38 どんぶり勘定は、「家族経営のお店」までである。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使
命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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■『悟りの挑戦(下巻)』第1章「中道からの発展」
4 三諦円融(さんたいえんゆう)―空諦・仮諦・中諦の融合
ここで、中道について、次なる説明に入ろうと思います。
前節「空」について述べましたが、中国の天台智顗は、これを次のように考えました。「真理の見方に三つの見方がある。三つの視点、自覚というものがありうる。それは、『空諦』『仮諦』『中諦』である(『諦』とは四諦の諦、すなわち真実という意味である)」。この空諦・仮諦・中諦の「三諦」を彼は説きました。
空諦とは、仏教の本質、特に大乗仏教の本質である、この世的なるものへの執着から一切のものを解放し、実在世界に導くための考え方、すなわち、大乗の救済論ときわめて密接な「空」の思想です。これがまず大事です。
ゆえに、「この世のものをすべて、『実体のあるものではない。実在のものではない。私の肉体というものもない。時計も机もみなさんも、本当の実体ではない。それは移り変わっていくものなのだ。無常なるものなのだ。仮に今そのように現われているように見えるだけで、それは固定したものではない。神様がつくられたものではない。神様がこうつくろうと思ってつくったものではなく、流れていく過程の一瞬を見ているだけなのだ。だから、本質を知ろうとすれば、真実を知ろうとすれば、この世的なる見方をいったん捨象(しゃしょう)しなければならない。そこに真実が現われてくるのだ』、これが空諦です。
しかし、この空諦に甘んじたときに、次はどうなるでしょうか。人間は阿弥陀仏があるような来世の世界、霊界にのみ憧れて、この世を軽んじる生き方をするようになります。ちょうど釈迦が肉体行をして、「この世の生命を断つことが悟りに到る道だ」と、まさに自分の生命を断とうという迷いが起きた瞬間があったように、また、そのような修行者が現実に存在するように、それは「肉体やこの世の物質のみを否定すれば、それで真理を得られる」という考えにつらなっていくのです。
すなわち、空諦は第一義的な真理ではありますが、そこにとどまったときに、この世的なる生き方、修行なるものは無駄となります。無意味となります。しかし、そうであってはいけません。
そこで、この空諦をも否定しなくてはならなくなるのです。ここに出てくるのが「仮諦(けたい)」―仮の真実です。
すなわち、「本来は、この世は『空』であるのだが、この世に現れているものも、『仮』ではあるが、あることはある。人間はこの世で魂修行している以上、この仮の存在があることはあると認めて、そのなかで生きていかねばならないのだ。だから、それを否定さえすればよいということではない。人生は、確かに夢幻のようなものかもしれないが、現実にそこで生きている私があることは事実である。そうであるならば、その事実そのものを否定して真理を得られるわけではない。いったん『空である』とした空諦をも否定したうえで、『仮諦(けたい)』―の仮の真実ではあるが、この実人生なるものをも考かえねばならない」ということです。
これは哲学で言うと実存的な哲学になりますが、そのようにこの世というものを認め、「この世というものは私の魂修行のためにある」と思うならば、そのなかで積極的な意味を見いだし、努力しなければ、また人間としての向上もないのです。この世も仮の真実として認めるということです。
しかし、このままでいくと、この世がまた生きよい世の中となって、霊的な真実を見失っていくことになります。「この世も仮のものだけれどもね過ごしやすく、よいものであり、私にとっては幸福なものだ」と思っていくと、また執着ができてきて、この世に執われて、あの世を忘れるようになります。
すなわち、空諦というまったく否定の境地にいったん入ったのを、また否定して、仮諦という仮の真実に現われたが、この仮諦をも、さらにまた否定しなければいけないのです。
そして、そこに現われるものは何でしょうか。これが「中諦」―中なる真実です。「空」なるものにも執われず、「仮」なるものにも執われず、その「中」なるものにこそ真実の生き方があるということです。
これか、天台大師が説いた空諦・仮諦・中諦という考え方なのです。
