33 人は美しいものに魅かれる。しかし、フェイク(偽物)だと判ると、見向きもしない。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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■『悟りの挑戦(下巻)』第1章「中道からの発展」
2 実践論としての中道―苦楽の中道
まず、実践論としての中道とはいったい何か、ということから述べたいと思います。
そもそも、この中道という考え方は、どういうところから始まったのでしょうか。それは、ほかならぬ釈迦自身の、悟りを得る過程で得られた考えであることは、歴史的な事実として否定することができません。
ゴータマ・ブッダ、釈尊は、一つの地方の豪族(釈迦族)の王子として、カピラ城という当時の王城に生まれ、そしてその王となるべく運命づけられた人間として、物質的に恵まれた環境のなかに育ち、夏、冬、雨季の宮殿を用意してもらうという生活を、二十九歳まで、していました。そして、それぞれの宮殿に妻を置き、快適な生活をしていたわけです。
しかし、そうした生活のなかにも、やがて人生の矛盾、無常というものを感じ、そしてみずからの心のなかに起きた疑問のの探究、追究の旅に出ることになったわけです。それが、ヤショーダラーという正妻との間に一子ラーフラが生まれた直後のことです。
こうして、王となるべく運命づけられた地位を捨て、妻子をも捨て、すべてを捨てて、出家というものをなし、自分の人生の疑問に答えてくれる師を求めましたが、師を得ることができず、さらにはみずから独りで悟ろうとして、六年に及ぶ難行苦行を続けたわけです。
その際に、ありとあらゆる肉体行をしています。たとえば、食べるものをどんどん減らしていって、最後は、本当に穀物一粒で生活するような一日を送って、あばら骨と皮ばかりの身体になったり、あるいは、土のなかに身体を埋めて瞑想をしてみたりと、さまざまな難行苦行をしていました。しかし、肉体を苦しめる苦行のなかからは、自分の納得のいく悟りを得ることは、とうとうできませんでした。
ただ、このような難行苦行は、釈迦が独自に始めたことではありません。今もインドにはそうした修行の行者が数多くいますが、釈迦以前に、すでに数千年に及ぶ歴史がある行法だったのです。ヨーガというような修法は、何千年の歴史を持っているものであり、それに則ったものの一つだったわけです。
そして、身体が衰えはてて、もはや今生の生命も失われようとするとき、まだ歳のいかぬスジャータ―という村娘からミルク粥を供養され、それを食べたときに、はっと悟るものがあったわけです。
「今まで、自分のこの世での生というものを、生命というものを否定することをもって悟りを得ようとしていたが、どうやらこの世の肉体的な生命を断つこと自体は悟りに通じることではないようだ。人間として、この世に生命を受けた存在であるならば、その生命を生命として受け止めて、それを生かしながら、そこに本当の人生の意味を、その結論を、その意義を見いだすことができるのではないか」、そのように感じたのです。
こうして、衰えはてたその身体をもう一度再建することを考えながら、極端な苦行を離れて、彼は悟りへの道に到ったわけです。
しかし、当時、釈迦の仲間として修行していたものが何人かいましたが、村娘のミルク粥の供養を受ける釈迦を見て、「彼は脱落した」「彼はもう悟りを放棄した人間だ」と軽蔑して去っていったのです。
これは、いったい何を意味しているかというと、当時、「苦行というものを途中で放棄したら、悟りには全く無縁の人間、脱落した人間となってしまう」という考え方が基調だったということが示されているのです。
現実に、インドでは、やがて仏教と並び称される勢力を持つ、非常によく似た宗教としてジャイナ教(ジナ教)がありましたが、ジャイナ教の修行では、極端な肉体行を推し進めていって、「苦行の最中に死んでしまうことがあったら、それで聖者になれる。そこまでいったら聖者である、生き仏である」というような思想を持っていました。こうしたジャイナ教の思想とは、仏教は一線を画しているわけです。伝統的な荒行としては、そういう思想が有力だったわけであり、そちらから見れば、仏教は生ぬるいという見方もあるでしょう。
ただ、釈迦がその苦行を捨てて悟りを求めた姿勢こそ、その後、仏教教団が健全に発展し、世界宗教となっていった基盤があります。仏教のように苦行を捨てて悟りを求めるということをしなかったジャイナ教は、インドのみに残りましたが、他の国には広がりませんでした。すなわち、普遍性がなかったということです。
ここで見出される結論は、次のようなことです。
二十九歳までのカピラ城のなかでの優雅な生活、物質的に恵まれ、快楽に恵まれた生活のなかでは、人生の本当の意味、疑問に答えてくれるものはなかった。快楽のなかにあるものは、人間としての堕落だった。一切の人格の向上を許さない堕落への道だった。その快楽の生活、満ち足りた生活、飽食した生活のなかでは、真なる悟りは、とうてい得られるものではなかった。人格の向上を否定するものが、そのなかにはあった。ゆえに、極端な快楽のなかに生きることは、人間を真に幸福へと導く道ではない。少なくとも悟りという名を冠したところの幸福に導く道ではない。
