5 汗を流している時、アイデアは浮かんでくるものだ。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、教典『悟りの挑戦(上巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
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■『悟りの挑戦(上巻)』第3章「苦・集・滅・道」
5 釈迦の教えを超えて―大いなる光明の世界へ
以上、「苦・集・滅・道」について説明しました。当会の思想はまだ全体として固まってはいませんが、釈迦の教えとどこが違うのかということを、さらに説明しておきたいと思います。
確かに、釈迦の教えでは、この「苦・集・滅・道」を中心とした「四諦・八正道」が、最初の出発点の考え方ですが、釈迦も四十五年間、法を説きましたから、内容がどんどん変わっていっているのです。
最初の小乗仏教的な考え方は、要するに己の悟りを求める段階が中心だったのですが、だんだんと教団も大きくなってきて、社会的な名声を得るようになり、マガダ国のビンビサーラ王、その後継者で廻心後のアジャータシャトル(阿闍世・あじゃせ)王、コーサラ国のプラセーナジット(波斯匿・はしのく)王などの帰依を受けるようになってきてから、釈迦にも自信ができてきましたし、教団にも自信ができてきました。そいして、そうしたインド随一の教団としての自信ができてきた段階で、もう少し光明的なことを説くようになってきます。これが晩年に説かれた、『法華経』などに出てくる考え方なのです。『法華経』の思想のなかには、光明思想的な面がそうとう出てきています。
最初の頃の「人生は苦しみであり、それから逃れるのは大変なことなのだ」という教えから、百八十度変わって、この世そのものの積極的意味を認めるようになってきます。「山川草木、一切のものに仏性が宿っている。人間だけではない。すべてのもの、ありとしあらゆるものに仏の命が宿っている」、このような考え方が出てきはじめたのです。
それから、「授記(じゅき)」といって、弟子たちに記別を与えます。「あなた方も今は阿羅漢に達するのがやっとだけれども、来世、来来世、さらに先には、やがて仏になるであろう。如来になるであろう」ということを、弟子たち一人ひとりに与えていくのです。そういう希望を与えていきます。
また、当時はなかなか成仏できないとされていた女人の成仏も約束しますし、提婆達多のような悪人さえも成仏することができる、ということを言いはじめます。
これは大成功を収めてきた証拠です。釈迦教団が大成功を収めてきて、世間的な信用もそうとう得て、そして多くの尊敬を集めるような大教団になってきたときに、このような積極的な光明思想が出てきて、成功理論に変わっていくのです。それほどの余裕と自信が湧いてきたということでもありましょう。
当会では、この部分に当たる教えをすでにお教えしています。たとえば、人生の明るい面だけを見ていこうという「光明思想」もありますし、プラスからもマイナスからも学んでいこうという「常勝思考」もあります。それから、来世、自分が還っていく実在界の視点に立って、現在の残された人生をもう一回考え直して、自己の霊格を最大限に引き上げていくような生き方をしようという「発展思考」もあります。これなども、要するに「八正道のその先に光明思想、常勝思考、発展思考という積極的、肯定的な思想があって、人生の苦悩、苦しみというのを撃破して、さらに幸福な人生を生きることができるのだ」ということを教えているわけです。
そういう意味で、釈迦がその教えを説きはじめてから数十年かけてもっていった流れに比べると、当会の教えというのは、全体的には、スタート点からすでに座標軸が成功したほうにかなりずれてきているのです。最初の段階のところを早々と通り越して、もっと積極的なところへきているということです。
まず現世の否定、人生の否定から始まって、それから現世の肯定、人生の肯定のほうへと移っていく。それは弱者から強者への移行でもあります。また、積極的な善を生み出していこうとする移行でもあります。
当会は、貧・病・争―すなわち貧しさ、病気、争いというのをあまり問題にしない宗教だと、よくマスコミなどで言われますけれども、これはすでに次の段階に入っているということを意味しているのです。当会はスタートの段階で、釈尊の晩年にかなり近いところから始まっているのです。そして、もっと、もっと先を行こう、もっと推し進めようとしています。これが立脚点であるわけです。そのへんの違いをよくよく知っていただきたいのです。
