている世界です。そして、最大の悪は、仏への信仰を失わしめる行為や、その思いです。仏が創り、仏が統べる世界であるということ―これへの信仰を揺さぶることこそ、最大の悪であると言えます。

というのは、それは、この世界の成り立ちそのものを否定し、自己の存在そのものをも、結局は否定することになるからです。すなわち、自己の存在そのものと、自己が生きている世界そのものを、まったく否定してしまって、人間を狂わせてしまうことになるのです。ですから、「信仰を侵す罪」が最大の罪なのです。

信仰深く生きている人たちは、三宝帰依の精神を持って、日々、精進しなくてはなりませんる悪魔が打ち込んでくる楔(くさび)に対して、青銅の扉をしっかりと閉めて、それをはね返さなくはなりません。

私は、『仏陀再誕』(幸福の科学出版刊)のなかで、「和合僧破壊の罪」について述べています。仏国土建設のために努力している人々を惑わせ、狂わせ、分裂させ、揺さぶろうとするような人間は、人間として最低・最悪であり、死後には必ず悪魔となるのです。彼らの罪を許してはなりません。この罪だけは絶対に許してはならなのです。

仏の根本理想を、仏の愛を、そして仏が創られた世界そのものを否定するような思想は、許してはなりません。それを許すということ自体が、仏を否定することにつながっていくからです。

「許す愛」という言葉を、そのように悪魔に逆手にとられる方向で考えてはなりません。「許す愛とは、悪をなくすことそのものである」ということを知らねばなりません。

許す愛とは、愛を広げることであり、善念を広げることであり、この世を光明化していき、あの世をも光明化していく行為です。それが許す愛であって、暗黒を支える行為が許す愛では断じてないのです。

言葉に囚(とら)われてはなりません。ほんとうの「許す愛」は、やはり、そのなかに厳しさをも含んでいなけれけばなりません。仏の子が、もし間違っているならば、その間違いを正し、正道に入らせる。そのための努力を惜しまないことも、許す愛です。父や母が、間違った子供たちを導くような愛でもあります。厳しく導くなかにも、あふれる慈愛があります。無我の心でもって、間違いし人たちを厳しく指導すること、それもまた愛なのです。

愛というものを、砂糖菓子のような、舌触りの良いものとだけ考えてはなりません。愛のかなには、大勢の人間を生かすために、強い力、エネルギーを必要とする局面もあります。

これだけ大勢の方が、この地上で魂修行をしているのですから、指導者というものは、強くあらねばなりません。強くあってこそ、初めて愛を実践でき、強くあってこそ、初めて真なる優しさというものを現わすことも可能となるのです。(完)

【大川隆法『宗教選択の時代』第3章「悪とは何か」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。

今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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■『太陽のメッセージ』Part1
第3章「愛の力・神秘の力」
15 愛が神秘の力を発揮するとき

ここに一つのたとえ話があります。三羽の雀(すずめ)の話です。

一羽は「この世で一番素晴らしいものはお天道様だ。太陽だ。」というようにいいます。二番目の雀は「水がいちばんすばらしいのではないか。」といいます。三番目は、「いや、だれもが気づかないけれど、空気こそがいちばんありがたいのだ。というように三羽の雀が話をしていました。それを聞いていた一人の子供が、このような話は人間から聞いたことがない。雀からこのような話を聞くとは、何と人間は情けないものかと思うわけです。そして長老に相談します。すると長老はこのようにいいます。

「太郎よ、よく悟ったね。人間とは、いちばんすばらしいものさえ見失っているおろかな生きものなんだよ。そのおろかな生きものであっても、お互いに愛し合うことによって、その罪を許されている。人間は醜い。しかし、その醜さばかりをいくら見つめていても、醜さは消えない。神さまは、人間の罪を許し、醜さを消すために、愛という魔法の力をお与えになった。そして、愛があるから、その神秘の力で、人間は、万物の霊長であることを許されているんだよ。」

ここに愛の存在、愛の力、愛の法則、これが何のためにあるのかという説明があるわけです。世の中を見て醜いと言う人は多いのです。人間を見て醜いという人もいます。世の中を見て悪が満ちていると人はいいます。それはそうかもしれない。目にはそう映るかもしれない。

