(10/26-1)【基礎教学通信】299『太陽の法』を読む32「悟りの極致」悟りの功徳―「悟りの挑戦(下巻)」菩薩の条件―『永遠の法』導きのとき

『太陽の法』を読む

39 嫌われている人は当選しない。嫌われている人の店は潰れる。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使
命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。

ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】

―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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■『悟りの挑戦(下巻)』第2章「小乗と大乗」
1 菩薩の条件

本章では「小乗と大乗」というテーマを選んでみました。

私がこの言葉を最初に使ったのは、幸福の科学の最初の講演会である一九八七年第一回講演会「幸福の原理」においてです。(『幸福の原理』〈幸福の科学出版刊〉所収)。そのときに「小乗から大乗へ」という話をしました。この「小乗」「大乗」とは、いったいどのようなことを言っているのかということを説明したいと思います。

〇仏弟子の実力の差は法臘(ほうろう)と悟りの程度
釈迦が生きていた当時の仏教教団の教えは、もちろん小乗も大乗もなく、みんなが釈迦の指導のもとに修行し、かつ、伝道していました。つまり、小乗的なるものと、大乗的なるものも兼ね備えていました。しかし、その主たる形態は、出家修業が中心でした。出家修行者に釈迦が教えを説くなかで、やがて弟子に実力の差が出てきて、その実力の差をだんだん認めていきました。

この実力の差を何によって決めるかというと、一つは「法臘(ほうろう)」といって、弟子になってからの年数でした。もう一つは、当然ながらこちらのほうが正当な判断なのですが、悟りの程度です。

〇阿羅漢(あらかん・あらはん)とは何か
当会では、よく「阿羅漢(あらはん)」(サンスクリット語〈arhan〉の忠実な音写〔音を引き当ててつくった漢字〕。アラカンともいう※現在、当会ではアラカンで統一しています)と言っていますが、阿羅漢になったかどうかということが非常に大きな区別であって、阿羅漢になったら、修行の第一段階が終わったということになります。

誰がいつ阿羅漢になるかということには、早い遅いがないのです。その人の心境、勉強の仕方次第によってなるのです。そして、阿羅漢になった場合には、「この人は阿羅漢になったのではないか」ということを先輩弟子に当たる者が言い、釈迦がそれを認定するというかたちだったわけです。

要するに、釈迦教団での弟子の判定基準は、一つは修行の年数であり、もう一つは阿羅漢になったかどうかにという段階にあったとわけです。

〇阿羅漢に到る悟りの階梯(預流・一来・不還)
もちろん、阿羅漢以外にも、段階はありました。

まず、一番下の段階に、「預流(よる)」といって、神仏の教えを確信し、修行の流れに入る段階というものがありました。

それから「一来(いちらい)」という段階があり、これは、もう一度生まれ変わって修行すると阿羅漢に達することができるという段階です。「今世では、阿羅漢はちょっと無理かもしれない。けれども、ある程度がんばっているから、もう一回生まれ変わってきたら、来世は阿羅漢になれるかもしれない」というあたりが「一来」という段階です。

それから、その上に「不還(ふげん)」という段階があります。これは一定以上修行が進み、ある程度、プロの修行者として確立して、素人とははっきり差があるという段階です。五年、十年、二十年経って、いったん身についた修行態度、勉強のレベルというのは、そうそう退転するものではない、というのが「不還」です。

要するに、強制的に欲界の六道【※地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六界・当会の次元構造では地獄を含む四次元から六次元中段階までの世界を指します。】を輪廻させられるのは今回が終わりで、来世は「色界」【※当会で言う六次元上段階の「阿羅漢」から七次元菩薩界。如来(無色界)の脇侍として地上に広がる欲界を浄化すべく活動する光の天使の住む世界】という精神性の高い世界へ赴くということです。その結果、欲に釣られてこの世に生まれ変わってくることはもはやないという意味で「不還」(還らず)なのです。ですから、次回生まれ変わるときには、使命を帯びて自覚的に地上に出てきます。(※三界の無色界とは、梵天と如来の住む世界です)

(仏教教学では、「不還」の境地に達するともう生まれ変わらない、ともいうが正しくない。当時のインドの転生輪廻思想では、亡くなった人が、四十九日以内に、再度地上に人間もしくは動物として生まれ変わる、という極端な考え方があったが、「不還」の境地という高い精神性をもてば、高級霊界で充実した霊生活を営めるというのが、釈迦の原意である。しかし、数百年後に地上に生まれ変わる点は同じである)。

