41 国防をおろそかにして、しかも、財政赤字を増大する国は滅ぶしかない。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使
命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを
既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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■『悟りの挑戦(下巻)』第2章「小乗と大乗」
3 小乗仏教と大乗仏教
しかし、時代が下ってきて、「このままでは、釈迦の教えが散逸してしまうおそれがある」ということで、弟子たちが何度も集まって、内容を固めようとしました。まず最初は、形式的に固めることを中心にしました。「比丘の二百五十戒」「比丘尼の三百四十八戒」というように、厳しい戒律があります。それから、「釈迦が生前にした通り、そのまま形式的にいこう。そうしないともう危ない。お経の内容はこういうことだった」というかたちで固めた人たちがいるのです。
これは仏教の初期の時代に有力な教団で、後に小乗教団と言われ人びとは、戒律や修行の形式を非常に重視した集団なのです。要するに、小乗の人たちとは出家教団であり、出家者だけが行う宗教だったのです。釈迦在世同時もそういうことをしていましたが、出家者のみが修行して悟りを得るという、釈迦当時の教えをそのままずっと維持することを目的にした教団が中心となって活動していました。
そして、その内容として現代に残っているお経を、一般に『阿含経』(あごんきょう)あるいは、『阿含経典』といいます。阿含経典とは、この小乗仏教の経典の総称です。ですから「阿含」というのは非常に広いものであり、小乗の教徒が報じていたお経をすべて「阿含」というのです。
阿含経典は、たいていの場合、パーリ語によってつくられたものです。パーリ語は、当時の古代インドの日常語、会話言葉の一つです。これに基づくお経が『阿含経』であり、この阿含経を中心とした教団を、小乗仏教の教団というのです。
この教えは「南伝」といって、歴史的には、その後、南のほうに下っていき、「南伝仏教」あるいは「南方仏教」として、セイロン(スリランカ)、それから東南アジアのほうに伝わっていきました。現在も、ビルマ(ミャンマー)やタイには、お坊さんがだいぶいますけれども、みんな小乗仏教です。彼らは戒律を非常に重視しますし、原則、妻帯もしない人たちです。「昔からの厳しいしきたり通りに」というのが小乗の流れなのです。これが南伝です。
これに後れて、やがてサンスクリット語を中心にした経典が成立していきました。サンスクリット語とは、インドの言葉のなかでは、文法的にものを書き表すためにつくった人工の言葉なのです。その意味では、ラテン語に似たところがあると思います。そのサンスクリット語の文法に基づいて書いた大乗経典というものが、たくさんできてくるのです。これは「北伝仏教」あるいは「北方仏教」といわれるものなのです。
では、成立起源はどの程度の差があるかというと、小乗のほうが先に成立し、大乗はこれに後れること、だいたい二、三百年ぐらいと考えてよいでしょう。大乗教団ができたのは、だいたい紀元前一世紀から紀元後一世紀ぐらいの間です。主としてこの前後に成立したのが、大乗グループの人たちの仕事による経典群であり、その二、三百年ぐらい前から活動していたのが、小乗中心の人たちだったのです。
これをキリスト教に当てはめて説明すると、イエスの教えがあって、その古い教えをカトリックといいます。それから、中世に、プロテスタントといって、宗教革命を起こす人たちが出ています。今もそれぞれ別の教えだとして活動しているわけですけれども、天上界からいえば、イエスが両方とも指導しているわけです。時代が変わったので、「今はプロテスタントの考えが必要だろう」ということで、そちらのほうを指導して、光の天使を送り込んで、新しい宗派をつくったのです。
小乗と大乗についても似たようなところがあります。小乗のほうは、初期には、釈迦が生きていたときのことを正確に伝え聞いている人も多かったので、それを厳格に守ろうというかたちで活動していたのですが、次第しだいに形式的になり、内容が失われてきて、本来の精神、例えば仏教の慈悲の精神などが失われてきて、形式だけになってきました。これでは危ないということで、宗教革命が必要になったのです。
要する、大乗の人たちというのは、当時の一種の新宗教だったわけです。
「古い仏教ではもはや人が救えないから、新しい仏教を興す必要がある」ということで、続々と出てきたのが、この大乗です。現代の新宗教、新興宗教に当たるのがこの大乗の人たちなのです。
【大川隆法『太陽の法』第4章「悟りの極致」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、愛とは何か。仏法真理とは何か。悟りとは何か。ユートピア建設とは何かという根源的な問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第4章「悟りの極致」
4 如心
