(11/11-1)【基礎教学通信】315『太陽の法』を読む48「黄金の時代」アガシャーの時代―「悟りの挑戦(下巻)」布施と三輪清浄―『永遠の法』救いの本質

『太陽の法』を読む

55 経営的素質は、親・子・孫と必ずしもつながらない。高慢で、かつ、謙虚な人は見当たらない。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。

ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】

―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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■『悟りの挑戦(下巻)』第4章「空と救済」
6 布施と三輪清浄

また、この救済という観点をもっと考えてみると、実は、もう一つかいてはならない論点として、与えること、すなわち「布施」の考え方も出てきます。そこで、布施なるものは、いかなる時に成立するのか、仏教で勧められている布施の功徳、布施の大切さというのは、どのようなときに認められるものなのかということを、「空」とのからみで検討してみたいと思うのです。

そうしてみると、確かに布施とは人に与えることですけれども、単に物を与えることではないでしょう。犬に骨を投げるようなことが、本来、布施のめざすべきものというわけではないでしょう。仏教的な観点からみて、いやしくも、布施が人間の魂の向上になり、この世の仏国土建設のためになるならば、それなりの条件が何かあるはずです。それは、単なる物の移動、物体の移動、あるいは金銭の移動ではないでしょう。その奥に何らかの精神があるはずです。この精神とはいったい何でしょうか。

このように考えてみると、昔から、布施には「三輪清浄」という言葉が言われています。この三輪清浄がなければ布施は成り立たないと言われています。

三輪とは、布施を与える人―「施者」(この奉仕する主体のことを「能施(のうせ)」ともいう、布施を受ける人―「受者」(この奉仕される客体のことを「所施(しょうせ)ともいう、布施するもの―「施物(せぶつ)」(「もの」とは必ずしも物質ではなく、あたえるべき「もの」のことであり、法なども含む)です。この「与える人」と「受ける人」と「与えるもの」の三つが清浄でなければ、布施は成り立たないと言われているのです。三つともが清浄、要するに穢(けが)れを離れていなければいないのです。

では、穢れを離れるとは、いったいどういうことでしょうか。それは、その三者に何らかの不浄、執着があってはいけないということなのです。

人に物をあげるときに、「ああ、悔しいな」と思いながらあげることがあります。たとえば、本当にはしたくないのだけれども、熱心に言われるから、しかたなくしぶしぶ献金をする。それから「乞食なんか死んでしまえ」と思いながら、「みんながあげているから、しかたがない」ということでお金をやる。このように、いやいやながらあげたり、あるいは、お金や物に執着がありながら、やむをえず出したり、人目を考えて、虚栄心、見栄から出すことがあります。

このようなときは、施者、つまり布施をしようとする人の心に穢れがあるので、もはや功徳のある布施にはなりません。

それから、布施を受ける側に欲得がある場合、不浄な考えがある場合もだめです。

たとえば、「義援金を募ります」「恵まれない子供たちのためにお金を集めています」と言いながら、実際は集めたお金を横流しして他のことに使っているといったことはいくらでもあります。難民救済のための缶詰を送ったら、横流しして売っているといったとは、発展度上国にはよくあると伝えられています。きちんと届かずに、途中で市場の商品に化けていることがあるのです。

こんな布施は成り立ちはません。要するに、受けるほうの気持ちも大事なのです。

ですから、与えるほうが、非常に清々しく、爽やかな、執着のない心で与え、受け取るほうも感謝の心で、「それを大切に使いたい」という気持で受ける、このように、両方ともに我欲を離れた気持ちが大事です。

それから、与えるものの事態が清浄であること、すなわち、たとえば盗んできたもの、いかがわしいもの、あるいはふさわしくないものを与えるというのはよくないことです。

ここで、施物に関連して、仏教における肉食について触れておきましょう。仏教では、肉を食べることを禁じているというふうに言われることがありますが、これは明らかな誤解なのです。仏教では本来、肉食を否定していないのです。肉食で否定釣れたのは、この布施のところで引っかかりがある肉を食べることなのです。その肉のことを「見・聞・疑」の肉といいます。この三種の肉は、食べることを禁じたのです。

「見」とは、豚でも猪でも何でもよいのですが、目の前で殺されるのを見た動物の肉を堕ることは、僧侶にはふさわしくないので、食べてはいけないということです。要するに、生き物が殺さるところを見た場合には、その肉を食べてはいけないということです。

また、「聞」とは、そのように聞いたものです。つまり、「お坊さんに布施しようとして、今この兎を殺したところです」というようなことを聞いたときは、その肉は食べてはいけないのです。要するに、自分が食するために殺されたということを聞いた肉は食べてはいけないということです(殺される動物の声を聞いた倍ともいうが、「見」との相違があまりないので広義に解することとする)。

