11 すぐ反発する人は、動物性が強い。
12 口数が多ければ、賢いのではない。
【大川隆法 箴言集『人生への言葉』より抜粋】
おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。
風薫る五月となりました。本日五月研修が13時から支部で開催されています。皆様ご参加ください。
オーダーも開催も致しますので、ご希望の方は支部までお問い合わせください。
5月6日はヘルメス大祭です。当日は13
時から、総本山・未来館を本会場に、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催いたします。皆様ご参集ください。
5 月 6 日(月・祝)~5 月 12 日(日)まで2024
年「ヘルメス大祭」を開催し、ヘルメス大祭版「復活の祈り」を執り行います。神秘思想と霊界思想の源流におられ、2000
年前のイエスの「復活現象」に力を与えられたご存在であられるヘルメス神のご指導のもと、主のご復活に向けて主への愛と祈りの力を結集してまいります。そして、私たち一人ひとりが、透明な風の如き天使の愛を実践し、主の愛がこの地に満ちて「愛の復活の時代」を到来させるべく、伝道の誓いを捧げる機会とさせていただきます。
また、5月14日は新復活祭です。2004 年 5 月14
日に、主が死の淵からご復活された奇跡に心からの感謝を捧げると共に、主が大宇宙の造物主であられることへの確信を深め、あらゆる既成の常識を打ち破り、主のご復活への確信を強めてまいります。
当日は13
時より、教祖殿に最も側近き礼拝殿である東京正心館から、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催します。そして、5/14(火)~5/19(日)まで、新復活祭を開催致します。皆様この機会にご来館ください。
この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
そこで、本日から経典『信仰のすすめ』の第四章に所収されています「愛は風の如く―Love Blows Like the
Wind」より、ヘルメスの愛について学びます。本御法話は主の新復活の直前となる2004年の4月29日に説かれています。
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愛は風の如く―Love Blows Like the Wind
2エジプトでも神として尊敬されたヘルメス
○エジプトの神話に現れる、ただ一人のギリシャの神
「ギリシャの数多くの神々のなかで、ヘルメスが、その中心的な存在であった」ということに対して、「まだ、よく分からない」という人も多いでしょう。
しかし、その証拠とも言うべきものがあるのです。それは、地中海を挟んでギリシャと隣接する国エジプトに遺っている伝説です。
エジプトの最盛期は、「イエス・キリストが生まれる二千数百年ほど前、すなわち紀元前二千数百年ごろから、ちょうどクレオパトラ女王の時代である紀元前一世紀まで」と言われています。このエジプトの最盛期は、ギリシャの最盛期と、時期的に、かなり共通しています。
このエジプトの神話や伝説の内容を見ると、そこに現れてくるギリシャの神は、ただ一人しかいません。それが誰であるかというと、ヘルメスなのです。
エジプト人たちは、「ヘルメスはギリシャ人である」ということを認識していました。そして、「この世を去って霊界にいるヘルメスという霊人が、エジプトの人々を指導している」という認識を持っていました。「ギリシャ人であるヘルメスが霊界からエジプトの人々を宗教的に指導している」ということを知っていたのです。
エジプトの最盛期であった、紀元前二千数百年ごろから紀元前一世紀までの時代は、エジプトに、さまざまな王(ファラオ)が出ていた時代であり、現代人の認識する、いわゆる「ピラミッドの時代」も、この時代に属しています。
この時代と、ギリシャ神話の神々の多くが地上に出ていた時代は、実は重なっています。ギリシャ神話の神々は、実際には、人間として地上で生きていたことのある人たちなのですが、このギリシャの神々と、最盛期のエジプトの王たちとの神々はエジプトの神話や伝説には登場しないのです。
ゼウスなどのオリンポス十二神がギリシャで活躍した時代は、エジプトがピラミッドを中心にして発展・繁栄した時代と重なっています。同時代の人であるからこそ、エジプトの人たちはゼウスたちを神とは認識しませんでした。
しかし、ただ一人、ヘルメスだけは、神人、神とも言うべき人間としてエジプトの人たちから尊敬されていたのです。
○ヘルメスとトスが霊界からエジプトを指導した
エジプトの人たちは、「ギリシャ人であるヘルメスは、はるかなる昔、エジプトの始まりにおいて、智慧の神といわれた、トートの神でもある」ということを、固く信じていました。
トートの神は、まさしく、エジプトの文明が始まるころの神です。その姿はエジプトの遺跡にも描かれています。
幸福の科学の研究によれば、このトートの神は、すでに地上から姿を消しているアトランティス大陸に生まれました。トスという人であることが分かっています。そのアトランティス大陸から逃れてきたエジプトに住みついた人たちが最初に信仰していた神が、トート、トス神なのです。