ただ、「不還」はまだ完成ではなくて、この上に「阿羅漢」という段階があります。これは、もちろん教学はすでに終わっていて、さらに心の錆落としがキッチリできて、後頭部から後光が出ている段階です。そして、たいていの場合、心の窓が開いてきて、守護霊の通信を受けられることが多いわけです。要するに、自分の煩悩の滅尽が終わっている段階です。修行者としては、このあたりが最高段階と言われます。このあたりまでが個人の修行なのです。自分ひとりの勉学あるいは反省行等の修行としては、こういう段階があります。

〇阿羅漢の上に立つ菩薩とは何か
その上に菩薩というものがあるわけです。菩薩は、当然ながら阿羅漢です。阿羅漢でなければ、菩薩ではありえないのです。菩薩であるためには、阿羅漢の条件を満たしておりながら、他のものをよく教化指導することができ、実際に救済力があり、それを現実に実践してみせることが必要です。阿羅漢の心境を維持しながら、他の人を救済するという実践行を積んでいって、実績をつくってきた者、これが菩薩です。【※菩薩になるには、阿羅漢の心境を1000年以上、だいたい三回の転生輪廻を阿羅漢の心境で維持することが必要とされています。参考『釈迦の本心』】

〇菩薩の条件と間違えた菩薩行
ですから、修行をしないで、「川で溺れている人を救いました」というのは、これも一般的には「菩薩行」とよくいいますが、いわゆるプロの菩薩ではないわけです。プロの菩薩とは、当然、教学面はきっちりしていて、個人の修行もある程度完成し、さらに人類救済あるいは人助けを実践してそこそこの実績をきちんとあげる人のことです。これが菩薩の条件なのです。この自己完成のところを無視して、救済だけをするという人もいるわけですが、本人は救っているつもりでも、実は危ういこともよくあります。

これが他力信仰などの怪しいところです。「みなさんを救ってあげます」と言いつつ、いつの間にか単なる商売に終わっていることはよくあります。「あなたの不幸を救ってあげます」と言い、本人としては、もしかしたら本当に救っている気持ちでいるのかもしれないのですが、実際は相手が救われていないのです。ゆえに菩薩行ではないわけです。

たとえば、「この土地から噴き出した水は御霊水であって、この御霊水、功徳水を飲めば、病気が治り、救われる」というようなことを言って、一生懸命その水を配っている人は、菩薩行をしているつもりでいるかもしれませんが、実際はどうかといえば、その水に真実そのような救済能力がなければ、これはまったくの詐欺です。このように、個人の修行をしないで、人を救えると思って行っている人がかなり多いのですが、これは非常に危うい段階です。

(新宗教の多くは、基準を甘くし、「お導き」をすればすぐ「菩薩」になれるかの誘惑をしている。当会でいう、「五次元」ぐらいの魂を「菩薩」と称していることが多い。多くは教祖の悟りの低さに合わせて弟子のレベルを評定しているのが原因である)。

【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』第2章『小乗と大乗』より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、愛とは何か。仏法真理とは何か。悟りとは何か。ユートピア建設とは何かという根源的な問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第4章「悟りの極致」
2悟りの功徳―人生のやり直しがきくということ

あなたがた人間は、一体なんのために悟ろうとしているのでしょうか。もし悟れたとして、そこから、一体何が得られるのでしょうか。このことについて考えるためには、まず人間本来の目的と使命という点から考えていくことが必要です。

その出発点は、なぜ人間がこの世に生まれてきたのかということにあります。

あなたがたは、人間として生まれてくる以前、天上界において、霊として自由自在な生活をしていたのです。天上界では、食物をとらなくても、死ぬことはありません。お金儲けしなくても、路頭に迷うことはありません。母の胎内にて、十月十日苦しむこともなく、幼くして、ものごとの判断がつかずに泣いてばかりいる必要もありません。青春期の性の苦しみもなければ、親子の葛藤もありません。経済的な苦しみはなく、職場で人に使われる苦しみもないし、嫌な人と会う苦しみも、好きな人と別れるかなしみもありません。老いるかなしみ、病気の苦しみもありません。さらには、醜くなってゆく苦しみ、子や孫にすてられる苦しみ配偶者と死に別れる苦しみ、やがては、自分自身も死んでゆかねばならないという恐怖に対する苦・
・み。天上界とは、こうした苦しみが何ひとつない世界なのです。

