11 モノを作るだけで売らなければ、収入はゼロである。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、教典『悟りの挑戦(上巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
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■『悟りの挑戦(上巻)』第4章「無我とは何か」
6 人間救済のための理論として
天国と地獄を分けるのは、その「我」のところのあるかないかなのです。禅問答ではありませんが、その「我」というのは、なくさなければならないものでありながら、同時に磨かなければならないものでもあるのです。
修業とは自分のためのものです。それは我を磨くことになり、我の存在を認めることになる、ともとれるでしょう。しかし、その修行の方向が、神仏に向かっていくならば、それは神仏と一体になることであり、我がなくなっていく方向です。また、愛他、利他の方向に向かう、人びとを救済するための修行であるならば、これもまた、結局は我をなくしていく方向です。
ですから、自分が勉強したり、自分の時間を大切にしたり、自分の肉体を大切にして修行に励むことは、一見、非常に自我を強くしていくようにも見えますが、究極において、神仏の方向に向かい、愛他、利他の方向に向かうときに、やはり無我になっていくわけです。
我を大切にすることが無我に向かっていくならよいのですが、我を大切にしていくことが、物やこの世的な生き方に自分を縛りつけることになるならば、これは間違った方向にの執着を生み、地獄へ行くパスポートとなっていくのです。
最初に、有名な仏教学者の話をしましたが、いろいろな研究をして、仏教の理論を説明して、そして全集まで残したところで、結局、この無我の教えが分かっていないということなのです。
これは、釈迦以降の歴史のなかで、弟子たちが混乱をつくっていたものですから、わからなくても当然と言えば当然なのですけれども、ただ、哀しいことです。知識的にのみ教学をした人間の哀れさがあります。
みなさんのなかにも、そういう方がいるでしょうし、後世その流れを遺す人もいるかもしれません。しかし、知識的にのみ、抽象的にのみ説明しても、結局、人を救えなかったら何にもなりません。それを私は言いたいのです。空理空論、抽象論をいくら組み立てても、結局、人びとの幸福を増進させるようなものでなければ何にもなりません。
無我の教えについても、これまでの話をよく汲みとって、その真意を知っていただきたいのです。「無我なのか。では、自分はないのだから、自殺してもかまわないのだろう」というような方もいるかもしれません。釈迦の同時代にも、「人間というのは分子の集まり、原子の集まりだから、人を斬っても殺人にならない。それは刃物が分子と分子の間を通り抜けただけなのだ」というようなことを言っていた唯物論者もいたのです。
一定の説を立てるのはかまいませんが、これを運用するときに、人を迷わせたり、人を全然教えない方向に運用してはならないのです。実際に、現代に生きている人の五割以上は、迷って地獄に行っているわけですから、「迷っている人たちを救うためには、どのように説明しなければいないのか、どのようにこの法を説くべきなのか」というほうに、あくまでも主眼を置かねばなりません。そうではなくて、「ああでもない、こうでもない」と、抽象的、形而上学的な思想にこだわっていると、自分も救われないし、人も救われないという世界に入っていきます。
どうか、「救済」という一点、これを忘れないでいただきたいと思います。
【大川隆法『悟りの挑戦(上巻)』第4章「無我とは何か」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、光とは何か。仏法真理とは何か。という問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第1章 太陽の昇る時
4有限と無限
私は、さきほど、時間ということについて述べました。そしてまた、存在ということにも触れました。そこで、つぎに、時間と空間のかなたにあるもの、すなわち、「有限」と「無限」について話をしてゆきたいと思います。
