61 器のある上司になりたくば、時に、部下の直言を受け止めよ。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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〇Be positive
You must be angels from today. You, yourselves,save other people. Save
other people. Don’t think to save yourself. Save other people. It’s the
mission of Happy Science and the mission of angels-to-be.
If you want to be an angel-do,act and save in reality, in practice.
That’s very important.From now on, I believe you will all become strong
and have light in you.
【November 18,2007 Hawaii Local Branch,Honolulu,USA】
〇積極的であれ
今日より後、あなたがたは天使にならなければなりません。あなたがた自身の力で、他の人々を救ってください。自分を救おうと思わないでください。他の人々を救ってください。それか、幸福の科学の使命であり、天使の予備軍の使命です。
天使になろうと思うのであれば、現実に、実際に、実践し、行動し、人々を救ってください。これより後、あなたがた一人ひとりが強くなり、あなたがたの内に光りが灯ることを信じています。
【2007年11月18日 ハワイ精舎にて】
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明日、11月18日は、海外初転法輪記念日です。2007年11月18日に主は、ハワイ精舎において海外における初めての説法である『Be
Positive』を説かれました。全世界伝道の第一歩を生まれ、主の教えは全世界に広がっています。主の御慈悲に心からの感謝と、全世界伝道の誓いを共にさせていただきます。
11月18日は、海外初転法輪記念日です。2007年11月18日に主は、ハワイ精舎において海外における初めての説法である『Be
Positive』を説かれました。全世界伝道の第一歩を生まれ、主の教えは全世界に広がっています。主の御慈悲に心からの感謝と、全世界伝道の誓いを共にさせていただきます。
11月23日は初転法輪記念日です。初転法輪とは、今から39年前の1986年11月23日に、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生が、東京・日暮里の地(現初転法輪記念館)にて、初めての説法をされて、法輪を転じられたことです。
主のご説法は1986年11月23日の第1回目から2023年2月23日に賜りました『妖怪にならないための言葉』発刊記念対談にて、説法3500回を超えました。これは人類史に残すべき偉業です。
この聖なる日に仏弟子相集い、日暮里酒販会館にて賜った初転法輪よりこの日まで、全人類救済のために、不惜身命の覚悟で教えを説き続けてくださっている主に心からの感謝を捧げるとともに、たとえ何があろうとも、主の御名と主の教えを地の果てまでも伝えていく伝道の発願を捧げさせていただきます。
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、主が初転法輪で説かれた御教えを共に振り返ってまいります。本日は1986年11月23日に東京は日暮里の酒販会館にて開催されました、主の初転法輪(最初の説法)にて説かれました御法話「幸福の科学発足にあたって」を引用して、我々弟子も原点回帰して主への感謝と報恩の誓いを新たにいたします。この御法話は経典『われ一つ立つ。大川隆法第一声』に所収されています。全国の支部や精舎・書店にてお求めいただけます。お持ちでない方はこの機会にご拝受ください。【税抜き1800円】
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■『われ一つ立つ。大川隆法第一声』第1章「幸福の科学発足にあたって」
4 教えの中身で勝負―「本物」として選ばれる自信
〇他宗排撃をしなくとも、本物の宗教は認められていくものである
私どもも、基本的な方針としては、他宗排撃は原則やらない方針でやっています。【※現在、幸福の科学では、仏法真理の観点から善悪の価値判断を行い、宗教の正邪のみならず、思想、歴史、教育、政治、経済、科学、芸能等、あらゆる分野において間違いを正す姿勢を持っている。『正義の法』『伝道の法』(ともに幸福の科学出版刊)等参照】
