86 国際音痴では、大企業はつくれない。
87 語学訓練は、ボケを抑止し、新世界の発見につながる。
91 生・老・病・死、諸行無常は、経営者なら、常に考えておけ。
【大川隆法 箴言集『仕事への言葉』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、教典『悟りの挑戦(上巻)』を共に学びます。経典をお持ちの方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
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■『悟りの挑戦(上巻)』第2章「無明からの脱却」
5「慢(まん)」=我慢と増上慢
以上が心の三毒といって昔から有名なものですが、修行者という観点を入れると、私はこれ以外にもまだあるような気がします。あと二つほど挙げてみると、一つには「慢」というものがあります。「慢」というのは自慢の慢です。これもたいていは無明から出てくるものだと思います。
「慢」とは何かというと、要するに心が驕り高ぶっていることを意味します。その内容にはいくつかありますが、注意すべきものを二つ挙げるとする、一つには「我慢」というものがあります。
これは、辛抱するといういみでの我慢ではなく、「自慢する心」のことを言うのです。これは仏教用語です。「我慢」というのは「俺が俺が」という気持ちです。「私が私が」「私がやったんだ」という気持です。これはあるでしょう。
何か成功したとします。それは、さまざまな人が力を合わせてしたことなのに、「実は俺がやったんだ」「私が成功させたんだ」「私の力なんだ」という気持です。これが「我慢」です。
これが、なかなかわからないものなのです。確かに、努力したことも正当だろうし、才能があることも事実だし、結果的に成功したということもあるので、どうしても言いたくなるのです。しかし、真理的に見たらどこかが違うのです。
たとえば、子供が一生懸命勉強して、有名高校なり有名大学なりに入ったとします。それはその通りでしょう。よく勉強もできたし、結果もよかったし、友だちに「すごいな」と言われるだけのことはあるでしょう。ただ、そうした有名高校なり有名大学に入れた背景には、たとえば親の恩があったり、先生の恩があったり、あるいは経済的な恩恵や地理的な恩恵など、いろいろなものの恩恵があったであろうし、そうであってこそ、やはり合格できるものなのです。それを忘れて、自分の実力だけで受かったようにあまり思いすぎると、ここに慢心が生まれてきます。ひとつの我慢、自慢です。
それから、政治家などもそうです。当選して、国政に参画していると、いかにも自分が偉くなったような気になっていますが、そういうときに「俺が俺が」という気持があまり強くなってくると、次の選挙で落選したりするのです。落選の原因を調べてみると、大した原因ではありません。ちょっと地元の人を軽視するような発言をしたりしたということなのです。
十年以上前になりますけれども、F内閣のときに、「全国津々浦々からFを支持する声が聞こえてくる」というようなことを、首相本人が自慢して言ったら、総裁の予備選挙で二位になってしまい、本選挙への出馬を辞退せざるをえなくなりました。調査では優勢だったのですが、実際に自民党の党員で投票してみたら二位になってしまったのです。これなども「俺が俺が」という気持ち、「自分は優秀だから、有能だから絶対間違いないんだ」というようなことが強く出すぎたということでしょう。
あるいは、苦労して成功されたような方にも、このようなところがあります。いかに苦労して成功したかということを、常に吹聴する気持ちです。このなかにも自慢の気持ちというものはあるように思います。
あるいは、先ほどの子供の慢心とは逆に、親にもあります。子供がどんどん順調に成功していくと、「それは俺の教育がよかったのだ」「それはわが家の方針がよかったのだ」「それは親が偉かったからだ」というような心が湧いてきます。これも、同じような自慢の心なので、気をつけなければいけません。
これはなぜかというと、これまで出てきた我慢の心は、それ自体は正統な部分を抑えているのですが、本人自身のそれ以後の進歩を妨げるのがあるからなのです。この反対のものとして謙虚さがあるのですが、この謙虚な心を持っていないと、それ以上努力精進する気持ちを損なってしまいます。「正精進を妨げる」という意味があるのです。