それから「疑」とは、そのような疑いのある肉は食べてはいけないということです。たとえば、布施してくれる在家の人が、「いや、これはありあわせの肉ですから、どうぞ」と言いながら、豚が丸ごと一匹出てきたとします。「これはおかしい。そんなはずはない。これは僧侶に供養しようとして、今わざわざつぶしてきたに違いない」、このような疑いのある肉は食べてはいけないということです。

なぜかというと、動物たちにも魂がありますから、死ぬときはやはり苦しむものです。それが、よりによってお坊さんに食べられるために苦しんだということになっては、出家の本懐に背くわけです。

出家というのは、成仏を勧めるためにあるのですから、自分の存在が成仏を妨げるような行為につながるようでは、このは決してよいことではないのです。ですから、「見・聞・疑」の三種の肉は食べてはいけないのです。

そして、これらを離れた肉を「浄肉」といいます。「三種の浄肉」とは、この三つの穢れを離れた肉のことです。これは食べてもよかったのです。

托鉢に行くとお椀のなかにいろいろなものを入れてくれますが、これは特別に用意してくれるものもあれば、ありあわせのものもあります。在家の人々とは肉を食べますから、出されるもののなかに、肉が入いっていることがあるのです。この肉だけつまんで投げ出すわけにはいきません。布施されたものは文句を言わずに食べていたのです。釈迦在世当時の修行僧たちも肉を食べていたのです。

ですから、仏教では肉食を禁じているということも、精進料理しか食べなかったということも、事実に反します。これは後代(大乗仏教興隆後期以降)始まったことなのです。

以上の布施の清浄さについて述べました。布施をうけるときに、その食べ物としての肉をもらうときでも、穢れがあるものは食べてはいけなかったわけです。それ以外はありがたく受け取ったのです。

自分の本意でない施物を受けそうなときには、托鉢のお椀を裏返すわけです。そうすると、「受けられません」という意味になるのです。出している以上は、入れてくれたものを持って帰って食べなければいけません。何を入れられてもやはり文句は言えないのです。ですから、そういうときだけ、お椀をさかさまにするのです。それは「受け取れません」という意味です。それで通り過ぎていけばよいのです。

【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』第4章「空と縁起観」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、愛とは何か。仏法真理とは何か。悟りとは何か。ユートピア建設とは何かという根源的な問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第5章「黄金の時代」
8 アガシャーの時代

アトランティスは、大導師、トスのあとをうけて、科学万能時代に入ってきておりました。しかし、トスの本物の「万能」を受けつぐ人が出なかったので、科学偏重に傾いてゆきました。こうして「科学万能とは、必ずしも神の御心にはかなわない」「神のほんとうの御心はほかにもあるのではないか」などの疑問が呈示(ていじ)されるうになったのです。そして、大小さまざまな宗教改革家が出現してきては、人間のあり方を説いていました。これが、いわゆる百家争鳴(ひゃっかそうめい)の時代のです。この時代は、約一千年つづきます。

アトランティスが水没しはじめたのはこのころで、いまから一万一千年ほど前です。まず最初に、大陸の東の三分の一が海中に没しました。さらに、一万七百年ほど前になると、西の三分の一が沈みました。アトランティス大陸は、真ん中の部分の三分の一を残すだけとなってしまいましたが、それでもまだ、洋上に帝国を築いておりました。

そして、いまから一万四百年ぐらい前、紀元前の八千四百数十年に、この地にアガシャーという方が生まれます。アガシャーが生まれたのは、アトランティスの首都・ポンティスです。ポンティスは、人口七十万ぐらいの都市でした。(※現在の静岡市や東京江戸川区の人口)ポンティスには、代々王族が住んでおり、この王族の名をアマンダ族といいます。

アガシャーは、アマンダ族の王子に生まれました。幼名をアモンといいます。アモンは、二十四歳のときに王位につき、アガシャーと名を変えました。アガシャーとは、「叡智を秘蔵せる者」という意味です。このアガシャー大王こそ、のちにイスラエルに生まれたイエス・キリストなのです。

アガシャー大王は、ラ・ムー同様、政治家兼宗教家でした。王宮のなかには、高さ三十メートルもある、黄金に輝くピラミッド型の神殿があり、ここで大王は、神事を行っておりました。アガシャー大王の治世で特徴があったのは、彼は毎月一回、十万人以上収容できる大広場に市民を集め、説法したことです。その当時でももちろん、現代のワイヤレス・マイクのようなものがありました。

アガシャーの教えは、のちにイエス・キリストとして生まれるだけのことはあって、やはり「愛」を中心とした教えでした。彼の説法の内容は、毎回変わりましたが、基本的な教えは、つぎの四点に集約されます。

