(3/31-2)90『真説・八正道』を読む―正定―最初に『正心法語』を読誦してから、精神統一に入る―悟りと漏尽通力

『真説八正道』を読む

99 妖怪の例は多すぎて書き切れない。おそらくは昔の信仰が、仏教や儒教、キリスト教らの思想の高さに裏側に追いやられて、天上界とも地獄界とも言いかねる「恐怖」と「こっけいさ」が同居した民間信仰として残ったのだろう。

100 しかし玉藻前(たまものまえ・九尾を持つ狐の妖怪)に準ずる、九本狐、七本狐、五本狐などの妖魔も、地位ある男性を狙う現代妖怪としては存在するし、たいていの動物妖怪は、畜生道に堕ちた人間霊であることに、注意を喚起しておきたい。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

2 自分の心が、現象化したものが、地獄だ。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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〇大乗仏教の中心は六波羅蜜多―⑤禅定波羅蜜多(ぜんじょうはらみた)
五 禅定波羅蜜多(ディヤーナ・パーラミター)
これは、精神統一の完成です。いわゆる禅定により、実在世界との交流を目指す方法です。

【大川隆法『黄金の法』より抜粋】
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○禅定波羅蜜多
「禅定波羅蜜多」は、別名「精神統一の完成」とも呼ばれています。
これは八正道の「正定」と重なるところもありますが、正定とどう違うかと言えば、正定は、正しく定に入ったかという、定に入るときの精神状態、思いのあり方を、作法として反省するところに力点があるのに対し、禅定波羅蜜多は、精神統一を日々に重ねていくという実践の徳目を指しているのです。

たとえば、日曜日などの閑暇(かんか)が訪れたときに過去を振り返るのは、そう難しいことではないかもしれません。しかし、毎日を忙しく過ごしていながら、日々、みずからの心の内や行動をふり返るのは、容易なことではありません。こうした日々の積み重ねをしていくのは大変なことです。

したがって、日々、自らの内を見つめる時間を確保しつづけることができた人は、それだけでもすでに非凡な高みに上がっていると言えます。

私はみなさんに、自分自身のことに思いを巡らせていただきたいのです。生まれてから現在までのことを思い出すのは、それほど難しいことではないかもしれません。しかし、日々に自らの心を発見し、探求し、確認するという作業を積み重ねることが、どれほど困難なことかわかるでしょうか。それは大変な努力を要するものなのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第三章「六波羅蜜多の思想」から抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
そして、主から頂いた奇跡の一年も残りわずかとなっています。
主から本年一年に賜りましたご指導に対して、心からの感謝を捧げます。「エル・カンターレへの感謝・報恩研修」は年末まで開催しています。個別対応もいたしますので、ぜひ受講ください。

皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』

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今日の一日を振り返り、反省を実践するために『真説・八正道』から禅定について学びます。
お持ちでない方は、ぜひご拝受ください。【税抜き1700円】
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第9章 正定 
5 幸福の科学としての正定の方法
○最初に『正心法語』を読誦してから、精神統一に入る

そこで、幸福の科学としての「正定」の具体的方法ですが、まず心の波長を整える必要があるので、深い深呼吸をし、そのあとで、できれば『正心法語』の読誦(どくじゅ・声を出してお経を読むこと)をしてほしいと思います。これは十分ぐらいあれば十分でしょう。そして、反省をするのならば、そのあと、反省に入っていきます。本書で具体的に述べた、八正道についての反省に入っていくのです。

また、祈りをする場合には、『祈願文』あるいは『エル・カンターレへの祈り』を使って、祈りに入っていくとよいと思います。

時間の取り方は、もちろん人によって違うでしょう。あまりに長時間では、逆にまた効果も薄くなってしまいます。一回限りになってしまってはいけないので、時間はその人のスケジュールに合わせて決めればよいのです。極めて忙しい人であれば、多くの時間をとることは難しいでしょうから、習慣として無理なく続けられるぐらいの時間帯にするとよいと思います。十五分から三十分でも結構です。一日に一回ぐらい、そういう瞬間が取れたらよいということです。

○仏陀の生命体の言葉である『正心法語』は、光の波動が非常に強い
最初に『正心法語』を読誦することを述べましたが、なぜかいうと、『正心法語』は言魂でできているため、光の波動が非常に強いからです。『正心法語』のなかの言葉すべてがそうです。同じ日本語ですが、言葉の響きと配列によって、光のリズムが出てくるのです。ちょうど和音のようなもので、言葉の配列によって、一定の信号になり、天上界への合図が出ているのです。『正心法語』を読んでいる人を霊視すると、口から光の玉が出ていっている姿が明らかに視えます。

