(11/14-1)【基礎教学通信】318『太陽の法』を読む51「エル・カンターレへの道」目をひらけ―「幸福の科学発足にあたって」一九八一年三月二十三日、自動書記で『イイシラセ』と書き続ける―『永遠の法』魂の違い

『太陽の法』

58 お客様は神様だ。しかし時に暴君になる。その際は、腰低く、ていねいに、説得せよ。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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11月18日は、海外初転法輪記念日です。2007年11月18日に主は、ハワイ精舎において海外における初めての説法である『Be 
Positive』を説かれました。全世界伝道の第一歩を生まれ、主の教えは全世界に広がっています。主の御慈悲に心からの感謝と、全世界伝道の誓いを共にさせていただきます。

11月23日は初転法輪記念日です。初転法輪とは、今から39年前の1986年11月23日に、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生が、東京・日暮里の地(現初転法輪記念館)にて、初めての説法をされて、法輪を転じられたことです。

主のご説法は1986年11月23日の第1回目から2023年2月23日に賜りました『妖怪にならないための言葉』発刊記念対談にて、説法3500回を超えました。これは人類史に残すべき偉業です。

この聖なる日に仏弟子相集い、日暮里酒販会館にて賜った初転法輪よりこの日まで、全人類救済のために、不惜身命の覚悟で教えを説き続けてくださっている主に心からの感謝を捧げるとともに、たとえ何があろうとも、主の御名と主の教えを地の果てまでも伝えていく伝道の発願を捧げさせていただきます。

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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、主が初転法輪で説かれた御教えを共に振り返ってまいります。本日は1986年11月23日に東京は日暮里の酒販会館にて開催されました、主の初転法輪(最初の説法)にて説かれました御法話「幸福の科学発足にあたって」を引用して、我々弟子も原点回帰して主への感謝と報恩の誓いを新たにいたします。この御法話は経典『われ一つ立つ。大川隆法第一声』に所収されています。全国の支部や精舎・書店にてお求めいただけます。お持ちでない方はこの機会にご拝受ください。【税抜き1800円】
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■『われ一つ立つ。大川隆法第一声』第1章「幸福の科学発足にあたって」
1 三十歳にして立つ―「大川隆法第一声」
〇一九八一年三月二十三日、自動書記で『イイシラセ』と書き続ける

最初に私のところへ訪ねてきたのは、日興聖人という方で、一九八一年三月二十三日です。「日」が「興(おこ)る」と書きます。「興(おこ)す」というのは、「法を興す」の「興す」です。日興聖人という方ですが、この方が最初に私のところに訪ねてきました。

ちょうど、今日のような、うららかな日でした。三月二十三日ですから、「春分」のあたりであったと思います。月曜日の午後に、私はのんびりと何もしないで、座椅子にかけて音楽を聴いていたわけです。

そして、三時ごろになりましたでしょうか。何か心のなかがそわそわとしてきたのです。何かそわそわとしてきて、「何かが私に何かを伝えようとしている」ということが分かったのです。そういう感じがしました。

何か胸の内から伝えるものがある。けれども、これが何かわからない。「何か霊的なものだ」ということは、はっきりと分かったわけです。

そのときには、まだ宗教の専門家でもないし、何もわかりませんでした。とにかく何かを伝えたい人がいることを感じたので、とりあえず、身の回りにあるものを探したわけです。

白いカードが百枚ぐらいあったので、それを取り寄せました。そうすると、次に鉛筆を持ちたくなったのです。何かわからないけれども鉛筆を持ちたくなって、鉛筆を持ちました。

カードを目の前に置いて鉛筆を持つと、手が動いていくのです。そして、カードの上で鉛筆が走り出したわけです。

何を書いているかというと、カタカナで「イイシラセ」「イイシラセ」と書いてあるのです。

「イイシラセは分かったから、何を知らせるのか言ってみなさい」と私が言っても、次のページをめくると、また「イイシラセ」と書くのです。三枚目を書きましたが、やはり「イイシラセ」です。何枚も「イイシラセ」と書くのです。

私は、とうとう根が尽きて、「もうイイシラセはいいから、あなた、誰なのか名乗ってみなさい。誰かが来ているのは分かっている。霊的なものがあるのも私は知っている。だから、あなたが霊であることはわかっている。自動書記で書いているのも分かっている。だから、誰なのか、名前をはっきり言いなさい」と、そのとき、そのように言ったわけです。