まったく同じことを、二回繰り返す必要はないのです。前回なした仕事を踏み台にして、その上に接ぎ木をし、さらに高い建物を建てていくのは当然の仕事です。これが「苦・集・滅・道」という四諦と、現在幸福の科学で説いている教えとの関わり、関係ということなのです。そのへんをよく理解していただければ幸いです。
【大川隆法『悟りの挑戦(上巻)』第3章「苦・集・滅・道」より抜粋】
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さて、ここからは、幸福の科学の基本書3部作『黄金の法』を通して、エル・カンターレの歴史観を共に学んでまいります。『黄金の法』は、光の菩薩たちが主の悲願である地上仏国土ユートピア建設のためにどのような活躍をなしたのかを記すものです。人類の歴史に隠されていた地球神を、光の天使・菩薩たちはどのように実行したのか、その一端を学びます。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
『エル・カンターレが観た歴史観であるとともに、エル・カンターレが立案したところの、地球的仏法真理の大河の鳥瞰図でもあります』(「『黄金の法』まえがき」より)
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第5章 愛の押し寄せる時
5 闘いの人エリヤ
モーセの後、ヤハウェ信仰を確立するために出たのが、エリヤでした。エリヤは、極めて強い性格の持ち主であり、その不撓不屈(ふとうふくつ)の精神力は、日本の鎌倉時代の僧・日蓮を思わせる強靭さがあります。
エリヤが出現したのは、今から二千八百数十年前、すなわち、アハブ王(紀元前八七四年~同八五二年在位)が、北王国イスラエルを統治していた時代でした。アハブ王はオムリ王(紀元前八八六年~同八七四年在位)の王子であり、オムリ王朝中の、もっとも精力的な活動をした王とも言われた人です。アハブ王は、とくに軍事、外交は堪能で、フェニキアの都市国家ツロと同盟を結び、ツロの王エテバアルの息女イザベルを妃として迎えました。
当時のフェニキアは、パレスチナの地中海沿岸方面に居住し、海洋貿易によって富み、紅海技術は特段に優れておりました。したがって、ツロの影響を受けて、アハブ王の治下、経済的繁栄が非常に進んでおり、さながら、現代日本にも似た活況を呈していたのです。
しかも、物質的繁栄のかげには、唯物信仰が頭をもたげ、富の神とされたバアル神の信仰がたいへん流行っていたのです。また、それは偶像崇拝の宗教であり、バアル神のミニチュアを各家庭に置くことが普及し、アハブの国策によって、バアル信仰の僧侶たちが、現代で言えば、国家公務員的な扱いをされていたのです。
時代的背景としては、商業の急速な発展にともなってできた商人層には、バアル神がやはり神として重宝がられておりました。一方、ヤハウェ信仰は、伝統的な生活としきたりを守る農民層に受け継がれていたのです。この頃に、エリヤは、いわば宗教改革者として現われました。彼は、二十一歳の頃、ヤハウェの啓示を受け、自らの使命を悟ります。そして、自分の周りに、何十人かの信者を集めていたのです。
二十五歳のとき、若きエリヤは立ち上がりました。すなわち、エリヤは、バアル神は邪神であり、バアル信仰は、代々伝わるヤハウェの一神教を破る邪宗であるという批判の声をあげ、王妃イザベルが保護を与えたバアル信仰の予言者と正邪を分かつための対決をしたいとアハブ王に申し入れたのです。ハアブ王は、エリヤの挑戦を許可し、バアルの預言者四百五十人を集めて、エリヤのヤハウェ信仰と彼らのバアル信仰のどちらが正しいのかを、公の場で決しようとしました。
こうして、カルメル山上で、エリヤはたったひとりで四百五十名のバアルの預言者たちと対決することとなったのです。両者は、二つの場所にそれぞれ薪(たきぎ)を積み重ね、その上に、それぞれ燔祭(はんさい・「燔」はあぶり焼く意、古代ユダヤ教で、神へのささげ物として雄牛・羊などの動物を石造りの祭壇で丸焼きにして供えたこと。
また、そのようにして焼いた供え物)たる牛を載せて、火を点じず、祈りによって神の答えを見ることを競いました。そして、エリヤは、彼らに、「汝らの神の名を呼べ、我はヤハウェの名を呼ばん。火をもって答えた神を真の神とせん」と宣言したのです。
バアルの預言者四百五十名は、全員で朝から昼まで、「バアルよ、答え給え」と祈ったのですが、天から火は降りてきませんでした。しまいには、とうとう祭壇の周りを踊り廻ったり、お互いに刀で傷をつけ、血を流してまで祈ったのですが、バアルの神は、火を下ろさなかったのです。