深い悟り。阿羅漢の境地よりも、さらに深い境地とは、どういうものでしょうか。
阿羅漢の境地とは、仏への確固とした信仰が根づき、この世的な波風に動じない不動心ができ、守護霊の指導を受けて、日々生活し、そのなかで接する他人の気持ちが見透かすようにわかる段階です。すなわち、人間としては、かなり成長してきた段階であり、宗教人としても、一般の人々を指導することができる段階です。
とはいえ、阿羅漢の段階では、まだ、転落する危険性をもっています。なぜならば、阿羅漢の段階とは、まだ、一通りの反省がすんで自分自身の潜在意識層にいる守護霊と交流可能な境地だということにすぎず、光の菩薩たちの心までは十分に分かっていないからです。仏法真理の教えの高下、バラエティ、奥行きなどについては、まだ、十分に理解していないのです。そのため、異説、邪説などにまどわされる可能性も高いといえます。
また裏側の天狗界や仙人界の住人の場合、この境地がたんなるあてものや霊現象をもたらす、初歩的な神通力として現われることがあります。やはり、愛や悟りについて心境を深めていくことが大事です。教学も決して軽視してはなりません。
阿羅漢の段階から転落してゆく理由は、もうひとつあります。阿羅漢とは、たとえば、金属でいえば、表面の錆を落として、ピカピカと光りはじめた段階だといえます。つまりは錆止めが塗っていないので、心を磨くということをしばしば忘れると、すぐ錆が付着してしまうのです。ですから、心が錆びてきているにもかかわらず、そのことに気がつかないで、自分を「大先生」だと思って悟りすましていると、大変なことになってしまいます。
心がピカピカに光っているときは、心の表面もツルツルしていますから、たとえいかなる悪想念が向かってきても、それをはねかえすだけの力があります。ところが、心が錆びついてくると、表面もザラザラとして、すべりが悪くなってくるために、いろんなものが引っかかってくるのです。
そして、このざらざらに、ハーケンを打ち込んで、ザイルをたらしてゆく者がいる。すなわち、地獄の悪魔です。地獄の底までたれさがったザイルをたよりに、暗黒界のさまざまな生物がはいあがって来る。それが亡者であったり、動物霊であったり、サタンであったりするのです。
ですから、このように、せっかく、阿羅漢の境地にたどり着いていた宗教指導者のなかには、心に魔の侵入を許してしまう人が出てくる。そして、世の人々をまどわし、狂わせてゆくのです。ここに、もっとも危険な落とし穴があります。
そこで、大切なのは、心の錆が憑かないように、つねひごろから、錆をよく落としておくことです。ピカピカに、よく磨いておく。これが大切です。心に錆というデコボコをつくっておくと、いつなんどき、悪魔がザイルのついたハーケンを打ち込んでくるかわかりません。
その悪魔を蹴落とそうと、躍起になっていても、今度は、背後からハーケンを打ち込まれてしまう。そうなると、どうしようもありません。単なる除霊や悪魔ばらいをしたくらいでは、本当に救われるということはないのです。つまり、心の錆を落とさないかぎりは、はらってもはらっても、悪魔たちが忍び込んでくるからです。
心を光らせる。だからこそ、心を磨くことが大切なのです。また、できれば、心に防腐剤や錆どめを塗っておくことです。この錆どめこそが、さらに、一段と高い悟りにつながるからです。
阿羅漢より、さらに高い悟りの境地を「如心」(にょしん)といいます。如心とは、自らの守護霊以上の霊格を持つ高級霊界の指導を受けられる段階、すなわち、指導霊と霊的交流ができる段階です。この指導霊とは、七次元菩薩以上の高級霊たちであります。この境地は、ほぼ不退転の心境です。ですから、よほどのことでもないかぎり、魔界の者たちに蹂躙されることはありません。なぜならば、諸如来、諸菩薩の指導を受けるようになってくると、光が強くなり、魔がよりつけなくなってくるからです。
この如心の段階になってくると、心はいつも謙虚で、高ぶることなく、他人に対する奉仕、すなわち、どうすれば世の中の役に立てるか、どうすれば迷える人々を救えるかといったことが、日々、心に去来することの中心となってきます。阿羅漢の境地から転落の原因はほとんどは増上慢ですが、この不退転の如心の段階にいたると、利己主義、自己中心ということは姿を消すので、心はつねに平静です。正しく念じる。正しく定に入るということが本当にできるようになるのも、この如心の段階からだといえます。
如心には、もう一つの面があります。つまり、観自在に近づいてくると居ながらにして、何百キロも離れている人のことが手にとるようにわかるということです。たとえば、ある人の名前を見ただけで、たとえ地球の裏側にいる人であったとしても、その人の現在の心境、悩み、憑依霊、前世、前々世、前々々世、未来世までもが、一瞬にしてわかるようになります。しかし、仙人的千里眼におちいらないように、常に、愛を深め、知を磨くことを怠ってはなりません。
【大川隆法『太陽の法』第4章「悟りの極致」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。
人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第3章 六次元の世界