そうすると、最後に署名しました。カードの十枚目ぐらいです。「イイシラセ」ばかり、さんざんかいてきて、最後にカタカナで「ニッコウ」と書いたわけです。

〇日蓮聖人から臨んだ「人を愛し、人を生かし、人を許せ」という言葉
・日蓮聖人の弟子の通信を受け、最初は「自分の過去世」日蓮だと思う。

ただ、「ニッコウ」というのは、私は全然分からなかったのです。華厳の滝(栃木県日光市)は知っていますけれども(会場笑)、「ニッコウ」というのは誰かなと思って、よく考えてみました。そうすると、「日光菩薩」とか、「月光(げっこう)菩薩」か「月光(がっこう)菩薩」か知らないけれども、奈良かどこかにある、あの類かなと思ったわけです。

それで、てじかに『広辞苑』があったので、辞書を引いて、「ニッコウ」というところを開いて調べたわけです。そうすると、日興菩薩もあったけれども、そうではなく、どうやら、日蓮の弟子で「日興上人」という方がいて、「これか」と思ったわけです。そして、そういう方が出てきたので、てっきり「これは日蓮宗系統だな」と私は思ったのです。

「日蓮宗」というと、「創価学会だ」とすぐ思うでしょう。みなさんのなかには創価学会の方もいらっしゃるかもしれませんから、批判は言いたくなないのですが、「創価学会」というと、それほどよいイメージは持っていなかったのです。それで、「創価学会か。それは困った。過去世で日蓮宗でもやっていたのかな」と思たわけです。

そして、最初は日興でしたが、そのうち、「日頂(にっちょう)」と名乗る方からも最初に通信があったのです。ところが、この人は本当は日頂ではありませんでした。

日頂というのは、日蓮六老僧の一人なのですけれども、最初は、そういう名前を言って通信してきた霊がありました。日頂も、日蓮の本を読んで調べてみると、「六老僧」とあって、「日朗、日持、日興、日向、日頂、日昭」と、いろいろいます。六人いたわけです。それで、「このなかの一人らしいな」ということが、私は調べて分かったのです。

日興上人が出て、日頂がでたので、「私は誰かな」と考えました。「もしかして、日蓮上人その人かな」と最初は思ったわけです。こういうふうに、日蓮宗の人が出てくるから、「もしかしたら、その人かな」と。そのわりには、他団体等で、「地獄に堕ちた」などと言われたこともあったりして(笑)(会場笑)、ずいぶんひどいことをやっていると思われていたようですから、「困ったな」などと思っていたわけです。

〇私の教えの出発点となった三箇条
ところが、その日頂という人としばらく話していると、「違うな」と分かったのです。しばらくすると、「これは違う。日蓮だ」ということがわかったわけです。そして、「そのとおり」ということでした。それは、一、二週間もたってからでした。

最初から「日蓮だ」と言うと、誰も信用しないわけです。「日蓮聖人が通信した」などと言っても、誰も信じないでしょう。私が精神病院に行っているほうが早いかもしれません。ですから、言わなかったわけです。日蓮の弟子というかたちで、まず入ってきたわけです。

そして、その日蓮が、最初に私に教えてくれたことが、「あなたは、まずこれを教えの出発点としなさい。それは何かというと、『人を愛し、人を生かし、人を許せ』。この三つ、この三箇条の教えが、あなたの出発点にたぶんなるでしょう」ということを言われたのです。今から五年八か月前です。(1986年説法当時)

3 地獄霊からの邪魔にも負けず、商社勤務をやり抜いた「私の修業時代」
〇「教え」と「現実」のギャップに苦しんだ新入社員時代

ところが、私は、商社で、まだ新米でウロウロしていました。
「人を愛し、人を生かし、人を許せ」と言われて、「うん、なるほど。それは正しいことだ」と思いましたが、新入社員あたりで、「人を許そう」などと思っていると、「この野郎、生意気だ」などと言われて、さんざん先輩から怒られたりします。

「『人を愛する』。何を言っているんだ。まだ、女の子でも愛していなさい」などと言われてしまって、全然駄目なわけです。「”人を生かす”など十年早い」ということです。「人を生かす」などというのは、課長にでもなってからいうのならいいでしょう。

