32 妖怪が、コツコツ勤勉であることは、ありえない。必ずどこかで損得計算の調整をしている。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
64 ある時、カマキリをカエルが狙っていた。そのカエルを蛇が狙っていた。カエルがカマキリを食べ、そのカエルを蛇がのみ込んだ時、タカが蛇を両足でつかむと、空高く飛んで行った。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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■『現代の武士道』
第1章 武士道の根本―武士道の源流―
3 武士道の源流に存在する「天御祖神」【あめのみおやがみ】
〇『ホツマツタヱ』に出てくる「天御祖神」はどのような存在か
こうしてみると、日本の武士道の起源は、少なくとも歴史書で残っているかぎりでも、二千七百年はあるのではないでしょうか。
しかし、本当は、これでは止まらないのではないかと思います。
というのも、最近、明らかにしたことではありますが、『古事記』『日本書紀』には書かれていないものの、日本の最初の神として、「天御祖神」という神が存在するからです。
この神は『ホツマツタヱ』という文献の中に出てきます。「武内宿禰(たけのうちのすく)が編纂した」とも言われているものですが、その『ホツマツタヱ』によれば、最初の神は「天御祖神」であり、しかも、それは、日本の神というわけではなく、「宇宙創造の神」なのです。
それを読めば、「宇宙創造の神」にして、「根本神」としての天御祖神が出てきます。つまり、創世記、ビッグバン以前の神になっているのです。宇宙ができる前の神になっていて、「この神が宇宙を創った」ということになっています。
なお、『日本書紀』では国常立神(くにのとこたちのかみ)が初めに出てきますが、「それより前の神もいた」ということで、『古事記』では、最初に天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が出てきます。『古事記』は西暦七一二年ぐらいの成立と推定されていますが、『ホツマツタヱ』の成立はというと、十二代天皇の景行天皇に仕えていた武内宿禰の時代に書かれたのではないかと推定されます。
「武内宿禰は五代の天皇に仕えた」と言われていますが、そうすると、年齢があまりにも長すぎます。このあたりは少しわかりませんが、二百歳とも五百歳とも言われています。同一人物なのか、名前だけ同じで別人なのかは分かりにくいところがありますが、「少なくとも、二、三世紀には書かれていると」思われます。
「武内宿禰は、紀元一世紀、西暦八四年ぐらいに生まれたのではないか」と言っているものもありますが、これだと、イエスが死んでユダヤ人たちがマサダの砦でローマに滅ぼされたのが紀元七〇年前後なので、そのあとぐらいの時期になります。「あのあたりに生まれた」ということになっているわけですが、確定はできません。もう少し古い可能性もあることはあります。
普通に考えて、「長生きをして、紀元二〇〇前後か、そのくらいには書いたかもしれない」と思えば、少なくなくとも、『古事記』『日本書紀』より五〇〇年ぐらい前には書いていたものだろうと思います。
したがって、『聖書』の成立とそう変わらないか、その少しあとぐらいに成立したのが、『ホツマツタヱ』だろうと思われます。
【大川隆法 『現代の武士道』第1章「武士道の根本―武士道の源流―」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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■『真説・八正道』第3章「正思」
6「正思」のための三つのチェックポイント
②「自助努力」を妨げるもの―他人・環境のせい
〇自分が不幸になった原因を「他人のせい」「環境のせい」にしていないか
第二には、「自助努力」の精神です。
「これがなぜ必要であるのか」ということが分かるかどうかは、「神仏の創られた世界・宇宙が進化している」という現実を認めるか、認めないかにかかっています。
認めない場合、どういうことになるかといえば、少なくとも置き去りにされるわけです。あるいは、他に伸びてこようとするものたちに対する何らかの阻害要因になっていると考えてよいでしょう。
