(10/12-1)【基礎教学通信】285『太陽の法』を読む「仏法真理は語る」心の作用―「悟りの挑戦(上巻)」魂修行と熏習転変の理―『永遠の法』霊の本質

『正心法語』を読む

25 過去の疫病も、人類は生き抜いた。天の間引きに耐えよ。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使
命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。

ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、教典『悟りの挑戦(上巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
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■『悟りの挑戦(上巻)』第5章「空と縁起」
6 魂修行と熏習(くんじゅう)転変の理

ここのところをよく間違うわけなのです。仏教でも、「ああ、そうか。仏様と同じなのか。みんな一緒なのか。では、人間はみんな平等なのだから、みんな仏様なのだ」という方向にいくと、修業論のところが全部吹き飛んでしまいます。これは「種があれば、もう花が咲いたのと一緒だ」と言っているのと同じ議論です。

しかし、そうではないのです。如来の種子は、みな持っているのですが、この種子を花咲かせるには、それだけの条件が必要なのです。花を咲かせるには条件がいるように、人間にも努力精進が必要です。そのために修行もあるのです。

修業のなかには、たとえば知識の学習もあります。れそから実践活動もあります。そして、心のトレーニングをどんどん積んでいかなければいけません。こういうことを知って初めて悟りという結果が出るわけです。如来の素質、仏性というものがあって、それを磨いて、そして悟りという結果が出てきます。その結果、仏様になれるわけです。

この間の修行のことを「熏習(くんじゅう)」といます。熏習理論などとよくいいます。たとえばスモークサーモンなどをつくるときには、煙でいぶしていくと、味が染み渡ってきますが、あのようにしみ込んでくる感じが「薫(くん)」なのです。また、「習(しゅう)」は、染み込んできて習い性になる感じです。これを熏習といいます。

要するに、人間がこの地上で何十年か魂修行している間に、この世で学んだいろいろなことが、魂の奥にぐーっと染み込んでいきます。それが「阿頼耶識※(あらやしき・想念帯)という深層心理のところまで染み込んでいってしまうと、それは転生輪廻のときに業(ごう)として持っていく部分になります。染み込まないものはそこまでいきませんが、染み込んでくると、それは業として、要するに魂の傾向として出てくるということです。こういう魂の傾向ができてくるときに、熏習ということが起きてきます。

あるいはこれを「熏習転変の理(くんじゅうてんぺんのり)」ともいいます。要するに、香りが染み込んできたり、いろいろな条件が付加されてきて、そして結果が出てくるのです。ここまでいくと、だいたい仏法真理理論の説明がつくのです。

縁起の説明を少しふくらませて述べましたが、このように、目に見えないものがいろいろと積み重なっていって、結果が出るのです。その結果になったものが次の原因になって、さらに次のプロセスがあって、次の結果が出るのです。このように、原因・結果、原因・結果・・・とたくさん積み重なっていって、この世のものがすべて成り立っているのです。

そうすると、「他のもの―他の原因や条件があって、それに依存して存在するものというわけだから、これは実体ではない。だから『空』なのだ」という理論があるわけです。

他のものに依存するということを、難しい言葉では「依他起生(えたきしょう)」といいます。要するに、他のものに依存する性質というわけです。これは縁起の説明にも使えると思いすが、他のものに依存して、やっと成立し、存在しているものは実体とは言えません。他のものの力によって存在をあらしめられているものは実体ではないということです。そうすると、「この世に存在するものは、すべて他のものに依存しているから実体ではない。よって『空』である」という理論が出てくるわけです。これが伝統的な仏教の教学にある考え方なのです。

以上、一番目に霊界とこの世の循環についての説明によって、「空」を説明しました。二番目は、霊的なエネルギーを物質化する、あるいは物質化したものがまた霊界に移行するという物質化現象を説明しながら、「空」の説明をしました。三番目には、縁起の理法のなかでの「空」の説明をしました。他に依存してやっと成り立つようなものは実在ではなく、また、もともとあるものでもないという説明をしました。

この三つが、「空」の説明について代表的なものかと思います。簡単に説明しましたけれども、伝統的な解釈本には、ここまで明確に説明したものは出ていませんから、当会のオリジナルと考えていただいてよいと思います。

ほかにも、「空」を「こだわらないこと」といった人生訓として捉える方もいます。いずれにせよ、この「空」や「縁起」等については、さらに解説を続けていきたいと考えています。

