(12/10-1)【基礎教学通信】344『太陽の法』を読む77「太陽のメッセージ」愛の力・神秘の力1―「宗教選択の時代」宗教の世界における善悪―『復活の法』愛には段階がある

『太陽の法』

84 自分の客観的実力を把握しておくことが、常に大事である。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、降魔成道記念日を迎えて、あらためて「悪」とは何かを、主の御教えから振り返ってまいります。本日は経典『宗教選択の時代』より降魔についての学びを振り返ります。経典をお持ちでない方は、この機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
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■『宗教選択の時代』第3章「悪とは何か」
3 宗教の世界における善悪

ただ、これは、あくまでもこの世的な説明に限った善悪である、という面は否めないかもしれません。この世的には、法律なり、それぞれの社会での掟、ルールを守っている限り、確かに、悪ではないと言えるかもしれません。しかし、この世を超えた世界においては、もう一つ明確な善悪というものがあります。

宗教の世界では、「善悪の二元論」というものが、どうしても説かれます。その根拠は、地上を去ったあの世の世界において、天国と地獄という、明らかに性質の違った世界があるからです。その性質の違いを簡単に説明するならば、天国という世界は、他の人々のために生きようとする人たちがいるところであるのに対して、地獄という世界は、他の人々に害を与える人たちがいる所である、ということです。

地獄の霊人が他の人に害を与える場合には、二種類あります。一つは、「自覚的に害を与えている凶悪な霊」の場合です。もう一つは、「自覚はしていないが、本人が、自己愛のままに、自分かわいさのあまりやっていることが、結果として、他の人に害を与えている」という場合です。

自覚的に、積極的に、他を害そうと思っている霊のことを「悪魔」「魔王」などという言葉で呼んでいます。その凶悪度が非常に強い場合です。

そして、それほど積極的に他を害そうと思っているわけではないのですが、わがままな生き方、傲慢な生き方、エゴイスティック(利己的)な生き方をして、結果的に、自分の仏性を穢(けが)し、他の人々に迷惑をかけたり、他の人たちを迷わせたり、妨害したり、苦しめたりする生き方をしている霊たちが、一般的に「悪霊」といわれる者たちです。

地獄のなかには、さまざまな世界があり、悪霊は、それぞれの所で苦しんでいます。彼らは地獄から逃げ出して、地上の人間に憑依し、その人を苦しめることもあります。地上の人間は、悪霊が憑くことによって、悩乱し、苦しむのですが、そのあいだ、悪霊のほうは、一時期、時刻の苦しみから逃れることができます。そして、人間に生まれ変わったときのような解放感を味わおうとしているのです。

悪霊が憑依するという現象においても、実は一つの法則があります。地上の人間の心は霊界につながっていますから、「地上の人間の心が、地獄界に通じるような波長を持っているときにのみ、その霊界と同通し、そこにいる悪霊を呼び寄せる」という法則があるのです。

ですから、この世においては、法律、ルールにおいてのみ善悪が測られがちですが、この世を去った世界においては、もっと明らかな、天国・地獄という善悪の分かれ目の世界があるわけです。

そして、悪の問題で、宗教的に最も重要なのは、悪魔や悪霊たちをどうするかということです。彼らも、かつては地上で人間として生きていた者たちです。地上での数十年の人生を縁として、地上に去ったのち、地獄に堕ちて苦しみ、そして他の人々をも苦しめている。そうした悪魔や悪霊のなかには、人が苦しむのを喜んでいる連中が数多くいます。そうした者たちに対してとるべき態度は、いったい、いかなるものなのでしょうか。

それは、悪魔や悪霊に対して、彼らが間違っているということを知識的に教えて悟らせることです。それによって、みずからの足りざるところや間違いというものを学ばせるということ、これは有効な手段です。

そのために、私たちも、仏法真理の知識を流布して、迷いを取り去る努力を、日夜、続けているわけです。それも、地上の人間を、その迷いから目覚めさせ、覚醒させることにより、その人間が地獄に堕ちることを防ぐとともに、その人間を虜(とりこ)にしようといている悪魔や悪霊の悪行をも、取り除こうとしているわけです。