しかし、私たちにはこのような魔法の杖が与えられているのです。魔法の力が与えられているのです。それをなぜ使わないか。こう言われているわけです。魔法の力によって、世の中の悪、悲しみ、苦しみを消していくことができるのです。ですから、現に世の中がこうだからいけないというだけではなくて、この愛の力を忘れてはいけません。そしてその力に気づく前に「足ることを知る」という意味を知りなさい。すでに与えられているもののありがたさを知らなければいけないのです。それが、この太陽であり、水であり、空気であるのです。

この感謝の気持ちというのは、自分がどれほど与えられているかということの発見です。この与えられているということの発見がなければ、魔法の杖を振るということはできなのです。魔法の杖とは、ほんとうはみなさんが手に持っているのですが、この魔法の杖は透明であって、自分の目には見えないのです。目に見えないからその存在がわからない。そして使えない。ところがこうした感謝の心を起こしたとき、自らがどれほど恵まれている存在であるか、ほんとうにありがたいという心を起こしたときに、この魔法の杖が見えるのです。

この魔法の杖が見えてきたときに、これを一振りすると回りに奇跡が起きてくるわけです。世の中の醜さや、苦しさや、悲しさが、次々と消えていくのを目にすることができるのです。この魔法の杖を手にする方法は、実はこの「足ることを知る」考えであり、また感謝ということであります。このことを知ってください。このことによって、初めて内なる力を発見できるのです。このたとえをよく心に止めて置いてください。

16 人生の苦しみにあって

“愛に敵なし”ということを語ってみたいと思います。ここは、愛の観点からいわゆる光明転回の思想もとらえているわけです。この世に苦悩や苦しみがあるということは、私たちに選択をせまっているのです。

その選択とは何かといえば、一人一人が与えられる側の人生を選ぶのか、それとも与えられる側の人生を選ぶのか、その選択を迫られているのだということです。これはすでに光明転回理論ということで何度か語ってまいりましたが、この光明転回の理論、あるいは光明思想、積極的な人生展開の方法は、この愛の観点からも考えることができるのです。

この苦悩や苦しみから抜ける方法としては、実はそのようなときにこそ、自分たちに選択が迫られているのだという考え方をしてみなさいということなのです。人生の挫折のなかにあるときに、あるいはデッドロック(※交渉などの、行き詰まり。膠着 
(こうちゃく) 
状態)に陥ったときに、どうしてこれほど苦しいのか、このような失意のなかになければならないのか、とそう思ったときに、ハッと思い起こし、その瞬間に自分はいま与える側に立つのか、与えられる側に立つのかを迫られているのだと考えることが出発点となるという意味なのです。

このように考えるときに道が開けます。与えられることだけを願ってきたからこそ、今この苦境の中にあるのではないか。その苦境のなかにあって、「そうか、これは今選択肢を提示されたのだな、よし、与える側に立とう。」と思った時に、自分としてやることは無限に出てくるはずであります。しかし、そのことに気づかず、ひたすら与えられる側に立とうとしたときに、これはいたずらに日が暮れて泣き暮らすということになるでしょう。

ですから、苦しみや、悲しみに出合ったときに、これは与える側につくのか、与えられる側につくのか、これを試されているのだと思い、そして愛の理論によって乗り切っていきなさいということです。これが愛の理論による光明転回の方法であります。

17 愛のみかえりを人に求めたとき、愛は死ぬ

愛の本質とは、やはり与えることにあるのです。そしてその根源は、神が無限の愛を私たちに供給してくださっている、というところに帰せられるということです。みかえりを求めるということは本当の愛ではない。これはよく言われていることですが、なにゆえにそうであるのかと考えますと、ひとつの答えとして、実は「愛のみかえりは、ほかの人間から来るものではなくて、神から来るのだ。」ということなのです。

人間にみかえりを求めてはいけないと言っているのです。愛のみかえりは、人間から来るものではないのです。神から来るのです。すなわち愛を与えよと言ってもなかなかそれができないのは、与えただけ損をすると思うから、そこに間違いがあるのです。

与えた愛は与えた人のものになるのです。これが神の世界の法則です。霊の世界の法則です。与えただけ豊かになるのが霊の法則なのです。与えた愛は、与えられた人のものになるのではないのです。与えた人のものになるのです。このような法則があるのです。だからこそ、みかえりを求めるなと言っているわけです。愛を与えれば与えるほどに、与えた人自身が神近き人間となっていきます。それが神の見返りなのです。これがほんとうに実感されるようになるまでには、みなさん、まだまだ年月がかかるかもしれませんが、頑張ってほしいと思います。

