34 エゴイストの商品やサービスは捨てられる。相手への愛がないからである。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使
命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『悟りの挑戦(下巻)』第1章「中道からの発展」
3 ものの見方における中道
①白紙に戻せ―「無記」
次に、ものの見方、考え方としての中道に入っていきます。
これはいっそう高度な考え方ですし、修行者としては、むしろこちらのほうこそが、真に大切な中道の考え方ではないかと思うのです。
ものの見方においての中道とはいったい何でしょうか。簡単に言うならば、「まず白紙に戻せ」ということです。この白紙というものを、仏教用語で「無記」―記さずと書くこともあります。すなわち、既成の観念、概念、価値観をそっくり受け入れるのではなくて、いったん白紙に戻して、みずからの目で、率直に、もう一度見直してみなさいという考え方なのです。
たとえば、インドには、釈迦の当時からカースト制度というものがありました。一番上の階層に、バラモンという祭司階級、僧侶階級がありました。さらに次にクシャトリヤという武士階級がありしまた。その下にバイシャという商人階級がありました。その下にシュードラという奴隷階級がありました。さらにその下の階級(チャンダーラ)さえありました。こういうことで、生まれによって、人のそれぞれの尊さというものが決まっていましたが、釈迦はこうした考え方に対しても、率直な疑問、率直な意見を述べています。
何ゆえに、生まれによってバラモンといい、生まれによって尊いとされるのか。何ゆえに、生まれによって卑しいとされ、シュードラとされるのか。それは人間の値打ちと本当に関わることなのだろうか―。
こうしたことは、当時としては非常に革命的なものの考え方ですが、釈迦の結論はこういうことでした。
「行為によってバラモンとなり、行為によってクシャトリヤになり、行為によってバイシャとなり、行為によってシュードラとなるのである。神仏に仕える道を実践したものがバラモンであり、武士階級としてその仕事をした者がクシャトリヤであり、商業活動に携わった者がバイシャであり、落ちぶれ、零落(れいらく)して、人びとのさげすみを受けるような生き方を現実にした人間がシュードラなのだ。人の値打ちは生まれによって決まるのではなく、その行いによる、その行為による。これが正しい基準である」。
このような考え方を出しました。もちろん、この行為とは、前提としての意志をも含むものです。先ほど述べた「白紙の状態で、もう一度、人間なるもの値打ち、生き方というものを考える」とは、このことを言うわけです。
考えてみれば、現代にもこうした価値観は数多くあります。Aが値打ちがあって、Bは値打ちがない、こんな考え方はいくらでもあります。職業においても然り。男女においても然り。また年齢の上下においても然り。あるいは収入においても然り。また、それ以外にも、外見、顔立ちがよいか悪いかといった、さまざまなこの世的なる一定の価値観がありますが、それをもう一度、白紙の心でもって眺めてみなさいということを意味しているのです。
これは、決して懐疑論をもってよしとしているのではありません。全部疑えと言っているのではありません。疑って疑って、そして何も価値秩序がないような状態をよしとしているのではありません。「人から教わったことを中心にするのではなく、謙虚に、率直に、白紙の状態で、自分の素直な目で、もう一度眺めてみなさい。そこに違った風景が転じてくるはずですよ」ということを言っているわけです。
いまカースト制度の例を引きましたが、学歴にたとえてみましょう。
学歴があるということは尊い、これは一般的な考え方です。しかし、個別に人間を見たならば、学歴があることによって、その人の人格が高まり、仕事能力が高まり、よって世の人びとに貢献することができるような尊い人がいる一方で、学歴があるがゆえに、それを鼻にかけ、堕落に陥り、他の人びとに迷惑をかけていく人もいます。すなわち、学歴があるということ自体は、善とも悪とも言いかねるものがあるのです。それはあくまでも、上手に使えば有用なものではあるのですが、使い方を間違たったら、間違った方向にいくのです。
同じことは財産についても言えるでしょう。
あるいは、異性への愛情にも同じことが言えるでしょう。愛情そのものが悪いかといえば、そうではありません。それを悪としてしまった場合には、人間として、人類の種族の保存ということは、なしえないことになります。しかし、男女の愛情は無批判によいことだと考えた場合には、放蕩(ほうとう)に生きる人間が出、堕落する人たちが出ることも然りです。
