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『永遠の仏陀』を読む

27 駒を取ったり、取られたり。それが将棋道。ほめられたり、叱られたり。それが商人道。
 
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使
命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。

ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、教典『悟りの挑戦(上巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
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■『悟りの挑戦(上巻)』第6章「業と輪廻」
2 惑・業・苦―三道

そもそも菩提樹下で釈迦が悟った「因縁の理法」とは、「惑・業・苦」のことであり、これを「三道(さんどう)」ともいいます。「惑」とは、第2章でも説明した「貪・瞋・癡」、すなわち、貪りの心、瞋(いか)りの心、愚かな心、こうした、人間の迷いの中心とも言うべき「心の三毒」のことです。これが惑わしの中心、根本です。

この「貪・瞋・癡」に振りまわされて生きていく間に、先ほど述べたような心の傾向性というものができあがってくるわけです。これを「業(ごう)」といいます。「惑」に基づく善悪の「業」です。もちろん、これは価値中立的なものであって、「人に親切だ」というような、よい傾向性もできてくるわけです。

ただ、自然のままに任せると、悪いことのほうが多いのが人間の常です。放置しておいて、いい方向にいくのならば苦労はしないわけで、宗教はいらないのですけれども、放置しておくと全然違うほうに流れていくのが、普通の人間なのです。ですから、どちからといえば、「業」は悪いほうの意味に使われることが多いのです。

この「貪・瞋・癡」に基づいて「業」をつくってしまい、その結果、「苦」が来ます。この「苦」というのは、もちろん生きている間にも来ます。若いうちに放蕩すると、中年・壮年期に、そのつけがまわってきます。若いうちに暴飲暴食したら、その後、身体がガタガタになってきます。若いうちに勉強しなかったら、後で出世が遅れます。当然のことです。あるいは、若いうちに家庭問題を起こしたら、晩年、寂しい人生が待っています。

このように、生きているうちにも、「苦」という現象は当然起きてきますが、生きているときの因果だけではなくて、来世まで通じるものもあります。この「業」の報いである果として、「三界流転の苦しみ」というものが待っています。「三界」とは「欲界」「色界」「無色界」のことです。「欲界」は、人間的な欲を中心にぐるぐると輪廻している世界です。「色界」は、人間的な欲を少し離れた、多少精神的な世界です。「無色界」は、人間的属性を離れた、本当の意味での光の天使の世界です。

「欲界」に生きる人間は、まだまだ地上的な生活に恋い焦がれています。その上の「色界」は、当会の用語で言えば、六次元の上段階ぐらいから七次元までのことであり、精神的なるものの大切さをよく知った方の住む世界です。さらには、梵天、如来としての自覚を持った八次元以上の方の住む「無色界」があります。来世はそうした三界に大きく分かれますが、特に欲界―「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」という「六道(ろくどう)」の世界に流転して、そしてまた生まれ変わっていくるという考え方があります。

そこで、来世、生まれ変わって、「自分はなぜこのような人生を生きなければいけないのか」「なぜこんなに生まれが悪いのか」「なぜこのような運命のもとに生まれてきたのか」と、天を恨んだり、人を恨んだり、親を恨んだりするわけです。

それに対して、「それは恨む方が悪い」という理論が出てきたのです。「あなたがたが今そういう人生を生きているのは、実は、あなたの前世の生き方がそのもとになっているのだ。れそがあって現世があるのであって、それを忘れて、自分がいま幸福でないのを、他人のせいや環境のせいにしてはいけない。ましてや神仏のせいにしてはいけない」、そのような考えが出たわけです。

来世というものは確実にあって、現状が苦しい生存であっても、また来世は巡ってくるわけです。その来世のことを考えれば、現状の自分のあり方をよく見据えて、少なくとも、現在の苦しみを、また来世の苦しみのもとになるようなものにしてはいけません。

今、そのようなものを断ち切っておかないと、断ち切るときはありません。現世においてその苦しみのもとを断ち切りなさい。来世の不幸のもとを断ちなさい―。

これが釈迦の教えです。


【大川隆法『悟りの挑戦(上巻)』第6章『「業」と輪廻』より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、光とは何か。仏法真理とは何か。という問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第2章「仏法真理は語る」
10 真説・八正道

一念三千論、そして、八正道へと話が進んできました。私は、この章をとじるにあたって、八正道の現代的意義を説明しておきたいと思います。

人間は、盲目です。生きている人間は、自らの五官知を超えた世界には気づきません。しかしほんとうは、私たちの五官を超えたところに、真実の人生の意義というものはあります。逆説的ではありますが、五官は、五官を超えたものを悟らしめるよすがとなりうるのです。私たちは、真実の人生に対して盲目であることを単になげくだけではなく、盲目は盲目なりにしっかりと手さぐりをして、しっかりと五官をとぎすまして、真実なるものを探し当てようではありませんか。そしてまた、その努力のなかにこそ、真説・八正道、その姿を現してくるのです。