このような『正心法語』を読むことによって、「ある程度の悪霊などを遠ざける」という効果がありますし、「邪念・雑念を取り払う」という効果もあります。そして、そうしたものを取っておいてから精神統一をしたほうが、やはり、よいのです。悪霊などが憑いたままで精神統一に入ると、危険です。非常に危険な面があります。

とりあえず、習慣としては、『正心法語』を読んでから精神統一に入るようにするとよいでしよう。

『正心法語』は、ご存じと思いますが、仏陀の生命体の言葉です。ですから、『正心法語』を読むことによって、幸福の科学の中心的な光を引いてくることになり、力が出てくるのです。幸福の科学にはいろいろな教えがありますが、中心にあるのは、やはり仏教的精神です。それが根本にあるので、『正心法語』を読むことによって、そこに光の回路ができてくるのです。そういう意味合いがあります。

○反省の項目はあまり欲張らず、一つひとつ片付けていく。
反省の項目や内容は、あまり欲張らずに一つひとつ片付けていくことです。「正語」なら「正語」、「正見」なら「正見」、そして、事柄を限っていくことです。

すなわち、とりあえず、自分がいちばん悩んだ時期などに光を当てて反省していくことです。これが大事です。

欲張りすぎて、結局、何もやらないよりは、少しずつでも、やったほうがはるかによいのです。

○非常に体調が悪いとき等は、精神統一ではなく、真理の学習を
だた、『正心法語』から精神統一に入るという話をしましたが、非常に体調の悪い人、明らかに霊障になっていると思われる人、妄想が湧いて湧いて霊が働きかけてしょうがないタイプの人は少し危険です。こうしたタイプの人に勧められるのは、精神統一ではなく、『正心法語』や法話の音声CDを聴いたり、DVDを観たり、仏法真理の本を読んだりするような仕事です。こうしたことのほうに力を割いていただきたいと思います。もう少し状態がよくなってから、精神統一をしてほしいのです。

霊現象がたくさん起きてき始めた場合には、いったん精神統一はストップしてください。霊現象を喜んではいけません。自分の心の状況を見て、「そんなによい状況かどうか」を点検し、そんなによくもないのに霊現象が起きているなら、ストップしたほうがよいと思います。勇気を持ってストップしてください。

以上が、正定の方法です。

【大川隆法『真説・八正道』第九章「正定」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第七章 『漏尽通力』講義
2 漏尽通力の現実への適用
(前回①霊的世界の感覚と肉体的感覚との調和)の続き)

② 直観力が異常に働き始め、「学問の時間」とズレたときの対応
漏尽通力が現実への適用される際に現われる第二の問題点は、「直観力が異常に働き始める」ということです。

この直観力とは、「物事の本質を洞察する力」でもあります。物事の本質を洞察してさまざまなことが分かる力です。例えば、「人の考えていることが分かる」、「仕事において核心の部分が分かる」、「会議において結論が先に見える」というようなことがあるわけです。

さて、このときに次なる課題として出てくるのは、「『地上の時間』と『霊的直観の時間』では、時間的なズレがある」ということです。それは、まるでよどんだ川の流れのように、ゆっくりゆっくりと流れているのですが、そうした霊的能力を持った人間にとっては、結論はたいていの場合、一秒、すなわち瞬時のうちに出るのであり、霊的直観が鋭く働くようになるわけです。また、その直感の裏づけには「高級霊界からの指導」というものがあります。

このように結論の見える人間には現実社会が一体どのように見えるかというと、非常に異常な雰囲気、”スローモーション”で動いているような雰囲気に見えるのです。

したがって、第二の問題として現れる現象には次なる展開が必要となってきます。すなわち、「どのように他の人が感じているかを知る」という能力が求められるのです。

自分自身の感じのみをよしとするのでは足りません。他の人は、自分が感じていること、あるいは思っている結論のところまで、瞬時に行き着けるわけはないのであって、「他の人がその結論に行き着くには、一体どれだけの時間がかかるのか。どれだけの説明が必要なのか」
ということを見抜く必要があるのです。

これは、実は、「対機説法能力」とも非常に関係があります。

悟った人間が自分の悟りを性急に教えようとしても、他の人にはなかなか変わらないため、伝道の過程においてはさまざまな問題が起きてくるのです。

ただ、現代の信仰者だけがそうした問題を抱えているわけではありません。過去、二千数百年前に釈迦が伝道を開始したときにも、この問題でいったんはつまずいています。

すなわち、自分悟りを他の人々に対して性急に教えようとしたものの、まったく教化することができず、帰依させることもできないという現実があったわけなのです。

結局、ここが、対機説法が必要となってくる局面であると言えます。要するに、「他の人がどう感じるか」ということです。「視点を自分ではなく、他の人の心のなかに置いてみたときに、どのように自分のことが見えるか」という判断が必要になるのです。これができなければ、漏尽通力は完成しません。

