76 経営者には苦労が多い。時々、頭の上に積もった雪を払いのけよ。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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12月8日は降魔成道記念日です。主エル・カンターレ
大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。
主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、「降魔成道記念日」感謝式典版「復活の祈り」を執り行います。
主のご復活を妨害する悪霊・悪魔・妖怪・妖魔・闇宇宙・唯物論の勢力といった悪しき者たちの呪いを打ち祓い、主がこの地にて「エル・カンターレの法」を再びお説きいただけるための、結界を皆様と共につくってまいります。皆様ぜひご参加ください。
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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■『悟りの挑戦(下巻)』第6章 仏性と成仏
4 最澄と徳一の論争(三一権実論争)
それが本格的な論戦として出てきたのが、最澄と徳一の論争なのです。これは『黄金の法』にも簡単に触れてあります。その最澄・徳一論争のことを「三一権実論争」といいます。あるいは「三権一実論争」というように入れ替えていうこともあります。これは「三乗の思想が真実か、一条の思想が真実か」という論争です。
三乗思想とは、「人間には、声聞、縁覚、菩薩という三種類の性質を持った人間がいて、それぞれの修行の仕方が違う」という考え方です。これは伝統的な小乗仏教からずっと続いている教学的な考え方なのです。釈迦在世中からそういうことは言っていますから、これは伝統的な考え方です。
これに対して、一乗思想は『法華経』に代表されますが、「仏が『いろいろな人がいて、それぞれが修行して悟るのだ』と説き、声聞・縁覚・菩薩といった種類について説いたのは、方便に過ぎないのだ。本当は、すべての人はみな仏になれるのだ。仏乗、一仏乗に過ぎないのだ」という考え方です。
この「仏乗」は、「菩薩乗」と同じように使うこともあります。つまり、大乗仏教では、菩薩になることを仏になることと同一視するのです。大乗仏教では、菩薩になることがみんなの目標になってきます。声聞や縁覚を目標にする人は誰もいなくなり、「みんな菩薩になろう」という運動なのです。これは仏になる運動と一緒なのです。もし菩薩乗と仏乗を分けるならば、これは三乗ではなく四乗(しじょう)(「四乗」とは、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・仏乗のこと、つまり悟りに到るための四つの乗り物)になりますが、普通は菩薩乗と仏乗を同じように言います。
そこで、「三乗が正しいか、一乗が正しいか」ということが、仏教の歴史のなかで大きな闘いになってくるわけなのです。確かに『法華経』(「方便品」)のなかではそのようなことを言っています。
「シャーリープトラよ。私はいろいろといてきたけれども、本当は今までのは全部方便だったのだよ。私は、みんな仏になれるということが言いたかったのだよ」という話が出てくるのです。そして、「声聞の悟りしか得られないと思ったのに、仏になれるのですか?ああ、うれしい。よかった、よかった」と、みんなよろこぶわけです。
そして、「おまえも如来になれる。おまえも如来になれる」といろいろな授記(釈迦が弟子に『未来には仏になれるであろう』という保証を与えること)を与えるという話が『法華経』(「授記品」「五百弟子受記品」)に出てきます。
これをみると、釈迦没後、数百年後に成立した法華経教団が教勢拡大のために一乗思想を武器にして活動していたのがよくわかります。「あなたも如来になれる。あなたもなれる」と言うと、やはりよろこんで、どんどん信者が増えていきますから、そのへんの事情が少し感じられます。後世の人たちはそういう歴史的な過程はわかりませんので、お経と名がつけば、釈迦の「直説・金口」(しぎせつ・こんく)とみな考えていきますから、「ああ、これが本当の教えだったのだ」ということになると、「三乗思想というのは方便で、間違いだったのだ」というような思想が出てくるのです。
これを突き詰めていくと、本覚思想にななりますし、「一切衆生悉有仏性」―「すべて仏性を持っているだけではもの足りなくて、「一切衆生悉皆成仏」―みんな成仏してしまうのだ。みんな仏様になってしまうのだ」と、極限までいけば、ここまでいきます。そうすると、修行していない人も、している人も、しはじめの人も、ずっと先輩も、釈迦もキリストも、みんないっしょくたになってきます。理論的に突き詰めると、結局そうなります。