神仏の念いのなかに、すべてのものの進化・発展を願う心がある以上、そして人間が神仏の子である以上、伸びていかざるをえないという宿命をもっていのです。
したがって、「正思」の次なる点検ポイントは、「自助努力」の姿勢そのものの点検となるでしょう。自分の生き方のなかに、真実、向上に向かって自助努力している姿勢があるか、裏返して言うならば、環境のせいにばかりしていなかったか、他の人のせいにしていなかったか。このような点検が要るわけです。
八正道の「正思」において最も大事なことの一つが、「環境と他人のせいにしている自分」の発見です。
このような自分とは、どうしても対決しなければなりません。これと対決しないかぎり、金輪際、反省はできません。そういう卑怯な心は絶対に捨てなければならないのです。「自分が不幸になった原因は環境にある」、あるいは「他の人のやったことだ」「仕事のこんなことが原因だ」などと考えているうちは駄目です。
「『他人のせい』『環境のせい』の二点で幸・不幸が決まるという考え方では駄目だ」ということを、私は最初から一貫して言っています。そのことについては、私のこれまでの著作や講義に触れてきた人であればよく知っているでしょう。「『他人のせい』『環境のせい』だという気持になる前に、もう一度、自分というものを深いところから見つめ直して見よ」と、私は繰り返し説いています。
今の自分は、自分自身の「判断」と「選択」の結果によってそうなっているのではないか。
「幸福になれない症候群」の一員として、自分がマイナスの判断をしてきているのではないか。
また、同じ環境に置かれたとしても、同じ条件下に置かれたとしても、同じ悩みのもとに置かれたとしても、人によって生き方は違う。
そのように述べているのです。
人間はパチンコの玉やビリヤードの球とは違います。いつも同じ方向に行くとは限りません、同じ条件であっても、同じ力と同じ方向が与えられても、同じにはならないのです。その環境のなかで幸福になる人もいれば、不幸になる人もいます。その結果を招来しているのは、自分自身です。自分の心です。
こういう考え方を持たなければ、「そもそも幸福の科学は成り立たない」ということを知ってほしいのです。環境と他人のせいにして生きて行くだけで幸福が得られるというのであれば、そもそも幸福の科学の立脚点はありません。「正しき心の探究」もなければ、「幸福を科学する方法論」もありえません。そのことを知ってほしいのです。
○「責任感の自覚」がプライドの壁を打ち破り、自助努力の出発点となる。
まずは、「自助努力」とは逆のあり方として、「他人のせい、環境のせいにしてしまいがちな思考傾向」を切って捨てるところから始まるのです。「自分の責任として受け止める」ということです。この「責任の自覚」こそが、自助努力の原動力になります。「現在の自分の心境や境遇といったものは、すべて自己の責任によってあるのだ」と考えたときに初めて、この環境をよしと思わないならば、「ひとつ、自分の足で上がっていこう」という気が出てくるのです。
ところが、それ「親のせいだ」「環境のせいだ」「友人のせいだ」「同僚のせいだ」「貧乏であったからだ」「金がないからだ」「天気が悪かったからだ」などといったことのせいにしていては、絶対に向上というものはないのです。
したがって、自助努力の出発点は「責任感の自覚」であります。「自己の責任として認める」という気持です。このことをできない人が「自分がかわいい」という方向へ動いていくのです。これを「プライド」と称していますが、このプライドの厚い外壁によって、神仏の光を遮り、反省をできないようにしているのです。このプライドの壁を打ち破る方法は「責任感の自覚」です。「自己の責任として、しっかりと受け止める」という態度です。
人間は、ともすれば責任逃れをしたくなるのです。他人の不幸に対する責任逃れはもとよりのこと、自分の不幸に対しても責任逃れをしたくなるのが、人間の甘きにつく心、易きにつく心です。他人の不幸に対しては、責任逃れしたい気持ちもあるでしょうが、自分自身の不幸についても、自分の責任逃れをしたいと考えがちなのです。
しかし、受け止めるところから進歩は始まるのです。受け止めるところから向上は始まるのです。
確かに、環境や他人のせいであることもあるでしょう。ただ、それを招来しているところに自分自身の問題があるのです。そのことを自己の責任として受け止めることです。幸福への道はそこから始まります。
「自分の責任」と思うところに努力の余地があるのです。自助努力をして、その自助努力の結果、向上があるのです。