人生は、有限か、無限か。また、宇宙は、有限か、無限か。人間ならだれもが一度は出くわす疑問でしょう。
この結論を出す前に、私はひとつのたとえ話をしたいと思います。
むかし、あるところに、大きな亀がおりました。その亀は、右足を出すのに十分、左足を出すのに十分、後ろ足を出すのにそれぞれ十分ずつ、つまり、体をひとまず動かすのに四十分もかかりました。あるとき、この亀は、砂浜の海岸に、いきつくところこの亀は、砂浜の海岸に、行きつくところがあるのかどうか不思議になりました。そこで、ひとつ世界探検をしてやろうと思いつきました。そして、見渡せるかぎりの海岸をハッタとにらんで、全力をふりしぼって歩みはじめました。
自分の体を、ひとくぎり前に前進させるのに、四十分もかかりながら、海岸線の測量を始めたのです。亀は、自分がすでに歩いたところかどうかが分からなくならないように、浜辺に点々と足跡を残してゆくことにしました。こうすれば同じところを二度歩かなくてすむと考えたからです。なかなか賢明な亀だといえます。
しかし、いくら歩けども、海岸線は永遠に終わることなく、とうとうある日、亀は力つきてしまいました。自分が全世界の半分ぐらいは踏破したと信じながら、死んでしまったのです。
あくる日、島の漁師がやってきて、その亀を引きずって島の反対側へと持っていき食べてしまいました。島の反対側まで行くのに、大変な時間がかかったでしょうか。いえ、漁師の健康な足をもってすれば、わずか十分でこと足りました。
結局、あわれな亀は、太平洋の波が自分の足跡を非常にも洗っていたとも知らずに、小さな島の砂浜をぐるぐるとまわっていたにすぎなかったのです。
有限と無限について考えるときに、私は、いつも、この亀と漁師の話を思い出さずにはいられません。亀と漁師のちがいは、どこにあるのでしょうか。歩く速さ。もちろん、それもあります。体の大きさ。もちろん、それもあります。あるいは、経験量の差。そういうこともいえます。
しかし、亀と漁師の根本的な差異は、認識力の差にあったといえるのではないでしょうか。亀の目的、努力、そして情熱は、みあげたものですが、その結末にペーソス(※哀しみ)がただようのは、なぜでしょうか。やはり、そこには、わかるものとわからないものとの差、知ることができるものと知ることができないものとの差、そういったものがはっきりとあるように思います。
ところで、この亀と漁師を唯物論者と真理体得者といいかえてみたらどうでしょう。「私は亀ではない」と、怒りはじめる方もきっといるはずです。
人生は、六十年、七十年の有限のもので、死ねば何もかもがおわりだと思っている人、自分の目に見える部分だけが全ての世界で、五官を超えた世界などは全く信じないといってはばからない人、こういう人は、結局、世界探求に出かけた亀のように自分の足跡だけを頼りに、同じ小さな世界をぐるぐると堂々めぐりしているにすぎないのです。まことに気の毒な人だといわなくてはなりません。しかも、まさにあの亀と同じように、鼻に脂汗を浮かべて、必死に人生を生きているから、また、小さな島をぐるぐるとけんめいにまわっているから、どこかペーソス(※哀しみ)をおびているのです。
私たち人間は、はるかむかしから、永遠の生命をもって生きております。そして、何度も何度も、地上に生まれ変わっては、人生修行を積んでいるのです。
この地球を磁場とした世界だけをとってみても、私たち人間の生命体が活躍している空間は、この三次元地上世界だけではありません。私たちは、本来、実在界、すなわち、四次元以降の住人なのです。それは、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元、最上階である十次元まで広がっています。そして、心の段階によって、それぞれ異なる調和された世界に住んでいるのです。
ですから、宇宙が有限か、無限か、を悩んでいる方に対して、私は、「あなたが問題としている宇宙とは、三次元宇宙ですか、それとも四次元以降の多次元宇宙ですか」と聞きかえさざるをえないのです。
宇宙を人体にたとえるならば、三次元宇宙とは、はだかの肉体人間です。四次元宇宙とは
、肉体を包む下着であり、五次元とは、下着の上のワイシャツ、六次元とは、ワイシャツの上のセーターです。七次元とは、セーターの上にはおるスーツ、八次元とは、全身を覆うコート、そして、九次元とは、頭の上の帽子のようなものなのです。