それは、政治の世界では現実に起きていることです。形式的民主主義では「一人一票」ですから、どんな方でも一票です。経営者も従業員も、よく勉強した人もしない人も、如来も地獄界の人も、みな一票です。ですから、本覚思想を政治思想と連動して見ると、宗教思想のほうが現代の政治的民主主義思想より遥かに先行して起きているのです。それは千年も二千年も前に起きているのですが、考えとしては同じ考えだと思います。「みんな一緒なのだ」という平等思想が出ているわけです。
そのような背景があって、最澄と徳一の論争があります。最澄は、後に天台本覚思想として発展していく、「一乗主義」「悉有仏性説」を唱えていくわけです。これに対して、南都六宗の奈良仏教の代表とも言うべき碩学、大学者の徳一が、論戦を挑んでくるのです。「あなたの勉強は間違っている。釈迦の教えはそんなところに本心があるわけがない」その考えは間違いだ」と、いろいろなかたちで論争をしかけてくるのです。
残念なことに、現在、徳一の論書は『真言宗未決分』一巻を除いて遺っていないのです。ですから、最澄の反論を通して、そのなかに引用されている部分だけしかわからないので、議論として見るには公平さを欠くのですが、最澄の論書のなかに出ている反論を見るかぎり、徳一の攻撃はそうとう激しく、最澄の論理的な欠点を的確に突いていたようです。ですから、最澄にとってはそうとうの危機であったようなのです。本当に教団維持の危機だったらしく、反論も必死です。
たとえば、最澄の『依憑天台集』(これで一乗主義を標榜)、『通六九證破比量文』(これで法相宗の宗祖、慈恩大師の『唯識枢要』の「定住有情あり」の説を批判)を、徳一が『仏性妙』(これで天台宗の宗祖智顗の著作を批判)で批判したのに対して最澄の『照権実鏡』、また徳一の『中辺義鏡』に対して最澄の『守護国界章』、徳一の『中辺義鏡』及び『慧日羽足』『遮異見章』に対して最澄の『決権実論』『法華秀句』といった具合です。この論争の中心は、結局、「一乗真実・三乗方便」とみるか、「三乗真実・一乗方便」とみるかの教理上の真偽をめぐる問題と、「一切皆成」とみるか後述の「五姓各別」とみるかの人間観の違いの問題です。
【※「一切皆成(いっさいかいじょう)」とは、天台宗・浄土宗等で説かれ、すべての生きとし生けるものは、みな仏になる可能性を持っているという仏教の思想です。これは「一切皆成仏(いっさいかいじょうぶつ)」の略で、すべての衆生に仏性(仏になるための素質)があるとする「悉有仏性(しっうぶっしょう)」の考え方に基づいています。
※「五姓各別(ごしょうかくべつ)」は、仏教の唯識宗(法相宗)が説く、衆生を先天的な本性によって5種類に分類する教えです。分類は、菩薩定性(成仏できる)、独覚定性(独覚の境地に至る)、声聞定性(声聞の境地に至る)、三乗不定性(どの境地にも至る可能性がある)、無性有情(覚りを生じない)の5つです。この分類は、先天的な資質によって成仏できるかどうかが決まるという考え方に基づいています】
この論争は何年も続きますが、最澄が死ぬことでもってピリオドが打たれます。最澄は、論争で疲れて死んでしまうのです。晩年は、天台宗の後継者に予定していた愛弟子の泰範(たいはん)が空海のところに走ったりして、二十四人いた学生のうち、比叡山に残って住した者はわずか十人、六人は法相宗に奪われ、残りは山を去ったり(七人)、死亡したり(一人)してしまいました。そのような悲惨な疲労困憊状態のなかで、最澄は死んでいくのです。
しかし、最澄が死んで七日目に、やっと国から勅許(ちょっきょ)が下りて、大乗戒壇の設立を認められます。そして、翌年から新しい制度による受戒が始まりました。すなわち、比叡山でも、受戒(戒を受けること)あるいは授戒(戒を授けること)ができるようになったのです。当時は、奈良に行って授戒をしてからでないと僧侶になれなかった(小乗戒)のですが、奈良仏教と闘っているわけですから、それでは困るので、最澄は比叡山だけ受戒できるように、大乗戒壇をつくろうとしていたのです。しかし、それをされると、奈良仏教の法は支配権が及ばなくなっていくので、必死で反対していたのです。そういう失意のなかで最澄は死んでいったのです。
【※比叡山への大乗戒壇の設立を最終的に許可した天皇は、嵯峨天皇(さがてんのう)です。
最澄は生前、幾度も朝廷に大乗戒壇設立の許可を願い出ましたが、南都仏教勢力の反対もあり、許可を得ることはできませんでした。最澄の死後7日目にあたる弘仁13年(822年)6月11日に、弟子の光定らの奔走と藤原冬嗣の尽力により、嵯峨天皇によって正式に許可されました。