③霊的世界への憧れをいかに現実生活と合致させるか
漏尽通力を現実に適用するときに、第三の問題として挙げるべきものは、「霊的世界への憧れを、いかに、現実生活の日々と合致させるか」ということです。

高度な霊能力を持って、霊人たちと話をするようになると、人生観がどうしてもあの世的にならざるを得ないところがあります。そして、あの世の実相世界にあこがれるようになるのは人情の常なのです。

それゆえに、こうした霊的感覚に酔いながらも、「現実世界の意味をいかにして見いだしていくか」ということが三番目の問題として出てくるわけです。

霊的世界に対する視野が開けた場合、一瞬にして「現実」というものが”淡い色”に変わっていくことがあります。変色して”セピア色”に変わった写真のごとく、「現実」というものが”淡くぼやけた色”に見えてくることがあります。このぼやけた現実に、いかにして生気を吹き込むかということが大事になるのです。

あの世的な人間になりきってしまうのではなく、この世のなかにおいて、いかなる真実を発見するか。この世の生活のなかにおいてもキラキラと輝く魂の光をどう発見していくか。心の糧をいかにして得ていくか。

そのようなことが大事になってくるわけです。

この三番目の問題点を克服できないかぎり、漏尽通力は決して完成しないし、また霊的能力を駆使できる人であっても、この世的な幸福というものを完全に享受することができないのです。

現実問題としては、以上の三つを参考にしてください。

3 悟りと漏尽通力
さて、次なる問題は、「いわゆる『悟り』と称されているものと漏尽通力とは関係があるのか、ないのか」ということです。

結論から言うとするならば、『漏尽通力というものは、悟りを支えるための背骨の役割を果たしている』のです。

人々は、「悟り」という言葉に対して抽象的な意味づけを与え、またそれを瞬間的なるものと捉えがちです。

禅宗においてもそうであって、悟りとは「発見の悦び」、あるいは「魂が煌めいた時の悦び」を言うことが多いようですが、残念ながら、こうした悦びを伴う悟りも感動が長続きしないという欠点があります。そして、その悦びという名の至福の瞬間が、人生の途中で、あるときに訪れることがあったとしても、だんだんにその幸福感覚が薄れていくわけです。いったんは自らが「悟った」と思っても、その悟りの中身というものがだんだんに流れ去り、分からなくなっていくのです。

この「悟りにともなう幸福感」を最大限に享受しつつ、それを人生の長きにわたって味わい続けるために、漏尽通力というもがあるのです。それゆえに、「漏尽通力は悟りの背骨に当たる」と、私は言っているのです。この背骨があってこそ、他の肉体諸器官も発達していくわけです。

悟りの悦びというものを長く味わうためには、さまざまなる現実の波、風を受けながら、「動かざる自分」というものを持ち続ける必要があります。この「動かざる自分」「不動の自分」「神仏の子である自分」「流れていくもの、過ぎ去っていくもののなかにあって、過ぎ去らざる自分」というものを保持し、維持していくために、漏尽通力が必要となってくるわけです。これは、霊能力として最大のものであり、現実への適用能力を含めた力でもあります。

したがって、漏尽通力は、悟りそのものではありませんが、「悟りの中心部分をなすもの、背骨をなすもの、骨格をつくるための大切な柱である」と言い切ってよいと考えます。

【大川隆法 『漏尽通力』第7章「漏尽通力」講義 より抜粋】
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ここで、反省の基礎を学ぶべく経典『信仰告白の時代』より第3章『反省の原点』を学びます。経典をお持ちでない方はこの機会にぜひご拝受ください。【税込み1800円】
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■『反省の原点』
6 反省即発展

反省とは、結局、そうしたことなのです。人間として生きている以上、どうしても、「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六根に支配され、振り回されていきます。したがって、肉体中心の発想を取り去り、本来の魂としての自分を見直すこと―これが反省の原点なのです。これが反省の出発点であり、反省はここから始まっていくのです。

そして、魂としての自己、自らの良心に基づいて、自分がいったい何に惑わされているのかを見つめるのです。食べ物、お金、肩書、家柄、学歴、名刺、などは、この世的なものであって、あの世には持っていけないのです。こうしたものに執着して、どれほど苦しみをつくったかを考えなければいけません。

