6 新聞、テレビ、週刊誌、ネットだけで、商売のネタを探している人は、ネタが切れる。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、教典『悟りの挑戦(上巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
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■『悟りの挑戦(上巻)』第4章「無我とは何か」
1 誤った「無我」の解釈
本章では、「無我とは何か」というテーマについて述べていきたいと思います。「無我」あるいは「我」そのものについての話です。
先日、ある仏教学者の本を読んでいました。すでに亡くなられた方ですが、T大の教授をしていた有名な仏教学者で、全集も出ています。「縁起論こそ仏教の中心である」という説を立てて、一世を風靡した方です。そのU博士の本を読んでいたら、ご本人の霊が出てきたのです。それが、よいほうから出てこないで悪いほうから出てきたのです。すなわち、暗い世界のほうから出できて、話しかけてきたので、一晩ほど話をしました。
仏教の大全集を書くほどの学者ですから、仏教論を語れば、学問的には、私などよりもはるかに詳しいのです。それほど仏教を知っている方が地獄に堕ちているのです。このような場合、もはや救いようがない状況に近いのです。原点から、あらゆる翻訳書、研究書、すべてを読んでいます。そして、自分なりの学問を建てました。それで地獄に行った場合、どうしたらよいのかさっぱりわからないのです。仏教を読んで、仏陀の教えを研究して、地獄に行ったのでは、これでは救われません。本人も「なぜこんな状態になったがわからない。これほど研究もしたのに、勉強もしたのに、それが分からない」と言っていました。
私も、それはなかなかわからないだろうと思いました。それだけの大きな仕事をされてきた方ですから、仏教には精通していて、「自分に分からないものは何もない」と考えていただろうと思うのです。
そして、話をしていて、結局、「これが、この人が迷っている原因なのだな」と私なりに感じたのが、この「無我」のところなのです。それ以外にもあるかもしれませんが、これにつまずいているらしいということに気がついたのです。
これは、その方だけの考えではなくて、現代仏教を勉強すると、「釈迦は無我を説いた。『本来、我なし』の教えを説いたので、我というものはないのだ」という解釈の仕方をするとことがあります。仏教学としてもそうですし、お寺の僧侶でもそうなのです。しかし、それを突き詰めていくと、「地上いるときに修行をして、悟りを開いたならば、我というものは来世では消滅し、そして、もはや輪廻の軛(くびき)から逃れることができる。自我が消滅するわけだから、転生輪廻の主体となるべきものもなくなるわけで、そうすれば来世はどうなるかというと、自分がどうなるのかよくわからない」というような思想になってくるのです。無我説というのは、気をつけないとそのようになっていくのです。
その高名な仏教学者と話をしていると、「無我なのだから、死後の生存というのはあるはずがない」と言います。「では、その話をしているあなたはいったい何なのだ」と私は問うたのですが、「いや、それがわからない」と言うのです。その方は、禅宗も勉強されていましたから、「本来無我だから、なくなるはずなのだけれども、ある。今迷っているこの私はいわゆる”迷える我”であって、本来の我ではない」などと、難しいことを言っているのですが、「迷っていようがいまいが、すなわちあなたはあなたでしょう」という話を私はしたのです。「あなたが迷っているのでしょう」と。そのように、「迷える我であって、本来の自分ではない」と、いくら理屈をこねても救われないのです。
結局、その根本思想において、何らかの誤りがあったと見ざるをえません。これはその方だけではなくて、仏教学界全体、あるいは仏教学界全体に、大きく響く問題なのです。仏教学界や宗教学界には、この学者が言っているような思想に共鳴している方が半分ぐらい入るのではないかと思います。
【大川隆法『悟りの挑戦(上巻)』第4章「無我とは何か」より抜粋】