この点を決して忘れないでください。
特に、幸福の科学の信者であれば、責任の自覚というものを、しっかりしてほしいのです。他人の人のせいにせず、これは自分の責任であると、しっかりと受け止めてほしい。そして、受け止めた上でどうするか。これが次なる課題となりわけです。
【大川隆法『真説・八正道』第3章「正思」118pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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■『永遠の仏陀』
第5章 永遠の仏陀
〇一千億年の歴史
ああ、思えば、はるかなる昔のことであった。
一千億年の、その昔に、
この大宇宙を創らんとするときにも、
我は、すでに存在していた。
我は、念いのなかにて、
この宇宙の、あるべき姿を決めた。
そして、宇宙に張り巡らされるべき、
法というものを組んだ。
この法が、宇宙に流れる血管であり、血液なのだ。
この法というものを通じて、
この宇宙は、一つの大きな体として成り立って見えるのだ。
はるかなる、一千億年の、その昔に、
この宇宙を創らんとし、
その構想を練っていた時に、
我は思った。
すべての者よ、
無限の向上を目指せ。
しかして、すべての者よ、
おまえたちは、ひよわな存在であってはならぬ。
我は、おまえたちをより優れたるものとなすために、
おまえたちには、厳しい試練も与えよう。
砂鉄変じて鋼となすためには、
厳しい火の試練も、
厳しい水の試練も、
厳しい槌(つち)の試練も与えよう。
しかして、強くなれ。
しかして、無限に鍛えられてゆけ。
しかして、無限に美しく。
しかして、無限によきものとなれ。
我はそう願った。
その後、一千億年の歴史は、
わが念いのなかにある。
わが念いのなかに、移り変わっている。
けれども、
初めにありて念いしものの心を知らぬ子供たちよ。
おまえたちは、その有限の物差しを捨てるがよい。
わずか数十年という、短い己の人生の物差しを捨てるがよい。
そして、一千億年の昔から、
おまえたちを創り、育み、
無限によきものとせんとした念いがあったということを、
忘れてはなるまい。
【大川隆法『永遠の仏陀』第5章「永遠の仏陀」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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■『釈迦の本心』
第4章 空の思想
3転生輪廻
こうした生と死の意味を考えるに際して、最も大切な思想として現われたのが、「転生輪廻」という考え方です。
キリスト教やイスラム教、ユダヤ教においても、儒教や道教においても、転生輪廻はそれほど明確にはうたわれていません。したがって、転生輪廻を明確に打ち出したということが、仏教の非常に大きな特徴の一つになっています(※)。
転生輪廻の思想を地上において明確に説き得たことが、仏教思想が現在これほど大きな力を持つようになった理由の一つであり、それはまた、仏教が真実の教えであることを意味しているのです。
地上にあって、転生輪廻という、とてつもない思想、突拍子もない思想を発表することは、
どれほど勇気がいることか、みなさんは分かるでしょうか。
現代の日本であれば、すでに仏教が伝わり、そのなかの転生輪廻の思想も広く知られているので、転生輪廻をそれほど珍奇なものとは感じないでしょう。しかし、その思想がまだ現実的理解を伴って流布していないときに、転生輪廻を打ち出すこと「人間には過去世や未来世がある」と明確に主張することが、どれほど困難な作業であるか分かるでしょうか。
これは、見ることも聞くこともできない世界、自らが確認できない世界の仕組みについての話であるため、多くの人たちにとって、受け入れることがなかなかできないのです。
それゆえ、当時のインドでは、転生輪廻の思想が一つの信仰に近いものとして受け取られていたことも事実です。「釈尊が言うなら信じよう」というのが一般的な風潮だったのであり、転生輪廻そのものを確信できる人は、そう多くはいませんでした。「釈尊がそこまで言うなら、間違いないだろう」と思って、人びとは信じたのです。
もっとも、転生の思想は仏教しかないというわけではありません。当時のインドの民俗信仰のなかでも、「生まれ変わり」は説かれていました。ただ、その生まれ変わりは、人間がトカゲや鳩になったりするような、関連のないものに生まれ変わるという考え方が非常に強かったのです。