そして彼は、三諦が一つに融合させるなかに真実は有ると考えました。これが「三諦円融(さんたいえんゆう)」と言います。(円融三諦ともいう)。「この三つの見方をゆうごうしていくなかに真実の発見はある」と彼は説きました。
結論づければ、こういうことです。
「霊的世界というものはある。それを知らなければならない。けれども、そのときに、この世的なる生き方を完全に無視してよいわけではない。この世の生き方は、霊的生活と非常に密接に関わっているのです。逆に、この世も大事な生き方である。人間は、この世に魂修行の場がある。魂の磨きがある。だから、この世を大切にしなさい。しかし、その際に霊的世界を決して忘れてはいけない。すなわち、あの世を考える際にこの世の視点を決して忘れず、この世の修行を考えるときにあの世の視点を決して忘れず、常に心は空諦か仮諦かに揺れていくが、この両方にとどまることなく、双方のなかに中なる道を見いだしていきなさい。その融合した境地のなかに中諦なるものが現われてくる」。
すなわち、この中諦なるものが、天台大師が理解した、いわゆる中道なのです。この中道なるものを、結局、彼は、「この世に生きていながら、この世ならざるものの真実を知り、この世ならざるものの真実を知りながら、この世のなかに積極的な意味合いを見つけ、この世のなかに積極的な意味合いを見つけながらも、それに執着することなく、さらに魂の発展を見つめていく。こうした三諦の円融したなかの中道の生き方こそ、霊的人生観として、まさにふさわしい生き方である」で考えました。
〇中道からの発展―常に霊的な視点と、この世的なる発展・向上・繁栄の視点
それは、本章の最初に述べた「快楽のなかに真実なし。苦行のなかに真実なし」という結論と、結局は同じものになっていきます。快楽のなかに真実を求める考えは、極めて唯物的な方向に流れ、この世を実在に近い方向に見つめていく考えでしょう。また、苦行の世界というものは、この世を否定していきますから、突きつめていくと、肉体や物質というものがまったくいらない世界になっていくでしょう。
しかし、この両者のなかに真実はありません。中道にこそ真実はあるのです。これを空諦・仮諦・中諦という三諦で説明しました。霊的実相観に裏付けられたこの世的な生き方、この世の生き方という視点を忘れずに、霊的人生、霊的な視点を考えるのです。
すなわち、「我、今ここに立てり」というならば、「我、今ここに立てり」という観点を、常に霊的な視点と、この世的なる発展・向上・繁栄の視点の両方を忘れずに持ちながら、努力精進していくことこそ、「中道からの発展」であるということになるわけです。
【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』第1章『中道からの発展』より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、愛とは何か。仏法真理とは何か。悟りとは何か。ユートピア建設とは何かという根源的な問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第4章「悟りの極致」
1悟りとは何か
悟りとは、長年にわたり、つねに人類が求めてきたものです。そもそも、悟りとはなんであるかがわからなくても、悟りたいという気持ちのなかには、自分自身を一段と飛躍向上させたいという意欲があるでしょう。それは、否定できないはずです。
悟りということは、とくに宗教にはつきものですが、宗教でなくても、哲学のなかにも、悟りたいという根源的な強い衝動はあります。哲学的に悟りたいという気持ちは、真理に到達したいという気持ちです。世の不思議、世界のしくみを、理知的にとらえてみたいという念いです。
孔子の訓えである「儒教」を、宗教とみるかどうかは、議論の余地があるでしょう。しかし、少なくとも、孔子の訓えが人間完成の道であり、道徳的完成の極致であることについては、異論のないはずです。すなわち、孔子は、「道」というものを通して、人間を教育的見地から悟らせようとしたのです。
そこで、私が、本章で訴えたいのは、主として宗教的な悟りです。それは、もちろん、哲学的な真理到達への願望と、道徳的なる人間完成への道をもふくんでおります。しかし、宗教的な悟りにおいてもっとも肝要なことは、「悟り」が仏との関係において語られる、ということなのです。