与えた愛は与えた人のものになる。これは真実のことです。やはり人にみかえりを求めてはいけないのです。与えるという行為を出したということ自体が、その人にとって得たことになるのです。これはみなさんが地上を去るときにわかるのですが、たいていの人は、地上に生きてきた自分の過去というものを人生のドラマのシーンとして見せられます。そのときに自分の過去のなかでいちばん光っているもの、拍手が沸くところはどこかといいますと、この愛を与えたところなのです。ここで拍手が沸き、それがその人のいわゆる得点になり、勲章になっているのです。愛を与えてときにその人の頭上に守護霊が微笑み、光を投げかけているのです。

それゆえ、愛を与えるときにはすでに、愛を与えられているということのです。ここが大切です。ところが得よう得ようとしているときに、光は降りてきていないのです。これははっきりしています。そしてたいていの場合に執着をつくって真っ黒な曇りがでてきます。このようなシーンをやがてみなさんも見せられることになるでありましょう。ですから人に求めるなというのは、このことを言うわけです。

18 与えるということの意味

では、与えるということの定義をしてみましょう。

「与えるとは、どうすれば一人でも多くの人びとが幸せに生きられるかを考えながら、日々生きているということです。与えるとは、一人でも多くの迷える人びとの心に、愛の光を投げかけてゆくということです。また、一人でも多くの人びとを困難と挫折の人生から立ち直らせ、知恵と勇気の日々を送らせるかということです。」

これが与えるということの意味であることをよく理解しておいてください。与える愛、愛を与えるとはどのようにするのかというのは、このようなことだということです。どのようにすれば人びとが幸せに生きられるかを、考えながら生きるということ、これも与えることなのです。そして、現実に迷っている人に愛の光を投げかけることも与える愛です。また、困難と挫折の人生から立ち直らせること、知恵と勇気の日々を送らせること、これも与える愛です。そうしてみますと、与えるということは単に物を与えるのではないということがわかると思います。

私たちが地上を去ったときに考えることは、たいてい、自分の過去を見て、「自分がそこにあったのに、どうして自分に縁のあった人たちを幸福にできなかったのか。ああ、また自分のまわりにああいう不幸な人が通りすぎて行った。あれは自分を機縁としてあのような不幸な人が出た。なぜあのときに、あの一つの言葉をかけられなかったのか。あの行動ができなかったのか。あのとき、手を差し伸べられなかったのか。何とかならなかったのか。」これが悔いとして残る部分なのです。

19 知恵をもって与える愛

そして、さらに与えるにさいしての注意点としては、知恵をもって与えなさいということです。これは、はっきりと言われていることです。

仏教においてもそうでありますし、イエス様もこれはある比喩で語られております。私はあまりその響きは好きではありませんが、”豚に真珠を与えるなかれ”というような諺(ことわざ)を彼は使ったことがあります。たしかに響きは悪いのですが、これは知恵をもって与えよと言っているわけです。愛を与えるということであっても、それがほんとうに知恵を伴わなければ、人を活かさないということになる場合もあるのです。

たとえば、困っている人にお金を与えるときには、それが愛の行為になることはあるでしょう。ところが、自分のその生暖かい温情主義で、ずるずると金を出していくことによって、その人自身が自力更生して立ち上がり、独立する機会を失わせることもあるのです。このようなことはよくあることでしょう。お子さんを育て上げられた方のなかにも、このような経験をされた方はいらっしゃるかもしれません。息子が働かずにいつまでもぐうたら、ぐうたらしている。しかし、お金を送らないと飢え死にするといてワァワァいうものだから、送る。そしてまた、息子は一ヵ月ぐうたらと生き延びる。そしてまた送る。こうしていつまでたっても働かない。このようなことがいくらでもあります。

