(11/15-1) 【基礎教学通信】319『太陽の法』を読む52「エル・カンターレへの道」執着を断て―「幸福の科学発足にあたって」交渉中に、相手の憑依霊とも話さざるをえない状況を切り抜けてきた―『永遠の法』愛を超えるもの

『太陽の法』

59 部下は、部下であって、部下ではない。無能な上司には、いつも「反乱」を準備している。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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11月18日は、海外初転法輪記念日です。2007年11月18日に主は、ハワイ精舎において海外における初めての説法である『Be 
Positive』を説かれました。全世界伝道の第一歩を生まれ、主の教えは全世界に広がっています。主の御慈悲に心からの感謝と、全世界伝道の誓いを共にさせていただきます。

11月23日は初転法輪記念日です。初転法輪とは、今から39年前の1986年11月23日に、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生が、東京・日暮里の地(現初転法輪記念館)にて、初めての説法をされて、法輪を転じられたことです。

主のご説法は1986年11月23日の第1回目から2023年2月23日に賜りました『妖怪にならないための言葉』発刊記念対談にて、説法3500回を超えました。これは人類史に残すべき偉業です。

この聖なる日に仏弟子相集い、日暮里酒販会館にて賜った初転法輪よりこの日まで、全人類救済のために、不惜身命の覚悟で教えを説き続けてくださっている主に心からの感謝を捧げるとともに、たとえ何があろうとも、主の御名と主の教えを地の果てまでも伝えていく伝道の発願を捧げさせていただきます。

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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、主が初転法輪で説かれた御教えを共に振り返ってまいります。本日は1986年11月23日に東京は日暮里の酒販会館にて開催されました、主の初転法輪(最初の説法)にて説かれました御法話「幸福の科学発足にあたって」を引用して、我々弟子も原点回帰して主への感謝と報恩の誓いを新たにいたします。この御法話は経典『われ一つ立つ。大川隆法第一声』に所収されています。全国の支部や精舎・書店にてお求めいただけます。お持ちでない方はこの機会にご拝受ください。【税抜き1800円】
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■『われ一つ立つ。大川隆法第一声』第1章「幸福の科学発足にあたって」
3 地獄霊からの邪魔にも負けず、商社勤務をやり抜いた「私の修業時代」
〇交渉中に、相手の憑依霊とも話さざるをえない状況を切り抜けてきた
・銀行の外回りの方で、商談を断られた人には”お客さん”が憑いていた

それから、外回りしている銀行などは、得意先回りをして、六件ぐらい回ってきて、いろいろなところへ行って、みな断られて、夕方四時に私のところに来ることがありました。そして、「疲れた」と思って、コーヒーか何かを出されて、一杯飲みながら、「ああ、疲れた」と言って、どっかりと座っているわけです。

私は、その人を視て、「今日、六件回って断られましたね」と言おうかなと思ったのですが、「言ってはいけないな」と思って、「お疲れのようですね」などと言うと、「そうなんだよ」と言っていました。

そして、断られて帰ってきた方というのは、視てみると、やはり、”お客さん”を連れているわけです。そういう心の状態のときには、もう”お客さん”が来ているわけです。

一方、私も生身の人間なので、会社で仕事をして、午後の三時にもなると帰りたくなります。讃辞を過ぎて四時にもなれば、どうしようもなく、こちらも疲れています。そして、向こうも”つかれ”ています。向こうが「つかれている」というのは、「憑いている」ということで、字が違います。「憑依」のほうです(笑)(会場笑)。あちらは憑かれているわけです。

それで、話をしていると、変なものが憑いていると、何か、私も調子が悪くなるわけです。そのため、下をうつむいてしまったりすると、「どうして私を見てくれないのですか」などと言われ、「ちょっと、何か疲れてしまって」(会場笑)などと言っているうちに、憑いている人が、今度はまた話しかけてきたりします。

それで、うわの空で話をしていて、後ろに憑いている人と話をしているものですから、「何を離しているんですか?」などと言われて(会場笑)、「ちょっと独り言の癖があるんです。私は、大事な交渉をするときには、そういう癖があるものですから、気にしないでください。少し考えていたことがあるものですから」などと答えるようなことが出てきます。