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さて、ここからは、幸福の科学の基本書3部作『黄金の法』を通して、エル・カンターレの歴史観を共に学んでまいります。『黄金の法』は、光の菩薩たちが主の悲願である地上仏国土ユートピア建設のためにどのような活躍をなしたのかを記すものです。人類の歴史に隠されていた地球神を、光の天使・菩薩たちはどのように実行したのか、その一端を学びます。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
『エル・カンターレが観た歴史観であるとともに、エル・カンターレが立案したところの、地球的仏法真理の大河の鳥瞰図でもあります』(「『黄金の法』まえがき」より)
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第5章 愛の押し寄せる時
6 救世主イエス・キリスト
こうしてイスラエルの地には、さまざまな預言者が次々と降りて、イスラエルを神の国とする動きが続いていたのです。確かに、次々と肉体を持った高級霊、預言者たちの数を見るとき、イスラエルの民が、自分たちは神によって選ばれたる民であるという思想、いわゆる選民思想を持つに至ったのもうなずけます。
エリヤの後にも、アモス、イザヤ、エレミヤ、エリシヤ、エゼキエル、ダニエルなど、数々の優れた光の指導霊たちが出てきました。そして、彼らが遺した教えが、旧約聖書として体系化されてゆくのです。やがて、紀元前百年頃からイスラエルの民の中から救世主が出現するという信仰、いわゆるメシア信仰が盛んになってきます。そして、預言者たちによれば、メシアが地上に降臨され、地上に神の国を建国するのですが、メシアは、十字架にかかって、その死後、復活することになっていたのです。
当時、モーセの律法を厳格に戒律として守るパリサイ派とか、保守的な多数派のサドカイ派
とか、いろいろな宗派がありましたが、メシアの降臨を待望する宗派としてエッセネ派がありました。このエッセネ派のヨセフ三十六歳とマリア十七歳との間にできたのがインマヌエルという男の子であり、彼が後にイエス・キリストとなるのです。
イエス出誕については、釈迦がマーヤー夫人(ぶにん)の脇の下から生まれたという伝説と同様、処女降誕が信じられています。しかし、これはイエスの弟子たちの弟子、すなわち、孫弟子たちが、イエスを救世主として神格化するために言い出したことであり、イエス自身は、正常な夫婦の営みから生まれました。ただ、占星術を使う東方の三博士が、星を見ていて、ナザレの地に救世主が生まれると告げたのは、歴史上の事実としてあった予言です。
イエスは、七歳にして、すでに天使が降り、霊言、霊視、霊聴ができるようになりました。イエスの肉体のなかに天使が入ったので、外見上は幼い子供であるのに、旧約聖書の内容について滔々と述べたりしました。そのため、教会関係者は大変不思議がり、十歳の頃には、イエスは神童だという噂で持ち切りだったのです。そして、エッセネ派の長老たちは、この子こそ、旧約聖書に予言されていたメシアに違いないと気づき、他宗派の妨害からイエスの身を守り、慎重に教育することを決めました。
青年期のイエスについてはオリジナルの聖書から記述が削除されているようですが、宗教エリートとしての教育を受けていたようです。霊界情報によれば、イエスが十三歳のときには、エッセネ派の青年教師がイエスを連れてエジプトへ行き、約一年間、さまざまな宗教の見聞をさせております。さらに十六歳のときには、長老を含めて数人で西インドに旅行。ここでイエスは、インドの伝統的なヨーガ行者の精神統一法や、仏典などを学びました。
インド旅行でイエスが得た収穫は、精神力による物理的奇跡の能力、そして、祈りの力の神秘力でした。インドで、彼は、マニトーラという師について、空中からパンを出したり、魚を出したりする秘術を授かります。いわゆる物質化現象です。彼は思想的には、仏教のなかの愛他行、布施の考えに非常に魅了されました。インドでは、約一年半の勉強をしております。
さらに、イエスは、二十一歳の頃、中東はペルシャで、ゾロアスター教の善悪二元論の勉強や、ゾロアスターを導いたオーラマツダの研究を行ったのですが、火を重視する拝火教徒達の儀式にはとてもなじめませんでした。二十五歳頃からは、主として旧約聖書の研究に打ち込みます。そいて、二十七歳頃から三年間、死海のほとりのクムランの洞窟で、禁欲的瞑想修行に入ったのです。ここで、彼は、自分が将来説くべき教えの骨格を練りました。すなわち、仏教から学んだ、播いた種は刈り取らねばならぬというカルマの教えは重要だと思ったし、また、仏教では、まだ愛の教えが不足しているから、これを強調する必要があろう、と。ヨーガの行者の霊力も使える考えだ。世の人々を目覚めさせるのによい。ゾロアスター教からは、・