仕事の関係でもよくある話でありますが、取引先で、いろいろと危機に陥って、援助を求められることがあるでしょう。そのときに真実それがどうなのか、これをどう判定するかは難しいのです。ほんとうに梃入れをして、この人にお金を貸して、あるいは援助することによって、立ち直ってよくなると思う場合には、そうしなければならないこともありますし、逆に実はずるずると泥沼に陥っていく道であることもあるのです。両方あります。どっちがその人にとってほんとうによいのか、これはよくよく考えて,知恵を持って与えなければいないのです。

「他人に金を貸すな」という言葉でも同じようなことがあります。「金を貸すと友人を失う」という諺(ことわざ)が昔からあります。お金とか本は返ってこないものの例です。私などもやはり金を貸すのは好きなほうではないのです。何度か貸したこともありますが、そのときには、そのままあげるつもりです。もう返ってこないという感じで、自分はいくらまでならあげてよいかを、考えた上で貸しています。そして、たいてい向こうが依頼してくる金額はやはりあげないほうがほんとうはよいのです。百万貸してくれと言われたときに、そのまま返すことができないのはわかっているのです。

ですから、返ってこなくても自分が腹が立たない限度はいくらであるのか、ということを考えればよいのです。百万貸したところで返ってこないであろうな、自分としては十万ぐらいなら貸すことができるかな、余裕があれば五十万くらいいけるかな、と思うことはあるけれども、このようにして、貸したならば忘れてしまうことです。返ってくればもうけもので、当然のごとく返らないと思っていて、腹が立たない限度を考えればよいのです。

しかし、それさえしないほうが本人のためにも良いと思えば、貸さないほうがいいのです。ほんとうにいい商売があって、お金さえあればいけるのだというのは、たいてい、ダメなことが多いと思って間違いがないのです。

ほんとうにいちばんだいじなことは、その人がちゃんと自力更生できる道を開いてあげるようにすることです。突き放すだけがよいことではありませんから、やはり、仕事のしかたを知らない人には、仕事のしかたを教えてあげる。お金の使い方を知らない人には、お金の使い方を教えてあげる。このような考えが大切です。

お金に関していえば、やはり自分で元手を作って、商売を始めたような人は、お金のありがたさがわかっていますが、他人のお金だけをあてにして商売をしてきたような人は、やはりうまくいかないのです。このような人にはお金を貸しても、けっきょく失敗に終わることが多いのです。

商売を始めるときであっても、自分自身で三百万なり、五百万なり、を自分自身で一生懸命働いて貯めたお金を元手にして商売を始めていった方というのは、成功する率が高いのです。それはお金のありがたみをよく知っているからです。このような人が、たとえば、あと百万あれば、うまくゆく方策がある、というときには出してあげても成功することがひじょうに多いのです。

ところが全然元手もないし、働いたこともないけれども、思いつきがあるので、五百万貸してくだされば新しい商売が始められるからといわれて貸したとすれば、たいていはだめであるし、自分にも一生悔いが残ることになります。そのようなことがよくあります。

このようなときに、知恵を使って与えることを考えなければいけないということなのです。

20 愛と知をどうとらえるか

「愛の発展段階説」、これはよく語ってまいりましたので、ある程度はわかっておられる方も多いと思います。ある意味で、突飛な考え方ではあると思いますが、この一説が仏教とキリスト教を融合する理論であると考えています。

ここでは愛と知の問題について考えてみたいのですが、六次元の生かす愛の段階で、知性の愛、理性の愛ということがいわれています。それでは、知の部分というのは、愛のなかで六次元部分に相当するのかという考え方が出てくるわけです。

“愛は知にまさる”という言葉がありますように、愛は知を超えるものであるという考え方があります。もう一歩奥まで語っておけば、確かに知はこの六次元世界のものであり、それより高い愛のレベルが存在します。そしてその愛のいちばん奥にあるものはいったい何であるとかといいますと、これは叡智なのです。叡智のレベルでまた愛と知は一つに融合します。神の叡智のレベルで、大いなる愛と知が一つになるのです。このように考えてください。

そして、「生かす愛」、「許す愛」のこの境地は実際の説明としては、なかなか難しい部分があるのですが、体験を通してある程度わかることもあると思います。そして、この基準でみますと、その人の悟りの段階もわかるのです。修行の方法として、目標として、この愛の発展段階というものを考えてください。これも、必ずトータルなものではないとは思っておりますが、ある程度の目安にはなると考えています。