そこで、エリヤは、自分の祭壇の前で、「ヤハウェよ、我に答え給え。この民をして、汝ヤハウェは、唯一無二の正しき神であることを証し、彼らの悪しき信仰から、彼らの心をひるがえし給え」と祈ったのです。
そのときでした。まず、西南の方向から、一条の稲光がとどろき、エリヤの祭壇に、バーッと火がついたのです。バアル信仰の予言者たちから、オーッというどよめきが起きました。降ってきた火が、エリヤの際断のいけにえの雄牛と薪(たきぎ)、石と塵とを焼き尽くし、溝に張りめぐらされた水をもなめ尽くしたのです。偶像崇拝のバアルの預言者たちは、エリヤの命により、奇蹟を起こした神を信じた民に捕らえられ、キション川のほとりで処刑されました。【※『幸福の原理』(大川隆法
十大原理 上巻)を参照】
これは、フィクションではありません。歴史上の事実です。ヤハウェが方便として、このとき、このような現象を起こし、人々をバアルことベルゼベフの魔教から守り、イスラエルの固有の教えに戻そうと思ったということなのです。【※ヤハウェは遊牧民の神であり、エンリルとは別存在であり、至高神エローヒムについてはあまり理解していませんでした。また、エリヤに力を与えたのはヤハウェではなく、ゼウスの分霊の祟り神要素であるエホバであり、ヤハウェの正体はイスラエルの始祖アブラハムであることが分かっています。また、ヤハウェの転生にイギリスの政治家ディズレーリであるとされています。『「エホバ」「ヤハウェ」「アッラー」の正体を突き止める』参照】
真理の火を守るためには、これほどまでに厳しい強硬手段もありえるということだと言えます。エリヤは、わずか二十八歳で生涯を閉じましたが、現在、八次元如来界で、地球計画の任務を委ねられております。
【※エリヤ(予知・予言関係):旧約の預言者。ミカエルの分霊で、八次元でアーカーシャーの記録を管理しています】
【大川隆法『黄金の法』第5章「愛の押し寄せる時」より抜粋】
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さて、幸福の科学は、この地上に真のユートピアを建設するために、日夜努力しています。私たちが「正しき心の探究」として「愛・知・反省・発展」の四正道の教えの実践と四正道の全世界への布教に向けて伝道しているのは、「仏国土ユートピア建設」のためです。
ここからは、経典『正しき心の探究の大切さ』第一章「未来へ」より教えをいただきます。
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■『正しき心の探究の大切さ』第1章「未来へ」
〇深い反省が必要な人には「折伏」を
それから、「この人は、反省できていない。とにかく反省しなければ駄目だ。心が真っ黒けで、これでは、まったく光が射さない。守護霊が完全に離れている状態だ」と思ったら、「反省」の教えを打ち込まなければ駄目です。
「あなたはこのままだと地獄行が確実だ。それを、百パーセント保証する。私は幸福の科学をもう二十年やっているんだから、一発で分かる。地獄行だ!反省せよ!」と、パシッと言わなければなりません。これが「折伏(しゃくぶく)」です。
これを、ときどきやらなければ駄目なのです。あまり優しく話してばかりいても、いけません。
仏法真理を知らないのに、「自分のほうが偉い」と思っている人は、世の中にはたくさんいます。会社のタイトル(肩書き)や学歴、お金持ちであることなど、いろいろなことで威張っている人がいるのです。
一介の主婦であったとしても、そのように、「部長だ」「重役だ」「社長だ」と言って威張っている人に対しては、正面から「パンチ」を浴びせなければいけません。
「あなたは地獄へ行きますよ。どうですか!私の言うことを信じますか。地獄へ行く前に、私の言うことを、一言、聴きなさい。今、あなたに必要なのは反省です」と言って、パーンと「兜割り(かぶとわり)」することです。これが「折伏」という行為です。
仏法真理的に見て、いわゆる「悪人」と断定されるような心を持っている、悪質な生き方をしている人に対しては、一発、パシッと叱ってやらなければ駄目です。優しく言うだけでは駄目なのです。
【大川隆法『正しき心の探究の大切さ』第1章「未来へ」より抜粋】
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続きまして、経典『幸福の科学とは何か』より、反省について学びを深めます。