人間がさまざまな生き物に生まれ変わるという思想は、動物たちを守り、生きものへの哀れみや愛情を高める面では意味がありましたが、法則性という面では、多少、難点があると言えるでしょう。
ただ、釈迦はたとえ話が非常に上手だったので、人間の例だけでなく、鹿や鳩など、さまざまな動物の例を出して、過去世の話をしたこともあります。ときには、そうした方便もあったということです。
現実には「人間は、人間の魂として、すでに何億年も前から選別されており、人間の魂が動物に生まれ変わることはほとんどない」と言ってよいのです。人間はあくまでも人間として転生輪廻していきます。【※人類の誕生は約四億年前『太陽の法』p55参照】
もっとも、修行のために、一時期、動物の肉体に宿ることも可能ではあります。しかし、その場合でも、人間にごく近い高等動物にしか宿りません。それも一年か二年という短い期間だけです。それは、人間として生まれることのありがたさを感じさせるために行われることなのです。【※詳しくは『地獄に堕ちないための言葉』参照】
したがって、犬や猫などの高等動物のなかには、過去に人間だったものも一部にはいるのです。彼らは動物に生まれ変わっても、その間、人間的感覚を保有しているため、「生」そのものが非常にみじめになります。しかし、それを通り越したときに、「人間であるということは、これほどありがたいものか」ということを感じることになるのです。
しかし、人間が動物に生まれ変わるのは、あくまでも例外中の例外であり、一般的には、人間は人間として生まれ変わると言ってよいでしょう。
転生輪廻の思想をつかむことは非常に革命的です。今世だけだと思うからこそ、悩みや苦しみが数多く生まれてくるのです。「過去世があり、今世があり、未来世があるという流れのなかに、現在の自分がある」と知ることは、「未来において、自分がどのような生活を享受するか」ということを、自らの力によって決定できることを意味しているのです。
これは、「来世において、あるいは未来世において、幸福になろうとするものは現在ただいまにおいて、その幸福の種をまいておけ」ということであり、自力という修行方法によって、自らの未来の豊かさを確保できることを意味しているのです。
すなわち、転生輪廻の思想は、現在において努力したことに対する保証なのです。今風に言うならば、銀行に貯金しておけば、何年かあとに大きな利子がつくことを保障しているのと同じです。転生輪廻の思想には、未来への保証という意味合いがあり、この観点から人々を善導する力があったと言えます。
※注
もちろん、「仏教は転生輪廻を積極的に説いたのではなく、インドの土着信仰が流れ込んで、それを消極的に受容しただけだ」とする考えもある。また、釈迦の無我説を唯物論的に無霊魂説と断定し、「転生する主体がないのだから、転生輪廻などありえない」とする説、「魂ないが、業のみがロウソクの炎のように移っていくのだ」とする説などがある。
しかし、釈迦が悟りを開き、「三明」を得て阿羅漢となったのは歴史的事実である。
三明とは、①過去世を見通す〈宿命明〉、②未来の衆生の死と生を見通す〈天眼明〉、③仏教の真実によって煩悩を断滅する〈漏尽明〉であり、霊能力である。ここに釈迦の悟りの特徴がある。転生輪廻なくして、「過去世を見通す」「未来世を見通す」ということがありうるはずがない。釈迦が過去世物語や来世成仏の物語を説法に多用したのは歴史的真実であり、「悟りにともなう観自在力を持っていた」と考えるのが自然である。釈迦が過去世、未来世を見通す観自在力を持つことにより、仏教における転生輪廻思想は、俗信の域を脱して明確な真理となったのである。
ちなみに、釈迦と同じ霊能力を有している著者にとっては、こんなことは自明の理であり、釈迦没後の仏教学者たちの皮相な解釈やこの世的解釈に、ただただあきれるのみである。
【大川隆法『釈迦の本心』第4章「空の思想」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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■伊勢支部精舎の理念■
100 パーセントエル・カンターレ信仰
―天御祖神と共に―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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・「信仰心と国を愛する心」という問題について言えば、やはり国民の信仰心がなくなったら、その国は衰退に入っていくし、いずれ滅びると私は思います。