そういうことで、教えは分かったものの、実践になると、全然できないわけです。

そして、「私はこういうことを少し悟ったから、これを毎日の生活で生かしたい」と思ったのですが、それをやろうとすれば、「何様だと思っているんだ。あなたね、どこか仏様か神様みたいな顔をして、どんなつもりでいるの」というようなものです。「入社して一年目、二年目というのは、こんなのはもう”ペーペー”だよ。もう紙屑みたいなものだ。丸めてごみ箱に捨てれば、それで終わりだ」という感じで言われていました。

もちろん、そうでしとょう。まさか、日蓮聖人がでてきて話をしているような人が、後輩にいるとは思わないはずです。もう、そんなことを言ったらたいへんなことになります。「何かおかしいのが一人入ってきたから、早めに会社の専門委か何かに回す方がいい」と言われるのは間違いありませんから、絶対に言えません。

〇相手の考え方が分かり、憑依霊が視えながらも、六年近く会社生活を送る
・霊視能力によって「憑依霊」が視えてしまう苦しさ

こういうことで、私は、”修行”というものは行いませんでしたけれども、会社の中に入って、六年近く、そういう状態でやっていたということが、”一つの修行であった”と思うのです。

それで、困ったことがいろいろあるのです。会社のなかですから、いろいろな方と一緒に座っています。隣の方もいるし、前の女性とか、いろいろと座っています。座っていると、仕事をしているのですが、何か、相手の考えていることが、どんどんどんどん伝わって来るのです。「この人、悪いことを考えているな」などと、すぐにわかってしまうわけです。「何か、いろいろと言っているな」とか、「よく思っていないな」とか、いろいろと分かってきます。

ただ、それはまだいいのです。そのくらいはまだよいのです。心のなかが分かるぐらい、どうでもいいのです。

もっと悪いのは、もう、その人に”お客さん”で来ている人が見えてしまうことです。【※オブラートに包んだ表現ですが、憑依霊のことです】パッと視ると、「動物が、なぜこんなところにいたのかな」と思うのですが、「よく視たら人間だった」と。視ていたのは、その人ではなくて、その人の後ろに、ちょこんと座っている人なのです。ちょくこんと座っている”お狐さん”などは、よくいます。

こういうものが、チョッと肩の上に手を置いて、尻尾をユサユサッと振っていると、これはたまったものではないわけです。こういう霊視能力というのは、とんでもないのです。こんなものが見えていたのでは、もう地獄です。

〇自分を騙そうとする相手の考えに、思わず笑ってしまって苦労した
最初の頃は、そういう事務仕事をやっていたのですが、三年、四年、五年となって都市が重なってくると、少し楽になって、後輩が入ってくるものですから、「少し判断的な業務もやらせてやるか」「少し折衝業務もやらせてやるか」ということで、人と会って交渉をするような仕事をだんだんやるようになりました。

会社では、財務関係で下から、銀行の方とよく会っていたわけです。銀行の次長や支店長など、いろいろな方が来て、応接間へ入れて、「まあ、どうぞ」などと言って話しているのですが、このときに、やはり困るのです。

相手の考えていることが、みんな分かってしまうのです。「こいつは、どうも、若いから分からんみたいだな。ちょっと引っ掛けて、金を高く貸してやろうか」などと思っているのです。分かってしまうのです(会場笑)。

それで、クスクス笑っていると、「何を笑っているんですか」と言われるので、ちょっとお腹が痒(かゆ)くって」などと言いながらやっているわけです(会場笑)。相手の考えていることがわかってしまうのです。

【大川隆法『われ一つ立つ。大川隆法第一声』第1章「幸福の科学発足にあたって」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、愛とは何か。仏法真理とは何か。悟りとは何か。ユートピア建設とは何かという根源的な問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第6章「エル・カンターレへの道」
1 目をひらけ

みなさん、あなたがたは、一回や二回、地上に生まれてきたような存在ではないのです。第5章で、ここ百万年ほどの歴史をふりかえりましたが、あれだけの文明の興亡があり、あれだけの大陸の浮沈があったのです。それぞれの文明に生まれていた人間は、あなたがたとはまったく別の人間だったのでしょうか。降ってわいたように、人々が出てきたのでしょうか。

