77 和して同じず。チームワークの中心に、経営理念を一本通せ。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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12月8日は降魔成道記念日です。主エル・カンターレ
大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。
主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、「降魔成道記念日」感謝式典版「復活の祈り」を執り行います。
主のご復活を妨害する悪霊・悪魔・妖怪・妖魔・闇宇宙・唯物論の勢力といった悪しき者たちの呪いを打ち祓い、主がこの地にて「エル・カンターレの法」を再びお説きいただけるための、結界を皆様と共につくってまいります。皆様ぜひご参加ください。
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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■『悟りの挑戦(下巻)』第6章 仏性と成仏
5 理仏性と行仏性
ただ、理論として見るかぎりは、徳一のほうが正しいのです。私もよく述べていますが、あの世には、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元という霊界層があって、そこからそれぞれの住人がこの世に生まれ変わってくるのです。そうすると、生まれてくる前の霊格には違いがあります。そうした方は過去世でも修行していますから、この世での修行にもやはり違いがあります。
そして、死んで還っていくところも、本来いたところに還るのが本筋ですから、やはり差があって、もともと四次元世界から生まれてきた人が、急に八次元の如来界に還るということはありえません。そうえるためには、『釈迦の本心』(幸福の科学出版刊)にあるように、ものすごく長い修行が必要なのです。阿羅漢から菩薩に入るのでも、そうとうな生まれ変わりをして成功しないと、そう簡単には入れません。事実としてはこの通りなのです。
また、現実に五割以上の人が地獄に堕ちているという事実もあります。仏性を持っているということは、即成仏するということにはならないのです。現実論として見たときに、これはその通りなのです。
そこで、このことをもとに、徳一は最澄を批判して、「あなたの仏性の理解はまちがっている。仏性には、『理仏性』と『行仏性』というものがあるのだ。二種類の違う仏性があるのだ」と指摘したのです。
「理仏性とは、理念としての仏性、理論としての仏性、理屈としての仏性である。要するに、『みな仏の子としての素質を持っている』というのは、理屈としてはその通りで、理念としては認められることだし、それは『涅槃経』『法華経』等のお経にも書いてあることだから、それを否定するつもりはない。しかしながら、理仏性と違う行仏性というものがあるのだ。”種”としての仏性はあったとして、それは”行”、要するに修行をして、この世できちんと磨き出してこそ、成仏が可能になるのだ」ということを徳一は言うのです。
理仏性、行仏性ということは、もちろん仏陀の理想にはないのですが、理屈としてはその通りです。「理論としての仏性(あるいは、本質としての真如)はあるけれども、『行』を行うことによって、その仏性は輝き出し、初めて成仏が可能となる」というのはその通りです。理仏性を、真理性としての仏性、行仏性を実践としての仏性と定義してもよいでしょう。
結局、徳一の言う理仏性、行仏性というものは、私たちの言葉では「因・縁・果・報」の「縁」のところです。「因」があっても、すぐに「果」になるわけではなく、「縁」すなわち条件が加わって初めて、「果」すなわち結果が出てくるのです。この条件のところが修行です。
もともと仏性が宿っていても、そのまま放っておいても、そのまま放っておけば如来になるかといえば、なれないのです。なれるのならば、釈迦の修行や成道はないわけです。そうではなく、もともと仏性があっても、それを修行によって高めて、初めて成仏が可能となるのです。
徳一は、この「因・縁・果」のことを理仏性、行仏性と言っているわけです。
これは、今の時点で幸福の科学の理論か見ても正しいことを彼は言っています。正しい批判をしているわけです。
【※この点は、以後主におかれましては天台本覚思想の誤りを指摘して、努力の積み重ねによる精進の大切さとそれを継続することの大切さを説き続けています。悟りへ道に安易な道は存在せず、着実な精進の積み重ねの大切さが長年にわたり、説かれています】
【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』第6章「仏性と成仏」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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太陽のメッセージPart1