右に述べたのは、もちろん、単なる比喩にすぎませんが、多次元宇宙構造をよく表していると思います。すなわち、高次元宇宙とは、下次元宇宙をすっぽりとおおうものなのです。といっても、下次元宇宙とまったく関係ないものではなくて、同じようでありながら、いっそう高度な目的をもった世界、それが高次元宇宙だといえます。
【大川隆法『太陽の法』第1章「太陽の昇る時」より抜粋】
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さて、ここからは、幸福の科学の基本書3部作『黄金の法』を通して、エル・カンターレの歴史観を共に学んでまいります。『黄金の法』は、光の菩薩たちが主の悲願である地上仏国土ユートピア建設のためにどのような活躍をなしたのかを記すものです。人類の歴史に隠されていた地球神を、光の天使・菩薩たちはどのように実行したのか、その一端を学びます。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
『エル・カンターレが観た歴史観であるとともに、エル・カンターレが立案したところの、地球的仏法真理の大河の鳥瞰図でもあります』(「『黄金の法』まえがき」より)
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■『黄金の法』第6章「未来に羽搏く」
1西暦二〇〇〇年―二一〇〇年
私は、第2章から第5章までに、光の指導霊たちがどのように歴史的に活躍してきたかを概観してきました。そして、実在界から見た、世界史の展開をかなり詳しく考察してきたつもりです。そこで、最終章である本章では、今後の人類を待ち受けている世界史について、あまり未来の人類を拘束しない程度に予言し、今後の人類に希望の光を投げかけたいと思っております。
予言としての未来史は、かなり具体的なことまで分かるのですが、人類の努力の余地を残しておくために、予言には、それ自体に、抽象性を求める性質があります。なぜなら、それが決定論として、人々に重くのしかかってくると、人々の努力精進の意欲を奪ってしまう危険性があるからです。ですから、これから私が述べる予言は、悪しきことは少しぼかして、良きことはかなり明確に書いてゆくつもりです。そして、その方針で取り組むことが、後の世の人々を善導することになると思っております。
私は、現在(一九八六年十月。原著の書下ろし時点)から今世紀末までのことを書くことは、意図的に避けることにしました。というのは、ここ十数年の間に人類に待ち受けている未来は、相当に衝撃的な内容になることが分かるからです。この世の終わりがくるという終末思想が人々の口にのぼり、時代は次第に不安を帯びてゆくはずです。
そして、間違った宗教も、日本の各地、世界の各地で流行し始めて、人々がその魂を悪魔に売ったかに見えることもあるでしょう。また、国際政治は多極分解し、国連は、一時期、その機能をストップすることとなるでしょう。国際的な大戦が、中近東を端緒として勃発し、やがて、列強国に火薬のにおいが立ち込めるでしょう。(一九九一年、湾岸戦争勃発。この叙述は的中)。
こうした間に、一方では、世界の何ヵ所かで、真理伝道の火蓋が切られ、日本を中心に、真理の太陽が大きくその姿を見せながら、ゆっくりと昇ってゆくはずです。そして人々は、不安のまっただなかに、希望の光を見、死の恐怖のなかに、福音を宣べ伝える声が広がってゆくのを聞くでしょう。こうして、最悪の時代に、最良のものが、その光を明らかにしてゆきます。その光は、確実に強くなってゆくはずです。
西暦二〇二〇年頃から二〇三七年頃にかけて、日本は現代のエルサレムとなり、世界のメッカとなるはずです。この時期が、日本の黄金時代となるでしょう。日本は真理発祥の地として、世界の称讃を一手にしますが、やがて、真理の火は、南のほうへと受け継がれてゆくのです。
西暦二〇五〇年代になると、タイはバンコクに、光を継ぐ者が現れるでしょう。かつて、レオナルド・ダ・ヴィンチとして生まれた大天使ガブリエルの再来です。さらに、西暦二〇八〇年頃、現代のインドネシアのジャカルタに、大きな光が現われます。これは、預言者エリアの再来です。そして、彼は、大いなる真理を打ち立てるでしょう。