一方、六年に及ぶ難行苦行の道も、結局、それは肉体をいじめぬき、最後は地上の生命を断つという論理的帰結になるだけであって、もし、この世に生まれてきた人間が、みずからの生命を断つことが修行であるならば、生まれてこなかったほうがよいということになる。論理的に考えてもそのようになる。何のために生まれてきたのか、その意味がない。生まれて来た意味、人生の意味という疑問に対する答えとはならず、それからの逃避となっている―。
そのような結論になったわけです。単に肉体を否定していくだけならば、生まれてこないほうがよかったわけですから、何ゆえに人生であるかということの答えは得られません。
このように、「快楽のなかには人格を向上させるものはない」ということによって、快楽主義は否定され、また、「いたずらに肉体をいじめるだけの苦行のなかにも、結局のところ、みずからの知を磨き、理性を磨く道はなかった」ということが発見されたわけです。
考えてみれば、たとえ針のむしろの上に坐ったところで、たとえ一本足で立ち続けたところで、たとえ水の中に魚のように潜ったところで、人間としての魂の向上、認識力の向上、知性や理性に沿った発展ということは、到底考えられないのです。
仏教の思想においては、両極端を去って中道に入ろうとしたということ、その発祥における行動の原型というものが、仏教思想の大きなバックボーンになっているということを、まず知らなければいけません。
ゆえに、実践論的観点からの中道とは、快楽主義あるいは苦行主義といった両極端を否定して、中なる道を入るということです。これは、ほどほどの道に入るという意味では決してなく、極端を否定したところに現われる境地なのです。「結局、その両極端には答えがない」ということを、はっきりと知った後に得られた境地であり、ほどほどの、いい加減な生き方をすれば得られるという境地ではありません。それをまず知っておいてください。
これが実戦論的観点からの中道です。これは、現代においても、悟りを求めていく際に参考とされる考え方の一つではないかと思えるのです。
現代でも、難行苦行をしている人はまだたくさんいます。インドにもいます。日本にもいます。山のなかで千日回峰をして阿闍梨(あじゃり)になったというような方も日本にいます。山のなかで千日回峰をして阿闍梨になったというような方もいます。もちろん、身体は健康になるでしょう。あるいは精神力も鍛えられるかもしれません。ただ、これは悟りとは無縁の行為です。それ以外のいかなるスーパーマン的な修業方法も、実は悟りとは無縁のものです。
一方において、堕落した生活―みずからを甘やかし、みずからの欲情のままに生きるような生活のなかで悟りが得られるわけではないのも、もちろん当然のことです。
ゆえに、「みずからを律し、中道に入って修行する態度をとってこそ、修行者は悟りを得る道に入るのだ」という実践論的な観点を知らなくてはなりません。
【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』第1章『中道からの発展』より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、光とは何か。仏法真理とは何か。という問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第3章「愛の大河」
6 愛の発展段階説
〇愛の発展段階説【愛する愛】
愛について、いろいろと語ってきました。そして、真の愛とは、与える愛であり、無償の愛であるとも説きました。つぎに、どうやら私は、愛には発展段階があるという真実の教えに触れざるをえなくなってきました。
そうです。愛にも発展段階があるのです。しかし、地上の人で、この発展段階に気づいている人は多くないはずです。
愛の発展段階の第一段階として、まず、「愛する愛」があります。この愛する愛は、ある意味では、もっとも愛らしい愛だといえます。すなわち、それは親の子に対する愛であり、子の親に対する愛であり、男の女に対する愛であり、女の男に対する愛であり、友人に対する愛であり、さらには、隣人に対する愛です。もっとひろくいえば、社会に対する愛、共同体に対する愛も、この「愛する愛」にふくまれます。
「愛する」といっても、やはり、与える愛であることにはかわりません。つまり、愛する愛の基礎にあるものは、その人が当然関心をもってしかるべきものに対する愛だからです。その人が関心をもってしかるべきものに対して好意を与えるということが、愛する愛なのです。これはもっとも根本的、かつ、一般的でありながら、実際には、けっこう困難な愛だといえます。
地上世界が、この愛する愛に満たされたならば、少なくともこの世は、はっきりとした天国となるでしょう。愛する愛とは、すべての人に期待できる愛であり、すべての人が、愛する愛のすばらしさを生来的に理解することができます。つまり、人間は生まれつき、愛を与えることに関して、幸福感を感じるようにできているからです。しかし、問題は、愛する愛をつねに理解するだけでなく、それをいかに実践するかです。この愛する愛が真に実践されれば、地上は三次元でありながらも、そのまま実在界の五次元善人界へと変貌するはずです。つまり、この愛する愛の実現が、地上天国への第一歩なのです。