第1章「いま真理の太陽が昇る」
12 釈迦の次元分析
悟りにおいては、いろいろな次元があり、それほど波動のランク、差があるのです。これを釈迦は十分に知っていました。しかも各段階をたいへん細かく分けています。これは、仏教を勉強された方ならご存じでしょう。私が、単純に阿羅漢といっているような段階も、さらに細かく、厳密に分けています。
厳密に分けてお話しても、今の時点ではあまり意味がないので、私はお話ししないのですが、前回初めて、『釈迦の本心』において阿羅漢向と阿羅漢果の違いがあるという程度のことを説明いたしました。
〇二種類の阿羅漢―阿羅漢向と阿羅漢果
阿羅漢に向かう途中と、阿羅漢に到着している状態の二つが、阿羅漢のなかにある。みなさんが努力することによって、だれでも阿羅漢になれるという、その阿羅漢とは、阿羅漢向のことを言っているのです。いちおう気分は阿羅漢というところかもしれません。
外観的には一時期修行しているときは、どちらも同じように見えます。けれども、結果として阿羅漢のタイトルがもらえる境地に達しているかというと厳しい面があります。それはまったく同じではないからです。大きく分けても阿羅漢においても二段階があるわけです。
〇声聞―説法を聴いて学ぼうという姿勢がある人
これ以外にも、仏教書には声聞であるとか縁覚であるとかいろいろと出てまいります。釈尊は全部知っておりました。しかしながら、みなさんには、どのあたりが声聞かといっても分からないと思います。だいたい幸福の科学の研修ホールなどに、直接、受講しにきている人が声聞といえるでしょう。説法を実際に聴いて学ぼうという姿勢がある人は、声聞まで行っているのです。
声聞というのは、まず聴くということです。聴いているから声聞なので、それ以上ではないのです。けれども、法に触れて、法を聴きにくるというだけでもたいしたものなのです。普通の人とは、やはり違うのです。そのような意味で声聞の位にあるといってもよいのです。
私の話を聴きに来て、心がそれほど乱れずに、だいたい話が頭に入って来て、部分的に止まる。そしてわかったような気になって帰れる。これがだいたい声聞です。しかしせっかく聞きに来て居眠りをして帰るような人なら、少し違いますが、このあたりまではだれでもだいたい行けるはずです。熱心に来るような人であれば、声聞だと思ってよいわけです。
〇縁覚―修行の本道に入って講師になろうと思って具体的修行をしている人
縁覚という位はもう少し進んでいます。縁覚というのは縁(えん)を覚(さと)ると書きますが、一歩、悟りに近づいてきて、いよいよ修行の本道に入ってくるのです。そして阿羅漢、菩薩が目標としてチラチラと見えてくるのです。ですから、単に聞いているだけではなくて、講師になろうと思って具体的に修行してる人になると、縁覚の段階に入ってくるわけです。
法というをお客さんの立場で聴いているのではなく、自分のものとして実際に説いてみたい、やってみたいと思う気持になれば、だいたい縁覚の心境といってよいでしょう。縁に触れて覚えるわけです。悟るまではいかないけれども、そういう気持になってくる。単なるお客さんで受講料払って、あーよかったで返る場合は声聞であり、もう一歩、よし頑張ってみんなに何か話してみたい、実際に講師ぐらいになってみたいという気持になれば縁覚です。
〇縁覚と阿羅漢
この縁覚がある程度修行が進んでいって、心のサビ落としもできピカピカしてくる。そして時どきは後光が出たりする、というふうになってくるとだいたい阿羅漢の世界に入ってゆくわけです。だいたい最初は阿羅漢向です。心に特に大きな引っ掛かりはなく、間違ったことがあったら常に反省してさび落としをする。悪いことを言ったと思ったら素直に「ごめんなさい」と謝ることができる。こうして一日一日心のサビ落としができるような状態になれば、だいたい阿羅漢の世界に入ってきているわけです。そのような毎日が積み重ねられる人は、だいたい阿羅漢向であることは事実です。
しかし、これを自分の境地として、阿羅漢の境地に達したといえるまでには、このような境地で三年ぐらいは心が安定していなければ本物とはいえないのです。阿羅漢向まで行っても、ちょっとしたきっかけでその心境が落ちてしまうのはいくらでもおります。考え違いをして落ちている人がたくさんいます。
この六次元世界についても、上段階、中段階、下段階などといっていますが、ほんとうはもっともっと細かいのです。この説明もだいたい中の上ぐらいから上の世界ですが、このあたりがそのように分かれるということです。これを仏教は二千何百年前にいっていたのです。実は、もっと細かく分かれているのです。六次元などというそんな十把ひとからげではないようです。この六次元の世界を、もっと六・五次元、六・六次元、六・七次元・・・という感じで切っていきます。このように細かい理論があったということです。
13 四次元世界と事観との関係
何次元がどうであるという説明をしてまいりましたが、これは一応の、ひとつの説明のしかたです。ですから、これだけではないのです。このような説明のしかたがあると思ってください。