2 西暦二一〇〇年―二二〇〇年
西暦二一〇〇年―この頃には、人々は、新たな世界体験をします。まず、目新しいこととしては、積極的に宇宙空間に出ていく人が多いことです。現代の海外旅行ほどにはなっていないとはいうものの、十人にひとりぐらいは、宇宙空間の経験者となっているでしょう。
月にはすでにステーションづくりが進行しており、有力五か国ほどが、その基地を築いております。月に移住している人の数は、この頃には、一万人ぐらいに達しており、民族を超えて、新しいエデンの園をつくることに胸をふくらませています。月と地球との間には、一日に三往復ぐらいの定期便が出ており、旅行所要時間は約二十時間ぐらいだと言えるでしょう。
月面上には酸素がないため、直径一キロぐらいの半球状の透明ドームがあります。そして、巨大な酸素製造工場や人口の光の製造工場があります。おもしろいのは、疑似太陽があることです。直径十メートルぐらいの人工疑似太陽が東から昇り、ドームの内側に沿って動いてゆき、南中し、西に没する。つまり、人々は、地球の生活と同じような環境を作り出す努力をしているのです。
ドームからは、地下道を通り抜けて外に出るようになっており、砕石のためのショベルカーが何十台も月面を動いている。その様子が、霊視できます。月には、地球にはないエネルギー鉱石があり、それを採取することによって、工場でエネルギーをつくり出しているのです。
水は、水素と酸素の化学反応によって製造しており、ドームのなかには、全長二百メートルぐらいの人造貯水池も見えます。
二一〇〇年代の航空技術には、反重力製造装置が活用され、航空機は、垂直の離着陸や、空中での静止が自由自在にできるようになっています。つまり、磁石の引きつけある力と反発し合う力の原理を応用して星自体の重力に自由に随順(ずいじゅん)したり、反発したりする力を生み出す装置を発明したのです。
二一〇〇年代のもう一つの特徴は、霊界との通信機が発明されていることです。現代までは、特殊な霊能者だけが、この世を去った四次元以降の霊たちと交流することができたのですが、この頃には、霊波を感知し、それを音声に変換する装置が発明されております。しかし、残念ながら、五次元、六次元以上の高級霊界との交流はまだ不可能です。ですから、四次元の霊たちとの交流に限られています。
したがって、高級霊が地上の人々と通信しようとするならば、やはり、四次元霊を媒体としてワン・クッションおいてからでないと、語りかけられないという不自由があります。もうひとつの自由は、地上の人たちにとっても、まだ、四次元の特定の相手に向けて通信をするわけにはいかず、地上からの霊波を傍受した霊に連絡係を買って出てもらい、他の諸霊を探り出すしかないということです。しかも、地獄霊となると、時代遅れの諸霊も多く、なかなかこうした通信のメカニズムが理解できず、混乱することになります。
この霊界通信機開発後の問題としては、地上の人々が、安易に四次元霊の言葉を信じて行動するようになり、相手の霊の性質によっては、さまざまな不幸が起きることです。このため、二一〇〇年代の地上に降りた高級諸霊の使命は、霊界通信機の相手方の霊を霊査したり、地獄に堕ちている霊を説得したり、遺族の依頼によって成仏のための処方箋を書いたりすることとなっております。すなわち、この頃には、現在のような僧侶による法事というようなことは、特殊な信仰を持っている少数者のみに受け継がれており、大半は、宗教指導者のカウンセリングを受けながら、念に何回か家族が先祖と対話するという形をとっているのです。
西暦二一〇〇年代のもうひとつの特徴的な出来事を挙げるとすれば、この頃には、すでに北米大陸の東部、西海海岸と南部が海中に没しており、現在のアメリカ合衆国は、ロッキー山脈地帯を中心とする半島になっているということです。アメリカ合衆国の陥没については、その時期を明言するのは避けまずか、まず、サンフランシスコ、カリフォルニアを中心とする西部が沈み、次にニューヨークを中心とする東部が沈みます。ミシシッピー平野などの南部地方は、三段目の陥没となるでしょう。ただし、予言における決定論はなく、国民の自助努力による運命の修正の余地は、まだ残っています。
【大川隆法『黄金の法』第6章「未来に羽搏く」より抜粋】