似たもの、もう一種類あります。それは「増上慢」です。これはよく聞くことがあると思います。特に、修行者特有のものとして、悟りがある程度進んでくると、自惚(うぬぼ)れが出てくるのです。大昔から、宗教を行なう者にとっては、これは伝統的に避けなれないところでもあります。確かに、心境が高まって、自身がついてきたりするのです。そして、「自分は悟ったのだ」というような気持ちになってくると、自分の未熟さや間違いが全然わからなくなります。反省できなくなってくるのです。そして、人をこきおろしたり、酷評したりしているうちに、自分がジャングルの中に入ってしまっていることが、まったくわからなくなるのです。
歴史的にみると、たとえば釈迦の法敵になった提婆達多(だいばだった)という人もこれに当たります。提婆達多は釈迦の従弟(いとこ)であり、その弟が阿南(あなん・アーナンダ)という人です。両者とも頭がよく、釈迦教団のなかでも有力な人でした。しかし、提婆達多のほうは、釈迦と従弟であるということもあって、他の弟子とはちょっと違うのだという気持もありました。それから、弟の阿南が釈迦の身辺の世話役、秘書役のような役目をしていたのですが、かなり重宝がられていたので、弟への嫉妬と自慢の両方があったのです。
そして、頭もいいから勉強もできたし、説法もできるし、そのうち、「俺だけでも充分釈迦ぐらいのことができる」というようなことをだんだん言いはじめます。その後、釈迦教団も大きくなり、信者も増えて、いろいろな国の王様も帰依したりして、政治・経済的なバックアップもされるようになってくると、この提婆達多も阿闍世(あじゃせ)という悪王の帰依を受けるのです。そして、いろいろな金銀財宝をもらったりすると、すっかりいい気分になって、自分もそれだけの力を持ったと思って、釈迦教団の分派をつくったりしはじめるのですが、最後はもちろん転落して地獄に堕ちたのは、当然のことです。
彼は、確かに優秀な弟子であったことは間違いないのですが、どこかで慢心する心、嫉妬する心が起きて、そして転落していったのです。あと一歩のところで譲る気持ちがあったならば、そうならないですんだのに、増上慢というものが、どうしても出てきたのです。
一般的な話してして言っておくべきことは、こういうことなのです。当会などで勉強していると、いろいろなことがわかってきたような気になります。講師や支部の役職者などをしていて、夜中なのいろいろな人に対して教えを説いていると、非常に賢くなって立派になったような気がします。ところが、真理の部分、法的な面ではよく学んでいて、一般の人よりは確かによく知っているかもしれませんが、それ以外の社会常識あるいは経験の面では、講師などよりよく知っている人は、本当は世の中にいくらでもいるのです。それにもかかわらず、こうした講師の資格や世話役としての肩書などを得ると、どこでも通過できるパスポートをもらったようなつもりで、どんな人に対してでも、「自分のほうが偉いんだ」というような気持ち・
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�なりがちです。そうすると、実際、そこに間違いが起きてくるのです。そして、身分不相応なこと、力不相応なことをしはじめると必ず失敗が待っています。よく自戒しなくてはなりません。
【大川隆法『悟りの挑戦(上巻)』第2章「無明からの脱却」より抜粋】
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さて、ここからは、幸福の科学の基本書3部作『黄金の法』を通して、エル・カンターレの歴史観を共に学んでまいります。『黄金の法』は、光の菩薩たちが主の悲願である地上仏国土ユートピア建設のためにどのような活躍をなしたのかを記すものです。人類の歴史に隠されていた地球神を、光の天使・菩薩たちはどのように実行したのか、その一端を学びます。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
『エル・カンターレが観た歴史観であるとともに、エル・カンターレが立案したところの、地球的仏法真理の大河の鳥瞰図でもあります』(「『黄金の法』まえがき」より)
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第4章 太陽の昇る国
8 親鸞の出現
そして、あの親鸞(一一七三年~一二六二年)が出てきます。親鸞は、鎌倉時代を代表する宗教家のひとりです。法然の教えを浄土教と呼び、親鸞の教えを浄土真宗と呼びます。