※阿頼耶識(あらやしき)
ここで使っている阿頼耶識という言葉は、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう・六〇〇~六六四年)訳の唯識説で用いられる言葉で、いわゆる潜在心のことである。唯識説では、人間の意識構造を、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」の六識と第七識の末那識(まなしき)、第八識のの阿頼耶識(あらやしき)の八識説を立てる。そして阿頼耶識を輪廻の主体とする。しかし、この分析だと、当会の四次元領域、つまり、幽体部分が末那識(まなしき)で、それ以降の五次元領域から上は全て阿頼耶識(あらやしき)で一括されて、神性・仏性の説明が困難となる。現に、玄奘訳の「阿頼耶識」は「妄識(もうしき)」とも訳されている。語源は同じアーラヤ識(alaya-vijnana)であるが、真諦三蔵(四九九~五六九年)訳の「阿梨耶識(あり・
・・しき・大乗起信論)は「信妄和合識」とされ、八次元領域以降を含んでいると解されるし、禅宗でも重視される『楞伽経(りょうがきょう)』では、同語が「蔵識」と訳され、「如来蔵」と同一視されている。なお、真諦の系統の摂論宗では、混乱を解決するためにアーラヤ識の外に第九識として「阿摩羅識(あまらしき)を立てる。意味は「自性清浄心(じしょうしゅうじょうしん)」と同じで、心の中のダイヤモンド部分のことである。

【大川隆法『悟りの挑戦(上巻)』第5章『「空」の思想』より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、光とは何か。仏法真理とは何か。という問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第2章「仏法真理は語る」
第2章 仏法真理は語る
8 心の作用

人間は、仏の意思によってつくられた意識体であり、霊であり、魂なのです。

そのことについては、私は、すでに何度も述べました。そして、魂の中核、中枢が心であることも説明しました。

そこで、今度は、その心というものについて、さらに研究してみたいと思います。心の作用、心の機能という話になっていくはずです。

「想い」は、よく人に通じるといいます。つまり、心のなかで、ある人を好きだとなと思っていると、その「思い」がいつのまにか相手に伝わり、相手もこちらに対して好意をもってくれるようになる。そういうことが、実際、ままあります。また、反対に、心のなかで、ある人をきらっていると、そのきらいな「思い」がいつのまにか相手にも伝わって、妙によそよそしくなってきたりもする。では、なぜこうした以心伝心ともいえるようなことが現実に起きるのでしょうか。その点について、考えてみたいと思います。

心の作用とは、実は、仏が人間に与えた創造作用なのです。仏は思いによって、各次元構造をつくりました。三次元宇宙をつくり、人間の魂をつくり、人間の肉体をもつくったのです。人間そのものが、仏の意識体の一部であり、ひとつの完結した小宇宙でもあるわけです。したがって、人間の心の作用は、すなわち、これ、仏の創造作用と同種同根のものだといえます。つまりは、心なかで考えること、思うことの一つ一つが、この三次元宇宙空間と、多次元宇宙空間のどこかに、何かを創造しているのです。そして、各人のおもいの総合体が、実在界をつくりあげている力となるのです。

ところで、おもいとひとくちにいっても、おもいにも、やはりいくつかの段階、程度の差があります。

まず、「思い」は、日常生活のさまざまな瞬間に、心のなかに去来するおもいであり、各人の日常の精神活動の一環だといって良いでしょう。

つぎに、「想い」は、ある程度具体性のある考えです。「思い」が、海岸に一日中寄せては引いてゆく波のようなものだとすれば、この「想い」とは、ある程度、継続性があり、具体性のあるビジョンであり、それを視覚化し、映像化することができるものだということができます。「想い」は、ストーリー性をもっており、たとえば、流れてゆく川の水のように、継続性と方向性があるものなのです。

さらには、「念い」という段階があります。ここまでくると、おもいも、はっきりとした創造性をもっています。いわゆる念力の「念」です。四次元以降の多次元世界では、この「念い」が仏に似た創造作用をもって、いろいろなものをつくり出していますが、三次元世界においても、かなり物理的な力をもった精神作用だということができます。