それまで、国家公認の僧侶になるための受戒は、奈良の東大寺、筑紫の観世音寺、下野の薬師寺という「天下の三戒壇」でのみ許されていました(これらは小乗戒の戒壇でした)。】
その後、歴史の皮肉で比叡山の天台宗の側が総合大学化して残ったために、論争としては最澄のほうが有利だったような伝え方が今でもされているのですが、これは、後世、徳一のほうの奈良仏教系統に優秀な弟子が続かなかったのが、事実上の敗因です。
ところが最澄のほうは、後代の弟子たちが教えの不完全さを補うべく、中国に留学して、新しく充実した教理を大量に移入したので、にぎわい、こちらのほうが流れとして勝つ形になったのです。生きていたときの論争では、決して勝っていたとは言えなかったのですが、その後、円仁(七九四~八六四)や円珍(八一四~八九一)といった名僧が出てきて、中国まで留学し、新しい中国の仏教思想を持ってきて、比叡山の天台宗をまったく新しいものにつくりかえて、その興隆をはかりました。そして、その後ずっと比叡山が残っていったために、こちらが正統派というかたちになって、日本の仏教思想は、以後、一乗思想が主流になって、三乗思想はどちらかというと異端になっていきました。
鎌倉仏教なども、やはりその影響下にあり、一乗思想が根本にあって、一乗思想が正しく、三乗思想は時代遅れの古い思想」というかたちになってしまいました。こうして事実上、歴史の流れのなかでは、徳一のほうが消え、最澄のほうが残っていって、今のようなかたちになっているのです。
【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』第6章「仏性と成仏」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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太陽のメッセージPart1
第1章「いま真理の太陽が昇る」
9 真に開かれた社会とは
『黄金の法』のなかでも少し批判していますが、「プラトンの呪縛」という内容に関して著わしているカール・ポパーという有名な哲学者がおります。彼の代表作の一つは、「開かれた世界とその論敵」という題の本で、原書が「The
Open Society And It’s Enemy」というタイトルです。
英文でも読んでみました。かなりの大著であるため、相当な時間をかけて書かれたものだと思います。おそらく何年もかかっていると思いますが、やはりまちがっているのです。現在、相当有名になっておりますけれども、根本が違うところはどうしようもないのです。
学派を興してずいぶん弟子筋もあるのですが、けっきょく、彼の考えでゆくと、「ソクラテスのあとのプラトンが出て、”イデアの世界”と称しながら、実際は霊界の世界を哲学のなかに持ち込んでいる。そして、あの世があるようなことを言っている。」ということになるわけです。
このプラトンの呪縛によって世界は暗くされたと、このポパーという人は批判しているのです。そしてこのプラトンの呪縛によって、その後西洋世界がどれほど呪術的になり、暗くなったか。開かれた世界が、プラトンの呪縛によって閉じ込められたようなものだ。このような陰湿な古代のアニミズムというか、精霊信仰のような世界に、哲学という優れた学問が押し込められてしまった。このプラトンの呪縛から人類は二千数百年、逃れられないでいるのである。
だから自分は今、自分の哲学によって新たな地平を開いてプラントの呪縛からみんなを解放させてやるのだ。そして閉じられた世界から、開かれた世界へ導くのだ。このようなことを書いているのです。
ところが事実は逆なのです。プラトンは、四次元以降に広がる世界のことを知っていたのでてす。そして、それについて、どのようにしてみんなに教えようかと努力して、あのようなイデアの説などを色々出して説明しているのです。この開かれた世界のことを説いたプラトンの哲学を三次元世界のなかに閉じ込めたのが、このカール・ポパーという人なのです。つまり、逆にポパーが閉じ込めたのです。そして、これこそが開かれた社会だといっているのです。
八〇〇ページくらいにわたる本ですが、まあ内容としては0点です。まさに0点です。論点がまったく外れているのですから、読む価値はありません。お金を返してもらいたいくらいです。これで、世界的に有名な学者になれるのですから、間違っているというのです。
このような考え方がどれほど世界に害悪を及ぼしているかと考えると、はなはだしいと思います。ですから、私も今、霊的なもの、宗教的なものをだいぶ出していますが、もう少し基礎が固まってくれば、このような思想界の方をもっと切っていきたいと思っています。間違っていますから、私に言わせれば問題にならないのです。真実を知るということは、難しいことでありますが、ほんとうにだいじなことであります。