・みなさんには、どうか強い信仰の思いを全国に発信していただきたいと思います。
―「信仰心と国を愛する心について」 ―2013 年4月21 日 伊勢支部精舎御巡錫―
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■伊勢支部の行動指針■
【菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して妖怪性を払拭する】
私たち、伊勢支部信者は、エル・カンターレ信仰をキチッと確立して、天御祖神の武士道精神のもと、仏教的精神を打ち立て、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設します。
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大宇宙の根本仏 唯一なる 主エル・カンターレよ
伊勢支部精舎は、今年落慶16周年を迎えました。
2009年1月24日、日本の中心とも言われる伊勢の地におおいなる光の灯台を賜りましたことを仏弟子一同・伊勢支部信者一同心より感謝申し上げます。
そして、2013年4月21日に、伊勢支部精舎に御巡錫を賜り、御法話『信仰心と国を愛する心について』をお説きくださいました。主の御慈悲に心より感謝申し上げます。
私たち伊勢支部信者一同、主への純粋なる信仰の下、「主の復活の祈り」を通して
エル・カンターレ信仰を確立し、「愛」と「知」と「反省」と「発展」の四正道を日々実践し、主の御名と御教えを伝えます。
そして、われらが愛する、この伊勢の地を、三重の地に主の悲願である仏国土ユートピアを必ずや建設いたします。
私たち、伊勢支部信者は、菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して、自らの心に巣くう妖怪性を払拭します。そのために、三宝を熱く敬い、「愛」「知」「反省」「発展」の四正道に帰依して、エル・カンターレ信仰をキチッと確立し、「天御祖神」の武士道精神のもと、仏教的精神を復活させて、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設するために、以下のことを改めてお誓いいたします。
①私たちは、主から頂いた仏性を輝かせ、自らの善きものを隣人に分け与え、一切のみかえりを求めません。主から頂いた教えを必ず伝え伝道します。【布施波羅蜜多】
②私たちは、自らの戒を持ち、戒を守り、仏法真理の教学に力をつくします。
そして法友の育成・養成に力を尽くします。【持戒波羅蜜多】
③私たちは、主の御心を実現するために、目標を明確に持ち、実現するまで計画を実行しつづけます。【せん提波羅蜜多】
④私たちは、主の御手足となる本物の菩薩になるために、救世活動を日々の精進として積み重ねます。【精進波羅蜜多】
⑤私たちは、常に主を信じ、主を愛し、主と一体となるために反省と瞑想を重ね、祈りの生活を送ります。【禅定波羅蜜多】
⑥私たちは、主から既にすべてを与えられていること、主から愛されている自分を発見し、エル・カンターレ信仰さえあれば、あとは何もいらないという絶対幸福をえて、隣人と分かち合います。【般若波羅蜜多】
私たちは、主への報恩として 日本に 全世界に 「天御祖神」と共に、エル・カンターレ信仰を弘め地球ユートピアを実現してまいります。
主よ、私たちの信仰心が主の復活の力となり、主から預かりました伊勢支部精舎が、光の灯台として、一人でも多くの方に主の光を届けることができますよう、お導きください。主よ、まことにありがとうございました。
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68 性器は、悩みも作るが、幸福も創るのだ。人類の歴史も創造してきたのだ。
【大川隆法『病のときに読む言葉』より】
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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エル・カンターレ・大好き
(8/4-2)33『永遠の仏陀』を読む―永遠の仏陀・一千億年の歴史―転生輪廻