そうではありません。それぞれの文明に生きて、アトランティス人やムー人だったのは、実は、ほかならぬあなた方自身だったのです。あなたがた自身の魂の奥にある記憶の宝庫のなかには、過去、何十、何百の文明に生まれ変わった記憶が厳としてあります。霊能をもった特殊な人だけにあるのではありません。それは、すべての人に、平等に与えられている、魂の記憶なのです。しかし、人間は、永年の転生輪廻の過程でつちかったそうした英知を、肉体に宿ったという、ただそれだけの事実で忘れてしまったのです。

あなたがたが、自分自身だと思っているものは、あなたがたのほんものではなくて、ぬいぐるみにしかすぎません。肉体とは、魂がこの世で修行を積むためののり舟であり、自動車の運転手があなた自身であって、舟や自動車は、あなた自身ではないのです。

そこで、自分の肉体をあやつっている、もう一人の自分というものに、目覚めていただきたいのです。本当の自分自身にめぐり合っていただきたいのです。

わずか、十年や二十年の学校教育を受けた知識をもって、世界のすべてがわかったなどと思ったら、とんでもない間違いなのです。自分自身で、ほんとうの自分というものを探究しなければ、一体だれが、おせっかいにもそれを教えてくれるというのでしょうか。ほんとうの自分にめぐり合うためには、自分自身で、本当の自分とは何かを探究するしかないのです。

では、本当の自分に出会うとは、どういうことでしょうか。それは、すなわち、魂の真実に気づくことです。そして、魂の真実に気づくためには、自らの心を徹底的に探究しなくてはなりません。自分で自分の心を探究しないで、一体だれが、その真実を教えてくれるというのでしょうか。あなた自身が、あなたの真実の姿を語られずして、一体だれが、それを語ってくれるのでしょうか。「悟り」とは、ほんとうの自分自身に出会うことです。ほんとうの自分の真実なる心を自分自身で語れることです。つまり、これが「私だ」といいきれることなのです。

人間の魂は、仏からわかれて来たものであり、仏の自己表現の芸術であると、言ってよいでしょう。ところが、人間は、創造の自由と、行動の自由とを与えられたことから、孫悟空のまねをして、わがままいっぱいに生きてきました。そして、いつのまにか、親である仏のことを忘れ、仏の心を忘れ、自我我欲と煩悩のままに、地上生活を営むようになってしまったのです。実在界の天国よりも、この地上界に執着を感じはじめたときに、人間の堕落は決定的となりました。だから、地上界そっくりの欲望と闘争の世界をあの世につくり、それが地獄となってしまったのです。

自らを知るとは、自らが仏の子であることを知るということです。仏の御心を知るということなのです。そして、目をひらくとは、自らの霊性に気づき、四次元以降の実在界の存在に対して心をひらくということなのです。

もしあなたが、現在の自分に満足し、現在の人間観に満足しているならば、居眠りをしていても結構です。しかし、真実目をひらきたいならば、まず自らの心を探究することからはじめるべきです。仏の国への手がかりは、そこにあるからです。

【大川隆法『太陽の法』第6章「エル・カンターレへの道」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。

人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第4章 七次元の世界
9 魂の違い
ここで、魂の違いについても考えておきましょう。

人間の魂は仏の愛を受けるための器であると言えます。この器が小さいと、すぐにあふれてしまいますが、大きな器には仏の愛がたっぷりと宿るのです。

貯水池のダムでさえ、満々とたたえた水が流れ落ちるときの力でもってタービンを回し、電力を起こしているではありませんか。それと同じように、人間も魂の器の大きさに合わせた「貯水池」を持っていて、たまった水の量に合わせた発電を行っているのです。

最大の貯水池を持っている魂は、九次元にいる救世主たちです。彼らは、満々と水をたたえた、他とは比較にならないほど大きな貯水池を持っているのです。だからこそ、彼らがその貯水池から放出した水は、素晴らしい勢いでもって流れ落ち、タービンを回しているのです。かくして最大の水力発電が起き、この電力が全世界に伝わっていくのです。

このように、魂の違いによる愛の実践の差は、貯水池の水量の違いによる発電力の差と考えてもいいと思います。

また、水の落下する力を利用して水力発電を起こすのですから、貯水池が高いところにあればあるほど、つまり落下距離が長ければ長いほど、発電力も大きいということになります。

しだかって、魂の高さも大切です。魂が高い境涯にあれば、すなわち、一段と高い人格を持っていれば、流れ落ちる水の勢いが大きく、多くの電力を生み出すことができるのです。

