45 田は分割したら、収穫が少なくなる。しかし、事業は分割したら、それぞれに大きくならなければならない。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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■『悟りの挑戦(下巻)』第3章「涅槃とは何か」
2 仏陀の「燃える火の説法」
では、この「涅槃」について、さらに詳しく述べてみましょう。「涅槃」の原語「ニルヴァーナ」とは、吹き消すこと、あるいは吹き消した状態のことを意味します。これを漢語では「滅尽」ということもあります。
それでは、何を吹き消すのかというと、迷いを吹き消すことを言うのです。迷い、あるいは迷いとして象徴されるような煩悩の炎、火を吹き消すことを言うのです。
その煩悩の火とは、いったい何でしょうか。代表的なものが、いわゆる、「心の三毒」―「貪・瞋・癡」です。これが煩悩の代表とも言うべきものです。
煩悩とは、悪しき精神作用の総称のことなのです。煩悩は、「百八煩悩」というぐらい、数えたらきりがないほどたくさんありますが、要するに、人間から発される悪しき精神作用のことです。マイナスの波動、発想、考え方、それに基づく行動、このような精神作用を総称して煩悩といいます。
その代表選手が、この「貪・瞋・癡」という心の三毒です。これは、別の言葉では「三火(さんか)」―三つの火ということもあります。
この「火」が象徴するものは、いったい何でしょうか。
仏陀の有名な説法に「燃える火の説法」というものがあります。これはイエスの「山上の垂訓」に比べられることがよくある説法です。
当時、「事火外道(じかげどう)」という火を司る外道(「外道」とは仏教徒ではないもののこと)に、ウルベラ・カーシャパ(ウルヴェーラ―・カッサパ)を筆頭とするカーシャパ(迦葉・かしょう)の三兄弟がいて、彼らは千人ほどの弟子を持っていました。ところが、まだ数十人ぐらいの弟子しかいなかった仏陀が、火を拝み火祭りをしているこのカーシャパ三兄弟を折伏して、仏教教団が一挙に千人以上の教団に膨れ上がるという事件があって、これで仏教教団は一挙に有名になったのです。
そのときに、この事火外道たちを集めて、仏陀は次のように説法しました。
すべての世界は燃えている。
この世を見よ。すべては燃えている。
ありとしあらゆるものが燃えている。
何の炎によって燃えているか。
人間の心から発される煩悩の炎によって燃えているのである。
火というものは、そのように燃えさかる煩悩を象徴するものである。
火を尊んではいけない。
あなた方は、火を尊いものとして修行してきたけれども、
火そのものは尊いものではない。
火そのものは、
まさにあなた方の心のなかにある煩悩が燃えさかっている様そのものであって、
この火をありがたがっていけないのだ。
この火を消すことこそ、大切なことであるのだ。
すべての世界は、
あなた方の煩悩によって、
人間の煩悩によって燃えているのだ。
それが、この世の苦しみの根源なのである。
その火を吹き消した状態こそ、
本当に、静寂な、清浄な、聖い境地であって、
それこそが修行者の求めるべき境地であるのだ。
だから、あなた方は、間違った教えを今まで行じていたのだ。
これからは、わが教えに従い、
そして正しい修行をなしなさい。
このような趣旨の説法をしたのです。これが「吹き消すこと」とう言葉の意味になると思います。
要するに、人間というのは、「貪(とん)」―足ることを知らない欲望のかたまりになっています。また、「瞋(じん)」―すぐ怒ります。自分に気に入らないことがあると、カッと怒ります。手に入らないことがあると、すぐに怒ります。そして、「癡(ち)」―これは愚かさの代表です。「愚痴」は、現代語では不平不満のことを言いますが、もともとは「愚かなこと」という意味なのです。愚かであるからこそ、それが言葉になって出てくるのです。
こうした貪(むさぼ)りの心、瞋(いか)りの心、愚(おろ)かな心、これが人びとを苦しめている元凶であるわけです。
【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』第3章「涅槃とは何か」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、愛とは何か。仏法真理とは何か。悟りとは何か。ユートピア建設とは何かという根源的な問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第4章「悟りの極致」
8釈迦の悟り(1)―大悟
九次元宇宙界の悟りに入る前に、二千数百年前、インドで、ゴータマ・シッダールタ、すなわち、釈尊の得た悟りについて、まず、お話ししましょう。