親鸞は、日野有範という京都貴族の子として生まれ、九歳で比叡山に上り、高僧、慈円(一一五五年~一二二五年)のもとで出家しました。少年時代から秀才の誉れ高く、将来は叡山を背負って立つ人材との声望が高かったのです。しかし、彼は、比叡山でいくら学問ができると周りから評価されても、納得のいかない自分、とうてい悟れない自分を見いだしていました。そして、とうとう彼は山を下りたのです。これは、今で言えば、将来は東大総長になることを確実視されている有力な学者が、その職を捨てたり、あるいは、日本を代表する超一流企業の社長候補と目されるエリート青年が、辞表を出すのと同じで、叡山の僧侶のなかにも動揺が起きた事件とも言えるものでした。
一二〇一年、二十八歳のとき、親鸞は、京都の六角堂に籠り、百日間の瞑想坐行に打ち込みました。このとき彼は、いわゆる霊視体験に近いものを体験したのです。ある夜、ロウソクの火を燈し、目をいわゆる半眼の状態にしてエリート僧だった頃の自分の心の垢を落とすべく、反省的瞑想をやっておりました。やがてロウソクの炎がゆらゆらとしたかと思うと、炎が三十センチの高さになりました。不思議だとは思いながらも、親鸞は動ぜずに瞑想を続けておりました。すると今度は、目の前に、烏帽子をかぶった尊い顔の貴族風の方が現われたのです。
その方は、自分は聖徳太子であると名のりました。そして、「仏縁によりて、そなたを二十八年間見守ってきたが、今、そなたの人生の転機がきたので、それを知らせるために訪れたのだ」と告げたのです。親鸞はおどろきました。聖徳太子は、かねがね、彼がもっとも尊敬していた人であり、強くあこがれていた人だったからです。よりによって、その聖徳太子が自分の指導霊であったのですから、びっくりしたわけです。
聖徳太子は、さらに、親鸞が過去世において、西方の国で、阿弥陀如来の弟子だったことを告げました。親鸞は、この言葉をそのとおりに受け取ったのですが、太子が告げた阿弥陀如来とは、ナザレのイエス・キリストを通じで現れた仏陀の別名であり、その弟子だったという親鸞の過去世は、実は、パウロだったのです。太子は、親鸞にその過去世を霊告し、「今の世に、その阿弥陀仏の教えを説いておる者がいる。その名は、吉水の法然という人だ。その人のもとを訪ねて行って、教えをこいなさい。そうすれば、お前の仏道修行の道が開けてくるにちがいない」と語りました。こうして、親鸞は、法然の門をくぐり、念仏信仰に回心(えしん)したのです。
また、親鸞は、この六角堂で、もう一つの霊体験をしております。いくら万巻の仏典を読破した優秀な学僧だったとはいえ、やはり、その肉体煩悩との闘いは激しいものがありました。それが、親鸞が山を下った理由でもあったのですが、この六角堂でも、二十八歳の彼の若いエネルギーは、肉体煩悩をつのらせます。そして、ある日、親鸞の夢のなかに、美しい救世観音(くせかんのん)が現われ、彼に、こう霊告したのです。
「善信(親鸞)よ、お前が肉欲を抑えきれないのは、前世の宿業によるのです。前世において、お前は妻帯せず、また妻帯を悪しきことと考えていたために、その情欲があまり盛んなときは、てんかんを起こして、何度も倒れたことがあったほどです。今世も同じことになっては、また、同じ宿業をつくってしまいます。お前は、まもなく、女犯の罪を犯すこととなりましょう。しかし、それをあまり悔いてはなりませぬぞ。
この救世観音である私が、玉女となって、お前に抱かれてあげるのだから、お前は、私の愛を全身に受け止め、その喜びを、世の人々を救うための原動力にしてゆきなさい。罪の意識にふるえる罪人たちを、お前の大きな愛の力で許しておやりなさい。聖徳太子の言われるとおり、お前は、肉身の菩薩なのです。肉親の菩薩が、肉身の観音と交わってこそ、そこから世を救う力が、湧き上がってくるのです」
親鸞は現世的には、肉欲に破れた修行僧として苦しみ悶えます。こうして、法然門下で、念仏の教えを学ぶとともに、破戒僧としての自己の罪の意識とその救済という、パウロ的宗教倫理のなかで悟りを深めてゆくのです。そして、人間の罪というものを深く見つめてゆきます。人間は、いくら自力天狗になっても救われることはないのだ。小さな自分というものを、思い切り阿弥陀仏の前に投げ出して、その大いなる愛に包まれることだ。親鸞は、そう考えたのです。親鸞の絶対他力の思想は、ある意味で釈迦の無我の思想の親鸞的解釈とも言えます。「無我」を媒介として、道元的自力と親鸞的他力が、実は思想的に接近していることが窺(うかが)えます。
弟子の唯円がつづった『歎異抄』のなかに表れている、親鸞の「悪人正機説」は、まさしく、そこに真意がありました。そして、親鸞の浄土真宗は、やがて、室町時代の蓮如へと受け継がれてゆきます。蓮如(一四一五年~一四九九年)の過去世は、やはり、キリストの十二使途のひとり、アンデレであり、彼も菩薩界の方でした。【※その後の霊査で蓮如は現代にセブン&アイホールディングスの元会長の鈴木敏文に転生しています】
【大川隆法『黄金の法』第4章「太陽の昇る国」より抜粋】