私を含め、「幸福の科学」では、すぐに何次元というようなことを言ってしまうのですが、他の人が聞いても分かりません。どのようにして、説明するかが問題なのです。私は、物理学者でもないし、数学者でもないため、難しい専門的な次元の説明ができるはずもありません。したがって、いちおう構造的に説明するとすれば、このような説明をすることが可能であるということです。
四次元の世界について、特に触れておくとすれば、この世界では、時間という要素があるのです。これは、不思議な世界であります。三次元の世界であるなら人間は、物体として存続しながら、時間としても同時存在しているのです。時間としては、同時存在以外は許されないということです。これがその三次元の秘密であり、同時存在以外にありえないのです。
ところが、四次元以降の世界は、同一空間に違った時間を生きている存在があるということなのです。これがありうるのです。ですから、過去の人とも会えるのです。過去の例えば鎌倉時代の人で、意識も鎌倉時代に生きている人であれば、まさしくほんとうに鎌倉時代の世界に生きているのですが、その空間に、この昭和時代に生きた人が入っていけるのです。タイムマシンと同じです。そのような世界なのです。
また、未来の世界というものもやはりあります。これも確かに三次元的に説明するのはひじょうに難しいのですが、それを垣間見ることはできます。例外的にはその世界のなかに居合わせることもできるのです。
この未来の世界のなかに居合わせることもできるということにかかわる「予知の原理」については、また詳しい説明を別の機会にさせていただくつもりでおります。このような世界が、四次元以降の世界なのです。時間という点が、この世界と全然違っているのです。簡単にはこのような説明でご理解くだされば幸いです。
14 高次元世界の成り立ち
五次元以降の世界はだんだん難しくなってまいります。いろいろと精神性が入ってくるためです。これは、そのような世界があるというところぐらいまでを、知っていただければ、よいと思います。
実際上、物理学者が考えているような、座標軸が一本増えるという考え方で説明がつくかということですが、それは三次元の世界において学者が考えればこのように座標軸が一本二本と増えていくというような考え方になっていくわけです。
しかし、私は少し違う感じからこの世界観をとらえることができるのです。では、上のほうから見れば、どのようになるのかということなのですが、ちょうど光があたってきて、光の干渉現象といいますか、何重にもなっていくことがあります。影ができて何重にもなっていく、あの光の干渉現象のような感じに見えるのです。
上のほうから神の光が発せられて、それが次元といわれる一つの世界を通ることによって、干渉現象のような、さざ波ができてくるのです。光の加減が変わってくるのです。このように感じ取ることができます。
けっきょく、唯一の世界から出てきた神の光が、九次元世界を通るとき、また八次元、七次元と通ってくるときに、このような縞であらわされる光の干渉現象が出てくるのです。光の紋が出てくるという感じてとらえることができるのです。ですから、下からみれば、座標軸が何本か増えてゆくという感じになるかもしれませんが、まさに上のほうから見れば、このような感じなのです。
ライトのつけ方で、光の縞模様が変化するような感じなのです。ですから、光源の光量をキュッと絞めると、シュッと戻りそうな、まさしくそのような感じに見えます。たとえば、九次元とか十次元とかいっておりますが、これはこのようにライトの加減で九層くらいに縞が出ているわけですが、照らし方を変えれば、九層あるのは三層くらいにシュッと戻りそうです。さらに戻すと一つになりそうな感じもします。このようになことを実感として感じます。
ここが、じつはこの後で述べる、高次元世界の創造の秘密なのです。四次元以降の世界を、下から上へという積層的なものに、どうしても考えがちでありますが、逆に考えていきますと、上から出てきた光が縞をつくっていくのです。このような感じで九層くらいの神の光の縞が出てくるとき、九次元くらいに分かれるといったぐあいになるのです。もう少し光線の絞りを変えてゆきます、違った次元になります。三つくらいになることもできるのです。もちろん、この意味で、低位霊界と高級霊界というように二つくらいに分かれることもできたのです。
全部の説明をするとすれば、九次元以降の世界は他の惑星ともつながっているというお話をいたしました。視覚的に言えば、地球があって四次元、五次元、六次元というような次元構造があるわけです。そして、最上階があるわけですが、そこが、たとえば九次元領域といたしますと、この最高階領域の部分が、他の領域まで伸びているのです。
そして延びていって、いっぱいに広がっていくのですが、そうして別の領域で、また別の九次元領域をつくっているのです。そこには星があるわけですが、そこでまた八次元、七次元とできている、このような感じなのです。ですから、八次元までは、地球系で完結しているのです。九次元以降になりますと、この世界がベルトコンベヤーのベルトのように他の星とつながっているのです。それゆえに宇宙界といわれるのです。厳密に言えば、八次元の上段階の世界、つまり狭義の太陽界といわれるあたりからつながっているのです。