【大川隆法『太陽のメッセージ』第3章「愛の力・神秘の力」より抜粋】
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続きまして、教典『復活の法』の第3章より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税抜1800円】
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■「天国へ還る方法」―死後の行き先は生前の心境で決まる―
3五次元の心境を維持する方法
〇男性が注意すべき「正見」の内容

その反面、男性には、内心の思いと外に表れた言動とが、かなり違っていることがあります。したがって、「正しく見る」ということによって、内心の思いをチェックしていくのがよいでしょう。

男性の場合、他人を正しく見ていないことが多いのです。どう正しくないのかというと、先入観が入っているわけです。

いちばん多い先入観は、「敵か味方か」という考え方です。人を見るときに、まず、「自分の敵か味方か」という基準で分類するのです。そして、敵として分類した人に対しては、さまざまなかたちで嫌がらせをしていきます。逆に、味方として分類した人とは、ゴルフやマージャンなどをして、仲よしクラブをつくっていきます。そのように、男性は、まず、「自分にとって、有利な人か、不利な人か」ということを考えるのです。

さらに、自分が気に食わない人と仲のよい人についても、敵に分類して一線を引いてしまいます。そして、「あいつには情報を漏らさないぞ」と思ったり、「彼は、こんなことをしていますよ」などと上司に言って、その人を蹴落とそうとしたりするのです。

正見の部分で、男性が最も気をつけなければいけない点は、この「敵か味方か」という考え方です。ここから間違いが始まります。

男性は、いったん、「敵」あるいは「自分にとって有害な人」という分類をしてしまうと、なかなか、その分類を変えようとはしません。しかし、「そういう分類をするのは少し待ちなさい。結論を出すのは、まだ早い」と私は言いたいのです。

すぐに白黒をつけず、しばらくは、可能性を持った灰色として眺めてみる必要があります。

相手が、現在、そういう言動をし、そういう立場に立っていることには、たいてい、何なら果の背景があるのです。それを理解せずに、「敵・味方」の分類をしてしまうことには問題があります。自分にとって、仕事の面で不利になるような動きをしている人であっても、「なぜ、そのように動いているのか」ということを探求してみることが必要なのです。

そういう人は、実は、姿を変えた先生であることも多く、自分の心の反映である場合も、実際、数多くあります。

ある人を見て、「あいつは駄目だ。出世しない」と思っていると、しばらくして、相手もそれに相応した態度に出てきます。「あの男は絶対に出世しない」という考えが以心伝心で相手に伝わるのです。そして、向こうは向こうで、あなたに対して、「あんな男は絶対に出世するものか。あいつが出世したら、もう最後だ」などと思うようになります。ところが、こちらが「彼は、なかなかの人だな」と思っていると、向こうも、あなたに対して、同じように思うのです。

ほんとうは、最初の段階で、相手の持っているよいところがすべて見えるとよいのですが、たいていの人は、そこまで修業が進んでいないために、初対面でその人のよいところをすべて理解するほどの認識力をもっていません。

したがって、その見えていない部分については、可能性を持った灰色として見てあげなくてはならないのです。

そして、いろいろな人との接触を通して人間を知り、正見を深めていく必要があります。

自分が最初にした分類を、その後も変更しないのはいけません。もし仏が人間をそういう目で見ているとしたら大変なことですが、仏は、さまざまな目で人間を見ているのです。

五次元世界に入るための基準として正見を考える場合、他の人に対して、すぐに白黒をはっきりつけて分類するのではなく、「しばらくは希望のある灰色として見ながら、徐々に白黒の判断をしていく」という努力が必要です。

これが第一段階ですが、「人を見る」という意味では、もう少し発達した見方があります。それは、単に「敵・味方」として見るのではなく、一つの教材として、あるいは一人の先生として見ていくことです。どのような人には、自分にないものがあり、その意味で、勉強になることがたくさんあります。

世の中には、さまざまな人がいて、「トータルで、どういう人であるのか」ということは、なかなか分かりかねるため、男の世界では、お互いに「自分のほうが上だ」と思っていたりして、なかなか決着がつかず、トータルな判定がつかない状態で付き合いがなされています。

しかし、そういう力関係の見方ではなく、「相手のなかにあるよいものを、じっくり見いだしていく」という姿勢が大切なのです。

「よいものを見いだす」ということは、すでに、そのなかに、「学ぶ」ということを内包しています。見ることは、すなわち学ぶことであり、「正しく見る」ということは、「正しく学ぶ」ということでもあるのです。こういう考え方が大事です。