・を駆逐するという考えが採用できよう、と。こうして、イエスの思想の核が、次第にまとまってゆくのです。
イエスが三十歳になったある日、光の天使、ガブリエルが、彼のいる洞窟に降りて来ます。そして、イエスにこう告げたのです。
「ナザレに帰りなさい。途中、ヨルダン河のほとりで、水で洗礼しているヨハネという者に出会うはずです。バプテスマのヨハネとして有名な方です。その方と出会うことが伝道の開始となります。その後、縁生の弟子たちが集まって来ますから、十二人を集めて十二使徒とし、彼らを中軸として教えを説いてゆきなさい」
その後、イエスが説いた教えは、だいたい聖書に述べられているような内容です。とくにエル・カンターレの魂の兄弟のひとり、ヘルメスの愛の教えが、イエスの霊的覚醒に強いインパクトを与えており、後のキリスト教に普遍性を与え、世界宗教化する鍵になっています。
彼の伝道期間は約三年間と短いものでしたが、七歳の頃からの二十三年間の蓄えがあったために、イエスの教えは、周りのだれもが目を見張るように充実したものでした。イエスはゴルゴダの丘で十字架にかかり、三十三歳の短い生涯を終えることになります。しかし、そのひとりの死が、その後二千年間の世界の歴史を変えたのです。
イエスの受難は、イスラエルの民族神信仰と堕してエゴイスティックになっていたヤハウェ信仰を、民族を超えた普遍的な神(エル・カンターレ)への信仰に変えようとして、守旧派から攻撃を受けたのだと言えます。また、ローマで、ペテロの殉教(六十四年)、パウロの殉教(六十七年)など、キリスト教徒の受難が相次いだ理由は、ギリシャ・ローマ的多神教と一神教の激突が原因ですが、至高神エル・カンターレと他神との関係が理解されていれば、このような悲劇は避けられたことでしょう。イエスは、現在、九次元でも最高責任者のひとりとなっております。
【大川隆法『黄金の法』第5章「愛の押し寄せる時」より抜粋】
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幸福の科学は、この地上に真のユートピアを建設するために、日夜努力しています。私たちが「正しき心の探究」として「愛・知・反省・発展」の四正道の教えの実践と四正道の全世界への布教に向けて伝道しているのは、「仏国土ユートピア建設」のためです。
ここからは、経典『正しき心の探究の大切さ』より、「愛」「知」「反省」「発展」の四正道ついて主より教えていただきます。
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■『正しき心の探究の大切さ』第1章「未来へ」
〇「ユートピアづくり」の教えが入りやすい場合
幸福の科学の会員のみなさんは、対機説法によって、相手に合わせて基本教義を伝えてください。
実を言うと、「ユートピアづくり」の教えの部分は、唯物論者でもわかるところなのです。唯物論者で、「科学的唯物論」などと言っている人たちでも、「世の中をよくしなければいけない」「自分たちを幸福にしなければいけない」「社会をよくしなければいけない」というような「ユートピアづくり」の教えは分かります。
これまでに述べた、「愛」の教え、「知」の教え、「反省」の教えが分からない人でも、「発展」の教えである「ユートピアづくり」の部分は反論しにくいところなのです。
したがって、「この人は、ここから攻めなくてはいけない」と思ったら、「ユートピアづくり」の教えをバシッと伝えることが大切です。
あるいは、「お金儲けしたい」と思って、そこにとらわれている人がいたら、まずそちらの方向からアプローチする手もあります。「『事業に成功する道、やり方』というのはこうです」「人の使い方はこうです」「このようにすると社業は繁栄します」という入り口からまず攻めても、構わないわけです。
【大川隆法『正しき心の探究の大切さ』第1章「未来へ」より抜粋】
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続きまして、経典『幸福の科学とは何か』より、反省について学びを深めます。
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〇心のさび落としとさび止め