なぜなら、「合っている」とか「間違っている」とかいうことを言い合うというのは、だいたい同じ土俵の上で相撲をとっているからです。「おまえのところは間違っている」とか、「いや、間違っていない」などと議論し合うのは、だいたい同じ土俵の上にいるからなのです。土俵が同じだから、「相手に負けるんじゃないか」と思って、一生懸命に悪口を言わなければいけなくなるのです。
今、言ったところ以外にも、他雌雄の悪口を言ったり、恩師の悪口を言ったりしている人はたくさんいるはずです。なぜ、そういうことを言うか。
結局、互角に、まともに、土俵の上で相撲を取ったら負けるんじゃないかという気持があるのです。「本当は、負けるんじゃないか」と思うから、「とにかく、相撲を取る前に相手に塩を打ちつけて、目くらましか何かで相手が怯んだ隙に、土俵の外へ押し出してやろうか」などと思っているのです。
ただ、本物というのは、やはり、それほど他宗の批判をしなくても、人は認めてくれるものです。私はそう思います。【※このあたり、立宗当時と立宗40年を迎える現在では「幸福の科学」をとりまく状況が大きく違いますので、世界規模で発展を続ける当会は現在、宗教界の雄として、他宗に対しても正しいものは正しい、間違っているものは間違っているという宗教内での正邪を分かつ活動も展開しています】
〇教えを学んで光が強くなれば、闇はだんだん消えていく
昨日も、愛知県の名古屋のほうのある人から手紙が来て、「私は、長いあいだ〇〇文明教団でやっていました。同志もたくさんおりました。ここの教祖が、今、あの世でどうなっているか教えてください。本当に光の指導霊の指導を受けているのかどうか、教えてください」と、こういう問い合わせがありました。これにはずいぶん困ったのです。あまり言ってもいけないし、書き方に困りました。
ただ、私はこう書いたのです。
「もし、そこが間違っているとするなら、今、そのなかでやっているお友達はずいぶん苦しんでいることでしょう。そういう人をかわいそうだと思って、何とか正しい方向に導きたいと、あなたが性急になるのは分かります。その性急な気持ちは分かるのだけれども、ちっょと待ってください。相手が間違っていると、ただ批判するだけではなくて、あなた自身が、たとえ゛は、幸福の科学の本を読んで、何を感じ、どう変わったか。これが問題ではないですか。あなたのお友達に、『そこの教えは間違っていて、気要素が地獄に行っているからやめなさい』と言うよりは、あなた自身が新しい教えに接して、そして、どう変わったのか。まず、それを示す必要があるのではないでか。あなた自身の光が強くなれば、闇というのはだんだん・
・
�消えていくのではないですか」
そのように言ったのです。昨日、返事を出しました。まだ、今日は、ここには来られない方でしょう。これから幸福の科学に入会する方ですから、来られないのでしょうけれども、そのように言いました。
ですから、相手に負けそうであれば、一つひとつ批判をいてもいいのですけれども、これから出てくるものの大きさを考えると、私は、全然心配しなくていいと思うのです。
〇他宗の正しさを認めつつ、「教えの中身を比べてください」言いきる
そして、いろいろな方から、「幸福の科学の教えは本物だ」と言われ始めたら、その本物の教えとほかの教えとを比べてみると、矛盾するところはたくさんあるはずなのです。
では、矛盾しているときは、あなたはどう考えますか。それは、あなたの良心が判断すればいいことなのです。
矛盾することはあります。ですから、例えば、キリスト教と仏教の教えが矛盾するからといって片方が間違いだというわけではありません。キリスト教と仏教というのは、もちろん光の大指導霊が地上に出て、あるときインド的な教えを説き、あるときイスラエルに生まれて西洋的な教えを説いたのであって、それは教えの違いがあるだけで、矛盾するものではないのです。その時代と人びと、それから環境風土に合わせた教えがあるだけであって、実際は矛盾しているわけではありません。
こういうものと、現在同じく、いろいろな新興宗教が出ていて、その教義と、今、私たちが説いていることとが矛盾することがあると思います。これは、単に説き方が違うのか、方法論として言い方が違うのか、それとも中身が違うのか、よく検討してみていただいたらいいのです。
私は、決して「正しいものはこれ一つ」とは言いません。
今の日本には、ほかにもたくさんの光の天使たちが出ています。幸福の科学に来る方だけではありません。ほかにも、いろいろな規制の集団のなかにも、もちろん、現在、キリスト教を日本で説いている人のなかにも、そうした立派な方はいらっしゃるはずです。あるいは、仏教系統のなかにも、光の天使のような方は出ておられるはずです。また、新興宗教のなかにも、やはり、正しい心を持って出ている方はいらっしゃるはずです。