エジプトの人々は、「エジプトを指導した、智慧の神であるトート神が、のちに、ギリシャにヘルメスとして生まれた。その後、ヘルメスとトートが協力し、霊界において一体となり、エジプトの二千年以上の繁栄をつくった。特に宗教的な指導をなした」と考えていました。
これに関しては、神話的なものではなく、歴史的事実として、「ヘルメス文書」という記録がはっきりと遺っています。
エジプト人たちは、トート神を、「霊界において秤によって判定された、人間の魂の善と悪を記録する神」として認識し、「トート神が、『その人の生前の人生において、善なることが多かったか、悪なることが多かったか』を記録し、その人の死後の行き先を決めている」と考えていました。その意味で、トート神は、エジプト人にとって非常に怖い神でもあったわけです。
このトス(トート)とヘルメスに共通しているものは、「霊界から、この世を指導する」という強い意識です。
【大川隆法『信仰のすすめ』第4章「愛は風の如く―Love Blows Like the Wind」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。
さて『正心法語』のなかで、「菩提心の言葉『修行の誓い』」を読んで、三宝帰依の精神を確認して、仏道修行の誓いを主に捧げたのち、読む経文が『智慧の言葉「仏陀の悟り」』です。私たちは、この経文を毎日読むことによって、2600年前の仏陀の悟りか何であったかを学ぶことができます。
私は、個人的に『智慧の言葉「仏陀の悟り」』を、伝道の中心に据えています。主エル・カンターレの名を知らず、無明の闇に苦しむ人に仏法真理を伝道するときに伝えるべき内容がここに集約されているからです。また生きている方のみならず、お亡くなりになった方への伝道という意味においても、葬儀での法話で、お亡くなりになった方への引導を渡すときに、この経文を題材に法話をしています。
さて、本日は、『仏説・正心法語』第三の経文である『智慧の言葉「仏陀の悟り」』について共に考えを深めてまいります。
私たちは、この経文を毎日読むことによって、私たちが日々つかむべき『霊的人生観』を知り、自分が肉体存在ではなく、「霊」であるという原点に立ち返ることができます。
『智慧の言葉「仏陀の悟り」の最後の部分は重要につき、繰り返し抜粋します。
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仏陀は語る
『人間よ
生・老・病・死は真理なり
されど 悟りの 力こそ
悩みを 断ち切る 刃なり
無我の 心を 持つならば
肉体は これ 我ならず
煩悩は これ 我ならず
空の 心を 持つならば
霊こそ 全ての 根源(もと)にして
この世は 仮の 世界なり
仏陀(われ)を 信ずる 心こそ
救いの 道の 王道なり』
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『智慧の言葉「仏陀の悟り」』を考える時に、思い浮かんだ主の御法話が1993年7月12日の東京ドーム御生誕祭大講演会の『空と阿羅漢』です。この説法は、『大川隆法東京ドーム公演集』【幸福の科学出版 税別1800円】にて頒布されていますので、まだお持ちでない方はぜひお求めください。
無我・中道・空を学ぶ上で極めて重要な内容につき、一部抜粋いたします。
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〇執われの自己を放ち去る「無我」の思想
ごく当然に本能のままに生きていくなかに、その思いが遂げられず、手に入れられないものに対する「執着」を生みます。執着とは、それに心が執われて離れないことです。その離れない心が、苦しみを生みます。
そうして、だんだんだんだん、心というものが、黒い想念の曇りによって覆われるようになります。思うこと、なすことの一つひとつが、暗黒の思想に染まり、人々への敵意、害意、憎しみ、怒り、愚痴、不平不満、足ることを知らぬ欲望、こうしたものでいっぱいになって、「自分はなぜ、これほどまでに不幸であるのか」ということを考えます。そのままにいったなら、この世の中は、不幸な人で満ち満ちることになるのです。
そうです。今から二千六百年前の昔に、釈迦(世尊)が人々に教えた「無我」の思想とは、その執われの自己を放ち去ることであったのです。
あなたがたは、自分をかわいいと思う。
そのかわいいと思う自分が、
自分自身に縛られることによって、
肉体的なる自己意識に縛られることによって、
残念なことに、その正反対に、自分自身を苦しめ、
不幸のどん底に落とすことになっている。
そうであるならば、あなたがたは、その思いを捨ててどうか。
「自分が自分が」「私が私が」「俺が俺が」と思うその心、
それは、本当に、あなたがたを幸福にする心であるのか、念いであるのか。
そう思った結果が、あなたがたは、
決して満たされることのない世界へと行ってしまうことになるのではないか。
さすれば、あなたがたは、自分自身を真に愛するためにも、
「無我」ということを心に留めなさい。
我なるものは、実はないのである。