このような次元構造がどのようにできてきたかを、ご説明いたしましょう。まず、はじめに、地球という物体があるわけですが、これに神の光が射してくるわけです。一つのレンズのよなうものがあると思ってください。レンズを通るようなものなのです。レンズを通ってきますと、この光の干渉のように、波のようなものができてくるのです。そのようにしてできた世界のことを、九次元、八次元、七次元と呼んでいるのです。
地球のような生命磁場があるところへ神の光が射してきて、このスリット通るときに、光のこのような波ができるのです。このようにして星のまわりに次元構造ができるのです。そのような成立だと考えてください。コンクリートの建物のような立体構造ではありません。それだけをご理解いただければ、けっこうです。
十次元の意識などについても、かなり詳しくいろいろなところで触れておりますのでお分かりかと思います。このあたりの次元の構造の考え方については『観自在力』という本が出版されていますが、この理論は『漏尽通力』の対極にあるのです。『漏尽通力』は、高度な霊能力をいかに三次元的に翻訳していくかという能力でありますが、『観自在力』はこの霊能力を突っ走らせるとどうなるかという方面の能力なのです。これには十四次元ぐらいの内容まで説明が書いてありますので、これは『観自在力』に説明を譲りたいと思います。
【大川隆法『太陽のメッセージ』第一章「いま真理の太陽が昇る」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。
人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第6章 九次元の世界
8 孔子の働き
これ以外に、変わった生命体として、中国に生まれた孔子がいます。すでに述べたとおり、この方は主として学問の神様のような方です。学問とは高きから低きへと流れていくものです。すなわち、孔子という生命体は、秩序というものを主として教えてきたのです。
秩序とは、調和を生み出すための一つの方法論だといえます。「進歩と知用和という二大目的をもって、人類は魂修行をしている」ということをのべましたが、調和においては特に秩序が大事です。
支配と被支配の関係、権力と服従の関係というものがありますが、「仏に近い者が上に立ち、そうでない者が下に立つという、仏の心にかなった形での秩序をいかにしてつくるか」ということのために、孔子は主として活動してきたのです。
「学問を通して、道というものを通して、いかに整然とした世界をつくっていくか。仏の心を心とした秩序世界をつくっていくか」ということが、孔子が主として考えていることなのです。
釈迦のように、頭脳として指揮命令系統を司ったり、人体に血管をはりめぐらしたりする役割もあれば、イエスのように、血液を送る役割の人もいる。また、孔子のように、秩序というものを設けて、人間相互の関係を調整していく人もいる。このようになっているのです。
人類の長年の歴史を見てくると、孔子の役割によって、非常に整然とした社会ができてきたことは事実です。天上界においても、上段階霊とそうでない霊とがあって、整然とした世界がつくり上げられていますが、こうした世界をつくり上げるにあたっては、孔子が非常に大きな働きを果たしてきたのです。
【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第6章「九次元の世界」より抜粋】
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本日の『永遠の法』では、孔子様の霊が秩序を主にして教えを説いていることがわかりました。本日の引用ではこのようにあります。
『秩序とは、調和を生み出すための一つの方法論だといえます。「進歩と知用和という二大目的をもって、人類は魂修行をしている」ということをのべましたが、調和においては特に秩序が大事です』
この教えにおいて、秩序と調和の関係について学ぶことができました。このことを同じ紫系統の日本神道と考えると、孔子様が学問による知恵をもとに秩序による調和を図っているのに対して、日本神道は、同じ秩序を重んじるなかでも、知恵の裏づけが充分ではないのではないかと考えられます。
各時代、文明において、善悪、上下、価値観をしっかり整える役割が孔子様の役割として与えられているところが大変印象的でした。
孔子様の魂の兄弟は、江戸時代末に佐藤一斉として転生しており、このときも、時代の方向性に善悪の道筋をつけらてれいる印象を受けます。時代の変革時に神の計画を整えるために地上に下生しておられるようです。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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(12/3-1)【基礎教学通信】337『太陽の法』を読む70「太陽のメッセージ」いま真理の太陽が昇る4―「悟りの挑戦(下巻)」理仏性と行仏性―『永遠の法』孔子の働き
『太陽の法』