彼らは、地上の人間に憑依できなくなると、地上に対する影響力を、次第しだいに失っていきます。そして、地獄への、新しい悪霊の供給がなくなっていくと、地獄界は自然に消滅していくのです。

さらに、地上を去った霊天上界においては、光の菩薩、光の指導霊といわれる偉大な霊人たちが、日夜、地獄をなくそうと努力しています。ですから、地上からの悪霊の供給を止めることは、光の指導霊たちの活動を非常に容易にすることにもなるのです。

実際、地上の人間をめぐって、高級霊と悪魔が”綱引き”をしているような場合もあります。その対象になるのは、たいてい、地上において影響力の強い人間です。そうした人間が悪魔のほうに引っ張られていくと、この世の人々に害悪を流していきます。逆に、高級霊のほうに導かれていくと、その人は、この世の人たちを光明化、幸福化する方向に人生を送ることになります。

こうした綱引きが、日本各地や全世界で、毎日毎日、くり返されています。それが、高級霊と悪魔との戦いです。こうしたことを通して、地上の人間は、地上の人間なりに悩み、苦しみながら、悟りを開いていくという、魂の幸福を得ています。また、高級諸霊も、知識や方法論、説得力、情熱などを、日夜、みずから磨いているわけです。

これが、天国・地獄をも含めた、悪の諸相です。

【大川隆法『宗教選択の時代』第3章「悪とは何か」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。

今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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■『太陽のメッセージ』Part1
第3章「愛の力・神秘の力」
1 愛の発展段階説の誕生

『太陽の法』のなかにある「愛の大河」という章は、その本のなかでもメインの部分になるのではないかと思います。ひじょうに特色があり、愛についてこのようなかたちで一章をまとめている本というのは、なかなか、ほかには見当たらないのではないかと思います。それもいろいろな角度から切り込みながら書いた文章でありまして、興味をもって読んでいただけるのではないかと思います。

「幸福の科学」の教えの一つとして、愛の発展段階説というものがあります。これは比較的に以前からあるのです。私の考えのなかにはけっこう古くからありまして、この本全体につい、ぜんぜん構想がなかった時点においても、この発展段階説だけはわりに昔からありました。私は二十四歳くらいのときに霊道を開いたわけでありますが、(※1981年3月23日大悟)、二十七歳くらいのときには、この愛の発展段階説が、だいたい自分の考えのなかにでき上がっていたと記憶しています。

このときはまだ、商社勤めをしていたころで、私もいろいろと考えとしてはまとまっていたのですが、何しろ発表する機会がないということで、思っていたことを原稿に一部書きとめていたりしていたこともあったのです。あるときちょうど社内報に執筆しないかという話が舞い込んできまして、それではこれを書いてみようと思いまして、この愛の発展段階説、いまと多少違うところもありますが、要約はだいたいこのような内容で書いたみたのです。

原稿用紙四枚程度で書きまとめ、私の写真入りで出してみたところ、反響はありました。もちろん思想的なバックグラウンドがあるということはみなさんご存じなくて、その原稿用紙四枚分だけを読んでの反響ではありましたが、けっこうたくさんありました。そして、写っている写真がぼけていたところが憎かったという感じで言われたりしましたが、ずいぶん評判があがりました。

また、何か目に止まるところがあったのでしょうか、そのころ、ある新聞に、それが掲載されることになりました。社内報からということで、たぶんその新聞社ではいろいろな会社の社内報などを研究しているのでしょう。たまたま私が書いたものが目に止まったらしく、この愛の発展段階説を半分ぐらいに縮めて要約したものが、五、六年ほど前に(※1989年当時)、掲載されたことがありました。そういう意味でも懐かしい部分です。【くわしくは、経典『原説・『愛の発展段階説』―若き日の哲学』を参照ください。税抜1800円】

なぜそれほどに愛について考えたのかと申しますと、「たぶん愛されなかったから、愛をいただけなかったので、与えることに専念した」という考えもあったのではないかとか、それに至るまでにはいろいろと複雑な背景事情もあったのではないかとかんぐる方もいらっしゃると思いますが、私としては「愛の本質を探ろう」ということで、とにかく与える愛の専門になりました。ですから、このあたりについてはいろいろと深く蓄積があるのです。