一 神の本質は愛であり、私たち人間が神の子であることは、すべての人間の心のなかに、愛があることで証明される。

二 愛の具体的な方法は、まず主なる神を愛し、神の分身である隣人を愛し、最後に神の下僕(げぼく)である自分を愛するということである。

三 一日一回は、ひとりで静かに祈り、自分の守護・指導霊と話しなさい。

四 人間の偉さは、その人がほどこした愛の量ではなく、愛の質ではかられる。汝の愛の質を高めよ。

アガシャーの教えは、立派なもので、その人格は、深く尊敬されておりました。しかし、かつて、聖クザーヌス(マイトレーヤー如来)が説いた理神論を奉ずる一派は、アガシャーを敵視し、その命を狙うようになってきました。なぜならば、聖クザーヌスは、神は理性的なものであると説き、科学的、合理的なものを重視していたのに対し、アガシャーは、愛とか、守護・指導霊とかいう非科学的、非合理的、反理性的な教えを説いていたからです。

すなわち、聖クザーヌス派の人々は、アガシャーの教えを、人心をまどわし、アトランティスの古き良き伝統をなしくずしにするものだと考えたのです。

確かに、アガシシャーは鶏群の一鶴(けいぐんのいっかく)とも言うべき存在であり、その人格の高貴さは、万人が認めるものでありましたが、平均的なアトランティス人は、科学万能信仰に陥り、目に見えぬ守護・指導霊を信ずことができませんでした。やがて、理神論派は反乱を起こし、アガシャーを始めとする王族たちをとらえ、広場で、生き埋めにするという暴挙に出ました。このころは、ちょうど二十世紀末の現代同様、真理が説かれると同時に、魔が競い立っていたのです。

こうした暴挙のなかで、ただひとり、理神論派の追撃の手を逃れ、飛行船で王宮から飛び立ったものがおりました。アガシャーの長男・アモン二世です。このアモン二世は、エジプトに逃れ、アモン・ラー伝説の起源となります。この地で、太陽信仰を始めることになるのです。エジプトのピラミッドの原型は、アモン二世が伝えた知識にその源を発するものです。

反乱軍の暴挙によって、地上に肉を持っていた数多くの光の天使たちは処刑され、アトランティスでは、悪魔が勝利を得たかに見えました。しかし、彼らがつくり出した暗い想念の曇りが、全アトランティスをおおったため、地球意識に反作用が起こり、全アトランティス帝国が、一昼夜にして、海底に陥没するという信じられない現象が眼前に生じたのです。

過去の多くの文明がそうであったように、この文明もある日突然に、大陸の沈没によって終焉を告げました。しかし、一部の人々は、やはり飛行船によって逃れ、アフリカ、スペイン、南米のアンデスの方面へと逃れ、それぞれの地で、新しい文明の種をまいていったのです。

【大川隆法『太陽の法』第5章「黄金の時代」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。

人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第4章 七次元の世界
6 救いの本質

ここで、少し話を変えて、救いの本質について考えてみましょう。
七次元の世界は愛の世界であると述べました。そして、愛には、家庭内の愛、親子の愛、男女の愛など、さまざまなものがあるという話もしてきました。

それでは、七次元にいる人たちの愛とは、主としてどのような愛なのでしょうか。七次元の愛は、いま述べたような本能的な愛、つまり、親子の愛、男女の愛といったものではないことは、はっきりしているのです。

七次元の菩薩たちが肉体を持って地上にいるとき、彼らの働きの中心は何かといえば、自分と必ずしも関係のない人びとを愛していくことです。すなわち、仏の心を自らの心として、世の人びとを悟らせ、救済していくことが、菩薩たちの地上での人生であり、また、あの世に還ってからの仕事でもあるのです。

他力門では「救い」ということを非常に重視しています。人を救う、あるいは救われるということを重視しています。

では、救いの本質とは何かについて考えていきましょう。

私は先ほど、「霊的な目で地上を見渡してみると、蜃気楼がユラユラと立っているような、熱気にあふれた熱い砂漠の中で、疲れはてた旅人たちが、あそこにもここにも、うごめいていて、水を求め、オアシスを求め、さまよっている姿が見える」と述べました。

三次元の人間たちがそうしした人びとであるならば、彼らにとっての救いとは何でしょうか。結局のところ、「救いの本質とは、彼らの喉の渇きを潤すものではないのか。それが救いの本質ではないのか」―こうしたところに考えが落ち着いていくのです。

そうすると、彼らの渇きを潤すための水とは何でしょう。

いまから二千年前の昔、イエス・キリストは、喉が渇いたとき、羊番の娘のところへ行って、一杯の水を乞いました。そして、水をもらいのどを潤したあと、彼は次のように説きました。