2神を知る
六次元光明界には、神といわれる人びとが数多くいることを話しましたが、神とは何かについて、さらに話をしていかねばならないでしょう。
神とは何かということは、長年、哲学や宗教、神学などの大きな課題でした。なかには、「神を知ることは、すべてを知ることなり」と述べる人もいれば、「人間が神に似せて創られたのではなく、逆に、神は人間の創造によって人に似せて創られたものであり、創造の産物なのだ」と言いきる人もいました。
しかし、「神とは何ぞや」という問いかけに対して明確な答えを出すことは、できなかったのです。
そこで、神とは何かという質問に対する、私の現時点での考えを述べてみましょう。
まず、神という言葉自体を、世界を創った造物主(英語ではThe Creator「ザ・クリエイター」)と、そうでないものとに分ける必要があります。
キリスト教では、よく「父と子と聖霊」と言っています。そして、聖書の部分を神という場合もあれば、父の部分だけを神と言う場合もあります。
一般に、広義における神は、上下(かみしも)の上(かみ)、すなわち、通常の人間より上位にある霊的存在としての神だと言えます。したがって、広い意味では、聖霊の部分をも神と称するわけです。
要するに、六次元光明界における神の正体は、この聖霊といわれる人たちだということです。そして、造物主としての神は、もっとはるかに高次元の存在なのです。
では、六次元にいる人はすべて神かというと、そうではありません。六次元のなかにも段階があるのです。
といっても、六次元に段階があるということの意味が、地上に住む人びとにはなかなか分かりません。
六次元に段階があるというと、地上の人は、「空中に透明の幕が何枚もあり、そのなかで、何段階にもわたって人が住み分けている」というように想像するわけです。しかし、ほんとうは、そうしたものではありません。人間が高層アパートに住み分けているようなものではないのです。
「彼らはもはや肉体を持った人間ではない」ということを前提としなくてはなりません。すなわち、「意識体」として生きることができるということです。
意識体というのは、一種のエネルギー体です。これは、電磁波と言ってもいいし、電気エネルギーと言ってもいいし、ガス体と言ってもいいでしょう。個性ある、特色ある生命エネルギー体―それが霊の本質です。
結局、六次元世界に段階があるというのは、そうした生命エネルギー体の波長に差があるということなのです。単純に上下があるということではなく、波長に差がある、すなわち、上段階の波長と下段階の波長があるということです。
たとえば、泥水をコップの中でかきまぜると、やがて重いものが下に沈殿し、上は上澄み液となります。上へ行くほど透明で、下へ行くほど黒い色になります。同じように、粗雑な波長のもの、すなわち、霊体はとして、地上的で物質的な重みをまとった、鈍重なる意識体が下の方へ沈んでいき、神近き、執着の少ない精妙なる意識体が上のほうに行くのです。
こうしたものを、波長と考えていいし、エネルギー体と考えていいのですが、その存在する場所が違うということです。そのように考えればいいのです。
【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第3章「六次元の世界」より抜粋】
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本日『太陽の法』では、たとえ修行の成果として「阿羅漢」になれたとしても、それで修行が終わるわけでは全くないことがよく分かりました。常にその心境を護持しつつ、さらに高める心の修行を続けなければ、すぐに退転してしまう危険があることを本日学びました。修行者である私たちにとって慢心を防ぎ天狗にならないためにも肝に銘じたいところです。
心の修行を日々に少しずつ重ねることで、菩薩の入り口である阿羅漢の境地に私たちはたどり着くことができるようになります。この境地に立つことが、仏の御手足としての菩薩行のはじまりでもあります。
経典『地獄の法』を主より賜りましたが、『地獄の法』とは、姿を変えた『救世の法』だ。と本書の「まえがき」に記されています。救世の主人公とは、私たち菩薩になることをめざす菩薩です。その修行者である私たちが主の御手足となるためにたどり着かなければならないのが「阿羅漢」の境地です。
今世主とともにある、奇跡の時代により、主の教えによって、だれもが「阿羅漢」になれるチャンスを等しくいただきました。このチャンスを絶対に逃してはなりません。
話が少しずれますが、世の中には、過去世が有名な人であるとか、「人の前世が分かる」という人が、こちらから訪ねるでもなく現れることがあります。今日の教えからすれば、人の前世がかかるというのは、少なくとも、「観自在力」の一部がありということであり、これは如来の力です。
「人の前世を見ることができる」ということは、「私は如来です」となっていることと同義であるならば、本当にその人がそれにふさわしい心の修行と、その果実として、人間として完成された人であるのかを見なければ、なりません。そのような視点で相手を見たときに、ほとんどの人はその基準から外れるはずです。