2 愛ある人生
まず、「愛とは何か」というテーマであります。ここで、最初にわたしからみなさんへの語りかけといたしまして、愛という言葉のロマンについて述べてみたいと思います。たとえば、今日一日という日があなたに残されたすべての時間であるといたしましょう。そして、夕べには死すべき運命であったとしても、だれかに愛をささやかれたら、すべての人間は幸福の笑みを浮かべて死へと旅立っていくことができるでしょう。

みなさん、見栄とか、虚飾とか、このようなものをすべて去って、本心から話してみればどうかといいますと、ここに書かれているところが、ほんとうに真実であると感じられると思います。ほんとうに心から愛というものを感じることができれば、そのまま昇天してしまってもいいという気持ちがあるのではないかと思います。女性には愛にあこがれる方が特に多いのでしょうが、これは真実だと思います。

何か欲しいかと問われれば、それは食べものであってもおなかがすいていればほしい気持ちがしますし、お金であっても、無いよりはあったほうがいいのでありますし、服にしてもないよりあったほうがいい。

このようにいろいろあるでしょうが、やはり一生の思い出のなかで、こういう愛の体験といいますか、愛に深く心を揺すぶられた体験、その暖かいオーラののなかに浸っていた体験をした人と、していない人とではかなり大きな違いがあると思います。愛なき人生とは疲れ果てながらも砂漠を歩む旅人の人生ではないでしょうか。一方、愛ある人生とは、道ゆく砂漠のなかに、その所どころにオアシスがあり、花が咲いている人生です。

3 愛を感じ取るということ

そして、愛についての問題をさらに語るとするならば、「愛とは何か?だれが正確に愛を定義しえたか。」という問いかけがあると思います。こうしてみますと、この部分の定義はひじょうに難しいものになります。文学者であっても、詩人であっても、哲学者であっても、やはりこれを完全に「愛とは何か」というかたちで取り出して見せることができた人はいなかったのではないでしょうか。

愛の風景を語ることはできた。しかし、愛そのものを見せることも、愛とはこのようなものであるという存在証明に成功した人もなかったのではないかと思います。ほんとどが愛の風景説にとどまっていて、風景を語ることによってそれを感じ取れということであったと思います。しかし、愛とは人生にとって一つの大きなテーマであり、悦びでもあり、幸福でもあり、悩みでもあり、苦しみでもある。愛は両極端であって、最高の幸せと最大の不幸とを合わせ持っています。人生の喜びの大半であり、また苦しみの大半でもあるのです。

「人生は一冊の問題集である」というテーマがありますが、このテーマのなかで、共通問題として出されている一つがこの愛の問題だと考えてもよいのです。各人に課せられた問題集のなかにはその人固有の問題がたくさんあります。それは、その人自身の人生修行に関する部分、またカルマに関する部分として固有の部分がありますが、しかし共通のテーマもやはりあるのであります。

人生の問題集には各人が避けて通ることができない、このような共通問題が必ず出ているのです。その共通問題の一つがまさにこの愛であります。これは、だれの問題集にも必ず載っているのです。これを通らずしては、問題集の最後まではいけないようになっているのであります。

そこで私の力には限界があるかもしれませんが、いろいろな形で愛について語ってみたいと思います。また、イエス様と話をしましても、「現代人にこそまさしくこの愛、ほんとうの愛とは何かを語る必要があるのだ。」と、このように強く言われているわけであります。

4 愛の探究と八正道

幸福の科学の考え方、基本理論の枠組みそのものは、仏教の枠組みの発展形態で考えておりますが、しかし、そのなかに盛るべきものとして考えてみますと、この愛の部分というのはひじょうに大きなテーマとして考えられているのです。これが今回の幸福の科学の理論の一つの特徴であると言ってもよいでありましょう。したがって、「八正道プラス愛の探究」、これがおそらく現代人にとって最も望まれる修行の姿であり、現代人に対する福音ともなるはずです。