釈迦は、二十九歳で出家します。それから、六年間の難行苦行のはて、苦行をすて、菩提樹の樹の下で悟りをひらいたのは、三十五歳のときです。彼は、約一週間にわたる禅定ののちに、ある夜、夜中の一時ごろから深い定に入ってゆきます。そして、そのときに得た悟りというのが、つぎのようなことでした。
「私は、長年にわたって、食べるものもろくに食べず、飲むものもろくに飲まず、肉体を極限まで苦しめぬいたときに、精神的な飛躍が得られる―悟れると思って苦行をやってきた。
妻ヤショーダラー、子ラーフラをすて、父王シュッドーダナのあとつぎの願いをふりきって、カピラヴァスツにいたころの私は、筋骨隆々で、文武両道にひいでていたが、今の私の姿はどうだろう。あばら骨は浮き出し、目は落ちくぼみ、肉体は骸骨のようだ。
もし肉体を苦しめることが人生の修業ならば、人間は、肉体に宿って生まれてくること自体が間違いではないのか。もし本仏(※主エル・カンターレのこと―釈迦牟尼仏の魂の本体)が私たちの肉体を否定することを願っているならば、自殺者こそ、最高の覚者といえるだろう。
しかし、自殺によって得られる結果はなんだろうか。大宇宙の法則は、原因―結果の連鎖のなかにあり、悪しき種をまけば、悪しき実を刈り取らなければならないことは確実である。自殺によって、苦しみという新たな原因をつくれば、あの世の地獄界でも、のたうち回るような苦しみが待っているにちがいない。自分自身の肉体を苦しめる難行苦行は、緩慢なる自殺行為そのものではないか。
仏の境地がやすらぎの境地であるならば、苦行のなかにはやすらぎはない。苦行のなかには悟りの因はない。六年間の修行の結果、私の得たものは、人目をおどろかすような醜悪な容貌と、眼光鋭く人を射るようなまなざしだけだ。苦行によって得られるものは、厳しさだけであり、他人に対して向けられた矢のような厳しい視線は、そのどこにも、愛と慈悲の片鱗さえうかがわれない。
自分自身の心が安らいでいないで、自分自身の心のなかに幸福感なくして、一体どうして他人に対して、真にやさしくし、真にいたわることができようか。
しかし、自分のなかの幸福感とは、一体何か。カピラヴァスツにいたころ、王子として、皆のものからちやほやされ、金も、女性も、物質も、何もかも自分の自由になったとき、果たして、私の心のなかには幸福感があっただろうか。
そこにあったのは、ぬるま湯的けだるさであり、私の心はつねに飢え、つねに渇いていた。いろんな人々の思惑だけがあれこれと入り乱れ、私の心は、つねに葛藤のなかで揺れ動いていた。やがては必ず王となる自分の身の上。そのときは、カピラヴァスツの人々を率いて、隣国とも戦い、その結果、多くの人々の血が流れることとなろう。
この世的な地位や名誉を求めても、そこにあるのはむなしさだけだ。カピラヴァスツの日々は、私にとって、決して幸福な日々ではなかった。精神的には満たされず、不安と、焦燥ばかりがつのっていた。停滞と惰性のなかに、人間のしあわせはない。人間のしあわせは、日々、精神的に進歩するなかにある。この世的に立身出世ではない。本仏の心にかなった、自分自身の霊性・仏性の向上のなかにこそ、本仏の子として生まれた人間の本当のしあわせはあるのだ。
本仏の子・人間としての本当の悟り、本当のしあわせは、優雅な王宮の生活のなかにはなく、極端な難行・苦行のなかにもない。極端に肉体を喜ばす生活のなかにも、極端に肉体を痛めつける生活のなかにも、本当の悟り、ほんとうのしあわせ、ほんとうの心のやすらぎはありはしない。
真の人間の生き方は、左右の両極端をすて、中道のかなに真理を発見してゆく生き方である。人間として均整のとれた生き方のなかにこそ、中道があり、そこにこそ、苦楽を去った大調和の世界が現出するのである。
人間がほんとうにめざしている生活は、大調和の世界であり、すべての人が苦楽の両極端をすてて中道に入り、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく行為をなし、正しく生活をし、正しく精進し、正しく念じ、正しく定に入るという八正道を実践してこそ、ほんとうの心の王国ができ、ほんものの仏国土ができるのである。
そして、人間のほんとうのしあわせとは、日々の精神的よろこびのなかにあり、日々の精神的向上のなかにあり、八正道の奥を極めてゆく途次にこそ、幸福感は高まってゆくのである」
【大川隆法『太陽の法』第4章「悟りの極致」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。
人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第3章 六次元の世界
6 ダイヤモンドの原石
「永遠の旅人」という話をしてきましたが、このことについて、さらに話を続けていきましょう