以上、反省について述べてまいりましたが、これは言葉を換えて言うならば、心のさび落としが大事だということと同じことでしょう。さびというものは、気がつかないうちについてくるものです。
現在ではあまり見られなくなりましたが、トタンという素材を使って、昔はよく家を造ったり、屋根をふいたり、いろんなことをしましたが、このトタンの屋根、トタンの壁、覆いなども、さびてくるとまっ茶色になっていきます。そして、この上にペンキを塗っても、そのペンキは付かないものです。どうしても、さびを止めることはできないのです。しばらくするとさびが浮いてきて、そのペンキの効果がなくなっていきます。ペンキの効果を上げるためには、さびを落としてからでなければ、こうしたペンキは塗れないものです。そういうことが、事実として上げられると思います。
心もまさしく同じようなところがあります。心に曇りをつけたままで、それで向上をめざそうとしても、なかなかそうはいかない点があります。・・・自分自身心の大きな曇りをつくり、大きな執着をつくっておりながら、いっそうの発展を求めても、この発展は虚しいものとなっていくことが多いのです。それは、間違った方向に発展していくことは、それだけ害が大きくなっていくからです。また、まちがった人生観のもとに突っ走っていたらどうなるかと言うと、もちろんこれは事故を起こしてしまいます。
すなわち、まず日々の心得として、心の錆落としにこれ努めるということが、大事です。これは、まとめてやるということがほぼ不可能です。もちろん反省を始める最初の頃は、まとめて自分の何十年の人生を振り返ることも必要ですが、しかしながら、やはり反省は日々のものであり、少しずつ少しずつ思い出してゆかないと、そう簡単に完成することができるものではありません。
ここで、私は、このさび落としの方法について、お話しておきたいと思います。これは、私の「太陽の法」「釈迦の本心」にも出ています。「八正道」に基づいて、ひとつひとつ自分を反省してみることです。八正道のなかには、正見―正しく見たか、正語―正しく語ったか、正思―正しく思ったか、正命―正しく生活したか、正業―正しく仕事をなしたか、正精進―正しく道に精進したか、正念―正しく念じたか、正定―正しく定に入ったか、こうした項目が並んでおります。
それぞれは、やはり正しさというものをはかるためのフィルターです。こうした観点に立って、自分自身の思いを修正せよということです。これはなかなか難しいかもしれませんが、現代的に私は簡単に説明をしてあるはずです。そうしたものを参考にして、よくふり返っていただきたいと思います。
この正しさの基準をえるための方法が、じつは数多くの霊言集なのです。これは、材料として呈示(ていじ)しているのです。高級霊たちの考えを学ぶことによって、正しというものの姿、性質というのがだんだんに見えてくるのです。人間心で正しさを探っても、そうかんたんにはわかりません。それは、自分中心の考え方を、人間はどうしてもしてしまうからです。自分の利益中心に考えてしまうからです。自分の利益中心ではなくて、やはり神の心を中心に、正しさを考えなければなりせん。
しかし、具体的に神の心とは何かということは分かりかねます。それゆえに、神近き高級霊たちの心を基準として、自らの正しさを探究していくことが大切となります。この正しさの探究には、限りがありません。奥深く奥深く、どこまでも行くものです。それは、高級霊であったとしても、努力に努力を積み重ねていることと、軌を一にすると言ってもよいでしょう。
もう一つのさび落としの方法は、具体的行為です。実践行為にあります。すなわち、たとえば心の曇りというものは、自分の欲望のままに自分が人から与えられたい、環境さえよかったらいう、愚痴から生まれています。それゆえに、この逆の想念行為を起こしていくことがだいじです。まず、感謝あるいは報恩ということです。これは具体的に大切になります。
また、与える愛の実践ということでもありましょう。神の愛を感じたら、この感謝を行為に現わしてみることです。また、人の恩を感じたら、それに関してお返しをしていくことです。こうした実践行為、実践が足りない人には、それなりの実践行為が必要です。心清く、正しく生きているのに、どうして自分は人生が開けないのか、と思っている人も多いでしょうが、そうした人は、この具体的実践行為が足りないのです。愛の実践行為、報恩の行為を、どうかしていただきたいと思います。