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〇心の曇りと悪霊
ここで、宗教を学んでいる人特有の誤りについて、もう一度くり返しておきたいと思います。よく御払いを受けて悪霊を落とすとか、あるいは、悪霊に憑かれないように魔よけの札を貼ったり、あるいはお守りを持ったり致します。しかし、そんなものこそ悪霊の笑いものになっている、という事実があるのです。そのようなお札やお守りぐらいで、怯えるような悪霊ではないのです。そうした単純なことを真理と思っているからこそ、彼らはますますその跳梁(ちょうりょう)の場を広げていると言ってもよいのです。悪霊たちは、ほんとうはそのような物におじけるものではないのです。彼らがいちばん怖いのは、神の心を心として生きているその人間なのです。
御祓いによって、たしかにその御祓いをする人に霊的な力がある場合、そうした超能力、真理能力がある場合には、その光の影響で、悪霊たちが一時期その人を離れることもありますが、それは、神社の境内を抜けたり、あるいはお寺を出ていてしまったときに、すぐにその影響が抜けてきて、またもとの曇りのところに、悪霊が呼び寄せられるということになります。取っても取ってもついてくるということです。ちょうど、蠅を追っているのと同じで、蠅を追っても追ってもまた戻ってきます。それは、そこに臭いものがあるからです。そのようになっているのです。・・・
この悪霊にも、もちろんいろいろあります。そして、その心の傾向性に種類があります。例えば、恨みの霊というものがあります。いわゆる怨恨霊です。どうしても、憎い、悔しいという怨恨、これを消しることができないでいる人です。あるいは、足ることを知らぬ欲望のままに生きている人です。とにかく、欲しい欲しいという思いを持っている人です。物質欲の強い人、あるいは色情霊の強い人、名誉欲の強い人と、いろいろいます。このような特定の傾向性をもつと、そうした種類の悪霊がたむろしている場所がありまずか、これと相感応するような心を持つと、そこに縄ばしごをかけて、悪霊が来るようになってきます。
それゆえに、ここがいちばん大切なことですが、執着をつくるなという古来よりの教えは、まさしく悪霊に縄ばしごをかけられないようにせよ、ということを教えているのです。縄ばしごを掛けるには、掛けるだけのだけの理由があります。それだけの出っ張りが必要です。この引っ掛ける先のところが、執着といわれているものなのです。地上に生きている人間がその地獄に住むいろんな霊たち、その心の特徴にあった思いをいつも持っていると、ここに縄ばしごをかけられることになるのです。
ですから、悪霊のみを責めるのではなくて、やはり分の心のなかにあるそうした傾向性について、深く反省をしていく必要があるのです。
その反省も、一朝一夕になるものではありません。心の傾向性ですから、何十年もかかってつくってきたものであるならば、また何十年かかけて、それを切り替えていく必要があります。慣性の法則というものがあって、長年心に刻んできたその傾向性はそう簡単に変わるものではありません。それは、同じだけの量と質を求めるようになってきます。
要するに、私がここで言いたいことは、悪霊を呼び込んでいるのは、ほかならぬ自分自身の心である、心の曇りがその原因である、したがって、心の曇りを晴らすことによって悪霊は去っていくのだ、そういう真実があるのだと言いたいのです。
【大川隆法『幸福の科学とは何か』第5章「反省はなぜ必要か」より抜粋】
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伝道の原点は、「四正道」を簡単に伝えることです。これは大切な点です。
そして、エル・カンターレという神の名を伝えることが今とても大切です。
経典『地獄の法』の第五章「救世主からのメッセージ」では、
「正しき心の探究」としての「現代の四正道」を実践することの大切さが説かれています。
主におかれましては、「信仰心を持って生きることを、大きな意味において『正しき心の探究』といいます。そして、その『正しき心の探究』の中身とは何であるかといえば、「愛・知・反省・発展」という「現代の四正道」に、今は集約されています」と説かれています。
そして、経典『「正しき心探究」の大切さ』では、
『(伝道において)では、何を伝えてほしいかというと、原点に返れば、「愛・知・反省・発展」の「四正道」です。まず、「四正道を、どれだけ簡単に伝えられるか」ということが原点になります』と説かれており、伝道において、「四正道」分かりやすく伝えることが大切である、と教えていただいています。