すなわち、「その人を真に向上させる生き方であるかどうか、その人を真に幸福にする道であるかどうかということは、いったん白紙に戻した目で見なければ判断はできない。こうした素直な目でもって、もう一度、この世的なる価値観というものを見直してみなさい。そして魂の目でもって、真なる見方を提示しなさい」ということです。
これが、見方における中道の最初の説明です。わかりやすい説明の一つではないかと私は思います。
【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』第1章『中道からの発展』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、光とは何か。仏法真理とは何か。という問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『太陽の法』第3章「愛の大河」
7存在の愛と神の愛
「許す愛」を超えた、さらに一段と高い愛とは何か。私はそれを、「存在の愛」と名づけます。この愛はもはや、一対一の愛ではありません。上下関係さえも超えた愛なのです。
「存在の愛」とは、その人がこの世に存在するだけで、その人があなたがたの人生のある瞬間を通過するだけで、あなたがたを転迷開悟させるような、あなたがたを廻心に導くような、そうした愛だといえます。
たまたま同じ時代に、この地上にその人が生きているだけで、世界が明るくなり、人類に希望の灯がともされるような、そうした人の存在。その人が誰かを愛するから、それを愛だというのではないのです。その人が美しい言葉を語るから、それを愛だというのではないのです。その人がやさしくしてくれるから、それを愛だというのではないのです。その人の存在自体が愛であり、愛そのものが存在しているかのような人格を持った人。私たちは、その人のことを「存在の愛」の体現者と呼びましょう。こうした人は、人類の歴史のなかには、キラキラと輝いて確かに存在するのです。
「許す愛」が徳高き宗教家の愛とするならば、この「存在の愛」は、人類史にそそり立つ偉人の愛であり、この世の光であり、時代の精神でもあるといえます。
存在の愛とは、一対一の愛ではないといいましたが、それは一対多、あるいは、放射線のごとく発散されている愛なのです。すなわち、光の存在、光の分身なのです。
ということは、この愛の段階が、いかなる境地かがわかるでしょう。そうです。これは、八次元如来界の愛なのです。ですから、その時代において、存在の愛となるほどの人は、すなわち、これ如来であり、この世に下生すること自体が、人類に対するおおいなる慈悲なのです。慈悲とは、あまねく照らす愛の光であり、そこには、相手によって濃淡のあるような、「相対の愛」はありません。慈悲とは、いわば、「絶対の愛」であり、「不偏の愛」なのです。
「愛する愛」―五次元、「生かす愛」―六次元、「許す愛」―七次元、「存在の愛」―八次元。愛の段階を示すと、結局こういうことになります。ですから、私たちが修行の過程で目標とする愛は、こうした愛の段階を知っておけば、十分だといえます。
愛には、もちろん、四次元的な愛もあります。四次元の愛とは、「本能の愛」です。その本能の使い方によって、地獄界に通じたり、幽界(精霊界)に通じたりしますが、少なくともこれは、修行者の目標とすべき愛ではありません。
地球人類、最高の愛としては、九次元の愛というものもあります。これは、「神の化身としての愛」であり、「救世主の愛」です。私は、修行の目的として、世人にこの愛を目標とせよとは言いません。すなわち、この愛の段階は、神(仏)によって命ぜられた神(仏)の道具として、最高の代理人として選ばれた人の愛だからです。もし、あやまった宗教家が、「救世主の愛」を説こうとすると、来世で待っているのは、九次元世界ではなく、四次元地獄界最深部の無間地獄です。
なぜならば、神(仏)の声をまちがって伝えるという行為は、実在界においては、殺人、強盗以上の凶悪な犯罪行為だからです。それは、生きている人間の生命以上に大切な永遠の魂までをくもらせてしまうからです。
ですから、私たちは、「存在の愛」の上には、単に「神の愛」(あるいは「仏の大悲」)があるのだと、神(仏)の人類に対するおおいなる導きの愛、進化を願う愛があるのだという事実をもって満足しなければいけません。
かくして、愛の発展段階には、努力以前の四次元の「本能の愛」のあと、「愛する愛」「生かす愛」「許す愛」「存在の愛」という努力の対象となる愛があって、最後に、人間心を超えた「神の愛」があるのです。