〇会社勤めをしていても霊的な経験があるとつらいもの
あるいは、初めて会う人でも、名刺を頂ければ、「ちょっと待っていてください」と言って、会わずに名刺を見ていて、その人の守護霊を読んで話をすれば、その人はどういう人か、全部分かってしまうのです。ですから、こういうことを悪用しようとすれば、いくらでもできます。

私などは、今、「幸福の科学」がもし潰れても、おそらく、街頭で易者をやっても食べていけると思うのです(会場笑)。ですから、安心しているのです。

会社を辞めたので収入は全然入ってこないし、もう死んでしまうのではないかと思っていたのですが、「最後には易者をやってでも食っていけるな」と思って、もう安心してしまって、「失業保険などをもらおうかな」と思っていたら、天上界の霊人が「失業保険をもらうことは相成らん!」と言うわけです(会場笑)。

「なぜ、もらってはいけないのですか。私は、毎月、何千円か払っていましたよ。失業し立木のために、ちゃんと積み立てをしていたのですから、もらっても、全然悪くないでしょう」と言ったら、「いけない!もらってはいけない。そんなさもしい心では、人びとを導けない!飢え死にするまでは、お金をもらってはならない」というので、私は、この七月以降、もう三、四か月、ひもじい思いをして、「いつ貯金が尽きるか」と思っていたのですが、いろいな方の協力で、もちろん飢え死にはしていません。

そういうことで、会社勤めをしていても、霊的な経験がいろいろあると、結構辛いものです。

〇心の状態次第で狐にも蛇にもなるという地獄霊の実体を発見する
・畜生道に堕ちた人間霊である「犬神」に憑かれている上司がいた

このなかにも、霊感を持っておられる方はいらっしゃるはずです。また、霊的な現象もいろいろと起きているはずです。

霊感といっても、よいものがそんなに霊感をくれるわけがないので、よくない霊感のほうが多いでしょう。そういう、いわゆる「霊媒体質」というかたちになって、日常生活をやっていて大変な方も、おそらくいらっしゃると思うのです。「体の調子が悪いな」などと言っているかもしれません。

それでも、毎日会っている人の後ろに憑いているものがいろいろ視えたり、考えていることがわかったりするよりは、ましではないでしょうか。

例えば、私が会社に入ったころ、上司がちょうど”面白いもの”に憑かれていました。それは、関西のほう、特に四国のほうなどで言われる、「犬神」というものです。「犬神」というのは犬の霊なのですが、犬といっても、本当は犬ではありません。犬の格好をしているだけで、本当は畜生道に堕ちた人間霊なのです。

〇あの世では生きていたときの心の傾向に合った姿に変わる

人間は死獄に堕ちることもありますが、地獄のなかにもいろいろな地獄があって、いちばん有名なのは「色情地獄」でしょう。こういうものも有名で、みなさんのなかには、そのなかに足を入れかけている人もいるかもしれません。あるいは、「畜生道」もあります。「動物界」などともいいますが、こういう地獄もあります。

こういうところに堕ちると、人間はどうなるかというと、やはり、生きていたときの心の傾向に合わせたかたちに、だんだん体が変わってくるのです。霊というのは、一定不変のものではなくて、自由自在に変わります。心の状態次第で変わっていって、よい心を持てば、もちろん如来・菩薩のようになるし、悪い心を持てば、動物のようになっていくのです。

実際、人間は、狐に生まれたり、犬に生まれたりは、めったにするものではないのです。ただ、心の状態がそういう状態なので、あの世に還ってからは、地獄のなかで、そういう形をとることがあるわけです。

こういったれいが地上に出てきて、生きている人間に憑依をし、憑いているわけです。これを巷の霊能者たちは霊視して、「ああ、狐が憑いている」とか、「狸が憑いている」とか、「蛇が憑いている」とか言います。しかし、本当は蛇ではないのです。憑いているのは人間なのです。

