(10/30-1)【基礎教学通信】303『太陽の法』を読む36「悟りの極致」一即多・多即一―「悟りの挑戦(下巻)」上求菩提・下化衆生―『永遠の法』光の海

『太陽の法』を読む

43 あなたは何回「自慢」して、何回「謝った」か。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使
命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを

既に与えられました。

ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】

―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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■『悟りの挑戦(下巻)』第2章「小乗と大乗」
5 上求菩提・下化衆生

以上が、大乗と小乗仏教の大きな流れなのですが、そのなかに流れている精神を要約すると、次のようになると思うのです。

「上求菩提・下化衆生」という言葉があります。要するに、上に向かっては悟りを限りなく求め(上求菩提)、下に向かっては一人でも多くの人を救おう(教化しよう)とする(下化衆生)ということです。仏教の根本精神はここに尽きているわけです。

このなかの「上求菩提」、悟りを求めていこうとするところに小乗仏教の中心概念があるわけです。悟りを求めていこうとしたら、どうしても世間にかかわってい入られなくなり、結局は出家者として修行するしかないという流れがあります。

それから「下化衆生」、人びとを救っていこうとしたら、もうそんな戒律だとか何とかと言ってはいられません。人びとは一緒になって救っていかなければいけなくなります。あるいは、一人でも多くの人に宗教心を起こさせなければいけなくなります。そうすると、釈迦がたとえ八万四千の教えを説いたとしても、「そんなことはどうでもいい。『南無阿弥陀仏』だけでもいい。『法華経』を持っているだけでもいい」と、そういう簡単なところにまで落としていってでも、人びとに法縁をつけなければいけない―「下化衆生」を極端に進めると、そこまでいくわけです。

この両方を、過去の仏教は経験したわけです。そして今、かなり生命を失った状況まで来きいると思います。

ですから、本来の趣旨に立ち返ってみると、私たちがしなれればならないことは、はっきりしているのです。「上求菩提・下化衆生」なのです。

人間は安易な方向に流れていきますから、どちらか一方に走りたがります。方向性が一定だと楽なのです。

「上求菩提」というと、「ああ、そうか。悟りを求めたらいいのか。それでは、世間のことは、一切、断ち切って、山のなかにこもって修行に打ち込もう」となります。これはある意味では楽なのですが、この世に対する責任を放棄しています。「籠山行(ろうざんぎょう)十二年」などといって、山に入って、ニュースも新聞も何も見ず、十二年間、何が起きたか下界のことはまったく知らず、ただ山のかなのお堂に籠(こも)って修行をしている、そのような人がいるということ自体は結構ですが、救済力はありません。

逆に、「下化衆生」も結構ですが、お坊さんが、一生懸命、商売に励んで俗化している姿が、あちらにもこちらにも見受けられます。本来の教えそのものを放棄して、教学もせず、修行もしない生臭坊主が横行していることも多いです。これも気をつけなければいけないところです。

私たちがしなければいけないことは、結局、この矛盾する方向性を統一すべく精進するしかない。矛盾にひるまず、この統一性をあくまでも追求する姿勢を忘れてはいけない、ということです。

すなわち、あくまでも悟りを求める集団でありながら、同時に人びとを一人でも多く救っていきたいと願う集団でなければいけないのです。これは根本の仏教のなかに、もともとあるものであって、どちらか一方でよいというものではないのです。

そこで、どうすればよいかというと、修行としては、やはり自分には厳しい態度が必要です。要するに、修行する心、悟りを求めていく態度において自分に厳しく、ということです。同時に、人を救わけですから、他人に対して優しくあらねばなりません。「自分には厳しく、人には優しく寛容に」という態度が、「上求菩提・下化衆生」の態度だと思うのです。

自分に甘く、人にも甘い、あるいは自分に厳しく、人にも厳しい、これが一般によく出る態度です。自分を甘やかしている人だと、だいたい他人にも、「まあ、そんなにやらなくていいよ」と言います。必ずそうなります。試験を受けても、全然、点が取れないような人は、他人に対しても、「そんなに勉強なんかしなくてもいい。人間は清らかな心があればいい」と言いたくなります。やはり、自分に甘くなれば他人にも甘くなります。逆に、自分に厳しくなると、もう試験以外は何もないということになり、他人に対しても、「ほかに何をしようがそんなものは関係ない。百点を取らなければだめだ」となります。これも行き過ぎです。あくまでも、両方とも行き過ぎることなく、両方とも求めなければいけないものなのです。