【大川隆法『太陽の法』第3章「愛の大河」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。
人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『永遠の法』第2章 五次元の世界
第5章 五次元の世界
5 愛の感情
五次元世界のもう一つ特徴的なのは、「愛」についての感情の芽生えです。地上においても、男女の愛、親子の愛、友人の愛、師弟の愛などといった感情がありますが、五次元善人界になると、愛が非常に純化してきます。
愛というものは地上ではかなかな表現しにくいものですが、あの世の世界においては非常に実体のあるものであって、ある人が他の人を愛すると、その愛の波動が、直接、相手に伝わっていきます。そのため、相手は「自分は愛されているのだ」ということを非常に強く感じ、その気持ちが魂の喜びになっていくのです。
地上においては、愛の感情はそれほど明確なのではありません。相手に愛されているのか、いないのかが分からなくて、恋の悩みが起きます。異性の問題には、たいてい、そうした「綱渡り」の感情があります。
愛されているのか、いないのかが分からない。そこで、相手が愛してくれているにもかかわらず、「いや、これは誰に対しても同じ八方美人の愛ではないか」と思ってみたり、「愛されていない」とひがんでみたりします。
しかし、五次元善人界では、自分が愛されているのか、いないのかについては、指標、バロメーターがあって、はっきりと分かります。それため、相手の感情がダイレクト(直接)に伝わってきます。
たとえば、六畳間に蛍光灯をつけたときと電球をつけたときの違い、あるいは、同じく電球でも、六十ワット、百ワット、二百ワットなど、ワット数の違う電球を使ったときの違いと同じだと言えます。つまり、愛の多さ少なさなどと言った相手の感情が、間違いなく伝わってくるのです。
このように、五次元善人界は「以心伝心」の世界、思ったことがすぐ伝わる世界です。そして、地獄霊が五次元善人界にいられない理由も、まさしくここにあるのです。
地獄霊たちは、憎しみ、嫉妬、愚痴、怒り、足ることを知らない欲望などに満ちていますが、こうした感情を相手が持っていれば、そこがこちらにどんどん伝わってきます。そうすると、そこは天国ではありえないわけです。
五次元善人界にいる人たちは、誰もが愛の感情を持っています。愛の感情の多さ少なさ、高さ低さはあっても、愛自体は誰もが持っています。つまり、各自が、愛の電流を放射している一つの電源のようなものなのです。
そして、彼らは、愛というものを実感してつかむと、それはどのようなものかについて、ときどき、六次元にいる上位の人たちから指導されます。
すなわち、「あなたが他人から愛されたとき、その愛が電流のようにあなたの胸に伝わってくるであろう。しかも胸が熱くなってくるであろう。そしてうれしくなるであろう。その愛が実は仏の心なのだよ」ということを教えられるのです。
五次元においては、仏とは何かを明確に知ることはまだできませんが、仏とは何かを感じ取ることは可能です。そこで、仏とは何かについて、高級霊たちが五次元の人に教えるときには、次のような話をよくします。
「あなたがたは愛というものを感じるであろう。その愛の最もたるものが、天空に浮かんでいる霊界の太陽なのだ。無所得のままに熱やエネルギーを与える。人びとに生命のエネルギーを供給しながら、一円も要求しない。そうした無所得の愛、慈悲の存在―これが仏の姿なのだ。
あなたがたはお互いに愛し合ったとき、その愛の波動が胸に満ちてきて、とてもうれしいであろう。それが、あなたがたは仏の子であり、本質において仏の生命体の一部であるということの証明なのだ」
こうしたことを、高級霊たちは諄々(じゅんじゅん)と教えていくのです。
これは愛の初歩の教育です。菩薩界にあるような、他人に愛を与えるところまでまだ行っていませんが、それでも、「愛とは何か」「愛されるとは何か」「愛を与えるとは何か」といった基本的な感情について教えているのです。
そして、「愛されないよりは愛された方がいいし、愛するということも素晴らしいことなのだ」ということを学んでいきます。やがて、「愛というものは、どうやら、自己保存欲、すなわち、『自分だけがよければいいのだ』という感情では成り立たないのだ」ということを、彼らは知っていくのです。
【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第2章「五次元の世界」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