天上界では、お互いの心がガラス張りで、だれからでもわかるため、不調和な心を持っていたのでは、とても同じ世界にはいられなくなります。したがって、毎日会う人々は、みんな、自分と気心がしたれすばらしい人々です。そこでは、お互いが愛し合い、生かしあう世界です。

また、霊人たちは、自分の年恰好を自由自在に変えることができます。また、ほしいものがあれば、強く念えばすぐ目の前にあらわれてきます。そして、すべての人々が、少しでも真理に目覚めようと、それぞれの段階において、修行にはげんでおります。

地獄界にいる不調和な霊たちは、決して地上界に人間として生まれ出ることはできません。彼らの心は、闘争と破壊の心であり、そのような心でもって、人体に宿ることは決して許されてはいないからです。

では、この地上に生まれかわるためにはどうするか。まず、少なくとも四次元幽界(精霊界)の住人であることが必要とされています。そして、天上界の人間として、自からが霊的なる存在であり、仏の子であるということを多少なりとも悟らなくては、この地上に生まれ変わることはできません。したがって、最低限、なすべき反省が終わっていない場合には、そういう人は、転生できないのです。

このように、地上に生まれ変わるということは、天上界にいる者にとっては、当初からひとつの試練だといえます。また、長年地獄界にいて、やっと反省を終えた霊にとっては、人間として再出発し、もう一度やりなおせるチャンスでもあるのです。

ですから、地上界というのは、ひとつの修行の場なのです。天上界で自由自在に生きていた霊にとっては、肉体に宿るということは、すなわちこれ、自らの霊性、仏性が試されるときなのです。自分の霊的なる覚醒が、はたして本物かどうかが、徹底的に試される場なのです。霊的に自由自在のときに、仏を信ずることは容易です。しかし、この三次元の物質世界のルールのなかで生活して、一体どれだけ四次元以降のルールを悟れるか。仏の力を悟れるか。仏の力が働いている世界であることを悟れるか。それが徹底的に試されるのであり、この試験にパスしてはじめて、人間は、もといた世界以上の高次元世界へと還ってゆけるのです。

長年、地獄界で苦しんでいて、やっと反省の境地に到達し、仏の子である人間としての最低限の悟りを得た人々は、「今度こそ立派な人間になってみせる」と意気込んで、この地上界に生まれてきます。しかし、三次元の物質世界の荒い波動に強い影響を受けて、仏の子としての自覚を得ることのないまま、深く欲望の世界に耽溺(たんでき)し、再び天上界に還ってくることなく、さらに暗黒の地獄へとくだってゆく人もおります。

この三次元の物質世界、現象世界というものは、それだけ厳しい修行の場だといえます。しかし、一方では、救いもあります。実在界においては、決して会うことのできない人々がこの三次元世界においては、一堂に会する。そういうチャンスがあるのです。肉をもった光の大指導霊に会うこともできるし、地獄のサタンに心が通じている人々に会うこともできる。こうした人々が、同じスタートラインに立って、オギャアと赤ん坊として生まれて、平等に人生をやりなおす機会が与えられているのです。すなわち、悟りの功徳とは、人生のやり直しがきくというところにあるのです。

【大川隆法『太陽の法』第4章「悟りの極致」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。

人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第2章 五次元の世界
10 導きのとき

現在、素晴らしい環境にある人は、その環境に自分が置かれていることを感謝し、さらに数段、自分を飛躍させていくべく努力する義務があると考えるべきです。他人以上に恵まれた環境にいればいるほど、また、他人以上に恵まれた才能や天分があればあるほど、他人以上の努力精進をしていく必要があるのです。

一方、自分の置かれた環境や境遇、自分の才能や財産などにおいて、どうひいき目に見ても、他の人びとよりもはるかに不利な条件に置かれている人、あるいは、先天性の病気があったり、身体に障害があったりする人は、これに対して愚痴ばかり言っていたのではいけません。すでに述べたように、これは、その人をさらに進化、発展させるための方便として現れているものなのです。

それに愚痴を言ったところで、それを嘆いたところで、魂にとって、どのような進歩になるのでしょうか。その大いなる十字架を背負って走ってこそ、魂の糧となるのではないでしょうか。その大いなる十字架を背負って走ってこそ、魂の糧となるのではないでしょうか。その大いなる十字架を背負ってこそ、光が出てくるのではないでしょうか。