人間なのですが、畜生道に堕ちて、蛇のような格好になっているわけです。それで百年も、二百年も蛇をやっているうちに、自分を蛇だと思い込んでしまい、本当に蛇だと思って、一生懸命巻きついているわけです。蛇だと思っているのですが、本当は蛇ではないのです。

〇人間の霊は動物の姿になってもいろいろな話ができる

それが蛇でない証拠に、霊道現象をやると、ちゃんと日本語をしゃべるのです。

本来、蛇がしゃべるわけがありません。狐もしゃべらないのです。犬もしゃべりません。しゃべるということは、人間なのです。

ところが、二百年も、三百年も、狐をやっていると狐のような気持ちになっていて、「出てきなさい」というと、「コンコン」などと言って出てきます(会場笑)。

「コンコン、コンコン」と言うのですが、「あなた、本当の名前を言いなさい」と言うと、少し言いはじめたりします。

そこで、「日本語をしゃべっているではないか。本当は人間なのでしょう?」と訊いたら、そのとおりなのです。本当は人間なのです。

もちろん、純然たる動物霊というものもいます。純然たる動物霊もいるのですが、動物霊は、やはり話はできません。「自動書記」でやっても、せいぜい、「〇マル」や「×バツ」を書くぐらいです。「おまえは犬か?」「×」、「狐か?」「〇」、「油揚げが食べたいか?」「〇」など、動物霊にできるのは、この程度です。本格的にいろいろな話をするのはやはり人間なのです。

〇普通の霊能者には「人間霊」と「動物霊」の区別がなかなか分からない
しかし、普通の霊能者には、それがなかなか分からないのです。

例えば、狐なら狐の霊が視えても、それをもう少しジーッと視ていると、その姿が人間に視えてくるわけです。そして、もっともっと視ると、「ああ、四百年ぐらい前に、この人はこのいうことをして死んだ人だな」と、ここまで分かるのです。

ところが、これが分からないから、いろいろな宗教を回ると、「狐が憑いている」「蛇が憑いている」と言われているわけです。でも、本当はそうではありません。本当は、たいていの場合は人間霊です。

純然たる動物霊というのは、たいしたことでありません。かわいいものです。自分のところで飼っている犬が地獄に堕ちたところで、それほど悪いことはできません。せいぜい、くっついて体の調子が悪くなるぐらいです。本当に悪いのは人間のほうなのです。


【大川隆法『われ一つ立つ。大川隆法第一声』第1章「幸福の科学発足にあたって」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、愛とは何か。仏法真理とは何か。悟りとは何か。ユートピア建設とは何かという根源的な問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第6章「エル・カンターレへの道」
2 執着を断て

自らを知るためには、自らをすてるということです。ほんものの自分を知るためには、にせものの自分をすてなくてはなりません。つまり、にせものの自分に気づくことが、にせものの自分をすてる第一歩となります。そこで、まず、にせものの自分というものを列挙してみようと思います。

一 他人から愛を奪いとる自分
まず、にせものの自分の筆頭とは、他人から愛をもぎ取ることばかりを考えている自分です。根本仏は、宇宙を与えられたのです。人間の魂も、人間の肉体も、仏から、与えられたのです。仏は、太陽も、空気も、水も、、そして、大地も、海も、動物も、植物も、鉱物も、いっさいがっさいを与えきりました。しかし、仏は、なんの報酬も求めてはいないのです。

このように、「与えきり」の世界のなかに生きておりながら、人間は、何ゆえに奪うことばかりを考えるのでしょうか。仏に、これだけの愛を与えられたら満足するというのでしょうか。

仏の愛を知らない人だけが、他人から愛を奪い取るのです。しかし、奪い取りたい他人の愛とは、、一体なんなのでしょうか。それはこの世的過ぎる評価でしょう。

この世的価値判断に一体何の意味があるのでしょうか。三次元的、唯物論的な評価をしてもらったところで、一体それが、なんの役に立つというのでしょうか。一体どれだけ、自分の向上に役立つというのですか。そのような自己愛の心は、他人と自分をへだてる壁となり、やがては、地球全体に、動物園のような金網の柵をはりめぐらすことになるのです。そういうことが、なぜわからないのでしょうか。すなわち、まちがった執着をもっているからです。だから、わからない。執着の心をもっていたのでは、ほんとうのしあわせというものを得ることはできないのです。