人間は永遠の旅人として、魂の進化を求めている存在です。ここで、多くの人びとの心に浮かんでくる疑問は何でしょうか。
なぜ高級霊と低級霊という区別があるのか。なぜ偉い人と偉くない人がいるのか。なぜ、光の指導霊といわれる霊と、そうでいない平凡な霊がいるのか。仏は人間を平等に愛しておられるはずなのに、おかしいではないか―。
こうした疑問が、ふつふつと心の底から浮かんでくるのではないでしょうか。それに対する答えが、本節の表題でもある「ダイヤモンドの原石」ということなのです。
人間は誰もが磨けば光るダイヤモンドとして創られているのです。このダイヤモンドは山から原石として掘り出されているのであって、それをどのように光らせるかということが各人に課題として与えられているのです。そして、この課題から逃れるとは誰もできないのです。
みなさんは光の指導霊とそうでない霊とを思い浮かべ、「光の指導霊はダイヤモンドであるが、自分たちは石炭や木炭、あるいは河原の石ころである」と考えてしまうかもしれません。しかし、本来はそうではないということです。
キラキラ光るダイヤモンドと河原の石ころとでは、その差は非常に大きなものですが、人間の本質は決してそうしたものではないのです。その証拠は、どのような人間であっても、磨けば魂から光が出てくるという事実にあります。
地上の人たちは、地獄霊や悪魔についての話を聴くと、「なぜ、そのようなものが存在するのか。そのようなものの存在は許せない」と思う気持ちがあるでしょう。「仏は、そうした悪霊たちを退治してしまえばいいではないか。この地上から追い払い、地獄からからも追い払って、宇宙の彼方にでも閉じ込めてしまえばいいではないか」という考えを持つ人もいると思います。
しかし、これはまだ魂の本質を知らないのです。みなさんの目には、地獄霊というものが、非常に醜く、常に人を不幸にしようとしている存在のように見えるでしょう。しかし、彼らも、あるきっかけを得て、立ち直ることがあるのです。
私は悪霊に取り憑かれている人に会い、その人に憑いている悪霊と直接に話をしたことも数多くあります。そのときに感じるのは、結局のところ、彼らはほんとうのことを知らないということです。
霊の本質を知らない。人間が肉体ではないことを知らない。善いことをしなくてはならないのだということを知らない。自分が地獄にいることさえ知らない―。こうした知らないづくしの地獄霊なのです。
ところが、彼らに真理を教えてあげると、彼らははっとわれに返ることがあります。悪霊といわれる霊たちも、「しまった。自分はいままで偽りの人生を生きてきた。このままではいけない。自分はまっとうな生き方をしなくてはならない」ということに気づくことがあるのです。
その瞬間です。真っ黒に見えていた霊体が光を放つのです。彼らの薄ぼんやりした頭の後ろに後光がさすのです。
なぜ後光がさすのでしょうか。彼らがもし河原の石ころであったならば、磨いても光はしないはずです。しかし、磨くと光が出るということは、悪霊やサタンといわれる者たちであっても、もともとはダイヤモンドであるということです。ダイヤモンドの原石なのです。だからこそ光が出るのです。
ただ、そのダイヤモンドの原石が煤で曇ったり、泥にまみれたりしているだけなのです。通常人の目には、ただの石ころに見え、捨ててしまいたくなるわけですが、川の水で洗えば、それはまた燦然と光を放ちはじめるのです。
こうしたところに無限の可能性があり、そして、無限の可能性が与えられているというところに、仏の無限の愛が表れているのです。
【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第3章「六次元の世界」より抜粋】
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本日は、悪しき精神作用であり、悪霊や悪魔と心が同通するきっかけとなる心の三毒について学びました。それが「貪・瞋・癡」です。本日の教えではこのようにありました。
「要するに、人間というのは、「貪(とん)」―足ることを知らない欲望のかたまりになっています。また、「瞋(じん)」―すぐ怒ります。自分に気に入らないことがあると、カッと怒ります。手に入らないことがあると、すぐに怒ります。そして、「癡(ち)」―これは愚かさの代表です。「愚痴」は、現代語では不平不満のことを言いますが、もともとは「愚かなこと」という意味なのです。愚かであるからこそ、それが言葉になって出てくるのです。
こうした貪(むさぼ)りの心、瞋(いか)りの心、愚(おろ)かな心、これが人びとを苦しめている元凶であるわけです」
そして、この「心の三毒」もしくは「心の三火」といわれる煩悩の炎を吹き消すことが