もちろん、みずから苦難や艱難を求める必要はありません。「神よ、われにもっと苦難、艱難を与えたまえ」と祈る必要はないのです。

しかし、苦難や艱難をはね返していくだけの強靭な精神力を養うことはできるはずです。みずからに足りないものばかりを嘆かずに、みずからに与えられているものの素晴らしさを発見し、それを武器として立ち上がっていくべきです。

目は見えなくても、口が達者な人がいる。足が不自由でも、手が充分に動く人がいる。頭がよくなくても、健康な人がいる。体が不健康でも、頭がしっかりしている人がいる。

人とくらべて、自分の足りないところばかりを嘆いたり恨んだりする前に、自分に与えられているものは何かを考えて、その長所を徹底的に伸ばしていくべきではないでしょうか。そのなかに、みなさんの人生の問題集に与えられたひとつのヒントがあるのです。

一人ひとりの人生というものは、なぞであり問題集であるのですが、この問題集には必ずヒントがあります。自分自身を第三者の目で眺めたとき、他の人より優れているところがあるはずです。あるいは逆に、他の人より極端に劣っている面もあるはずです。

このように、性格や才能、肉体的な問題を他の人とくらべて、異常に突出したり、あるいは異常に窪(くぼ)んだりしている部分があれば、それが取りも直さず、その人の人生の問題集を解くためのヒントになっているのです。

そして、そうした課題がなぜ与えられているのかに対して、「積極的に答えていこうとすることが大切です。そこには、今回の人生修行の目的のひとつが明確に表れているからです。

身体的ハンディ、精神的ハンディ、能力的ハンディなど、いろいろなものがあるでしょうが、そこに、その人の今世の人生における目的と使命が明らかにされているのです。

こうしたことを自覚したときが、すなわち、「導きのとき」なのです。自分の運命を自覚し、それと勇ましく戦っていこうと思い立ったとき、勇気と力が湧いてきます。そのときには、あの世にいる高級諸霊が、あるいは本人の守護霊や指導霊が、大いなる力を投げかけてくれるのです。

したがって、まず、みずからの問題集に潜んでいるヒントを見抜くことです。そのヒントによって問題を解こうとしたとき、必ずや大いなる高級霊たちの力を得ることができるはずです。

魂というものの本質を知ったとき、人間は「永遠に努力をしていかねばならぬ」ときづくことがよくあります。そうのです。まさしく人間は永遠の生命を生きているのですから、与えられたいろいろな課題を克服していってこそ、それが高貴さにつながり、光につながり、魂の糧となっていくのです。

みずからの問題に気がつき、それを解くきっかけをつかむ―この導きのときを大切にしていくべきです。

【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第2章「五次元の世界」より抜粋】
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前半の『太陽の法』は、教典『地獄の法』を正しく理解するうえで重要な内容でした。以下このように説かれています。

『天上界では、お互いの心がガラス張りで、だれからでもわかるため、不調和な心を持っていたのでは、とても同じ世界にはいられなくなります。したがって、毎日会う人々は、みんな、自分と気心がしたれすばらしい人々です。そこでは、お互いが愛し合い、生かしあう世界です』

この言葉がとても重要だと考えられます。

あの世の世界は、想念の世界であり、波動の世界です。つまり、肉体が亡くなったのちに、個個人を特定するすべは、「何を考え、おもっているか」ということになるからです。その意味では、あの世では、考えていることが全て他の人に分かってしまう世界になります。

地獄に堕ちた人が、天国世界で暮らせないのは、魂にレッテルが張られているのではなく、心に思っていることそのものが丸見えの世界で、その心を他の人に見せることが決してできないからです。そして、その考え方が生み出す波長が、天国世界の波長がまったく合わないためです。

この世的なたとえ話で説明すると、美しいドレスやタキシードで正装している紳士・淑女の舞踏会のなかで、破れたシャツやスカート、継ぎはぎだらけの不潔な服装で参加できるかどうかということです。そういう方は、きっと入り口で追い返されてしまいますよね。このように、あの世はこの世では見えない心の中身まで見えてしまう世界です。だから生きている間に透明できれいな心を取り戻しておくことがとても大切であることが分かります。