10 プラトンによる実在界の説明
プラトンも実在の世界、霊的世界のことを説明するのに、ひじょうに難しいと感じていたのでしょう。「洞窟の比喩」をつかって、面白い説明をしています。このたとえ話を学ばれた方もいらっしゃると思いますが、プラトンが説明しているのは、このイデアの世界、つまり、実相の世界を知っている人と、そうでいない人の説明をしているわけです。
このプラトンの説によると、人間というのは囚われの存在なのです。人間が洞窟のなかにいるとします。外から光が入っているのですが、その人は、洞窟のなかで手も足も鎖で縛られているために光りが入ってくる後ろの方は見えないのです。そして前方に洞窟の壁面があって、ここに映る影だけが見えるわけです。
外には道路か土手のようなものがあるらしくて、そこを通行人が行ったりきたり、どうもしてるらしいのです。そうすると、通行人が行ったり来たりするときだけ、その影らしきものが映って見えるのです。このような世界を説明しています。
この比喩で実は、実相世界と現象界の説明をプラトンはしているのです。実際に人間というのは縛られていて、この縛りこそ、実は肉体を意味しているのです。肉体という縛りです。これによって一つの方向しか見えない。つまり、これは三次元の世界しか見えないということです。ところが、この実在世界における存在が時どき土手の上に行ったり来たりしていて、光が当たるものですから、影だけが映るのです。そして、この人間はこの影だけを見て、いったいこれは何であろうかと推定するのです。この程度の世界だといっているわけなのです。まさしく彼は知っていたと言えましょう。
このような説明は、私達から見れば、何を意味しているのか、全部わかってしまいます。私たちには、プラトンが何を考えていたのか、直感的にわかるのですが、プラトン以降、後世の哲学者たちはこのようなことを一生懸命勉強して、「プラトンは宇宙人でもあるまいにどうして映画の原理がわかったんだろうか。」などと考えているのです。映画のスクリーンの原理と同じですから、映画のことを知っていたのだろうか、などと議論しているのわけです。
これでわかるように、プラトンも「実在の世界」について説明をしているわけですが、彼も苦労しているのです。高級諸霊がこの世に出てきても、なかなかうまく説明ができないという苦労があるわけです。
11 次元構造の究明
多次元宇宙についての説明に入ってゆきます。多次元の宇宙を人体にたとえてみましょう。三次元宇宙とは裸の肉体人間、四次元宇宙とは肉体を包む下着、五次元宇宙とは下着の上のワイシャツ、六次元とはワイシャツの上のセーター、七次元とはセーターの上にはおるスーツ、八次元とは全体をおおうコート、そして九次元とは頭の上の帽子のようなものだという説明ができます。
このようにほんとうは多次元の宇宙や、高次元の宇宙といっても、全然別の世界ではなくて、実は同じところにオーバーラップするように存在しているのだということを理解することが大事です。
この多次元の宇宙については、みなさんそうとうなご関心があることでありましょう。しかし、説明はいろいろなところで行ってまいりました。たとえば一九八七年の三月の講演会「知の原理」の質疑応答でもお話ししましたし、それ以外の本のなかでも、この次元についての話は何度か出してきております。
ここで、物理学者的に見た次元構造が、多次元的な宇宙の構造に引き当てられるということがなぜわかるのかという疑問があるでしょう。私も実際に次元という言葉で表すのが適当かどうかはわかりません。しかしながら、あの世の世界には確かに、階層の明らかに違った世界があり、それはアインシュタインやエジソンなどの科学者の高級霊たちに聞いてみて、だいたい私がいろいろと詰めてきた結論と同じであります。
私達が菩薩界と呼んでいる世界が、七次元世界にあたり、神界というのは六次元に当たる。八次元には如来界が相当する。このような結論です。これは、科学者の霊と宗教家の霊が考えているところを全部突き詰めて整合した結果、このようになるということであります。
もちろん多次元宇宙の構造について、この世的にすべてを明らかに説明ができるかというと、かなり難しい面はあるでしょう。けれども、現実に霊層そのものはわかれておりますのでそれをどのように呼ぶかは自由であるということもあると思います。
『天照大神の霊言』という本のなかで天之御中主之神が一九八四年二月第一回目に降臨されたときに、善川顧問が「何次元におられますか。」と聞くと天之御中主之神はわかりませんでした。そのあたりのいきさつが明らかに出ています。顧問に説明を求めているわけです。それで、相手の心の中に浮かんだ説明を読んで、だいたいこのような引き当てをしているのかと思い、たぶん八次元というところだろう、というふうに答えているのです。