たとえば、ある人をよい方向に導きたいという「念い」が集中してくると、その人の心境が一転したり、その人の環境が急転回して好転したりすることが現実に起きてきます。また、逆に、ある人を「憎い」と念う「念」が集中化してくると、その対象となった人は病気がちになったり、運命が悪化したり、早死にしたりすることもあります。

これは、個人の場合ですが、集団でも同じことがいえます。この地上を仏国土、ユートピアにしたいと願う人が、何十万、何百万と出てきて、その「念い」が集中、増幅されてくると、地上世界の一角から光で出てくる。そして、人々の心にその光が浸透して、どんどん幸福な世界がひろがってきます。そのため、この地上界が、「菩薩界」にとかわってゆくのです。

もちろん、この反対のケースもあります。その地上界が人々の悪い念い、すなわち、憎悪、怒り、利己主義などの念いで満ちてくると、どうなるか。霊眼で見ると、まるで雷雲を思わせるような、暗雲のごとき想念エネルギーが地上世界のいろんなところにぽっかりと浮かび、この想念帯が、さらに大きな混乱を地上に起こすための物理的な力に変わっていっているようです。

このように、人間の心の作用とは、すばらしいものであり、反面、こわいものでもあります。そのためにこそ、私たちは、自分自身をよくふりかえり、心の作用を確かめる必要があるのです。

【大川隆法『太陽の法』第2章「仏法真理は語る」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。

人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第1章 四次元の世界
〇霊の本質
本節では、霊の本質とは何かについて話を進めていきましょう。

肉体を去ってまもない人間は、霊的な性質になかなかなじまないということは、すでに述べたとおりです。死後まもないころは、霊的な感覚がなかなか身についてこないものなのです。

たとえば、生前は手を伸ばせば物体をつかめたわけですが、三次元の地上付近を徘徊している霊にとっては、手を伸ばしてもものをつかむことができません。この現実に対して、「とても信じられない」誰もが思うのです。

しかし、やがては彼らも、自分が霊になったことを自覚するしないにかかわらず、そうした感覚を当然のことと考えるようになっていきます。そして、天国へ行くか地獄へ行くかについて、やがては自分の進路を決めていくのです。

天国行か地獄行かが分かれる時に最も大切なのは、「自分自身はいったい何者であったか」ということを知ることです。つまり、自分自身の本質を知るということです。これが、その人間のあの世での生活を決めていくのです。

霊的世界を信じていない人であっても、あの世については、絵本や昔話、小説などのなかで、さまざまに見聞きしているはずです。ただ、それがどれほど真実をついたものなのかということに、思いいたらないだけなのです。

どのような生き方をすれば天国へ行き、どのような生き方をすれば地獄へ行くのか―。この問題に関して明確に教えてくれるところは、現在、ほとんどありません。また、あの世の存在を信じている人であっても、自分の生き方を霊的な目で見たとき、天国にふさわしい生き方なのか、地獄にふさわしい生き方なのかが分からないのです。

最も簡単な考え方では、いわゆる戒律に照らして「罪」と「罪でないもの」とをわけ、「罪の多いものは地獄に堕ち、罪の少ないものは天国に行くのだ」としています。

これは昔からはやっていた考え方です。ここ何千年かの人類の歴史のなかでは、洋の東西や民族を問わず、こうした考え方がありました。有名なものとしてはモーセの十戒があります。モーセ以前にも、メソポタミヤ地方においては『ハムラビ法典』がありました。

現代では法律というものがありますが、法律の淵源(えんげん)は何かというと、結局、光の指導霊たちが説いた法なのです。しかし、その法を人ひとにわかりやすく説明することが不可能なために、ときおり、それが戒律のかたちで教えられました。つまり、「これはしてもいいが、これはしてはならない」という戒律として与えられたのです」

したがって、霊的な世界を知っている人間もふくめて、大部分の人間にとっては、「自分は戒律に反した生き方をしなかったか」という観点を持てば、天国・地獄というものを考えやすいと思います。

確かに、物事の善悪を容易にわけるという意味において、戒律にはわかりやすい面があると言えます。最も典型的な戒律は、「人を殺すなかれ」というものでしょう。「人を殺せば地獄に堕ち、人を殺さなければ天国に行ける」というものです。あるいは、「物を盗むなかれ」という戒律もあります。「物を盗めば地獄へ、物を盗まなければ天国へ」という、こうした二文法的な考え方があります。