そう思いなさい。
―そう釈迦は教えたのです。
あなたがたが自分自身だと思っているものは、
実は、先ほどから述べているように、
眼の感覚、耳の感覚、鼻の感覚、舌の感覚、手の感覚、
その他、神経作用―肉体に基づくさまざまな反応によって、
幸・不幸を、快・不快を感じているだけなのです。
それをいったん断ち切りなさい。
それが、「無我」の思想であったのです。
〇霊的なるものの見方を内に秘めていた「空」の思想
そこで、紀元前後、釈迦没後五百年近い歳月が過ぎたころ、大乗仏教の運動が起きました。小乗仏教のなかでは、そのような形式的なものの考え方をして、本来の悟りが失われ、人々を救う力が失われていたので、大乗運動が起きました。その大乗の中心になったのが、「空」の思想です。
先ほど言ったように、「無我」と「空」とは、釈迦在世中には、同じ意味を帯びた言葉でした。しかしながら、小乗の時代に、無我の教えが、まったくの唯物論に近い見解に流れていったので、大乗の段階においては、この無我思想を撃ち砕くために、特に、無我思想を強調していたところの「説一切有部」という部派の考えを撃ち砕くために、「空」という思想を前面に出してきました。
この「空」の思想のなかには、非常に霊的なる意味があったのです。・・・そう、空の思想とは、そのように、霊的なるものの見方を、その内に秘めていたものであります。
〇空とは何か
・龍樹の「空」の思想①―肉体感覚に基づく考え(有・う)と、それを夢幻と見る見方(無)の両者を否定
空の思想で有名なのは、紀元二世紀ごろのインドに出て、大乗仏教の中興の祖となり、そして、その後、さまざまなる宗派の宗祖になったという意味で、「八宗の祖」ともいわれている、龍樹、ナーガールジュナという方です。この方の「空」の思想というものがあります。
この方は、空という思想をいかに説いたか。先ほど述べたように、「肉体感覚に基づいて、この世の物事すべてがある」という考えを、「有(う)」の立場とし、それを否定した立場、「そんなものはない。すべて夢幻だ」という見方を、「無(む)」の立場とするならば、龍樹は、「空とは、この有と無の両辺を離れたところの、その中なる道にあるものである」ということを教えました。
肉体感覚によって感知され、この世での常識的なる感覚に映ずるところの物質、物体、それも確かに存在しているように見えます。感じられます。生きている以上、そう無視することはできないものです。これも一通りの真理ではあります。これを、龍樹は「世俗諦」と名付けました。
世俗とは、この世のことです。諦とは真理という意味です。サティアといいます。これが世俗諦(俗諦・この世的真理)この世的なる真実、有の立場です。
これに対して、これを否定する立場、世俗的なる事柄、この世的なる物質や肉体、このようなものは本来ないと否定する立場、この無の立場、霊的な立場を、彼は、「第一義諦」(「勝義諦」「真諦」ともいう。あの世的真理)、第一の意味、そのような真理というふうに説きました。
この有と無の立場、世俗諦と第一義諦、この二つは共に真理ではあるが、三次元で生きている私たちは、この両者を無視することはできない。この両者の中なる道―世俗諦のなかにも、第一義諦のなかにも、「この世的なる霊的生活」という真理はないという立場、この立場を、彼は「空」と呼びました。
有でもなく、無でもない、その中なる道を、「空」と呼んだ。そして、その空こそ「中道」であると説きました。
〇龍樹の「空」の思想②―八不中道(八つの否定によって現れる境地)
さらに、彼は言葉を換えて、この「空即中道」「中道即空」の教えを次のようにも説きました。
空なるものは、否定を通して現れるものである。いかなる否定か。いかなる極端の否定によって現れるか。釈迦は何を否定して空を悟ったのであろうか。
それを考えたときに、まず、「不生・不滅」、生まれることなく、滅することないもの、それが空である。
「不常・不断」常なるものでもなく、断ざれるものでもない。
さらに、「不一・不異」、一なるものでもなく、異なるものでもない。異なるとは、多様なる姿という意味です。一つでもない、複数でもない、それが空である。
「不来・不去」、来るものでもなく、去るものでもない。
「不生・不滅」「不常・不断」「不一・不異」「不来・不去」―この八つの否定を、「八不」といいます。
そして、そこに現れる中なる道を、「八不中道」といいました。この八つの否定によって現れる境地、この中道の境地を、彼は空の神髄と見ました。
〇八不中道の意味を解き明かす
この「八不」の意味を、幸福の科学的真理において解き明かしましょう。
生まれることなく、滅することない、「不生・不滅」とは何であるか。
生き通しの命ではないか。
「不常・不断」、
そのまま、永遠に、そのままの姿であるものでもない。
されでも、しかれども、死ぬことを通して、すべてが無になるものでもない。
それは、いったい何なのか。
それこそ、霊的生命にほかなりません。
死後の世界では、あなたがたは、霊体として、生命を持ち、生活をします。
しかし、その世界は、この三次元の世界とは違います。
あなたがたは、食べ物を食べなくても生きることができます。
空を飛ぶことができます。
思ったところに現れることができます。