日本の神様であれば、何次元に自分が住んでいるかなどということは、考えたこともないのでわからないのです。そのようなものなのです。ですからあくまでもこれは現代的に言い換えればこのような表現になるということです。【※日本の民族神の最高位にある神が霊界の次元構造を理解していなかった点は注目すべき点です】
「実在の世界」を三次元から九次元、十次元まで分かれておりますが、実際、「実在の世界」の構造はもっともっと細かく分かれています。なぜ分かれているかといいますと、この世界は私たちのような物質の世界ではないからなのです。
もし、いまここで、二メートルくらいのところまでが三次元で、この上から違う人が住んでいるというのであれば、みんな気持ちが悪くてしょうがないでありましょう。透明の幕のような仕切りがあって、その上を人が行ったり来たりしていたら、とても住んでいられないと思います。
しかし、実際はこのようなものではないのです。肉体は存在しない世界なのです。物質の世界ではなくて、実質はやはり波長の世界、波動の世界といわれるように、違った存在形態なのです。私たち地上にいる人間に分かりやすいように、やはり地上的な風景、あるいは人間の形によって説明してはいますが、実際はそのようなものではないということです。
一九八八年の十月の講演会「反省の原理」で、最後の質問のときに、私が如来界あたりを見てきた話を少ししましたが、それもあくまでもそのよなうかたちに翻訳されている姿であるのです。これは翻訳が可能なのです。英語と日本語が翻訳できるように、霊的世界の言葉、あるいは存在というものが、三次元的に翻訳されるのです。
また霊人たちを見ていても、人間的属性がひじょうに強い場合は、人間的に見えるのです。けれども、ほんとうに霊的な悟りが進んでいる場合は、霊人であってもそうは見えなくなってくるのです。今度は、ほんとうのその人の姿が見えてくるのです。ですから、同じものを見ていても同じではないのです。これはなかなか分かりにくいのですが、何重にも、本当は姿があるのです。
これ以外の説明としては、スウェーデンボルグという人がいますが、このスウェーデンボルグという人は一五〇冊ほどの霊界探訪系統の本を書いた方です。この人の霊言も最近出しましたので、読まれた方もあると思います。(※1988年当時)
彼も霊界へ行って見ては来てはいるのですが、スウェーデンボルグが見てきた世界は、だいたい八次元くらいまでのようです。そのくらいまでは行っているのですが、八次元の上段階まで行っているかというと、そのあたりで頭打ちになっているようです。そして、彼が見てきたものは、やはり人間的に翻訳されたかたちでの霊的世界を見てきているのです。
もし彼の悟りが、もう一段高ければ、ほんとうは違ったものが見えたはずです。如来界に行って、如来の姿が人間の姿で見えて帰ってくるということは、まだ向こう側から合わされているのです。こちらの人間のレベルに合わせて、向こう側がそのように見せているだけなのです。
【※スウェーデンボルグは八次元存在であり、魂のきょうだいに、バプテスマのヨハネ、源信がいます。【『黄金の法』参照】
【大川隆法『太陽のメッセージ』第一章「いま真理の太陽が昇る」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。
人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第6章 九次元の世界
7 イエスの働き
イエス・キリストについても、少し話をしておきましょう。イエスも、今更説明を要しないほど有名な方ですし、地球霊団の草創期から活躍している方であることも事実です。
そして、イエスの働きの中心が「愛」であるということも事実です。現在、愛というものが、普遍的な教えとなって、単にキリスト教国だけではなく、他の国々にも伝播し、広がっていますが、これはイエスの力がどれほど大きいかということを物語っているのです。
イエスの九次元意識は、別名、「アガシャー意識」ともいいます。アガシャーというのは、アトランティスの末期に肉体を持った光の大指導霊ですが、この名前をとってアガシャー意識と言われることが多いのです。また、このアガシャー意識の名前をとって、地球系霊団をアガシャー系の霊団と呼ぶこともあります。
イエスの生命体は、いまから一万年あまり前に、アガシャーとしてアトランティスに肉体を持ちましたが、七、八戦年前に、インドの地にクリシュナという名前で出たこともあります。また、四千年あまり前に、エジプトの地にクラリオという名前で肉体を持ったこともあります。そして、天上界からの指導を、さまざまなかたちで、ずいぶんとしてきました。