これも一概には幼稚と決めつけることはできないのであって、そうしたもののなかにも確かに真実が光っていると言えます。

しかし、六十年、七十年の人生を通して、仏の子としての本質に気がついた人は天国に行っています。しかも、その本質を発揮すればするほど、高い天井界へ昇っていっているのです。一方、仏の子としての本質に気づかず、その芽を出さないままにこの世を去った人は、地獄界で厳しい試験を受けています。これが本当の姿なのです。

【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第一章「四次元の世界」より抜粋】
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『人間は、仏の意思によってつくられた意識体であり、霊であり、魂なのです』
これは、悟りの第一歩としてとても重要な言葉です。今後の学びでも繰り返し出てきますので覚えてしまいましょう。

本日の学びは、ひときわ大切な教えでないかと思います。心の作用とは、心の力に他ならないからです。ナポレオン・ヒルの有名な言葉に「思考は物体になる」がございますが、これも心の作用を短く説明するものです。まさに、こころにおもうことが、「思い」となり、「想い」になり、やがで「念い」になって、形なきアイデアが形あるものへと姿を変えていきます。

このように考えると、おもいが「祈り」になるのか「呪い」になるのかは、心に描く思いの性質によるのだということがよくわかります。

つまり、心のなかの善いおもいが、「念い」になれば、それは愛を具体化する「祈り」になり、
心のなかの悪しきおもいが、「念い」になれば、それは憎しみが具体化する「呪い」になります。よって、心のなかに何を思い描くかがとても大切であり、この地上に仏国土ユートピアを建設するために、仏は「仏法真理」を人間に与えてくださいました。私たちは、心のなかに、常に、「仏法真理」を思い描き、幸福な過去・現在・未来を創造することを仏から気期待されている存在です。

本日の教えでとても重要である箇所は
『心の作用とは、実は、仏が人間に与えた創造作用なのです。仏は思いによって、各次元構造をつくりました。三次元宇宙をつくり、人間の魂をつくり、人間の肉体をもつくったのです。人間そのものが、仏の意識体の一部であり、ひとつの完結した小宇宙でもあるわけです。したがって、人間の心の作用は、すなわち、これ、仏の創造作用と同種同根のものだといえます。つまりは、心なかで考えること、思うことの一つ一つが、この三次元宇宙空間と、多次元宇宙空間のどこかに、何かを創造しているのです。そして、各人のおもいの総合体が、実在界をつくりあげている力となるのです』

ここではないかなと私は考えます。真に心の力に目覚めた方は、神や仏と同じことを常に思い描き、それを自らの身の回りに実現することができる存在です。

常に主なる神、エル・カンターレとともにあるために、主の教えである仏法真理を心に描き続けて、主の御手足となって隣人を救い助け、ともにこの地上にユートピアを創造してまいりましょう。心の力は無限大です。

また、『永遠の法』では、
『天国行か地獄行かが分かれる時に最も大切なのは、「自分自身はいったい何者であったか」ということを知ることです。つまり、自分自身の本質を知るということです。これが、その人間のあの世での生活を決めていくのです』

という教えが大変印象深いものでした。また、地上世界の法律の起源が神の教えであると喝破されているところは、主が東京大学で法律を履修されて、また法哲学を愛さていたからこそ見抜ける霊的本質ではないかとあらためて感じました。

本当は、心の教えを中心に丁寧に粘り強く教えを広げたい真理や戒律を、法律というかたちで伝えるところが、モーセの「十戒」や「ハムラビ法典」の起源であることを学びました。中東の世界がとても揺れていますが、これらの法律の起源がともに砂漠の地方から発達しているところも大きく興味を引くところです。

本日は、自分が神仏の子であるということに気がつき、神仏のために生きた人生であるのか、そうでないのかがあの世での行き先を決めることが分かりました。
引用の最後の部分ではこのようにありました。

『しかし、六十年、七十年の人生を通して、仏の子としての本質に気がついた人は天国に行っています。しかも、その本質を発揮すればするほど、高い天井界へ昇っていっているのです。一方、仏の子としての本質に気づかず、その芽を出さないままにこの世を去った人は、地獄界で厳しい試験を受けています。これが本当の姿なのです』

とにもかくにも、私たちは、自分自身を知ること、つまり自分の本質が霊であることを、仏法真理おいて、戒律において、そして日常生活のなかでしっかりと根付くことができるよう精進を重ねる必要があります。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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