ここに一つの私なりの解釈を提示してみました。要するに、幸福の科学がここ二年ほどでさまざまなことをやっておりますが、(※1989年説法当時)いろいろな枝葉を切って、突き詰めて何を言っているかといえば、この八正道と愛の探究を言っているのです。中心はこの二本にあります。これをいろいろな形にアレンジし、また発展させ、変化させたりして、さまざまな理論を出しておりますが、やはり基本はこの二つです。

八正道に収斂(しゅうれん)されていく考え方としての心の探究、正しき心の探究にかかわるいろいろな考え方があると思います。そして愛の探究です。この二つが大きな二本柱としてあると言ってよいと思います。ですから、幸福の科学の会員は、いったいあなた方は、何を勉強しろといわれているのか、何を修業せよといわれているのかと聞かれたとき、「八正道と愛の探究です。この両方ができたら、だいたい一人前であるといわれています。」と答えればよいわけです。

もちろん講師になるには試験に受からなければならないということはありますが、会員である以上は、八正道のことを毎日、一時間くらいは頭のなかにおいて、また生活においては、愛の実践に生きていれば、何となく幸福の科学の会員であるような気がするというところです。

そして、簡単ではありますが、現代の日本人および外国人の方も合わせてみなさんにやってほしいことなのです。この二本がだいたい広がってゆき、みんながだいたいこの二本の軸で考えるようになっていけば、基本的なところにおいて、成功ではないかと思っています。

八正道、あるいは正しき心の探究と考えてもよいのですが、これと愛の探究の部分。一般的にはこの二つを常づね頭において、生きていっていただけるならばもうそれで十分であります。しかし、これだけのことが全国に、そして全世界に浸透し、伝播(でんぱ)するためには何十年もの時間がかかるのです。ひじょうに膨大な時間がかかるということであります。

5 愛の臨在

私達が愛について考える機会はたくさんありますが、愛そのものを見たという人は一人もいません。愛とはそれを手にとってみることもできないし、これが愛ですと言って取り出して人に見せることもできません。しかし、確かに存在するのです。私自身、愛の存在を信じていますし、また、みなさんもやはり見たことはなく、また取り出して見せることはできないとしても、愛というものはあると信じておられると思います。

神への信仰のみを信仰と考える方が多いなかで、それでは愛ということはどうなのであろうと、考えてみたときに、ここに書かれてあるところにひじょうに近い部分があるのです。イエスは「神は愛なり」といいきっておりますが、これを違うかたちで話して見るとこのような形で話してみるとこのようなことになるのではないでしょうか。

「神という言葉をいったん消し去りましょう。貴方は愛というものを信じますか?」、こういうかたちで聞いてみればよいわけです。「愛を信じます。」という方はけっこう多いでありましょう。

「どうしてそのように思われるのですか?」と聞いたときに、やはり返答に困ると思います。「うーん・・・。なんだかよくわからないが、あるような気がします。」というわけです。「説明してください。」といいますと、たいていの場合は人間関係の話をすると思います。

たとえば、夫婦があってお互いに仲むつまじく暮らすと、それが愛であるとか、子供と親とが仲よくやっているのが愛であるとか、恋人どうしで慰めあっているのが愛であるとか、このようにケースごとの説明はできるのです。

ではいったい、理念としての愛とは何か。純粋に愛とは何かを説明してください。こう問われたときにわからないのです。答えきれないのです。

しかし、説明はできなくても愛というものが存在するということを、人は信ずることができるのです。まさしく、信仰の原点はここにあると考えることも可能です。

神を信じよとは言わないでもよい。「愛を信じよ」といってもよいのです。その愛こそは、実に神とよく似た存在ではないでしょうか。

愛とはすなわち風のようなものです。だれもがその存在を信じ、それが存在するという感覚を共有しながらも、それを客観的に証明してみせるわけにはいかないのです。私たちは愛の存在を証明することはできません。しかし、愛の臨在を感じ取ることはできるのです。これが愛であると取り出して見せることはできなくとも、そこに愛があるということを感じ取ることはできるのです。愛とはなんと神によく似た存在でしょうか。「神は愛なり」というイエスの言葉を私なりに説明するとこのようになるわけです。こう言われてみれば、、なるほどと思われる方も結構多いのではないかと思います。