イエスの働きの中心的なものは「愛」であると言われています。釈迦の働きである「法」が、たとえば頭脳であり神経系統であると同時に、人体に通っている血管だということができるのならば、イエスの働きは、その血管に血液を流していく仕事だということができると思います。
釈迦が血管を組織的にちりばめているとすると、イエスは心臓のポンプでもって、血管を次々と送り出しているということです。
心臓の働きがないと人体の各部分が働かないがごとく、イエスのこの働きがなければ、地球系霊団の人びとがお互いに争い合い、憎しみ合って、ばらばらに活動してしまうのです。
しかし、イエスが心臓のポンプの役割をして、愛という血液を全人類に送っているがために、人びとが「お互いに愛し合わなければならない」という意識を持つようになるわけです。
このように、イエスは、お互いを愛するという、結び付け合う大きな力の体現者として働いています。そして、何億年も前から今日に至るまで、イエスはこうした働きをやめていないのです。
また、イエスの愛の働きの具現として、医療系団というものがあります。こうした霊系団をイエスは持っており、イエスの流れを引く霊系団は非常に強いのです。
実際、白色光線、愛の光線の霊人口は非常に多いと言えます。イエスが何度も地上に出て教えを説いたことも、その理由の一つですが、その教えを実践するための霊人口が多いことは事実です。
そして、イエスの働きの流れのなかには七大天使もいます。七大天使というのは、もともと、すでに述べたエンリルという霊が、地球に数多くの肉体生命を連れてきたときに、一緒に来た者たちです。ただ、主としてイエスが七大天使を弟子として使っています。
七大天使とは、ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ラグエル、サリエル、ウリエル、プヌエル(ルシフェルが地獄に堕ちて以降)です。
ミカエルは天使長であり、人びとを指導し、統率する役割、また、サタンたちの働きを止めるような大いなる力を与えられています。
ガブリエルは通信役であり、さまざまな文化や文明における具体的な役割を担った者でもあります。
その他の天使としては、ラファエルという存在が芸術関係のかなに愛を通す役割をしています。
また、サリエルという天使がいますが、そのサリエルこそ、医療系団の長なのです。つまり、イエスの具体的な教えである医療関係の教えを実践し、病気を治すという働きをしているのがサリエルです。仏教系統では薬師如来として現れることもあります。近年、地上に肉体を持って、エドガー・ケイシーという名前で呼ばれたこともあります。
それから、ウリエルという天使は主として政治関係を担当しています。
【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第6章「九次元の世界」より抜粋】
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本日の『永遠の法』では、前節のお釈迦様の働きに続いて、イエス様の働きについて学びました。大変印象的だったのが次のお言葉でした。
『イエスの働きの中心的なものは「愛」であると言われています。釈迦の働きである「法」が、たとえば頭脳であり神経系統であると同時に、人体に通っている血管だということができるのならば、イエスの働きは、その血管に血液を流していく仕事だということができると思います。
釈迦が血管を組織的にちりばめているとすると、イエスは心臓のポンプでもって、血管を次々と送り出しているということです。
心臓の働きがないと人体の各部分が働かないがごとく、イエスのこの働きがなければ、地球系霊団の人びとがお互いに争い合い、憎しみ合って、ばらばらに活動してしまうのです。
しかし、イエスが心臓のポンプの役割をして、愛という血液を全人類に送っているがために、人びとが「お互いに愛し合わなければならない」という意識を持つようになるわけです。』
ここでは、仏陀とイエスの役割の違いがとても分かりやすく説かれています。私たち人類にとって最大限に注目すべき点であると思います。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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(12/2-1)【基礎教学通信】336『太陽の法』を読む69いま真理の太陽が昇る3―「悟りの挑戦(下巻)」最澄と徳一の論争(三一権実論争)―『永遠の法』イエスの働き
『太陽の法』