したがって、私は、これら全部を否定するのは間違いだと思います。そうではなくて、「私たちも正しいものの一つです。ただ、その教えの中身を比べてください」と言っているのです。
正しさもあるけれども、現われ方はいろいろあるはずです。どちらが偉いか偉くないかなどということは、後世人が判断すればいいことであって、私たちが、「こちらのほうが偉いのだから、こちらに来なさい」などと言う必要は全然ないのです。
ですから、日蓮が出て来て霊言をしたから、創価学会の批判を言わないといけないかといったら、そんなことはないのです。創価学会も、もちろん、なかにはいろんな方がいらっしゃるでしょうし、そのなかには、きっと、心正しい人もいらっしゃると思います。そして、相互扶助の体制があるから、そのなかで、恵まれない人たちが助かっている例もあるかもしれません。
あるいは、日本神道系でしたら、「生長の家」といものがあります。この「生長の家」を指導していたのは、霊言集を読んだ方はお分かりでしょう。この「生長の家」を指導していたのは、霊言集を読んだ方はお分かりでしょう。「生長の家」では、万教帰一といて、「仏教も、キリスト教も、儒教も、何もかも『生長の家』にあるのだ」などと言っていたけれども、指導霊団を見ると、そうではないのです。指導霊団を見ると日本神道系です。はっきりしています。けれども、彼らも光の指導霊です。こういう方が指導しています。
ですから、その五十年の歩みを見れば、だんだんと、その本体というか、本当の指導霊は日本神道系だったということがわかります。
〇光一元に見る光の天使たちの「教えの説き方」の違い
こういうことで、「正しい、正しくない」ということ以外にも、例えば、あの世の天使たちの意見も一致するかといえば、必ずしも一致しないのです。それは、いろいろな教えの方法論があるからです。長年やってきて、「こういう方法論がいい」という教えがあるのです。それは、別のものからすると、違うように感じます。
けれども、これは矛盾するものではなくて、説き方が違うだけなのです。
〇あの世で光一元の考え方を批判する日蓮
例えば、『日蓮聖人の霊言』を読むと、日蓮が光一元の考え方にたいする批判をしておられます。
「人間は光一元だ。だから、闇はないのだ。地獄など、そんなものはないのだ。迷いだ。光一元、神の世界には光しかないのだ。罪とかそういうものは無いのだ」という教えについて、日蓮は批判の言葉を言っています。
確かに、本当の実相の世界、神の世界というものを見れば、光一元なのです。如来界、菩薩界へ行けば、光一元です。闇はありません。おっしゃるとおりです。そのとおりなのです。光に満ちた世界です。
そして、人間が本来神の子であり、仏の子であるならば、人間の本質、実相というものが、光そのものであることは間違いないことです。そのとおりです。
しかし、現象としてこの地上に現われているいろいろな人間を見ると、さまざまな現われ方をしているのです。その上で、「悪はないか」というと、やはり「悪」らしきものも出ているわけです。
〇「人間には罪はない」とする考え方の間違い
また、「人間には、もう罪はないのだ。間違いはないのだ。誤りはないのだ。みんな神の子なのだ。何をしてもいいのだ。ちょっと短刀を抜いて、前の人をブスッと刺しても殺してもいいのではないか。人間は永遠の生命だから、一人や二人殺しても、何をやってもいい。本当は死にやしないのだ。肉体は仮の姿であり、こんなものは目に見えているだけで、本当はないのだ。肉体などないのだから、頭をちょっと叩いて死んだところで、永遠の生命があるのだから関係ない」などと言って、そうしたことをやっていいかどうかということです。これはちょっと違います。これは、何か考え方が違っています。
それは、「それぞれの世界には、それぞれの法則がある」ということを見誤っているのです。
〇「三次元の世界には、三次元の法則がある」という視点も賢く見るべき
三次元の世界に、三次元の法則というものがあります。
人間は、本来、神の子であり、仏の子であり、光一元であることは、間違いのない事実です。
けれども、この三次元で、肉体に入って生活しているなかでは、みんな盲目ですから、いろいろな失敗をするのです。目が見えていたら、つまづいて転ぶことはないのだけれども、たまたま目が見えないために、霊的な目が見えないために、石ころにつまづいて転んでしまうことがあるのです。
したがって、「本来、転ぶはずはない」などといっても、やはり、この三次元では転ぶことはあるわけです。
こういうことは、説き方の方便の違いですから、そのへんを、賢く、よく見なければいけないのです。