八正道は、人間完成への道です。自らのあやまった方向を修正し、正しい人生を生きるための智慧なのです。

人生とは、こう生きればいいといった模範解答があるわけではありません。なぜならば、人生は疑問の連続であり、その疑問は、各自のおかれた環境、経験、知識、習慣によって、それぞれ異なった内容をとってくるからです。その疑問を解決するのは、他人ではなく、ほかならぬ自分自身なのです。自分自身で軌道修正しなくて、一体だれがその軌道を修正してくれるのでしょうか。

そのためにこそ、ひとりひとりが、自らの生きているわくのなかで、「正しさ」というものを徹底的に追及する必要があるのです。

では、その「正しさ」の基準とは、一体なんでしょうか。何をもって、「正しい」とするのでしょうか。それを答えるのが、真実の宗教指導者の使命であり、今世における私の使命なのです。

「正しさ」を知るとは、仏の心を知るということなのです。仏の生命を科学するということなのです。何が善で、何が悪であるか。何が真で、何が偽りであるか。何が美で、何が醜であるか。それを決めのは、仏の心なのです。そして、仏の心を知るということは、仏の光のエネルギー体の性質を究明するということなのです。すなわち、仏を理解するために徹底的に努力をするということなのです。

仏の心、仏のエネルギー体としての性質を理解していただくために、私は、本書以外にも、理論書を刊行しています。この教えは、仏の心を知るための最大のよすがとなるはずです。仏の心を知り、「正しさ」をつかんで、自らの八正道の指針としていただきたいと思っています。

私が、みなさんにお伝えしている仏法真理は本物です。悪魔や悪霊に振り回されている人でないかぎり、それを読めば心は揺さぶられ、反省の涙がこみあげてくるはずです。私の教える正しさを人生のヒントとして生きていくべきです。その際に、つぎの各項目を反省の材料として、日々を生きていただきたいと思っております。

一 自分は、正しい信仰に基づき、ありのままを多々しく物事を見たか(「如実知見」)。正しく人を観察したか。仏のような心でもって、人々に接したか。正しい世界観、人生観を素直に受け入れたか。(正見)

二 自分は正しく思ったか。自分の修行の志は正当か。心のなかにむさぼりや怒りや愚痴など悪い想念を抱かなかったか。他人に対して悪しき想いを抱いたり、害心をいだかなかったか。慢心したり、仏法を疑ったりしなかったか。仏法に反する考えを持たなかったか。また、正しく判断したか。(正思)

三 自分は正しく語ったか。自らの良心に恥じるようなことは語らなかったか(真実語)。言葉で、他人を傷つけなかった(悪口)。悟りを偽らなかったか(妄語)。他人を迷わし、うぬぼれさせたり、(綺語)仲違いをさせ不安におとしいれるようなこと(両舌)を語らなかったか。(正語)

四 自分は正しく行為したか。修行者としての戒律を犯すようなことはなかったか。手や足やその他身体器官が、法律に反する殺人・暴力・盗みや、性道徳に反する、不倫や、わいせつ行為、悪質な風俗営業での堕落した行為、ポルノへの傾倒などの罪を犯すことはなかったか。あらゆる生命を尊重し、仏・法・僧の三宝に布施を惜しまなかったか。(正業)

五 自分は正しく身・口・意の調和のとれた生活をしたか。酒やタバコ、賭博、麻薬などにまみれたよこしまな生活をしなかったか。万物に感謝したか。また、仏のくださった二十四時間を生かし切ったか。(正命)

六 自分は正しく仏法真理を学んでいるか。修行の気持ちが薄らいでいないか。一体どれだけ悪から遠ざかり、善の種をまいたか。正しい努力を怠っていないか。(正精進)

七 自分は心を落ち着けて、修行とユートピア建設に関する正しい人生計画を抱くことができるか。自己実現の祈りは、仏の心にかない、悟りを高め、自らの人格をも高めるものか。また、仏法真理を深く理解し、教えを正しく記憶しているか。(正念)

八 自分は正しい精神統一の時間を持っているか。自らの過去の罪を反省し、その日一日をしっかりふりかえり、守護・指導霊に感謝してから就寝しているか。精神統一によって心の安らぎを得ているか。(正定)

右にあげた八項目が、真説・八正道にして、今日においても、その価値を失わない、人間としての正しい生き方です。そして、このように、毎日毎日を正してゆくことが、非凡な人生を歩み、仏の高みへと自分を押し上げていく力となるのです。