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幸福の科学は、この地上に真のユートピアを建設するために、日夜努力しています。私たちが「正しき心の探究」として「愛・知・反省・発展」の四正道の教えの実践と四正道の全世界への布教に向けて伝道しているのは、「仏国土ユートピア建設」のためです。
ここからは、経典『君よ、涙の谷を渡れ』の質疑応答より「菩薩になるための条件」について主より教えていただきます。
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■菩薩になるための条件
〇質問
私は、新しく幸福の科学に集会した人たちに、どんどん幸福になっていただきたいと思いますし、さらには、そのような法友と共に菩薩の境涯を目指していきたいと願っていますが、システム的に菩薩をつくる方法はあるのでしょうか。また、菩薩が誕生するための条件に付いて、教えてください。
〇答え
①「私欲を抑えて公のためにつくす」という気持ち
システム的に菩薩をつくれたら大したものですが、なかなか、そうはいきません。いろいろな環境下、いろいろな条件下で、一定の条件をクリアした人が菩薩になっていくわけであり、みな同じではないのです。
与えられた問題集は、人によって、それぞれ違います。
体に、重度の障害を持ちながら、がんばって菩薩になる人もいれば、健康体で菩薩になる人もいますし、秀才で菩薩になる人もいれば、勉強はあまりできなくても菩薩になる人もいます。また、男性の場合と女性の場合でも違います。
とにかく、いろいろなかたちがあり、パターンは一種類ではないのです。そのため、「こういう人は必ず菩薩になります」ということは言えません。
ただ、簡単に述べると、次のようなことが言えます。
人間は、動物的本能として、自分を護ることや、自分のためになることは、したがりますが、人のためになるようなことは、二の次になることが多いのです。
さらに、もう少し動物性の強い人は、残忍性が増してきて、人を蹴落としたり、傷つけたり、殺したりすることがあります。これは、動物性よりも、もっと悪いものかもしれません。
本能的には、そのようになりがちであるわけですが、それを、努力してひっくり返さなければいけないのです。自己犠牲という言葉は必ずしも正しくないかもしれませんが、私欲、私の欲を抑えて、「世のため人のため、公のために、少しでも尽くしたい」という気持ちを持つ人をつくることがだいじです。
②感化力と責任感の大きさ
「どの程度までやれば菩薩になれるか」ということは、人それぞれのケースがあるので一概には言えませんが、結果的には、やはり感化力の大きさの問題だろうと思います。
たとえば、宮沢賢治は菩薩になっていますが、その感化力は大きいといえるでしょう。もし、彼の文学作品が遺っていなくて、かれが農業学校の先生でわかっていたとしたら、おそらく菩薩にはなれなかったと思います。彼の遺した詩や童話などが、世の母親や子供たちをはじめ、数多くの人々の心に潤いを与えたから、菩薩になれたのでしょう。
そういう文学作品を通して菩薩になる人もいれば、「伝道して大勢の人を導く」という実践活動を通して菩薩になる人もいます。
自分を犠牲にするようなこともありますが、結果的には、この世だけではなく、あの世に還ったあとまで含めて、自分に対して感謝してくれる人がたくさん出てくることが菩薩へ道なのです。
自分を犠牲にするようなこともありますが、結果的に、この世だけではなく、あの世に還ったあとまで含めて、自分に対して感謝してくれる人がたくさん出てくることが菩薩への道なのです。
これは神々でも同じです。感謝してくれる人が増えれば増えるほど、神としての格が上がっていきます。
では、どういう人が感謝されるかというと、結局、「できるだけ多くの人を幸福にしよう」と努力した人であり、そういう人が神に近づいていくわけです。
「与える」ということは、ある意味で、「捨てる」ということでもありますが、不思議なことに、より多くのものを捨てた人が、結果としてより多くのものを得ているのです。ただ、本人は、自分が得ているとは思っていないでしょう。
捨てること、あるいは与えることを、喜びであると感じるのが、菩薩の心境なのです。
たとえアフリカへ行って物資を配って歩いたとしても、心が貧しければ菩薩などなれません。そんなものではないのです。
「どうしても、この人たちを助けたい」という気持で、井戸を掘ったり、物資を一生懸命運んだり、傷ついた人を助けたりし、本気で、やれるところまでやろうとしている人は、菩薩になることもあります。