また、生まれ変わりのしくみに関するヒントになる教えもございました。霊界の知識は、あの世の幸福とこの世の幸福を結ぶ上でとても重要な材料です。しっかりと学びたいところです。

『地獄の法』を正しく理解するうえで、本日の教えはすべてが重要であると言えます。
生まれ変わりのシステムである「転生輪廻」とは、間違えた人生を次に生まれ変わったときにやり直すことができるというチャンスであることがよく分かります。

その視点で考えると、なぜ、生まれてくるときに前世の記憶が消されて生まれるのかという疑問にも答えることができるのではないかと思います。私たちが前世の記憶を継承することなく生まれ変わるのは、もう一度白紙の状態から人生をやり直すためです。

「悟りの功徳とは、人生のやり直しがきくところにある」―この最後の教えがとても重要であると考えます。

私たちも、過去世において様々な過ちを重ねて今生きています。カルマとも呼ばれる過去世の因縁が、現在の私たちの生活環境のなかにすべて映し出されています。人生の問題集とは、過去世において、説き切れなかった過去世からの課題です。その点で考えてみると、人生が思うどおりにいかなくて苦しいのは、その苦しみから智慧を得て、人生の問題に正しい回答を得ることを神様、仏さまから求めてられている点において、ごく当然なことであるとも考えることができます。

本日の教えにおいても、生まれ変わりのしくみに関するヒントになる教えが満載でした。人生とは何か。人間とは何か。これに答えるには、霊界の知識が必ず必要になります。なぜ、仏はこの世界をつくり、あの世をつくり、転生輪廻のしくみをつくったのか。考えれば考えるほど、それこそが仏の慈悲であることに思い当たります。このことは、あの世の幸福とこの世の幸福を結ぶ上でとても重要な材料です。しっかりと学びたいところです。

悟りの力がこの世とあの世の『地獄』を解消する大きな切り札です。『地獄の法』を深く学ぶためにも、悟りへの理解を共に深めてまいりましょう。

また、後半の『永遠の法』では、五次元世界の総括して「導きのとき」という教えを頂きました。

私達に与えられた、この世的なハンディや環境がもたらす苦難困難は、私達の魂を磨くために用意された仏の慈悲であり、仏が私達を根本仏の下へと導くために用意された方便であることを智慧によって見抜くことが重要です。それに気がつく瞬間が、霊的覚醒のときであり「導きのとき」です。私たちはそのときに、自らの目の前に差し出された仏の白き手をつかむことができます。

『(人生の問題集としての)課題がなぜ与えられているのかに対して、「積極的に答えていこうとすることが大切です。そこには、今回の人生修行の目的のひとつが明確に表れているからです。

身体的ハンディ、精神的ハンディ、能力的ハンディなど、いろいろなものがあるでしょうが、そこに、その人の今世の人生における目的と使命が明らかにされているのです。

こうしたことを自覚したときが、すなわち、「導きのとき」なのです。自分の運命を自覚し、それと勇ましく戦っていこうと思い立ったとき、勇気と力が湧いてきます。そのときには、あの世にいる高級諸霊が、あるいは本人の守護霊や指導霊が、大いなる力を投げかけてくれるのです。

したがって、まず、みずからの問題集に潜んでいるヒントを見抜くことです。その日貪によって問題を解こうとしたとき、必ずや大いなる高級霊たちの力を得ることができるはずです。

魂というものの本質を知ったとき、人間は「永遠に努力をしていかねばならぬ」と気付くことがよくあります。そうのです。まさしく人間は永遠の生命を生きているのですから、与えられたいろいろな課題を克服していってこそ、それが高貴さにつながり、光につながり、魂の糧となっていくのです』

最後の言葉に、限りない仏の優しさを感じざるをえません。主は、根本仏は、私たちに「主のもとに戻っておいで、そのためには、この人生の問題を解くといいよ」と時に厳しく、ときにやさしく私たちを善導してくださっていることがよくわかりました。

この三次元世界の現象はすべて方便であり、それを見抜くためには、般若の智慧が必要です。
本日の学びに触れた、聖徳太子の格言を思い出します。―「世間虚仮、唯仏是真」―

すべてが根本仏である主エル・カンターレから与えられており、私たちは生きているのではなく、生かされている存在なのだということを知ることが悟りとしての般若波羅蜜です。その智慧に至るための修行が六波羅蜜多に集約されています。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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文責:蒲原宏史 

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