さて、さび落としを中心に話しましたが、このさび止めとはいったい何かということになりましょう。それは、大きな目標だと思います。自分が絶え間なく向上していくための大きな目標。すなわち「悟り」という名の目標です。そして真実の欲、すなわち無限に幸福になっていこう、神の心にかなった無限幸福を手に入れようと思う願い、これでありましょう。どちらも、幸福は即ち悟りであり、悟り即ち幸福であるということになりましょうが、悟りという名の幸福を目指して、日々精進するという心構え、これがさび止めの役割を果たすものだと思います。
【大川隆法『幸福の科学とは何か』第5章「反省はなぜ必要か」より抜粋】
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伝道の原点は、「四正道」を簡単に伝えることです。これは大切な点です。
そして、エル・カンターレという神の名を伝えることが今とても大切です。
経典『地獄の法』の第五章「救世主からのメッセージ」では、
「正しき心の探究」としての「現代の四正道」を実践することの大切さが説かれています。
主におかれましては、「信仰心を持って生きることを、大きな意味において『正しき心の探究』といいます。そして、その『正しき心の探究』の中身とは何であるかといえば、「愛・知・反省・発展」という「現代の四正道」に、今は集約されています」と説かれています。
そして、経典『「正しき心探究」の大切さ』では、
『(伝道において)では、何を伝えてほしいかというと、原点に返れば、「愛・知・反省・発展」の「四正道」です。まず、「四正道を、どれだけ簡単に伝えられるか」ということが原点になります』と説かれており、伝道において、「四正道」分かりやすく伝えることが大切である、と教えていただいています。
また、本日の引用しました、反省の教えでは、心のさび落としが大切であることを学びました。本日の引用ではこのようにありました。
『まず日々の心得として、心の錆落としにこれ努めるということが、大事です。これは、まとめてやるということがほぼ不可能です。もちろん反省を始める最初の頃は、まとめて自分の何十年の人生を振り返ることも必要ですが、しかしながら、やはり反省は日々のものであり、少しずつ少しずつ思い出してゆかないと、そう簡単に完成することができるものではありません』
日々の心の錆落としのために説かれたのが『八正道』です。
そして、心のさび落としの方法は、大きく二つありました。
それが
①八正道による反省
②与える愛の実践
そして、心のさび止めにあたるものが
★大きな目標―悟りという名の幸福に向かい努力精進すること
これを学びました。
本日の引用ではこのようにありました。
『さび落としを中心に話しましたが、このさび止めとはいったい何かということになりましょう。それは、大きな目標だと思います。自分が絶え間なく向上していくための大きな目標。すなわち「悟り」という名の目標です。そして真実の欲、すなわち無限に幸福になっていこう、神の心にかなった無限幸福を手に入れようと思う願い、これでありましょう。どちらも、幸福は即ち悟りであり、悟り即ち幸福であるということになりましょうが、悟りという名の幸福を目指して、日々精進するという心構え、これがさび止めの役割を果たすものだと思います』
やはり、反省と与える愛の実践と悟りという名の幸福とは深い関係があることを改めて確認できました。一日のうち、少しずつ反省と与える愛を重ねてまいりましょう。そして、悟りという名の幸福を手に入れましょう。
本日も愛と天使の働きをなすために、そして私たちの隣人を助けるために、主の教えと信仰心の大切さを伝え、入会・三帰へと導いてまいりましょう。そして、私たちは、人の不幸を呪うのではなく、人の幸福を祈る者になりましよう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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文責:蒲原宏史
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(9/23-1)【基礎教学通信】266幸福の科学入門46『正しき心の探究の大切さ』「ユートピアづくり」の教えが入りやすい場合―「悟りの挑戦(上巻)」誤った「無我」の解釈―『黄金の法』救世主イエス・キリスト