【※1986年の初転法輪において、すでに「日本神道」の教えの間違いについて触れられている点は、40年を迎えるにおいて驚くべきことだと考えます。日本神道の神々の根本仏信仰の問題点と、魂修行の反省の場としての地獄を否定する光一元に対する教えの間違いがすでに初転法輪でなされているところは特筆すべきところです】
【大川隆法『われ一つ立つ。大川隆法第一声』第1章「幸福の科学発足にあたって」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、愛とは何か。仏法真理とは何か。悟りとは何か。ユートピア建設とは何かという根源的な問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第6章「エル・カンターレへの道」
4 人生は日々の勝負なり
この世の執着を去って、心をはだかにして、仏の子として生きてゆくことを誓ったとき、あなたがたは、一体何をなせばよいのでしょうか。
あなたがたのなすべきことは、山にこもったり、滝にうたれたり、あるいは、断食をしたり、座禅ばかりして日々を過ごすことではないはずです。人間は、山にこもるために生まれてきたのではありません。人間は、断食をするために生まれてきたのでもありません。そんなことでは悟れないことを、二千五百年前に、インドの釈迦が、証明しているではないですか。彼の人生をむだにしないためにも、そうした肉体行のなかに悟りの因はないということを、あなたがたは気づかなければならないのです。
肉体を極端に快楽のなかにどっぷりとつける生活のなかにも、肉体を極端に痛めつける肉体行のなかにも、本当の悟りの因はありません。これら左右の両極端をすてた中道の生活こそ、仏が期待している生活なのです。
人間が心であり、魂であるからといって、肉体をそまつにせよといっているのでは、もちろんありません。肉体とは、人生修行のために、両親の縁でもって、仏からいただいた大切なのりものなのです。
お金を出しさえすれば、簡単に買える車でさえ、「愛車」だとかいって、毎日毎日ピカピカに磨きあげている人がおります。しかし、車を大事にするぐらいなら、自分の体をもっと大切にし、健康のため、適度の運動と、調和のとれた栄養を考えて、維持しておくべきです。そして、睡眠をしっかりとり、規則正しい生活をすることです。また、人間の理性と知性を狂わすアルコールなどというものに、魂まで奪われないことです。アルコールがなければ生きてゆけないようになると、やがて人間は理性を失い、地獄の悪魔たちに肉体を支配され、肉体をあけわたしてしまうようになります。それが、必ず仕事の失敗、家庭の崩壊へとつながってゆくのです。
左右の両極端を去って、中道の生活に入るべきだと言葉でいうのは簡単ですが、それを実践するのは、たいへんむずかしいことです。中道の道とは、考えれば考えるほどに、奥の深い道なのです。では、どうしたら中道の生活に入ることができるのでしょうか。どうしたらそのモノサシを手に入れることができるのでょうか。人々の次なる疑問は、ここにあります。
中道の道に入るためには、まず、二本のモノサシが必要です。一本は、いうまでもなく八正道を中心とした自己反省のモノサシです。もう一本は、愛の発展段階説を基軸とした自己観照のモノサシです。この二本をモノサシとして生きていただきたいのです。
八正道とは、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく行為をし、正しく生活し、正しく精進し、正しく念じ、正しく定に入るべしという教えです。これは、「正しさ」というものを基準として、自分の心と行いの両極端な揺れを修正し、中道を見出すための方法だといえます。すなわち、中道のなかにあってこそ他人と仲良く生き、大調和の生活ができるからです。しかし、正しさを基準として、自己反省ばかりしていることが、消極的、厭世的なる人生に堕す危険は、いましめねばなりません。つまり反省にとらわれすぎると、人生は前に進まないことにもなりかねないからです。
自分をしっかりと反省ができたならば、つぎは、それをどのように心で、どのように行いで、あらわしていくかです。すなわちそれは、感謝行ということになります。では、感謝行とはどういうものでしょうか。
人々に、「ありがとう」ということですか。たしかに、それもひとつです。しかし、ほんとうの感謝行とは、もっと積極的なものです。つまり、「あなたは、他人に一体何をしてあげたか」、そこに、ほんとうの感謝行があります。
それは、やはり愛なのです。与える愛です。与えつづける愛です。無償の愛の実践なのです。これが、ほんとうの感謝行のあり方だといえます。そこで、ときおり、自分がいま、「愛する愛」の段階にいるのか、「許す愛」の段階にいるのか、それとも、「存在の愛」の段階に入ったのかを自問自答してみる。すなわち、自らの成長を自己観照してみることが必要です