【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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本日の『永遠の法』では、五次元善人界の天国世界に心を常に同通させるために必要な精進を主に男性向きにこのように説いてくださいました。

『男性には、内心の思いと外に表れた言動とが、かなり違っていることがあります。したがって、「正しく見る」ということによって、内心の思いをチェックしていくのがよいでしょう。男性の場合、他人を正しく見ていないことが多いのです。どう正しくないのかというと、先入観が入っているわけです。』

「正見」の大切さですが、たしかに私も物事を考えるときに先入観が邪魔になって失敗した経験がありました。それまでの人生経験によって積み重ねたことが逆に先入観になって、未来の発展・成長を邪魔してしまうことがあります。人や物事をありのままに見ることはとてもむずかしく、かなりわがままなものの見方をしてしまうのが人の性(さが)です。これを取り除くための教えをいただきました。

『男性は、いったん、「敵」あるいは「自分にとって有害な人」という分類をしてしまうと、なかなか、その分類を変えようとはしません。しかし、「そういう分類をするのは少し待ちなさい。結論を出すのは、まだ早い」と私は言いたいのです。

すぐに白黒を付けず、しばらくは、可能性を持った灰色として眺めてみる必要があります。

相手が、現在、そういう言動をし、そういう立場に立っていることには、たいてい、何なら果の背景があるのです。それを理解せずに、「敵・味方」の分類をしてしまうことには問題があります。自分にとって、仕事の面で不利になるような動きをしている人であっても、「なぜ、そのように動いているのか」ということを探求してみることが必要なのです・・・・

そして、いろいろな人との接触を通して人間を知り、正見を深めていく必要があります。

自分が最初にした分類を、その後も変更しないのはいけません。もし仏が人間のをそういう目で見ているとしたら大変なことですが、仏は、さまざまな目で人間を見ているのです。

五次元世界に入るための基準として正見を考える場合、他の人に対して、すぐに白黒をはっきりつけて分類するのではなく、「しばらくは希望のある灰色として見ながら、徐々に白黒の判断をしていく」という努力が必要です』

そして、さらに視点を変えて、相手から積極的に学んでいく姿勢が大切であることを学びました。作家の吉川英治さんの座右の銘で「我以外皆我師」という言葉を残しています。 
自分以外の、人でも物でも皆、自分に何かを教えてくれる先生であるという人生の態度が必要です。主はこのように言われました。

『「相手のなかにあるよいものを、じっくり見いだしていく」という姿勢が大切なのです。
「よいものを見いだす」ということは、すでに、そのなかに、「学ぶ」ということを内包しています。見ることは、すなわち学ぶことであり、「正しく見る」ということは、「正しく学ぶ」ということでもあるのです。こういう考え方が大事です』

本日の引用の最後の言葉は、天国の門をくぐる条件としてとても大切な教えであると思います。

『五次元世界に入るための基準として正見を考える場合、他の人に対して、すぐに白黒をはっきりつけて分類するのではなく、「しばらくは希望のある灰色として見ながら、徐々に白黒の判断をしていく」という努力が必要です。

これが第一段階ですが、「人を見る」という意味では、もう少し発達した見方があります。それは、単に「敵・味方」として見るのではなく、一つの教材として、あるいは一人の先生として見ていくことです。どのような人には、自分にないものがあり、その意味で、勉強になることがたくさんあります。

世の中には、さまざまな人がいて、「トータルで、どういう人であるのか」ということは、なかなか分かりかねるため、男の世界では、お互いに「自分のほうが上だ」と思っていたりして、なかなか決着がつかず、トータルな判定がつかない状態で付き合いがなされています。

しかし、そういう力関係の見方ではなく、「相手のなかにあるよいものを、じっくり見いだしていく」という姿勢が大切なのです。

「よいものを見いだす」ということは、すでに、そのなかに、「学ぶ」ということを内包しています。見ることは、すなわち学ぶことであり、「正しく見る」ということは、「正しく学ぶ」ということでもあるのです。こういう考え方が大事です。』

心に染み入ります。「正見」の修業に限りはありませんが、毎日取り組んでまいります。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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