二 仏を信じない自分
もっとあわれむべきなのは、仏を信じていない人たちです。仏がつくられた世界を信じていない人たちです。人間とは、偶然に男女の性的結合の結果生まれて、バラバラの個人として生きているのだと思っている人たちです。ここに、最もあわれむべきにせものの自分があるのです。

「仏の救済などは信じられない。信じろというのならば、きちんと証拠を出してみろ」というような方は、すでに仏というものを裁いているのです。仏を裁けるほど、自分が偉いと思いあがっているのです。しかし、人間では、地球の誕生以前から人類を見守っている仏の存在を証明することなどできません。その証拠がほしければ、死んであの世に還ったあと、証拠を見せられるでしょう。ただし、そのときには、すでにほとんどが手おくれなのです。そして、真っ暗な世界で、自分の存在すら証明できなくなるほどの困惑に陥ってしまうでしょう。

三 精進をしない自分
にせものの自分の三番目とは、精進をしない自分です。精進をしない自分とは、第一に、怠け心のある自分であり、第二に、仏法真理を学ぼうとしない自分であり、第三に、他人を公平に見ない自分であり、第四に、素直でない自分です。

仏は、人間に、永遠の努力を期待しています。ですから、努力をしない人間は、仏の子とはいえません。

あなたは、日々、努力していますか。日々、仏法真理の勉強を深めていますか。他人の実力、他人の真価を、しっかりと評価してあげていますか。そしてまた、素直に生きていますか。素直でない人間には、向上などありません。素直でない人間は、真の魂の学習などできません。素直であるということは、それ自体が美徳であり、それ自体が仏の御心にかなっているのです。ですから、理屈ばかりをいって、他人のいう言葉に耳を傾けないのは、素直でない証拠です。

四 執着だらけの自分
いつわりの自分とは、すなわち、執着だらけの自分ということです。真実の自分を知るとは、日々、仏の心を心として生きるということです。そして、仏の心を心として生きるとは、この世が修行のための仮の世であり、すべてをすてて、やがてあの世へと還らなければならないことを知って、日々、生きるということです。たとえこの世にいくらしがみついたところで、やがては、必ずあの世へと旅立ってゆかねばならないということなのです。

人生は、無常なものであり、一日一生の思いで生きなければ、いつなんどき、死に見舞われるかもしれないのです。天国にいる人で、地上に執着をもっている人などひとりもおりません。しかし、地獄にいる人はすべて、地上に執着をもっている。その事実をいっときも忘れないことです。

【大川隆法『太陽の法』第6章「エル・カンターレへの道」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。

人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第4章 七次元の世界
10 愛を超えるもの

七次元世界を貫く「愛」について考えてきましたが、愛というものは、ある意味では相対的に働くものです。人間と人間との間に働き、人間と動植物とのあいだに働き、それらの間に生ずるものが愛です。それ自体での愛、そうしたものではなかなかありえないのです。

たとえば宝石はそれ自体で輝きを持っていますが、愛はなかなかそうはいきません。相互に通い合う愛、お互いに与えあう愛―。ここに愛の本質があるようです。

といっても、相互の相対的な愛だけがほんとうの愛なのではありません。燦然と輝くダイヤモンドのように、あるいは、朝日の光を受けてキラキラと輝く水晶のように、そこにあるだけで燦然とした光を放つような愛も、やはりあるのではないでしょうか。この愛は、人間同士の愛、人間と動植物との愛、あるいは鉱物や物体に対する愛を越えたものではないでしょうか。

愛を超えるものとは、いったい何でしょうか。これに対する答えを出さなければならないでしょう。愛を超えるもの―それは「慈悲」です。

ダイヤモンドは燦然と輝いていますが、何かをもらいたくて輝いているわけではありせん。ただ永遠に輝いているのです。

誰かから何かを与えてもらうためにではなく、ただ輝いているなかに、愛を超えた大きな愛があります。無償にて与えつづける愛、毅然として存在する愛―この愛のことを慈悲といいます。