【大川隆法『太陽の法』第2章「仏法真理は語る」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。

人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第1章 四次元の世界
8永遠の生命

地獄で苦しんでいる霊がいつも決まって言う台詞(せりふ)があります。それは「こんな姿になるくらいなら、ひと思いに殺してくれ」という言葉です。

彼らはときに、仏や神に対して、罵詈讒謗(ばりざんぼう)、悪口の限りを尽くすことがあります。「蛇として生きていくくらいなら、ひと思いに殺してくれればよかった」という人がいますし、「こんな色情地獄で、血の海の中で泳いでいるくらいなら、ひと思いに殺してくれたほうが、まだましだった」という人もいます。

また、無間地獄に堕ち、真っ暗な闇のなか、あるいは砂漠や
無間地獄に堕ち、真っ暗な闇のなか、あるいは砂漠や洞窟のなかに閉じ込められてしまった人は「こんな人生が自分を待っていたのなら、ひと思いに生命をうばってくれればよかったのに・・・」と言っています。

生前は大宗教家と言われて、世間からさまざまな称讃を受けた人が、無間地獄に堕ち、深い深い闇のなかで、深い深い沼のなかでただ一人苦しんでいる姿を私は数多く霊視しています。こうした人は、現在では二代目や三代目が継いでいる宗教の初代教祖のなかにも数多くいます。

こうした教祖たちの疑問は、「何十万、何百万の人たちを指導した私が、なぜこのような世界にいるのか」ということです。そして、「このような世界にいるくらいなら、ひと思いに生命を奪ってほしかった」と口々に言います。それは、自分の将来が分からないからです。その漆黒の闇のなかで、どのくらいの間苦しまねばならないのかが、彼らにはわからないのです。

魂というものは永遠です。魂には永遠の生命があるのです。永遠の生命があるということは、調和された生活をして生き、心が美しく、死後は天国に還った人たちにとっては、この上ない福音です。なぜなら、すばらしい世界のなかで、生命を全うしていくことができるからです。

しかし、地獄に堕ちた人たちにとっては、永遠の生命があるということ自体が、一つの罰、懲罰なのです。生命がひと思いになくなってしまえば、地獄で苦しむことはないのですが、生命はなくなりません。このこと自体が彼らを罰しているのです。

人間は、こうした真実の世界の姿を知ったならば、「地上に生きているときに、悪いことを思うことも、悪いことをすることも、本当に割が遭わない」ということが分かるはずです。

「永遠の生命などなく、この世かぎりの人生だ」と思っているからこそ、やりたい放題のことをし、人を傷つけ蹴落としてでも偉くなろうとしているのです。ところが、その結果、地獄に堕ち、永遠の生命どころか、永遠の苦しみのなかで、のたうちまわることになるということを知れば、どれだけ割が遭わないかを知るに至るわけです。

また、生前、ささやかな善意のなかに生きていたことが、あの世での至福の生活、これ以上ない素晴らしい生活へと展開していくならば、「なぜ、地上にいたときに、よいことをもっとしておかなかったのか」と誰もが思うはずです。

この世で一個よいことをすると、あの世で十個よいことをしたくらいの価値があります。この世は非常に難しい世界であり、魂は「目隠し」をされた状態で修行しているのですから、そうした手探り状態のなかで天国的なる生活を展開することには、あの世での修行の五倍十倍の値打ちがあるのです。

数十年間、この世で天国的生活を送った人には、その行いがあの世では十倍にもなって返ってくるのです。この世はそうした価値ある世界でもあります。

しかし、この世で、「このくらいのことはいいだろい」と思って犯してきた悪の数々も、あの世では五倍十倍となって返ってきます。こうした厳しい事態が待っているのです。

したがって、「よいことをすればねほめられるのだから、よいことをせよ」「わるいことはいけないから、してはならない」というのではなく、ほんとうの意味で自分を大切にする人間ならば、悪いことはできなくて、よいことしかできなくなってくるはずです。ほんとうの人生観、ほんとうの世界観を知ったときには、そうせざるをえなくなってくるのです。割の合わないことは誰もしないのです。

ましてや、地獄に行くような人というのは、割の合わないことは非常に嫌いなはずです。かれらは「自分のやっていることが割に合わない」ということを知らないのです。したがって、そのことを彼らに一日も早く気づかせてあげる必要があるわけです。

【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第一章「四次元の世界」より抜粋】
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私が『太陽の法』を読んで感動したのは以下の言葉です。