来世に持って還れるものは「心」しかないのです。地上での生活は便利になるでしょう。それを否定しているのではありません。「そうした財産に執われる心を否定しなさい」と言っているのです。

また、異性が悪いわけでもありません。男性があり女性があってこそ、人間の種族が保存でき、この人間世界は成り立っていくことができます。したがって、異性がいけないと言っているのでないのです。「異性に執われて、本来の自己、本来の姿、本来の魂の自由を失うことを恐れよ」と言っているのです。

六根は便利なものです。この感覚器官があればこそ、この世の修行をしていくことができます。しかし、それに振り回されてはならないのです。ちょうど包丁というものが、料理には便利であっても、同時に、人を傷つけようと思えば傷つけることができるように、人間の感覚器官も、よく整えて使ったならば、人生を幸福に導きますが、間違った方向に使い、感覚器官をよろこばせること自体が目的になっていったときには、不幸を呼びこむことになります。そして来世、それぞれの心の趣(おもむ)くままに、その心にふさわしい世界に行くことになるのです。

たとえば、この世では、自分の好きな人間にばかり会うことはできません。嫌いな人にも会うでしょう。菩薩であろうと、そうでない人であろうと、どのような人にも好き嫌いの気持ちはあるでしょう。

ただし、菩薩であるならば、嫌いな人に会って、「この人が憎い。殺してしまいたい」というような思いが出たとしても、「いや待て、これは本来の私の心ではない。人間はすべて、仏の子としてのダイヤモンドの光を宿しているはずだ、彼のなかにも、よきものがあるのではないか。それをよく見よう」と考えることができるのです。

あるいは、「この人は、いま間違っているけれども、この人を正しく導くことができるのではないか。この人に憎まれるかもしれないが、この人を叱って、正しい道に入らせよう」「この人をそのように憎く思う自分自身のなかに問題はないのか。自分自身の見方に間違いがあるのではないか」と考えられるのです。

しかし、「この人は憎いから殺してしまいたい」とストレートに思い、なかには、ほんとうに殺してしまうところまでいく人もいます。それは地獄への道なのです。

このように、同じ人、同じ事件といった、同じ対象に対しても、人の心はさまざまな反応をしまする。そのことをね天台智顗は「一念三千」と言いました。人の心は、三千の針を持っているかのごとく、あちらを指したり、こちらを指したりします。すべては本人の心の現われです。世界はすべて、そのように現われてくるものなのです。

このような話を聞くと、みなさんは、「ああ、自分は天国に行く資格がない」と思うかもしれません。しかし、嘆くことはありません。みずからの愚かさに涙を流した人間であってこそ、人間は賢い存在へと変わっていくことができるのです。みずからを愚かであると知った人間は、もはや愚かではなく、みずからを賢い人間だと思って愚かさに気づかない人間こそが、真に愚かな人間なのです。

この世には、魂修行の材料が山のようにあります。すべての人に、それぞれ何らかの人生修行の材料が与えられています。

しかし、私の言葉をよく心に留めておいてください。
「同じ水を飲んで、蛇はそれから毒をつくり、
同じ水を飲んで、牛はそれからミルクをつくる。
同じ川の水を飲んで、蛇は毒をつくり、
同じ川の水を飲んで、牛は乳を出す」

同じ水であっても、蛇の身体、牛の身体という肉体を通して出てきたものは、それぞれ、まったく違ったものになっていきます。

魂学習において、同じような材料を与えられたとしても、それをミルクとし、バターとし、チーズとすることのできる人もいれば、それを、蛇のように毒としてつくっていく人もいます。それほど、この地上生活というものは極端に分かれていくものなのです。

幸福の科学には、「反省」の教えも「発展」の教えもあります。反省をとるか、発展をとるか、ということで迷う人もいれば、自分は反省向きである、あるいは、自分は発展向きである、というように選択する人もいます。

しかし、私はみなさんに、こう言いましょう。「反省即発展」であると―。

己の過ちを、間違いを、愚かさを正すことは、すなわち、人間としての発展なのです。そこに、発展の道も、向上の道も、また開けてくるのです。

かぎりなく仏法真理を学んでいきましょう。そして、地上のあるゆる物質的な材料を通しての魂修行のなかから、珠玉の真珠を、黄金を、ダイヤモンドをつくりあげましょう。それが、みなさんの人生修行の最終の意味であってほしいと思います。(完)

【大川隆法『信仰告白の時代』第3章『反省の原点』より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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エル・カンターレ・大好き

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