6 真実永遠なるもの

イエス自身も神の姿を人に見せることはできなかったけれど、次のように語っていました。「私の言葉を聞く者は、私の天なる父の言葉を聞く者である。父が我に来て今、語っておられるからである。私の業を見る者は私の天なる父の御業を見るに同じである。父が私にこの業をなさしめているからである。これは、いつもイエスが言っていたことであります。自分の語る言葉、行いを通し、あるいはそれに接して神を感じとりなさいと常に言っていました。その権威ある言葉、そしてその無限のやさしさ、そこに神を感じ取れと、イエスはいつも語っていたわけであります。ここで私たちはさらに考えを進めることになります。

しかし、神に似たものというものは、それは愛だけであろうか。こう考えてみますと、ほかにもあるのではないでしょうか。たとえば勇気という言葉、英知という言葉、善・やさしさ・美・調和・進歩・慈悲・真理・真心・無心、こうした言葉を私たちは無前提によいものだと考えているけれども、その本質はいったい何なのでしょうか。「その存在を証明してみせてください。」と言われたときにできないものばかりです。できないものではあるけれども、いちばん値打ちがあるものなのです。こう考えてみますと、この世の中でいちばん値打ちがあると思われるようなものは意外に証明になじまない、ということを知るにいたるのです。

それゆえに、証明しなければ信じられないという論法は、これは神、あるいは霊という一点に集約されていたのかもしれませんが、この論点を別のところに向けて、それでは、勇気とは何かを証明できるでしょうか。英知とは、善とは、やさしさとは、美とは何ですか。それを科学的に証明できますかと言われたときに、もはや、これは土台が違う、座標軸が違う、土俵が違うということを感じなければいけないのです。

感覚的に訴えるもの、あるいは計量的に計られるもののみがすべてではなく、ほんとうに意義のあるもの、ほんとうに値打ちのあるものは、そのままこの世界に跳入(ちょうにゅう)していかなければ分からないところのものであります。

7 信仰の立脚点

けっきょく、肉体人間の感覚てもってはわかりえず、霊となって、生きながら霊的に認識力を駆使して、直観把握しなければほんとうに大切なもの、ほんとうに人間にとっていちばんだいじなものはつかみきることはできません。

しかし、この部分がなければ、哲学や、文学や、詩や、宗教といったもの、こういうものは一切いらないのです。この部分があるからこそ、この不可思議な、しかしてだれもが感じ取りながら、それをつかみ出すことができない世界があるからこそ、哲学や、宗教や、詩や、文学や、さまざまなものが存在するのです。そして、それを追究することが、何千年、何万年と続いてきたのです。そのように考えていただきたいと思います。

ここに信仰という言葉の説明が出てくるわけです。推定することはできるが、それを証明することはできない。しかし、そのなかにすばらしいものがあり、それがあると思うことによってすべてが光り輝いて見える。このような事実を受け入れること、これを信仰というわけです。

二〇次元以降の超高次元の存在とおぼしき神、これを三次元の基準ではかることは、きわめて困難であります。三次元といわず、四次元、五次元の存在でさえ、あるいは六次元、七次元の存在でさえ、私たちはひじょうに遠いものと感じています。そして、彼らの存在様式、活動様式はなかなかわかりません。ましてや、その根源の神というものの証明ということはどれほど難しいかを感じさせられるものであります。

したがって、この信仰という言葉は、けっきょく、本源なるもの、真実なるもの、その内の内なるものを善と認めるところから出発するのです。それを善きものと、ア・プリオリに(※先天的に)、先験的によきものがあるということを認める立場なのです。これは、人間社会、あるいは神がつくられた社会のなかで、人間が、それがよいと認めたからよいというものではなくて、人間のこの判断や、理解を越えて始原的にもともとよいものがある、すばらしいものがあると考えるかという分かれ目なのです。