『八正道は、人間完成への道です。自らのあやまった方向を修正し、正しい人生を生きるための智慧なのです。

人生とは、こう生きればいいといった模範解答があるわけではありません。なぜならば、人生は疑問の連続であり、その疑問は、各自のおかれた環境、経験、知識、習慣によって、それぞれ異なった内容をとってくるからです。その疑問を解決するのは、他人ではなく、ほかならぬ自分自身なのです。自分自身で軌道修正しなくて、一体だれがその軌道を修正してくれるのでしょうか。

そのためにこそ、ひとりひとりが、自らの生きているわくのなかで、「正しさ」というものを徹底的に追及する必要があるのです。

では、その「正しさ」の基準とは、一体なんでしょうか。何をもっって、「正しい」とするのでしょうか。それを答えるのが、真実の宗教指導者の使命であり、今世における私の使命なのです。

「正しさ」を知るとは、仏の心を知るということなのです。仏の生命を科学するということなのです。何が善で、何が悪であるか。何が真で、何が偽りであるか。何が美で、何が醜であるか。それを決めのは、仏の心なのです。そして、仏の心を知るということは、仏の光のエネルギー体の性質を究明するということなのです。すなわち、仏を理解するために徹底的に努力をするということなのです』

「正しき心の探究」は幸福の科学の会員であるための、たった一つの条件です。正しき心とは、仏の心であることを学びました。そしてその仏の心を知るために必要なのが「八正道」という中道の道です。私たちは日々の生活を、主のためよのため、隣人のために奉仕するためにこの地上に生まれてきました。その主から頂く奇跡の一日を一瞬たりとも無駄にしないために反省の法門が説かれています。これは、幸福の科学の基本教義である四正道である「愛」「知」「反省」「発展」の第三の法門である「反省」です。本日は、仏の御心を知る大きな手掛かりを与える反省を「真説・八正道」として学びました。これは人類にとって、極めて重要な教えです。

本日の学んだ、日々の修行項目である「真説・八正道」と、この後第3章の「愛の大河」で説かれる中・長期的な修行項目である「愛の発展段階説」が「太陽の法」の二大柱となっています。その関係は、やや難しい区分となりますが、このようになります。

〇「八正道」の第一である「正見」と第三の「正語」は、「愛の発展段階説」における、五次元善人界の「愛する愛」に通じています。

〇「八正道」の第四の「正業」と第五の「正命」は、「愛の発展段階説」における、六次元光明界の「生かす愛」に通じています。

〇「八正道」の第二の「正思」と第六の「正精進」は、「愛の発展段階説」における、七次元菩薩界の「許す愛」に通じています。

〇「八正道」第七の「正念」と第八の「正定」は、「愛の発展段階説」における、八次元如来界の「存在の愛」に通じています。

そして、結論としてこのようにも説かれています。

『結論としていえば、存在の愛の段階に到達するには、正しく定に入り、解脱すること、そして、正しい精神統一を完成するということが前提となります。

以上に述べてきたことは、言葉を換えていうならば、八正道には、修行としての段階があり、正見・正語→正業・正命→正思・正精進→正念・正定と四段階にわけて修行にはげむと反省がしやすいということです。これは釈迦の説いた八正道の順序とは異なりますが、初学者にとっては有効な修行順序です。』

このように、現代の四正道のうちで、とくに、「愛」と「反省」を結び付けて毎日の宗教修行を行うことを主は私たちに勧めているわけです。ここは仏法真理の教学上とても重要な論点であると言えます。

このように八正道は、仏教の奥義とも考えられる重要な教えである一方、取り組むのが難しいところがあります。ぜひとも、日々の反省行は、『仏説・正心法語』の五番目の経文『仏説・八正道』を繰り返し読誦しながらともに取り組んでまいりましょう。

また、『永遠の法』では、永遠の生命について重要な学びに触れました。
印象的であったのが、邪教団の教祖が死後深い地獄で苦しんでいるという事実と、以下の教えが印象的でした。

『この世で一個よいことをすると、あの世で十個よいことをしたくらいの価値があります。この世は非常に難しい世界であり、魂は「目隠し」をされた状態で修行しているのですから、そうした手探り状態のなかで天国的なる生活を展開することには、あの世での修行の五倍十倍の値打ちがあるのです。

数十年間、この世で天国的生活を送った人には、その行いがあの世では十倍にもなって返ってくるのです。この世はそうした価値ある世界でもあります。

しかし、この世で、「このくらいのことはいいだろい」と思って犯してきた悪の数々も、あの世では五倍十倍となって返ってきます。こうした厳しい事態が待っているのです』

この教えは、経典『地獄の法』においても、第二章「地獄の法」の112ページに「地上での修行の効果は霊界の十倍に値する」と説かれているように、永遠の法と地獄の法とその見解に一切ブレがないことがよくわかります。大切な論点ですのでしっかり学びを深めてまいりましょう。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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