つまり、悟りとは、仏のつくられたこの世界の原理を究明しながらも、自ら自身が仏に近づいてゆくということです。そういう意味では、悟りには、限界がありません。つまり、「悟った」ということは、永遠にありえないことなのです。いくら努力に努力を重ねても、実在界すべてを解明することは、ほとんど不可能だからです。また、自らが仏に近づいてゆく努力も、永遠のときを待たねば、不可能に近いからです。
とはいえ、悟りにも、また段階があります。ですから、それぞれの段階において悟ったということは、可能です。そして、地上に肉体をもった人間としての最高の悟りというもはありうるのです。
そこで、私はこれから、人間としての最高の悟りにいたる階梯について、さまざまな説明をしてゆきましょう。
現在の人類が記憶している、かつての大宗教家、大師のなかで、「悟り」というものを徹底的に追及したのは、二千五百数十年前、インドで法を説いた、ゴータマ・シッダールタ、すなわち、釈迦牟尼仏です。釈迦が菩提樹の下で悟りをひらいて仏陀となって以来、八十歳でクシナガラ城外の沙羅双樹の下で入滅するまでの「悟り」の高まりは、さまざまな文献に伝えられております。しかし、そうした資料のほとんどは、思想を断片的にとらえているだけで、実際の悟りの境地のなんたるかを伝えていないようです。
心の世界は不思議です。私が心の扉をひらき、自らの潜在意識層と交流できるようになってから、すでに、十数年になります。この間、私は過去の聖者たちが思ったこと、行ったこと、考えたこと、悟ったことが、如実にわかるようになりました。心の世界とは、実に不思議です。
私には、釈迦が菩提樹の下でひらいた悟りの内容がどのようなものであったのかが、手にとるようにわかってしまいます。二千数百年のむかしのことであるっても、それが、現在ただいまのことのように伝わってくるのです。
本章では、主として、釈迦の悟りを中心としながら、現在の世界のなかにおける悟りというもを考えなおしてみるつもりです。そして、後世の方がたに、悟りに関する知恵を残しておきたいと思っております。なぜならば、悟りへの方法論は、人類の過去からの遺産であり、未来人類の希望でもあるからです。
【大川隆法『太陽の法』第4章「悟りの極致」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。
人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第2章 五次元の世界
9高貴さについて
次に、魂の高貴さについて述べてみましょう。
魂の高貴さ。あるいは、高貴なる人格、高く尊い人格―。高も貴も、「抜きん出ている」「より優れている」という意味です。つまり、「非常に値打ちがある高さ」ということが、高貴さの意味です。
魂の高貴さ、精神の高貴さは、どのようなときに感じられるのでしょうか。
たとえば、ある人が、プール付きの大豪邸に住む大金持ちの家に、長男として生まれたとしましょう。そして、召使いにかしずかれ、思うままに育ち、生まれつき頭がよく、美貌に恵まれ外見もよく、多くの女性に愛され、社会に出ても多くの光~愛され、優遇され、立身出世をして、一生を閉じたとします。
これだけで、みなさんはその人に魂の高貴さを感じるでしょうか。こうした環境の人を見て、その人を偉人だと感じられるでしょうか。こうした環境の人を見て、その人を偉人だと感じられるでしょうか。
私は、偉人が偉人として世に認められている理由として、なんらかの困難や艱難に打ち勝ったという事実があると思うのです。そうであってこその偉人ではないでしょうか。
たとえば、シュバイツァー博士のように、アフリカという環境の厳しいところで伝道を行った高級霊もいます。小学校を中退しただけという学歴でもって、世界の発明王になったトマス・エジソンの例もあります。貧しい家庭に生まれて苦学し、努力に努力を重ねてアメリカの大統領になったアブラハム・リンカーンのような人もいます。
あるいは、インドの独立の父であるガンジーのような人もいます。ガンジーもまた、国を背負う者として、大英帝国という巨大な権力に立ち向かった高級霊でした。
こうした人びとの人生を振り返って見たとき、苦難や困難というものの真実の意味合いが見えると思います。「苦難や困難は単なる障害物ではなく、その人の人生の道筋、軌跡を、より美しいものとするための方便である」ということに気がつくでしょう。
これは何も最近の人だけに限ったことではありません。古い時代の人であっても同じです。インドの釈尊にしても、王宮に生まれ、何ひとつ不自由のない生活を子弟ながら、二十九歳のとき、一大決意をして王宮を出て、悟りの道へと入っていったのではないでしょうか。