【大川隆法『太陽のメッセージ』第3章「愛の力・神秘の力」より抜粋】
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続きまして、教典『復活の法』の第3章より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税抜1800円】
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■「天国へ還る方法」―死後の行き先は生前の心境で決まる―
2五次元善人界へのキーワード

〇愛には段階がある
「いま何を求めているか」ということは、人によって、それぞれ違うことが多いでしょう。しかし、「これが自分に与えられたら、うれしい」と思うものが、他の人に与えられたときに、あなたは、どう感じるでしょうか。それをチェックしてみてください。

そのときに、ゆとりのある考え方、発展のある考え方、天国的な考え方ができたならば、最初の関門は通過しています。しかし、嫉妬心が出たり、口や不平不満が出たりした場合には、この最初の関門を通ってはいないのです。

まず、そういう天国的な考え方ができなければ、六次元、七次元、八次元の世界は考えるに及びません。その前段階である五次元まで来ていないからです。

大部分の人にとって大事なのは、ここです。仏法真理を学んだならば、最初の関門として通過しなければいけないのは、ここなのです。

自分が「このようにされたい」と思うことが他の人になされたときに、それを良いことと思えるかどうか。そして、その人の喜びを増幅させる方向に行動できるかどうか。

これができたぐらいでは、まだ菩薩にはなれませんが、これが最低限の愛の条件なのです。愛というものの意味は、ここにあります。これから先に、格調の高い愛はいくらでもありますが、まず、これができることが大切です。

六次元的な愛として、「生かす愛」というもがあります。これは、ある程度、専門的な高い見識を持っていて、人々を教えるとができる場合の愛です。例えば、「経営者として、指導者的な立場で教えることができ、多くの人々の成長のために役立つことができる」という愛になると、六次元的な愛なのです。

七次元的な愛になると、もう少し「無私の愛」になってきます。「奉仕が喜びである。他の人に尽くせることがうれしい」という心境です。みなさんの多くは、まだ、この段階までは来ていないでしょう。

自分の心を点検してみてください。まず、心のなかに地獄的なものがないことを確認し、他人の幸福に対して「あの人はよかったな」と思える、五次元の愛があって、そのうえに、六次元的な「生かす愛」、そして、「他人に尽くすこと自体がうれしい」という、七次元的な「奉仕の愛」があるのです。

みなさんの周りにも、「この人は奉仕のために生まれてきたのではないか」と思えるような性格の人がいたりするでしょう。物事の裏を読まず、自分の欲得がない人、「一生懸命に人に尽くす」ということを、頭で考えて行うのではなく、自然に体が動き、よしとする人生観を持ってる人がいるのです。

そういう境地まで行くのが目標ですが、その前提として、数多くの段階があるわけです。

【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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本日の「天国へ還る方法」は前節に引き続き、愛の基礎となるゴールデンルール―「汝のなされたいがごとく、他人(ひと)に施せ」【聖書】―「汝の欲せざること、他人に施すことなかれ」【論語】―まず、「他人の幸福を我が幸福として、嫉妬することなく祝福することができるか」という愛の門をくぐることができたうえで、先のこのゴールデンルールが理解できて、しっかりと実践できているかどうか、これが五次元世界に入るのに必要であることを以下のように教えていただきました。

『自分が「このようにされたい」と思うことが他の人になされたときに、それを良いことと思えるかどうか。そして、その人の喜びを増幅させる方向に行動できるかどうか。
これができたぐらいでは、まだ菩薩にはなれませんが、これが最低限の愛の条件なのです。愛というものの意味は、ここにあります。これから先に、格調の高い愛はいくらでもありますが、まず、これができることが大切です』

本格的な愛を学ぶ上で基礎中の基礎となりますので、信仰歴が短い長いにかかわらず常に、自らの心をふりかえらなければならないと改めておもいました。ゴールデンルールは五次元世界以上の天国に還るために必要不可欠な教えです。

そして、この五次元的基礎的な愛の先に六次元光明界の「生かす愛」と七次元菩薩界の「奉仕の愛」【許す愛】があり、愛には段階があること。レベルに差があることを確認することができました。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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文責:蒲原宏史 

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