私たち仏弟子は、仏・法・僧の三宝に帰依して、「正しき心の探究」を人生で貫くことを決意して、それを実現するために「愛」と「知」と「反省」と「発展」の「四正道」を実践することで、自分の人生の問題集に答えを出して、さらに、自らの人生で出会う隣人を救い助け、この地上世界に仏国土ユートピア建設を打ち立てる光の天使・菩薩です。
幸福の科学は、「愛」と「悟り」と「ユートピア建設」の実現を目指す、エル・カンターレの弟子の集まりです。
本日の学びでは、存在の愛についてこのようにありました。
『存在の愛とは、一対一の愛ではないといいましたが、それは一対多、あるいは、放射線のごとく発散されている愛なのです。すなわち、光の存在、光の分身なのです。
ということは、この愛の段階が、いかなる境地かがわかるでしょう。そうです。これは、八次元如来界の愛なのです。ですから、その時代において、存在の愛となるほどの人は、すなわち、これ如来であり、この世に下生すること自体が、人類に対するおおいなる慈悲なのです。慈悲とは、あまねく照らす愛の光であり、そこには、相手によって濃淡のあるような、「相対の愛」はありません。慈悲とは、いわば、「絶対の愛」であり、「不偏の愛」なのです』
菩薩の愛である許す愛があくまで個人対個人、一対一であるのに対して、如来の愛は一対多であることが分かります。よって理論的には、如来の魂はいくつにも分光することが可能となる巨大な光となることが分かります。
また、私達の愛の修行課題の要諦としてこのように教えてくださいました。
『天国世界や地上世界における最大の力は「愛」であると教えていただいていますが、
「愛する愛」―五次元、「生かす愛」―六次元、「許す愛」―七次元、「存在の愛」―八次元。愛の段階を示すと、結局こういうことになります。ですから、私たちが修行の過程で目標とする愛は、こうした愛の段階を知っておけば、十分だといえます』
と教えていただきました。このように、主は平等と公平の観点から、愛にも悟り同様に発展段階があり、レベルの差があることを教えていだきました。ともに、心の修行の指針とさせていただきたいです。そして、日々私たちが、私たちに縁のある隣人に与えている愛とはどのレベルにあるのかという点で、毎日を反省することも、ほんとうの自分を知るうえで必要ではないかと思いました。
後半の『永遠の法』では、五次元善人界から、「愛」が現れてくるということを学びました。それぞれが持つ「愛」の量が、光の量としてて見えるようになるのもこの五次元世界からです。また、自らの持つ「愛」が相手にどのように伝わるかさえも見える世界となります。このような世界では、もはや、四次元地獄霊の霊人と五次元善人界の霊人は同じ場所では存在できなくなるのも、本日の教えでよく理解できます。
例えば、ドレスコードがかかった紳士淑女のパーティーに、ボロボロの服では参加できないように、地上では心の内側にあって見えなかった愛の量や質、そして自分が何を考えているかさえも、があの世では、一目瞭然になる世界では、心の状態が似た波動を持つ者同士でなければその場にいられないような世界となります。
このあたりは、以前学んだ、「霊界おいて上位の階層からは下位の階層に干渉できるが、下位の階層は上の霊界に干渉できない」という霊界の法則とも関係があるのではないかと考えられます。
本日の引用ではこのようにありました。
『あなたがたは愛というものを感じるであろう。その愛の最もたるものが、天空に浮かんでいる霊界の太陽なのだ。無所得のままに熱やエネルギーを与える。人びとに生命のエネルギーを供給しながら、一円も要求しない。そうした無所得の愛、慈悲の存在―これが仏の姿なのだ。
あなたがたはお互いに愛し合ったとき、その愛の波動が胸に満ちてきて、とてもうれしいであろう。それが、あなたがたは仏の子であり、本質において仏の生命体の一部であるということの証明なのだ』
とにもかくにも、「人を愛し、生かし、許す」という主の愛の発展段階説がこの五次元世界から始まるという点はぜひ知っておきたい点です。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■□■□■□■
。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
■□■□■□
E-mail:ise@sibu.irh.jp
□■□■□
https://hsise.com/
□■□■
TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
文責:蒲原宏史
■
(10/21-1)294『太陽の法』を読む27「愛の大河」存在の愛と神の愛―「悟りの挑戦(下巻)」ものの見方における中道―『永遠の法』愛の感情
『太陽の法』を読む