主は、「現代的四正道」を説いています。この「愛・知・反省・発展」の四つの考え方をまとめて、「正しき心の探究」と呼んでいます。正しき心の探求とは、「愛・知・反省・発展」の探求なのです。だから、伝道において四正道をしっかりお伝えすることがとても大事なことであることが分かります。
反省の教えでは、人の話しをよく聴くという態度が摂受して大切ですが、時と場合によっては、厳しく相手を折伏しなければならないことがあることを教えていただきました。本日の引用ではこのようにありました。
『それから、「この人は、反省できていない。とにかく反省しなければ駄目だ。心が真っ黒けで、これでは、まったく光が射さない。守護霊が完全に離れている状態だ」と思ったら、「反省」の教えを打ち込まなければ駄目です。
「あなたはこのままだと地獄行が確実だ。それを、百パーセント保証する。私は幸福の科学をもう二十年やっているんだから、一発で分かる。地獄行だ!反省せよ!」と、パシッと言わなければなりません。これが「折伏(しゃくぶく)」です。
これを、ときどきやらなければ駄目なのです。あまり優しく話してばかりいても、いけません』
主からは、普段の心掛けとして摂受八割、折伏二割のバランスがよいと教えていただいています。今にも崖から落ちそうになっている人、つまり地獄に堕ちる人に対して、優しく話を聴いているだけではいけないということを学びました。これも大切な反省の法門です。
また、別の引用では、反省の教えに、このようにありました。
『それゆえに、ここがいちばん大切なことですが、執着をつくるなという古来よりの教えは、まさしく悪霊に縄ばしごをかけられないようにせよ、ということを教えているのです。縄ばしごを掛けるには、掛けるだけのだけの理由があります。それだけの出っ張りが必要です。この引っ掛ける先のところが、執着といわれているものなのです。地上に生きている人間がその地獄に住むいろんな霊たち、その心の特徴にあった思いをいつも持っていると、ここに縄ばしごをかけられることになるのです。
ですから、悪霊のみを責めるのではなくて、やはり分の心のなかにあるそうした傾向性について、深く反省をしていく必要があるのです。
その反省も、一朝一夕になるものではありません。心の傾向性ですから、何十年もかかってつくってきたものであるならば、また何十年かかけて、それを切り替えていく必要があります。慣性の法則というものがあって、長年心に刻んできたその傾向性はそう簡単に変わるものではありません。それは、同じだけの量と質を求めるようになってきます。
要するに、私がここで言いたいことは、悪霊を呼び込んでいるのは、ほかならぬ自分自身の心である、心の曇りがその原因である、したがって、心の曇りを晴らすことによって悪霊は去っていくのだ、そういう真実があるのだと言いたいのです』
執着が心に曇りをつくることによって、光が射さなくなり、そこに縄ばしごをかけて、悪霊が私たちの心によじ登ってくるという、リアルな状況を教えていただきました。反省によって、自らの考えや心の作用でつくってしまった執着と、それに伴い発生する悪想念を取り除いて、自分の心を神仏の光で満たすことの大切です。反省は、自分の心の波長を整えるためにとても大切です。毎日少しずつ取り組んでまいりましょう。
このように、反省の教えは、魂と心の透明度をつくるうえで極めて大切な教えです。心がきれいでなければ、天使や菩薩からのインスピレーション(霊的直観)を受けるとことが気なくなるからです。普段からこまめに自らの心を振り返り、反省によって心を浄化しましょう。
本日も愛と天使の働きをなすために、そして私たちの隣人を助けるために、主の教えと信仰心の大切さを伝え、入会・三帰へと導いてまいりましょう。そして、私たちは、人の不幸を呪うのではなく、人の幸福を祈る者になりましよう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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文責:蒲原宏史
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(9/22-1)【基礎教学通信】265【★9月22日大川紫央総裁補佐誕生日】幸福の科学入門45『正しき頃の探究の大切さ』―「悟りの挑戦(上巻)」釈迦の教えを超えて【大いなる光明の世界へ】―『黄金の法』闘いの人エリヤ