なんせ、経典によれば、五百数十億ともいわれる地球系霊団【うちエル・カンターレ系霊団は400億】のなかで、如来クラスの方は500体弱くらいしか存在していないからです。宗教の世界では霊好きの人は、たくさんいらっしゃいますから、「阿羅漢」にたとえなれたとしても、巷の霊能者や邪命説法には細心の注意を払わなければいけないととつくづく思います。
イエス様も聖書で、『果実によって種子の質をはかりなさい』と教えていただいています。悟りが上がれば上がるほど、生み出した果実の質と種子の善悪が問われてくるのだということを私たちは肝に銘じなければなりません。
今世私たち伊勢支部の信者全員が「阿羅漢」になることをめざし、主の御手足として救世運動に参加してまいりましょう。『地獄の法』の年は、いよいよその救世事業本番の年であるということです。ともに精進を重ねてまいりましょう。
悟りの力がこの世とあの世の『地獄』を解消する大きな切り札です。『太陽の法』『地獄の法』を深く学ぶためにも、悟りへの理解を共に深めてまいりましょう。
特に、阿羅漢の境地にある者が退転してしまうポイントを2つ教えていただきました。まず、前提として修行者の退転の原因が増上慢であるという点は強調されています。そのうえで退転の原因は二点です。
①阿羅漢が退転する理由【霊道が開けたあとに精進が不足したこと】
「阿羅漢の転落する危険性をもっています。なぜならば、阿羅漢の段階とは、まだ、一通りの反省がすんで自分自身の潜在意識層にいる守護霊と交流可能な境地だということにすぎず、光の菩薩たちの心までは十分に分かっていないからです。仏法真理の教えの高下、バラエティ、奥行きなどについては、まだ、十分に理解していないのです。そのため、異説、邪説などにまどわされる可能性も高いといえます。
また裏側の天狗界や仙人界の住人の場合、この境地がたんなるあてものや霊現象をもたらす、初歩的な神通力として現われることがあります。やはり、愛や悟りについて心境を深めていくことが大事です。教学も決して軽視してはなりません」
つまり、霊道が開けても、悟りが未熟で「如心」に到っていないということです。
②阿羅漢が退転する理由【慢心を抑え、謙虚に精進を続けることができていない】
「阿羅漢の段階から転落してゆく理由は、もうひとつあります。阿羅漢とは、たとえば、金属でいえば、表面の錆を落として、ピカピカと光りはじめた段階だといえます。つまりは錆止めが塗っていないので、心を磨くということをしばしば忘れると、すぐ錆が付着してしまうのです。ですから、心が錆びてきているにもかかわらず、そのことに気がつかないで、自分を「大先生」だと思って悟りすましていると、大変なことになってしまいます。
心がピカピカに光っているときは、心の表面もツルツルしていますから、たとえいかなる悪想念が向かってきても、それをはねかえすだけの力があります。ところが、心が錆びついてくると、表面もザラザラとして、すべりが悪くなってくるために、いろんなものが引っかかってくるのです」
このように、霊道を開いて阿羅漢になったあと、増上慢に気をつけて、謙虚に仏道修行を続けて、利他の精神で、みずからの力を仏の脇侍としての奉仕行に専念することが大切であることを学びました。修行者にとっては極めて重要な教訓であると考えます。
また、後半の『永遠の法』では、六次元世界のなかで、さまざまな階層があり、すべてが神近い存在ではないということを教えていただきました。霊体についての説明で、最後の部分の例えがとても重要であると考えます。
『意識体というのは、一種のエネルギー体です。これは、電磁波と言ってもいいし、電気エネルギーと言ってもいいし、ガス体と言ってもいいでしょう。個性ある、特色ある生命エネルギー体―それが霊の本質です。
結局、六次元世界に段階があるというのは、そうした生命エネルギー体の波長に差があるということなのです。単純に上下があるということではなく、波長に差がある、すなわち、上段階の波長と下段階の波長があるということです。
たとえば、泥水をコップの中でかきまぜると、やがて重いものが下に沈殿し、上は上澄み液となります。上へ行くほど透明で、下へ行くほど黒い色になります。同じように、粗雑な波長のもの、すなわち、霊体はとして、地上的で物質的な重みをまとった、鈍重なる意識体が下の方へ沈んでいき、神近き、執着の少ない精妙なる意識体が上のほうに行くのです。
こうしたものを、波長と考えていいし、エネルギー体と考えていいのですが、その存在する場所が違うということです。そのように考えればいいのです』
このあたりの霊的世界の階層―霊層についての教えも、『永遠の法』でしか説かれていない霊界の秘密ですので、くり返し学んで理解を深めたいところです。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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(11/28-1)【基礎教学通信】301『太陽の法』を読む34「悟りの極致」如心―「悟りの挑戦(下巻)」小乗仏教と大乗仏教―『永遠の法』神を知る
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