しかし、菩薩になるためには、必ずしもアフリカに行って救済活動をしなければいけないわけではありません。日本の国内にも、救わなければいけない人は、たくさんいるのです。
したがって、あまり大きなことは考えずに、自分の身近な人、縁のある人に対して、一人ひとり救いの手を差し伸べることがだいじです。
そのとき、自分の力に限界を感じることがあるでしょう。菩薩の境地にある人ほど、自分に厳しくて、「できない」ということ、「助けてあげられなかった」ということに対し、つらい思いをするでしょう。
要するに、「どの程度まで責任を感じるか」ということです。世間のさまざまなものを見て、「自分が助けてあげられなかった」ということに責任を感じるかどうか、自分が直接に関係したことでなくても、「もしかしたら、何かができたかもしれない」と思うかどうか、これがポイントです。「どの程度まで責任を感じるか」という、責任感の大きさが、器の大きさであり、結局、それが霊格の高さにつながっていくのです。
③純粋に「人を助けたい」という気持で長く活動する
菩薩になるためには、基本的に、動物的本能を克服して、「多くの人たちに少しでも幸福になってもらおう」と本気で願い、活動することが大事です。・・・
幸福の科学には熱心な活動家が数多くいますが、みな菩薩候補生です。とても大きな功徳を積んでいるので、それは間違いのないことです。
普通は、本気で「人を助けたい」とは、なかなか思えないものです。それを純粋に思えること自体が、人間として、かなり霊的であると言えるのです。この世的で物質的な、ものの考え方や視点に基づけば、誰でも、自分が何かを得ることを考えるものだからです。
結論的には、「これをすれば菩薩になれる」と具体的に言うことはできませんが、純粋に「人を助けたい」という気持ちをもって、一生を過ごすこと、途中で退転せずに満行することがだいじです。
どうか、退転しないで、信仰を続けてください。
たとえ、ささやかな活動であっても、長く続けて行けば心境は高まっていくので、信仰は長く続けていただきたいのです。短期的には、「私は、今年、百人に伝道しました」という人がいたとしても、翌年に退転して大会してしまったら、菩薩にはなれないでしょう。
したがって、長く続けること、心を込めて活動することがだいじです。
大川隆法『君よ、涙の谷を渡れ』第5章「もう一段の信仰を」p209より抜粋】
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菩薩になるための条件として、①「私欲を抑えて公のためにつくす」という気持ちを持つこと、②大きな感化力と責任感を持つこと、➂純粋に「人を助けたい」という気持で長く活動することの大切を教えていただきました。
「主のため、世のため、隣人を救い助けるために、自分の善きものを与えつづけて見返りを決して求めない」
「主を信じる人びと(サンガ)とともに、主の愛である仏法真理を伝える」
「今世、決して退転せずに、命尽きるまで、末長く主のお役に立つ人間になる」
共に、主の御手足としての使命を果たすべく、主への道と菩薩への道を歩みましょう。
この地上において、主は私たち一人ひとりに、天使や菩薩と呼ばれる存在になることを求められています。天使や菩薩とは神仏のためにその身命を擲って人を助けるプロです。それには出家・在家の区別はありません。
私たちも今、主のご復活をお祈りしながら、聖なるものを守るために、主とその教えを守るために、立ち上がった菩薩です。
その菩薩になるために、私たちは、まず阿羅漢の境地を目指さなければなりません。
阿羅漢とは、六次元上段階にあって、頭の後ろから後光が出てくる境地であり、自分の守護霊と対話ができる境地です。心にひっかかりがなく、透明感が増すこと。霊道が開けるか、あるいはそれに近い状態になること。他人の気持ちが手に取るようにわかり始めること、この三つが阿羅漢の基準でした。
私たち主の弟子に求められるのは、主からいただいた限りない愛を少しでもお返しするために、私たちの隣人を救い助けるために、愛を与え続けることではないかと思います。
主の願いを受けて、私たちも光の天使となり、主のため、世のため、隣人を救うために、さらに一歩を共に踏み出してまいりましょう。
今世において、私たちが、人助けのプロとして菩薩や天使になることを主は期待させています。主の期待に応え、主の御手足として私たちの隣人たちの心を、エル・カンターレ信仰によって救い助けてまいりましょう。
正しき心の探究による心の修業を通して、「愛・知・反省・発展」の四正道と隣人を救い助ける愛の実践を通して、自らの背中や頭の後ろから後光が出るように、共に修業を重ねてまいりましょう。