たとえば、山間の渓谷を歩いていると、ひと息ついたとき、岩間にツツジやスミレの花が美しい色合いで咲いていることがあります。スミレの花はなぜ美しいのでしょうか。花火が咲くのは何のためなのでしょうか。

花は、咲いているということ自体のなかに、一つの存在を埋め込んでいます。そして、存在の重大さ、価値というものを、人びとに問いかけているのではないでしょうか。

谷間のユリのように、ただ咲いている。ダイヤモンドのように、ただ光っている。ここに愛を超えるものの存在を感じます。

与えあうものではなく与えきるもの、存在自体が愛であるようなもの―これを慈悲というのです。慈悲とは、相手の存在にかかわらず価値があるものです。愛を超えるものとは、この慈悲なのです。

結局、慈悲とは「存在の愛」であり、存在そのものが愛となる、その人がいることだけで愛となるようなものです。

こうした存在の愛は、結局のところ、仏に近い境涯なのです。仏は在るだけで、愛を万物に与えていくのではないでしょうか。仏が存在すること自体が万物への愛なのではないでしょうか。

存在の愛としての慈悲―これが人と人との間に生ずる愛を超えるものです。だからこそ、みなさんはこの慈悲の世界へと踏み入っていかねばならないのです。

【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第4章「七次元の世界」より抜粋】
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「にせものの自分を発見して、その発生原因である執着を断つこと」―これは心の修業は悪の発生原因である六大煩悩を解消するうえで最大の力になるのではないかと思います。その意味においては、悟りを得るための仏道修行における最重要な課題といえます。

にせものの自分とは以下の四つが挙げられています。
1 他人の愛を奪い取る自分
2 仏を信じない自分
3 精進をしない自分
4 執着だらけの自分

にせものの自分を見破ることが、真なる自己に目覚める最大のきっかけです。
精進しない自分の問題点に素直さがないことが挙げられていますが、経営者の松下幸之助も、事業経営で大切なのは、素直さであることを取り上げています。仏道修行においても、仕事や企業経営においても、素直さが大切であることが分かります。

ところで以下の教えは、経典『地獄の法』にも一脈通じる教えではないでしょうか。

『仏の心を心として生きるとは、この世が修行のための仮の世であり、すべてをすてて、やがてあの世へと還らなければならないことを知って、日々、生きるということです。・・・
人生は、無常なものであり、一日一生の思いで生きなければ、いつなんどき、死に見舞われるかもしれないのです。天国にいる人で、地上に執着をもっている人などひとりもおりません。しかし、地獄にいる人はすべて、地上に執着をもっている。その事実をいっときも忘れないことです』

本日の学びは、幸福の科学の教義を学ぶ上でも、極めて重要であると考えます。執着を断つことは、天国世界への道が開かれることであり、同時に地獄界の解消に直接結びつきます。繰り返し読み返す同時に、必ず習慣として身につけたいところです。

後半の『永遠の法』では、愛を超えるものは「慈悲」であることを学びました。
最後の言葉はとても感動的です。

『与えあうものではなく与えきるもの、存在自体が愛であるようなもの―これを慈悲というのです。慈悲とは、相手の存在にかかわらず価値があるものです。愛を超えるものとは、この慈悲なのです。

結局、慈悲とは「存在の愛」であり、存在そのものが愛となる、その人がいることだけで愛となるようなものです。
こうした存在の愛は、結局のところ、仏に近い境涯なのです。仏は在るだけで、愛を万物に与えていくのではないでしょうか。仏が存在すること自体が万物への愛なのではないでしょうか。

存在の愛としての慈悲―これが人と人との間に生ずる愛を超えるものです。だからこそ、みなさんはこの慈悲の世界へと踏み入っていかねばならないのです』

私たちも、精進に精進を重ねて、ともに愛を越えた慈悲の力に目覚めるときまで、愛を与えつくし、見返りを求めない美しい心を取り戻しましょう。それは日々に隣人に愛を与えることから始まるのだと強く思いいます。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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