それゆえ、より大きな愛を受けられる自分をつくるためには、「大きな器をつくる」「人格的な高さをつくる」―この二つに勢力を注がなければいけないのです。

大きな器をつくるとは、努力して、広い大きな人格をつくっていくことです。包容力を大きくしていくこと、すなわち、全てのものを包み込み、抱き城るような大いなる包容力を築いていくこと、これが修行の一つです。

さらにいま一つの修業は、ダムを高くしていくこと、すなわち、刻苦勉励して、自分の魂を一歩一歩、仏の方向へと高めていくことであり、この作業が、悟りを求める魂修行でもあるのです。

では、悟りとは、いったい何なのでしょうか。何をもって悟りというのでしょうか。悟りとは、実は、仏法真理を吸収し、それを実践していくときに得られる「魂の糧」なのです。仏法真理の吸収と実践を通して得られる糧、経験―これが悟りです。

したがって、みなさんは常々、仏法真理を吸収しつつ、それを実践し、行いに現わして、そのなかで愛を広げていく必要があります。そして、包容力を増し、魂の高さを高めて、広大な貯水池をつくっていかなくてはならないのです。

【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第4章「七次元の世界」より抜粋】
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本日前半の『太陽の法』では、悟りの第一歩である霊的人生観の大切さについて珠玉の言葉がたくさんありました。

『あなたがたが、自分自身だと思っているものは、あなたがたのほんものではなくて、ぬいぐるみにしかすぎません。肉体とは、魂がこの世で修行を積むためののり舟であり、自動車の運転手があなた自身であって、舟や自動車は、あなた自身ではないのです。』

また、以下の言葉も大変感動的な教えでした。

『では、本当の自分に出会うとは、どういうことでしょうか。それは、すなわち、魂の真実に気づくことです。そして、魂の真実に気づくためには、自らの心を徹底的に探究しなくてはなりません。自分で自分の心を探究しないで、一体だれが、その真実を教えてくれるというのでしょうか。あなた自身が、あなたの真実の姿を語られずして、一体だれが、それを語ってくれるのでしょうか。「悟り」とは、ほんとうの自分自身に出会うことです。ほんとうの自分の真実なる心を自分自身で語れることです。つまり、これが「私だ」といいきれることなのです』

『自らを知るとは、自らが仏の子であることを知るということです。仏の御心を知るということなのです。そして、目をひらくとは、自らの霊性に気づき、四次元以降の実在界の存在に対して心をひらくということなのです

もしあなたが、現在の自分に満足し、現在の人間観に満足しているならば、居眠りをしていても結構です。しかし、真実目をひらきたいならば、まず自らの心を探究することからはじめるべきです。仏の国への手がかりは、そこにあるからです』

本日の学びは、まさに、人生を変える一転語ばかりです。悟りの世界を分かりやすい言葉で教えて下さっている点においては、幸福の科学の教義を学ぶ上で、極めて重要であると考えます。繰り返し繰り返し読み返したいところです。

また、後半の『永遠の法』では、魂の容量について『人間の魂は仏の愛を受けるための器であると言えます。この器が小さいと、すぐにあふれてしまいますが、大きな器には仏の愛がたっぷりと宿るのです』と教えていた頂き、高次の魂になるほど仏から受け取るエネルギーの量が多いということを学びました。

これを貯水池の水力発電に例えられている点とても分かりやすかったです。

『魂の違いによる愛の実践の差は、貯水池の水量の違いによる発電力の差と考えてもいいと思います。

また、水の落下する力を利用して水力発電を起こすのですから、貯水池が高いところにあればあるほど、つまり落下距離が長ければ長いほど、発電力も大きいということになります。

しだかって、魂の高さも大切です。魂が高い境涯にあれば、すなわち、一段と高い人格を持っていれば、流れ落ちる水の勢いが大きく、多くの電力を生み出すことができるのです。

それゆえ、より大きな愛を受けられる自分をつくるためには、「大きな器をつくる」「人格的な高さをつくる」―この二つに勢力を注がなければいけないのです』

私たちは、仏法真理学習と与える愛の実践によって魂の器を大きくしながら、悟りによって人格を高めていくことで、より大きな力を隣人を救い助けることに使うことができることを学びました。日頃の教学・反省・瞑想・祈りの生活における心修業の指針にしてまいりましょう。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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文責:蒲原宏史 

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