本日も愛と天使の働きをなすために、そして私たちの隣人を助けるために、主の教えと信仰心の大切さを伝え、入会・三帰へと導いてまいりましょう。そして、私たちは、人の不幸を呪うのではなく、人の幸福を祈る者になりましよう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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■2025年「立宗記念式典」開催概要
○10/6(月)~8(水)まで、「立宗記念式典」を開催させていただきます。
✧日 時 10/6(月)~8(水)
✧場 所 全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)
✧対 象 信者および一般
✧奉 納 式典のみの場合は、感謝奉納。
【趣 旨】
○立宗記念式典では、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生が、「時代の北極星たらん」(楽曲「遥かなる異邦人」)という志を胸に、すべてを捨てて、空手にして立たれ、自分自身の考えと行動以外に何も頼りになるものがない中で、自らの心一つを「てこ」にして垂直の壁を登るようなご精進をなされ、幸福の科学を創り、導いてくださっている奇跡に、心からの感謝を捧げさせていただきます。
○原曲「ただ一人往く」の「自分一人が自分を鍛え、鍛え、鍛え続ける」「ただ粘り強く不撓不屈の精神で生き抜くしかない」という、立宗から現在に到るまでの主の御姿に学び、私たちもその主の御姿につき従っていく決意を新たにさせて頂きます。
○そして、「夜明けに向かって進むしかない。そうだ、必ず、日は昇る。」(原曲「ただ一人往く」)と詩われているように、主がご復活され、人類の夜明けがやってくる希望の未来を確信し、立宗記念式典版「復活の祈り」を捧げさせて頂きます。また、立宗記念発刊予定の『菩薩に向けての第一歩』の学びを通して、主のご使命をお支えできる菩薩としての使命を果たすために、不撓不屈の精神で、ただひたすら精進を重ねていく決意を固めさせて頂きます。
・式典では、はじめに、楽曲「遥かなる異邦人」を奉納させていただき、時代の北極星たらんとして、「愛」や「正しさ」を人々に伝えんとされる主の御心に思いを馳せさせて頂きます。式典映像の中では、語り下ろし音声「非凡なる愛の高みへ」(経典『若き日のエル・カンターレ』)などの御法話を抜粋拝聴させて頂きます。そして、大川隆法精神(スピリッツ)ソングの原曲「ただ一人往く」を特別に拝聴させて頂き、すべてを捨てて空手にて立たれ、立宗以来、全人類への愛のために断崖絶壁を登るような不撓不屈のご努力を重ねてこられた主の御姿を心に刻み、主への感謝を深めさせていただきます。その後、主の立宗の御心と主のご復活への念いを深める映像を上映し、主のご復活を心から願い、立宗記念式典版「復活の祈り」を
執り行わせていただきます。
・立宗記念式典版「復活の祈り」では、『異次元パワーを得るための祈り―本体霊「アルファ意識」特別霊指導―』を全員で唱和し(本会場参加者限定で経文を配布致します。※衛星会場はモニターに経文を表示させて頂きます)、主が、天においても地においても無敵であられ、「エル・カンターレ信仰」のもと、あらゆる既成の常識が打ち破られることを確信し、祈りの力を強めてまいります。そして、純粋な信仰心を結集し、主のご復活を心から祈念し、『新復活祈願―オフェアリス神特別霊指導―』を唱和します。そして、導師及び持参者一同で半袈裟を着用してケリューケイオンの杖を振り、そののち、修法「エル・カンターレ
ファイト」を行じます。最後に、主と共にある希望の未来が実現していくことを願い、『未来成功祈願―ヘルメス神特別霊指導―』を全員で唱和します。
【祈願について】
・『幸福な人生のための祈り』(奉納目安:3万円、学生1万円)については、全国・全世界の精舎で、10/1(水)~8(水)の期間、承ります。
・『精進必達祈願』(奉納目安:3万円、学生1万円)については、全国・全世界の支部(HSU・学園含む)の式典第二部で、10/6(月)~8(水)ならびに12(日)限定で、承ります。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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(9/15-1)【基礎教学通信】258幸福の科学入門38「君よ、涙の谷を渡れ」菩薩になるための条件―「悟りの挑戦(じょうかん)」「慢(まん)」=我慢と増上慢―『黄金の法』親鸞の出現