「あなたがたは水で喉を潤すことができるけれども、水で潤した喉はまた渇くであろう。しかしながら、私の与えた『生命(いのち)の言葉』によって渇きをいやされた者は、決して渇くことがない」

まさしく、そのとおりです。そして、そこに救いの本質があるのです。

キリストの言った「生命の言葉」とは、結局人間の魂を永遠の生命に導く、真実の教えのことです。すなわち、仏法真理です。仏法真理のために生きる人間は永遠の生命を持っているのであり、そのため、迷うことなく、疲れることなく、渇くことがないのです。

「このように生きなさい」という仏法真理の言葉を与えられて、立ち上がった旅人は数知れません。すなわち、ほんとうの愛とは何か、ほんとうの救いとは何かといえば、その本質にあるものは、人びとを目覚めさせるための仏法真理の言葉であり、人びとを悟らしめるための一喝なのです。

結局、菩薩たちの活動の本質は、仏法真理を宣べ伝えて人の心を渇きから守る、救うということにあるのです。

【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第4章「七次元の世界」より抜粋】
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本日、『太陽の法』においては、アトランティス文明の末期に活躍したイエス様の過去世であるアガシャー大王の愛の教えについて学びました。イエス様の愛の教えの前触れともいえる教えを復習すると以下の四点となります。

一 神の本質は愛であり、私たち人間が神の子であることは、すべての人間の心のなかに、愛があることで証明される。

二 愛の具体的な方法は、まず主なる神を愛し、神の分身である隣人を愛し、最後に神の下僕(げぼく)である自分を愛するということである。

三 一日一回は、ひとりで静かに祈り、自分の守護・指導霊と話しなさい。

四 人間の偉さは、その人がほどこした愛の量ではなく、愛の質ではかられる。汝の愛の質を高めよ。

一においては、神の本質が愛であること。愛を通して、人は神の子であることが説かれており、お釈迦様の教えである。「すべての人には仏と同じ性質である仏性がある」という仏性論に近い教えが説かれています。

また、二において、注目したいのが、主エル・カンターレが現代において『メシアの法』にて、あらためて示された重要な教えである、「汝の主する神を愛せよ」そして「主なる神を愛しているという証明として汝の隣人を愛せよ」。この二点がすでにこの時代において示されているという点です。

三では、ムー時代のラ・ムー様の三正道の教えでも共通しています。

〇ラ・ムーの三正道②―天上界と心を通わせる反省
今日一日、神あるいは神近き高級霊といわれる守護・指導霊と心を通わすことができたかどうか。これを反省せよ

そして、四では、具体的な愛の発展段階は示されてはいないものの、愛にも質の違いがあり、量より質が優先されることを明示しています。これらの四つは現代において愛を考えるうえでも重要な教えです。

また、繁栄を誇ったアトランティス文明も、かつて九次元大霊マイトレーヤー如来の主導で繁栄に導いた理性を重視する文明の精神革命を、アガシャー大王の時代に図りましたが、アトランティスの民はそれを受け入れることができませんでした。固定化した精神や考え方を、同じ文明のなかで変更することの難しさ、宗教改革の難しさは既得権益との戦いと相まって現代にも通じるところです。文明が終焉をむかえる時代には、必ず悪想念が暗躍する時代でもあります。文明の栄枯盛衰のなかに光と闇との戦いが続いていることがよく分かりました。

また、後半の『永遠の法』では、親子や男女の愛を越えた菩薩の愛について学びました。
そして、救いの本質として人の心の渇きをいやすのは仏法真理の言葉であることを学びました。イエス様の言葉はとても印象的でした。

『「あなたがたは水で喉を潤すことができるけれども、水で潤した喉はまた渇くであろう。しかしながら、私の与えた『生命(いのち)の言葉』によって渇きをいやされた者は、決して渇くことがない」

まさしく、そのとおりです。そして、そこに救いの本質があるのです。

キリストの言った「生命の言葉」とは、結局人間の魂を永遠の生命に導く、真実の教えのことです。すなわち、仏法真理です。仏法真理のために生きる人間は永遠の生命を持っているのであり、そのため、迷うことなく、疲れることなく、渇くことがないのです』

日々の心の探究としての、教学は、自らの心の渇きをいやすと同時に、私たちの隣人を救い助ける知恵と勇気の言葉として、他人の心の渇きをいやしていきます。それゆえに、仏法真理を伝える伝道こそが最大の与える愛であることも理解できました。

主の御教えをしっかりと学び、本日も、主のため、世のため、人のため、隣人を救うために、たとえ小さくとも与える愛の実践を成し遂げてまいりましょう。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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