なぜならば、愛の発展段階は、あなたの成長の確かなバロメーターであり、そこに、日々の進歩があるからです。
「反省」と「進歩」。この二本のモノサシが、仏の子としての本当の人生の証なのです。ですから、日々反省し、自らの極端な思いと行動をいましめ、日々、自己観照して、自らの進歩をふりかえってみなくてはなりません。そうするときにはじめて、人間は、人生の日々の勝負に勝利しているといえるのです。
【大川隆法『太陽の法』第6章「エル・カンターレへの道」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。
人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
経典をお持ちでない方はこの機会に是非お求めください。【税抜き2000円】
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■『永遠の法』第5章 八次元の世界
2 光の性質
八次元如来界に来ると、「光」というものを意識せざるをえなくなります。「仏は光であり、人間の本質も光である」「仏の七色の光を受けて、さまざまな高級霊たちが活躍している」というように、光という言葉がいろいろなかたちで使われています。
では、光とは何でしようか。それは太陽光線のようなものなのでしょうか。人々は光という言葉を無批判に使いすぎているようにも思えます。そこで、仏の光に対して認識を新たにし、しっかりと定義していく必要があると思います。
「仏は光なり」という場合の光とは、どのような意味なのでしょうか。光の概念を考える場合、その対極にあるものを持ってきて、光の性質を浮き上がらせるという方法もあります。
光の反対は「闇」だと言われています。そこで、闇の属性について考えてみると、まず、暗さを伴うということがあります。また、見えない、陰湿である、希望がない、生きる活力がないといったようなことも、闇の属性として考えられるでしょう。
そうすると、光はそれらとは反対のものだということになります。そこで、光の属性を考えてみると、光が光であるゆえんは、まず、「明るさを帯びている」ということです。しかも、単に明るいだけではなく、「生命のエネルギー源であるところの、さまざまな意思や意図、性格、性質が宿っている」と言えるのです。
光と闇という話をしましたが、ここで問題となるのは、古くからある一元論と二元論の問題です。「闇は本来あるのかないのか」ということです。
闇という存在は、それ自体、消極的存在であることは事実です。闇というものが放射されて夜ができるわけではありません。闇が闇であるのは、光をさえぎっているからであり、間接的な媒介を通して闇は存在するのです。一方、「光は積極的な存在であり、働きかけるものである」と言うことができます。
どれほど強い光があっても、それをさえぎるものがあれば、闇ができます。光が強ければ強いほど、濃い闇ができます。たとえ一万燭光(しょっこう)の光を持ってきても、あるいはき百万燭光の光を持ってきても、岩陰に隠れたならば、その光はあたりません。光には「直進する」という性質があるので、さえぎるものがあれば、その光は行く手を閉ざされることになります。
善と悪についても、これと同じことが言えます。すなわち、「善は積極的存在であり、悪は消極的存在であると言うことができるのです。善はあって悪はないのかというと、一概にそうとは言えません。一定の間接的媒介を通して、消極的存在ではあるけれども、悪というものの存在がありうるのです。
「本来、闇はない」と言っても、光のある所には闇が生じます。同じく、「本来、悪はない」と言っても、善のあるところには、それを引き立てる意味で、悪があることも事実です。
悪は積極的存在ではなく、善の欠如であることは事実ですが、「善の欠如を一つの媒介として、悪があるように見える」ということも、ある意味で事実なのです。
たとえば、巨大な蛍光灯や白熱灯で室内を照らしたとき、どれほど燦然たる光を放ったとしても、室内のどこかに必ず影ができます。室内を鏡の部屋のようにした場合には、もちろん影はできないでしょうが、通常の人間が生活するような室内であれば、たとえどれほど強い光を当てたとしても、食器なり家具なりにさえぎられて、影のできる部分が必ず生じます。
こうしてみると、「影、闇、悪というものは、本来はないものにもかかわらず、人間が通常に生活していく上において生ずるものだ」ということができます。
【大川隆法『永遠の法』 第5章「八次元の世界」より抜粋】