「涅槃」であり、「涅槃」の原語「ニルヴァーナ」とは、吹き消すこと、あるいは吹き消した状態のことを意味します。これを漢語では「滅尽」ということを学びました。
本日の『太陽の法』では、大悟の瞬間とは、ゴータマ・シッダールタが仏陀になった瞬間です。この時のお釈迦様のお考え、仏陀の心の内を、このようなかたちで知ることができる私たちは、ほんとうに幸せであると思います。人類史に永遠に残すべき仏陀の悟りが、日本語で、このように分かりやすい言葉で教えていただけるだけでも奇跡であるとしみじみ思います。
お釈迦様の大悟は、「中道」と「四諦・八正道」に集約されますが、本日は次のように教えていただきました。
『本仏の子・人間としての本当の悟り、本当のしあわせは、優雅な王宮の生活のなかにはなく、極端な難行・苦行のなかにもない。極端に肉体を喜ばす生活のなかにも、極端に肉体を痛めつける生活のなかにも、本当の悟り、ほんとうのしあわせ、ほんとうの心のやすらぎはありはしない。
真の人間の生き方は、左右の両極端をすて、中道のかなに真理を発見してゆく生き方である。人間として均整のとれた生き方のなかにこそ、中道があり、そこにこそ、苦楽を去った大調和の世界が現出するのである。
人間がほんとうにめざしている生活は、大調和の世界であり、すべての人が苦楽の両極端をすてて中道に入り、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく行為をなし、正しく生活をし、正しく精進し、正しく念じ、正しく定に入るという八正道を実践してこそ、ほんとうの心の王国ができ、ほんものの仏国土ができるのである』
そして、人間のほんとうのしあわせとは、日々の精神的よろこびのなかにあり、日々の精神的向上のなかにあり、八正道の奥を極めてゆく途次にこそ、幸福感は高まってゆくのである」
私たちも、心の修業を重ねて、仏陀の心にできるだけ近づきたいと思います。悟りの力で、心の闇を払い、この世とあの世の地獄をなくしてまいりましょう。
また、後半の『永遠の法』では、すべての人の心はダイヤモンドの原石であり、心の修業によって磨くことで必ず光り輝くことができることが説かれました。これは、仏教で言う『仏性』ということになります。この世界はすべて因縁果の連続体であり、原因と結果の法則のなかにあります。私たちの心にダイヤモンドの原石があるということは原因です。心の修業である反省による心の浄化や与える愛の実践など心の修業によつて、原石を磨くことが補助原因としての縁であり、その結果ダイヤモンドが光を放つことが結果として現れます。
本日の引用ではこのようにありました。
『霊の本質を知らない。人間が肉体ではないことを知らない。善いことをしなくてはならないのだということを知らない。自分が地獄にいることさえ知らない―。こうした知らないづくしの地獄霊なのです。
ところが、彼らに真理を教えてあげると、彼らははっとわれに返ることがあります。悪霊といわれる霊たちも、「しまった。自分はいままで偽りの人生を生きてきた。このままではいけない。自分はまっとうな生き方をしなくてはならない」ということに気づくことがあるのです。
その瞬間です。真っ黒に見えていた霊体が光を放つのです。彼らの薄ぼんやりした頭の後ろに後光がさすのです。
なぜ後光がさすのでしょうか。彼らがもし河原の石ころであったならば、磨いても光はしないはずです。しかし、磨くと光が出るということは、悪霊やサタンといわれる者たちであっても、もともとはダイヤモンドであるということです。ダイヤモンドの原石なのです。だからこそ光が出るのです。
ただ、そのダイヤモンドの原石が煤で曇ったり、泥にまみれたりしているだけなのです。通常人の目には、ただの石ころに見え、捨ててしまいたくなるわけですが、川の水で洗えば、それはまた燦然と光を放ちはじめるのです。
こうしたところに無限の可能性があり、そして、無限の可能性が与えられているというところに、仏の無限の愛が表れているのです』
大宇宙を創造した主は、被造物である私たち一人ひとりに仏性という名のダイヤモンドの原石を与えて、それぞれが最高に光輝くことを期待されているということを学びました。
ここに、主エル・カンターレの慈悲を感じます。主にあらためて感謝を捧げます。
そしてその感謝を形にすべく本日も、私たちの隣人に愛を与える一日を生きてまいります。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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(11/1-2)305【11月1日】『太陽の法』を読む38「悟りの極致」釈迦の悟り【大悟】―「悟りの挑戦(下巻)」仏陀の「燃える火の説法」―『永遠の法』ダイヤモンドの原石
『永遠の仏陀』を読む