ですから、基本的態度としては、「自分に厳しく修行を求めていく。決して甘やかしてはいけない。しかし、他人に対してはできるだけ慈愛の心を持っていく。その慈愛の心も、単に甘やかす心であってはいけない。人を生かさなければいけないから、智慧をもって愛を与えていく」、そういう方向が大事なのです。

小乗仏教と大乗仏教として、現在も残っていますけれども、それをもう一度原点に戻して、「私たちは悟りを求める集団であると共に、人びとを助け救っていく愛の団体である」という、この二つのベクトルが融合するように努力するしかありません。これを融合するものは、やはり修行者の心構えひとつです。心構えと態度に尽きるわけであり、自分を甘やかしたら、もうそれで終わりということになります。

【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』第2章「小乗と大乗」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、愛とは何か。仏法真理とは何か。悟りとは何か。ユートピア建設とは何かという根源的な問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第4章「悟りの極致」
6 一即多・多即一

人間の修業としては、正思・正精進【※七次元許す愛】・正念・正定【※八次元存在の愛】が、最大限に深まった段階、愛の発展段階でいえば、存在の愛の段階にいたった場合の「悟り」についての話をしたいと思います。つまり、本項では、如来界の悟りそのものを言及するつもりです。

菩薩の境涯までは、魂に対する認識も、ある程度、人間としての姿、形にとらわれています。霊とは、本来、形なきエネルギー体であり、姿なき知性です。しかし、長年の転生輪廻の過程で、人間として数限りなく生まれ変わったために、人間的な形をした魂という姿に縛られる霊も多く、機能的には、本来の自由自在さを失っているといえます。

すなわち、七次元の菩薩界では、まだ人間としての姿をとって、あの世でも修行しているのです。人間には、手が二本あり、足が二本あり、着ている衣服もあって、髪型もあれば、目鼻立ちもある。こういう具合にしか自分自身を認識しえない段階にあるのが、大部分の菩薩です。人間の姿、形をしていないと、やはりあの世でも落ち着かないのでしょう。ですから、彼らは特性が高く、指導力も非常に高い方がたなのですが、その力には、どうしても、人間的な霊力の限界があるのです。

しかし、八次元の如来に入ってくると、少し事情が異なってきます。如来界の人たちは、自分たちが、人体の形をした霊魂ではないことを知っております。それは、長年の転生の過程で、人体に宿ったという記憶でしかないのです。また、如来たちは、霊というのは、知性あるエネルギー体であり、姿、形なき光の束であることを、知識的に知っているだけではなく、生活実感としても知っております。

たとえば、地上生活している霊能者が、肉体を離脱して、魂として、八次元如来界に来ることができたとして、そこで、何を見ることができるでしょうか。八次元如来たちは、地上人に対しては、地上人にわかりやすいようにと、彼が、生前、地上で生活していたときの姿であらわれます。そして、彼を自分の住居に連れていって、コーヒーをすすめたり、ワインをすすめたりします。そのコーヒーやワインは、たいへんおいしくて、地上では考えられないような香ばしいかおりがしています。そこで、その地上から来た霊能者は、つぎのように報告するのです。

「八次元如来界というのは、ほんとうにすばらしい世界です。住んでいる人たちは、みんな、神々しい。道路にはルビーがしきつめられており、建物のいたるところにダイヤモンドをちりばめられてある。飲み物は、地上界にはないような馥郁(ふくいく)としたかおりがたち込め、テーブルはと見れば、これまた、輝くばかりの素晴らしい大理石です。しかも、部屋の四隅を支えている柱は、見事としか表現しようのない水晶なのです」

近代におけるヨーロッパの霊能者として、令名(れいめい)をはせたスウェーデンボルグという方も、こういったたぐいの報告をしているはずです。しかし、これはまだ、その人の霊的認識力の不足であり、さらに目をこらして、風景を凝視すると、宝石に飾り立てられた建物も、道路もかき消えて、ただ如来界人がニコニコと立っているだけなのです。また、さらに一段と霊眼をこらしてゆくと、その如来界の人の姿も消えて、そこには、巨大な光の塊があるだけです。つまり、ルビーやダイヤモンドといった宝石は、地上の人へのサービスをかねて、三次元的に翻訳した世界を見せているだけなのです。