このように、より高度な目標のために、みずから苦難をものともせず進んでいくとき、魂の高貴さというものが輝いてくるのです。その高貴さこそが、のちの世の人びとをも照らす光となていくのではないでしょうか。
人類の歴史を振り返ったとき、キラ星のごとく光っている偉人たちが数多くいることに、私は大変ななぐさめを受けるのです。
私にも、あるいは本書を読んでいるみなさんにも、人生の途上において、さまざまな苦難や困難が降りかかってくることがあるかもしれません。実際、過去において、苦難や困難が降りかかってきた人の数は、枚挙にいとまがないほどです
ただ、そうした苦難や困難に押し潰されてしまった人は、歴史に名前が遺っていないということです。一方、それに押し潰されず、それをはね返していった人は、魂の高貴さというものを、勲章として得ているのではないでしょうか。
イエスにしても、苦難や困難だけの人生であったならば、彼の名は遺らなかったでしょう。そのなかにおいて魂の高貴さを発揮したからこそ、かれは、のちの世の人びとを導く大きな光となったのでは位でしょうか。
【大川隆法『永遠の法』第2章「五次元の世界」より抜粋】
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本日から『太陽の法』の第四章「悟りの極致」にて、悟りについての思慧を深めてまいります。
本日、印象的であったのは、
『つまり、悟りとは、仏のつくられたこの世界の原理を究明しながらも、自ら自身が仏に近づいてゆくということです。そういう意味では、悟りには、限界がありません。つまり、「悟った」ということは、永遠にありえないことなのです。いくら努力に努力を重ねても、実在界すべてを解明することは、ほとんど不可能だからです。また、自らが仏に近づいてゆく努力も、永遠のときを待たねば、不可能に近いからです』
という悟りには限りがない、限界がないということでした。私たちは悟りを求めて日々努力を重ねる菩薩・天使の卵ではありますが、その悟りには限りがないということです。このように人類の過去からの遺産であり、未来人類への希望である「悟り」の力に目覚めて、世を照らす光となるために、ともに考えを深めてまいりたいと思います。
悟りの力がこの世とあの世の『地獄』を解消する大きな切り札です。『地獄の法』を深く学ぶためにも、悟りへの理解を共に深めてまいりましょう。
後半の『永遠の法』では、魂の高貴さについて
『こうした人びとの人生を振り返って見たとき、苦難や困難というものの真実の意味合いが見えると思います。「苦難や困難は単なる障害物ではなく、その人の人生の道筋、軌跡を、より美しいものとするための方便である」ということに気がつくでしょう。・・・
このように、より高度な目標のために、みずから苦難をものともせず進んでいくとき、魂の高貴さというものが輝いてくるのです。その高貴さこそが、のちの世の人びとをも照らす光となていくのではないでしょうか』
私達の人生の途上で出会う、幸福や不幸は、全て私たちを仏の下に導くための方便であるという重要な事実を本日学びました。あらゆる経験を仏への道を進むための悟りに変えていくことを仏は期待しており、私達もそれを目的に人生を生きています。仏は私たちを方便によって導いています。それを受け取るだけの魂の器を私たちは仏法真理の探究・学習・伝道によって形づくらなければなりません。そのための菩薩の修行が六波羅蜜多と呼ばれており、その潜在意識から湧き出でる智慧が般若波羅蜜として顕現したとき、私たちは、仏に生かさてれいる。私たちは生きているのではなく、生かされているという認識を心から持つことができます。
人生の苦難や困難は、人の魂を高貴なものへと昇華するという深い学びでした。
辛いことや悲しいことも人生のなかではありますが、それは私たちの魂を光らせるために存在する砥石のようなものであると教えていただきました。
人生に起こるすべての出来事に無駄は何ひとつありません。それは、すべて私たちの悟りへの道であることを知りまょう。今日も、仏から悟りのヒントを人と人との営みのなかでいただきます。主への愛と隣人への愛を本日も貫いてまいりまょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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