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前半の『太陽の法』では、正しさという中道には、二つのモノサシがあり、それが「反省」と「愛」であると教えていただきました。この考え方は、幸福の科学での日々の心の修行のなかでとても大切な点です。
本日の教えをふりかえるとこのようにありました。
『中道の道に入るためには、まず、二本のモノサシが必要です。一本は、いうまでもなく八正道を中心とした自己反省のモノサシです。もう一本は、愛の発展段階説を基軸とした自己観照のモノサシです。この二本をモノサシとして生きていただきたいのです。
八正道とは、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく行為をし、正しく生活し、正しく精進し、正しく念じ、正しく定に入るべしという教えです。これは、「正しさ」というものを基準として、自分の心と行いの両極端な揺れを修正し、中道を見出すための方法だといえます』
反省のモノサシは、『八正道』を中心として心の極端な偏りを正していく生活習慣でした。そして、もう一つのモノサシである「愛」については以下のように教えていだきました。
『自分をしっかりと反省ができたならば、つぎは、それをどのように心で、どのように行いで、あらわしていくかです。すなわちそれは、感謝行ということになります。では、感謝行とはどういうものでしょうか。
人々に、「ありがとう」ということですか。たしかに、それもひとつです。しかし、ほんとうの感謝行とは、もっと積極的なものです。つまり、「あなたは、他人に一体何をしてあげたか」、そこに、ほんとうの感謝行があります。
それは、やはり愛なのです。与える愛です。与えつづける愛です。無償の愛の実践なのです。これが、ほんとうの感謝行のあり方だといえます。そこで、ときおり、自分がいま、「愛する愛」の段階にいるのか、「許す愛」の段階にいるのか、それとも、「存在の愛」の段階に入ったのかを自問自答してみる。すなわち、自らの成長を自己観照してみることが必要です
なぜならば、愛の発展段階は、あなたの成長の確かなバロメーターであり、そこに、日々の進歩があるからです』
このように八正道による自己反省―「反省」と与える愛の実践による自己観照―「進歩」、この二本のモノサシが、仏の子としての本当の人生の証なのであることを本日学びました。
極めて重要な教えです。
また、後半の『永遠の法』では、光の性質と同時に闇の性質について主の教えをいだきました。これは重要論点です。根本仏である主エル・カンターレが、闇や悪の存在をどのように考えているかを知ることができる貴重な教えです。
特に印象的だったのは、
『闇という存在は、それ自体、消極的存在であることは事実です。闇というものが放射されて夜ができるわけではありません。闇が闇であるのは、光をさえぎっているからであり、間接的な媒介を通して闇は存在するのです。一方、「光は積極的な存在であり、働きかけるものである」と言うことができます。
どれほど強い光があっても、それをさえぎるものがあれば、闇ができます。光が強ければ強いほど、濃い闇ができます。たとえ一万燭光(しょっこう)の光を持ってきても、あるいはき百万燭光の光を持ってきても、岩陰に隠れたならば、その光はあたりません。光には「直進する」という性質があるので、さえぎるものがあれば、その光は行く手を閉ざされることになります。
善と悪についても、これと同じことが言えます。すなわち、「善は積極的存在であり、悪は消極的存在であると言うことができるのです。善はあって悪はないのかというと、一概にそうとは言えません。一定の間接的媒介を通して、消極的存在ではあるけれども、悪というものの存在がありうるのです」』
闇や悪存在は、光や善に付随する消極的な存在であり、光や善をより浮かび上がらせるためにその存在を許されていることがよく分かりました。
天上界の天使や菩薩そして如来は、四次元幽界の地獄領域と地上に巣くう地獄領域の解消に向けて日々精進を重ねていますが、宇宙の法が少しずつ説かれているなかで、闇宇宙や裏宇宙という存在も明らかにされています。
光と闇の存在はこのように地球の身にあるのではなく、宇宙規模において存在しています。ですから光の性質をしっかりと学び、それに付随する闇の性質を私たちはしっかり学ばなければならないと強く考えました。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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(11/17-1)【基礎教学通信】321【11月17日】『太陽の法』を読む54「エル・カンターレへの道」人生は日々の勝負なり―「幸福の科学発足にあたって」教えの中身で勝負【「本物」として選ばれる自信】―『永遠の法』光の性質
『太陽の法』