このように、如来界人の悟りは、形なき実態として、自己認識できるまでの段階に来ております。ですから、地上に住んでいる人間で、もし如来としての悟りを得ている人がいるとするならば、如来界の法則に近づいているはずです。

如来界の法則とは、「一即多、多即一」の法則なのです。つまり、この世界では、数でいう「一」というのが、客観的認識としてはありません。ですから、「一」かと思えば、それが「十」であり、「万」である。「千」かと思えば、「一」であったりするのです。客観的事実ではなく、絶対的な存在、すなわち、意識の作用の数だけの数が存在するのであり、それを統一する意識体のみが、その実態を知っているのです。

もう少し、わかりやすく説明しましょう。たとえば、ひとりの如来がやるべき仕事が十あれば、十人となってあらわれ、、一万あれば、一万人となってあらわれるということです。しかし、たとえ一万人として分かれ出ても、それを一人として認識する統一した意識があるということでもあるのです。

近年、日本に生まれた京都学派の哲学者である西田幾多郎(一八七〇~一九四五年)という方は、哲学的研究の結果、こうした如来界の法則について、気づいていたようです。もちろん、彼自身が、本来、如来界の人間であったために、彼自身の潜在意識が、そうした世界があるということを教えていただいたのだともいえます。

この八次元如来界では、絶対矛盾的自己同一ということが、可能に世界なのです。視覚的にはバラバラで相矛盾しているように見えるものが、直覚的統一でひとつになるような世界、それが如来界なのです。哲学者・西田幾多郎は、その生前において、この如来界の悟りを、どうやら部分的には得ていたといえます。

【大川隆法『太陽の法』第4章「悟りの極致」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。

人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第3章 六次元の世界
4 光の海【裏側の霊界―竜宮界・天狗界・仙人界】

ここで、六次元光明界の様相を、もう少し視覚的に、目に訴えるかたちで話してみましょう。

あの世の世界では上階段に行くほど光が強くなるということが、私のさまざまな著書に書いてあります。まさしくそのとおりであって、六次元光明界へ来ると、光の量が非常に多くなってきます。

みなさんが山間の道を歩いたり車で走ったりしていると、突然、目の前の視界が開けることがあるでしょう。眼下はるかに、麓(ふもと)の街が見えたり、遠くの海が見えたりと、いきなり目の前に眺望が開けたという経験を持っている人がいると思います。

まさしくこのように瞬間を、六次元光明界に入ってきた人々は感じることになります。

言ってみれば光の海です。六次元光明界に来ると、最初のうちはまぶしくてしかたがありません。夏の光を受けてキラキラと輝いている海を眺めているような気分がするのです。そのため、目が慣れるまで、しばらく時間がかかります。これは比喩として言っているだけではなく、実際、六次元光明界には非常に美しい海があります。

六次元のなかにも上下の差があるという話をしましたが、六次元には、上下すなわち縦だけではなく、横の世界の広がりもあります。横の広がりとは何でしょうか。

まず、表の世界があります。六次元世界のなかでも、主として光明界といわれているのは、表の人間として、まっとうな方向で魂を伸ばして進化してきた高級霊のいる世界のことです。

しかし、六次元には、表の世界以外にも、いくつかの世界があるのです。

たとえば竜宮界という世界があります。日本の昔話や伝説に出てくる竜宮は水に関係した霊界なのですが、この中にも高級霊たちが数多く住んでいます。この竜宮界は次元を貫いて縦にぽっかり浮かんでいます。主として六次元がその中心ですが、下は五次元や四次元にもつながっているのです。

竜宮界にはさまざまな生物が住んでいます。「人だけではなく竜などといったものもいる」と昔から言われています。竜神という存在がいて、竜宮界の高級霊たちに使者として使われているのです。

いろいろな自然現象に対して力を与えたり、歴史的な変革時に怒涛のごときエネルギーを与えたりするのは、たいてい竜神たちです。彼らは人霊ではありませんが、霊的に大きな力を持っているのが特徴です。

この竜宮界は、実際に目で見てみると、大変大きな世界であり、光の海として広がっていて、やはり水の中に住んでいるような感覚になっています。地域的に言うと、日本では、琵琶湖、三保ノ松原、中国地方の松江辺の美しい海岸線、こうしたところを縁とした霊界として、竜宮界が存在しています。