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『亀と漁師』のたとえは、経典『太陽の法』にある大変印象的な話です。
私たちも、なにもかも知っていると思っていたら、まったく理解していなかったということがよくあります。私も、このたとえ話をはじめて読んだときは、「亀が、実は自分のことである」ことを理解できませんでした。「そのくらいは知っている」と思っていたからです。
本日のたとえ話では、
『有限と無限について考えるときに、私は、いつも、この亀と漁師の話を思い出さずにはいられません。亀と漁師のちがいは、どこにあるのでしょうか。歩く速さ。もちろん、それもあります。体の大きさ。もちろん、それもあります。あるいは、経験量の差。そういうこともいえます。
しかし、亀と漁師の根本的な差異は、認識力の差にあったといえるのではないでしょうか。亀の目的、努力、そして情熱は、みあげたものですが、その結末にペーソス(※哀しみ)がただようのは、なぜでしょうか。やはり、そこには、わかるものとわからないものとの差、知ることができるものと知ることができないものとの差、そういったものがはっきりとあるように思います』
この言葉が、私にとっての一転語でした。有限の世界【目に見える世界、手に触れることができる世界】だけで満足している者は、この世だけが全てであると思う者であり、人間は霊であることが認識できません。その場合本日のたとえでは、それらの人はすべて亀のような世界を生きることになってしまいます。
本日のたとえ話は、一見易しい話でありながら、とても深い話でもあります。神様・仏様を信じることができない。天使や悪魔を信じることができない。死後の世界である天国や地獄を信じることができない人は、このたとえ話の亀になってしまいます。
本日の学びでは、
『私たち人間は、はるかむかしから、永遠の生命をもって生きております。そして、何度も何度も、地上に生まれ変わっては、人生修行を積んでいるのです』
とあるように、人間は、あの世とこの世を繰り返し生まれ変わることによって人生修行をしていることを教えていただきました。これを仏教では「転生輪廻」(てんしょうりんね)と呼ばれています。
経典『メシアの法』では、主が、魂の修行場として地球と、転生輪廻のシステムをつくった目的は、天使や菩薩を養成するためであると教えていただきました。私たちの人生には、使命や目的があります。仏さまは、私たちが天使や菩薩になることを願われています。
そして、魂の発育や、成長には段階、レベルの差があることも本日教えていただいています。それが多次元宇宙です。私たちの住む世界は、地上の三次元世界を底辺として、四次元~十次元までの階層があります。天使や菩薩が住む世界は七次元世界です。八次元は主と一体となって神格をもつ人霊の世界であり、人の姿かたちを取ることができるのは、メシア資格を持つ、九次元存在であるといわれています。十次元は意識のみとして存在しています。
本日の霊界の次元構造は、幸福の科学の教えを学ぶ上で、基礎となりますのでしっかりと押さえておきたいところです。
また、『黄金の法』では、2000年から2100年の未来社会を指し示していただきました。御法話『愛の原点』【『幸福の科学の十大原理』上巻
参照】では、ノストラダムスの予言、人類は2000年で滅亡の危機の予言を、ヘルメスの降臨と、『太陽の法』が説かれることによって、打ち砕かれました。そして、2000年以降の神の計画が、ゴールデンエイジの到来が私たちに示されています。
主の説かれた基本三部作『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』こそが、人類への最大の希望であると改めて実感しました。
本日も愛と天使の働きをなすために、そして私たちの隣人を助けるために、主の教えと信仰心の大切さを伝え、入会・三帰へと導いてまいりましょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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(9/28-1)【基礎教学通信】271『太陽の法』を読む4「太陽の昇る時」有限と無限―「悟りの挑戦(上巻)」人間救済のための理論として―『黄金の法』西暦2000年~2100年