壁を通り抜けることができます。
自由自在の世界です。
このままの姿が永遠に続くわけでもなく、
死ねばなくなわけでもありません。
これを、「不断・不常」「不常・不断」―このようにいいます。
さらに、「不一・不異」、
一なるものでなく、多なるものでもない。
これは、いったい何であるか。
それこそ、生命の神秘そのものであります。
あなたがたは、自分を一人の人間だと思っているが、
一人であって一人ではない。
あなたがたの魂の奥底、潜在意識のなかには、
「魂のきょうだい」という生命が生きている。
原則、「本体一・分身五」の六人の魂グループが一体となって生活している。
そのなかの一人が、地上に生まれ、肉体に宿っている。
これが「不一・不異」。
一なものでもなく、異なるものでもない。
一でもなく、多でもないとは、このことをいう。生命の神秘です。
さらに、「不来・不去」、
来るものでもなく、去るものでもないとは何か。
あなたがたは、「霊界」という世界を、はるかなる遠い世界だと考えがちです。
阿弥陀の世界、西方浄土と考えがちです。
しかし、霊界とは遠い彼方にある世界ではありません。
ここ(この世)をはるかに去った世界ではありません。
現在ただいま、
みなさまがたがいるそこに、ここに、その心のなかにあるのです。
心の世界は、そのまま菩薩の世界、如来の世界に通じ、
はたまた地獄の世界、畜生の世界にも通じています。
そうです。これが来ることもなく去ることもない世界の説明なのです。
現在ただいまが、霊界世界そのものである。
そこにいる世界(この世的時空間)こそ、
その世界(あの世的時空間)なのである。
(現象界即霊界、霊界即現象界)
この八不中道の思想は、
実に、私たちの永遠の生命と、
その永遠の生命が生活しているところの霊的実相世界世界を
解き明かしているのであります。
〇空とは、この世とあの世の両者を眺め、融合しながら生きていく境地
もう一度言います。
「不生・不滅」「不常・不断」「不一・不異」「不来・不去」―「八不中道」即ちこれ「空」。
空とは何ぞや。
空とは霊的生命なり、空とは霊的生活なり。
霊的生命が、物質と霊界とが共存しているところのこの世界のなかにおいて、
この世的なる世の真実を、完全なる真実と見るのでもなく、
このようを去った世界を、完全なる真実と見るのでもなく、
その両者を眺めながら、包含しながら、融合しながら、
その中に生きていく境地こそ、「空」である―と教えたのです。
【大川隆法『大川隆法東京ドーム公演集』第五章より抜粋】
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「私という存在は、肉体ではなく、霊である」という認識が、悟りの第一歩です。
これを本当の意味で理解するために二千年以上のときを超えて「無我」と「空」と「中道」が説かれ続けてきました。
真なる自己とは、「不生・不滅」「不常・不断」「不一・不異」「不来・不去」の八不中道なる存在です。その本体は仏性であり、仏の法身でもあります。私たちの心に存在する仏性は永遠に不滅であり、穢れなきものであり、完全無欠なものです。それが地上世界での生活のなかで、あらゆる煩悩によって埃や汚れにまみれて、真なる自己が忘れ去られ、地上世界での経験だけで、自分は肉体存在で、死んだらすべて終わる。と考えるようになってしまいます。
この迷いの生存からあらゆる人間存在を救うために、主がこの地上に下生され、真なる法・教えを説かれています。
私たちの本当の姿は、色に見るものでなく、声に聴くものでなく、香に嗅ぐものでなく、味に感じるものではなく、肌に触れるものではなく、それらを知覚する意識でもありません。それらの一切が空であり、自らの自我は本来存在せず、真なる自己のみが実在であることを悟るために、私たちは幾転生、あの世とこの世を繰り返し生まれ変わってきました。
本当の魂の救済―自分の魂を救い、隣人の魂を救い助けるためには本物の信仰が必要です。信仰心を通して出なければ、「無我」と「空」と「中道」の悟りを得ることは絶対にできません。信仰こそが私たちのすべてであることを私たちは、『智慧の言葉「仏陀の悟り」』を読む度に確認させていただいています。これは、私たち仏弟子にとって極めて大切な心がけです。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。 その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
【神戸正心館建立祈念―エル・カンターレ像開眼祈念植福―植福のご案内】
「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」は、一口十万円目安から承ります。また、本植福の貢献者の皆様方は、神戸正心館建立時に芳名板を設けて、そのご貢献を顕彰させて頂きます。
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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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