これ以外に、六次元世界の裏側には、仙人界や天狗界というものもあります。竜宮界が海の世界であるのに対して、仙人界、天狗界というのは主として山の世界です。そこでは厳しい山岳の光景が展開しており、そうした山を中心に、さまざまな霊が修行に励んでいます。

こうした霊たちは、地上にいたとき、悟りを求めてはいたのです。ただ、この世界は、肉体行に励み、超能力を求めた人たちが来るところです。すなわち、霊的能力のみを通して悟った人々がいる世界が、天狗界や仙人界なのです。彼らには人間としての温かみが欠けているように思います。

【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第3章「六次元の世界」より抜粋】
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本日は気の遠くなるような如来の悟りについて教えをいただきました。人間として得られる最高の悟りが如来界にあるのではないかとあらためて考えました。

一であると同時に多である。多でありながら、一である。何とも奥深い世界です。私には力不足でとても解説できないレベル教えです。

この世界については、アニメ映画『永遠の法』にて、登場人物の八次元如来のアインシュタインが一即多・多即一の説明をしてくれています。また、同じくアニメ映画『UFO学園の秘密―宇宙の法黎明編』のベガ星でのシーンもこれに近い説明がされています。とても霊的なおしえですので、文字で読むよりも、もしかしたら映像のほうがより分かりやすいかもしません。是非この機会に過去の映画も鑑賞とてみましょう。

本日の教えで注目したいのは、菩薩と如来の違いについてでした。
経典ではこのように教えていただきました。

「菩薩の境涯までは、魂に対する認識も、ある程度、人間としての姿、形にとらわれています。霊とは、本来、形なきエネルギー体であり、姿なき知性です。しかし、長年の転生輪廻の過程で、人間として数限りなく生まれ変わったために、人間的な形をした魂という姿に縛られる霊も多く、機能的には、本来の自由自在さを失っているといえます。

すなわち、七次元の菩薩界では、まだ人間としての姿をとって、あの世でも修行しているのです。人間には、手が二本あり、足が二本あり、着ている衣服もあって、髪型もあれば、目鼻立ちもある。こういう具合にしか自分自身を認識しえない段階にあるのが、大部分の菩薩です。人間の姿、形をしていないと、やはりあの世でも落ち着かないのでしょう。ですから、彼らは特性が高く、指導力も非常に高い方がたなのですが、その力には、どうしても、人間的な霊力の限界があるのです。

しかし、八次元の如来に入ってくると、少し事情が異なってきます。如来界の人たちは、自分たちが、人体の形をした霊魂ではないことを知っております。それは、長年の転生の過程で、人体に宿ったという記憶でしかないのです。また、如来たちは、霊というのは、知性あるエネルギー体であり、姿、形なき光の束であることを、知識的に知っているだけではなく、生活実感としても知っております」

このように、人間としての枠にとらわれて存在しているのが菩薩であり、その上の如来は姿形なきエネルギーとして存在していることがわかれます。思考するエネルギー体であるので、姿形は変幻自在であるんですね。

そのうえで、如来界の法則である一即多・多即一について、このように教えていただきました。心の法則としては大変重要な教えです。

「如来界の法則とは、「一即多、多即一」の法則なのです。つまり、この世界では、数でいう「一」というのが、客観的認識としてはありません。ですから、「一」かと思えば、それが「十」であり、「万」である。「千」かと思えば、「一」であったりするのです。客観的事実ではなく、絶対的な存在、すなわち、意識の作用の数だけの数が存在するのであり、それを統一する意識体のみが、その実態を知っているのです。

もう少し、わかりやすく説明しましょう。たとえば、ひとりの如来がやるべき仕事が十あれば、十人となってあらわれ、、一万あれば、一万人となってあらわれるということです。しかし、たとえ一万人として分かれ出ても、それを一人として認識する統一した意識があるということでもあるのです」

非常に分かり易く如来界の秘密を明かしていただきました。この悟りは、正思・正精進・正念・正定の八正道の完成を経て得ることができる境地です。日々の仏道修行に八正道を取り入れてまいりましょう。

また、後半の『永遠の法』では、六次元世界のまばゆい光の世界を垣間見ることができました。また、水に関する裏側世界「竜宮界」や山に関する裏側世界の「仙人・天狗界」の裏世界が次元を貫いて縦に細長くぽっかり浮かんで存在しているという記述にとても関心がわきました。このあたりは経典『秘密の法』などでも説かれていますので、併せて読みたいところです。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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