〇愛の発展段階説【生かす愛】
愛の発展段階の第二段階には、「生かす愛」があります。「愛する愛」は、だれにでも可能な愛であり、その実践だけが問題なのですが、この「生かす愛」は、誰にでも実践できる愛ではありません。なぜならば、人を生かすことのできる人とは、すぐれた人であり、自らの才能と努力とによって、人を導けるまでに自分というものをしっかりとつくっていなければ、真に人を生かすことはできないからです。
つまり、生かす愛とは、すなわち、導く愛なのです。ですから、その愛の実践の前提として、まず、優秀な人格を築いておかねばなりません。なぜならば、盲人は盲人を手引きすることができないからです。
川の水が上流から下流に流れていくように、この生かす愛もまた、上流から下流に流れてゆく愛だといえます。生かす愛とは、知性の愛であり、理性の愛なのです。ですから、高き知性によって、人間と社会の本質を見抜き、すぐれた理性によって、その問題解決のメスをふるうことのできる人でなければ、真に人を導くことはできないのです。こうして生かす愛の体現者は、魂的に退化していこうとする者に対しては、「教導の怒り」を示して正しい方向に導くこともあります。そうしなければ、真に人を生かすことはできないからです。
この意味において、「生かす愛」とは、実在界の六次元光明界の愛だということができます。生かす愛を実践できる地上の指導者も、もちろんおります。しかし、その心は、すでに六次元世界に通じているということです。
関心をもってしかるべき人に好意をあたえる「愛する愛」。そして、すぐれた自分をつくって、人を導く「生かす愛」。それぞれに素晴らしい愛です。とはいえ、生かす愛だけではまだ不十分だといえます。なぜならば、単に人を生かすだけであるならば、才能の才があれば、あるいは、他人をうわまわる知性があれば可能だからです。しかし、愛には、才能や知性や、努力を超えた愛があるのです。すなわち、これこそが、第三段階の愛、「許す愛」なのです。
〇愛の発展段階説【許す愛】
「許す愛」の実践者は、おおいなる宗教的境地への飛躍を経験しているはずです。つまり、この許す愛とは、善悪を超えて、自己の使命に徹する者の境地だからです。というのも、この境地にある人は、三次元の物質界に生きている人たちが、霊的に盲目で手探り状態で生きていることを悟っているからです。そのためには、自らの愚かさに気づき回心したという、霊的覚醒の体験が必要です。自らの苦しみの中に光を発見したものこそ、相手の目にかかったウロコを見抜き、その真実の仏性を愛することができるのです。ですから、これはおおいなる度量と雅量をもってはじめて、才能を超えた徳をもってはじめて、出現する境地だといえます。
人間の本質をすべて仏の子として、神の分身と見ることができる人にこそ、敵と見えし者の本質に仏性を見ることができるのです。(般若の智慧)。すなわち、この許す愛の境地は、菩薩の境地なのです。ですから、この許す愛の実践者は、七次元からの使者であり、その心は実在界の菩薩界に通じているのです。
しかし、右に述べた、許す愛、すなわち、菩薩の愛は、断じて悪魔の活動を許し、その活動を助長する趣旨に解してはなりません。悪魔は神の人間に対する愛を阻害する者であり、その存在自体が、愛のアンチテーゼです。菩薩は、悪魔に対して、「信仰心」と「無我の怒り」、「空心の怒り」でもって戦うものです。仏(神)と敵対しても、とうてい勝てないことを悟り、はじめて「許しの門」をくぐる悪魔もいるのです。このように「許す愛」のかなにも、「能動的許し」が必要な場合があります。
さて、私は、さらにこれ以上の愛の境地があることを語ってゆきたいと思います。
【大川隆法『太陽の法』第3章「愛の大河」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。
人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第2章 五次元の世界
4光は流れる
魂が喜びを感じるときは二つあると述べました。第一は、他人の役に立ったとき、第二は、新たな霊的知識を獲得したときでした。ここでは、霊的知識の面について、さらに話をしていきましょう。
四次元幽界の人は、人間の本質、霊の本質が、仏から分かれてきた光であることを、まだ充分には知りません。
しかし、五次元善人界の人になると、光の本質にだんだん目覚めてきます。光の強弱というものが、彼らにはしだいに分かってきます。そして蛍光灯やろうそくの光と違った、仏の光という実体のあるエネルギーが流れていることに気がついてくるのです。これは何とも不思議な感覚です。
五次元善人界にいる人たちは、やがて、その光の根源がどこにあるのかを知ります。天空には一つの大きな太陽が昇っています。これは三次元にある太陽とは違ったものであって、霊太陽といわれているものです。
この霊太陽の本質は何でしょうか。三次元には地球を照らしている太陽がありますが、霊太陽は、実はこの太陽の霊的生命体なのです。
人間の肉体のなかに魂が宿っているように、太陽のなかにも、偉大な魂、偉大な霊体が宿っています。
すなわち、物質的に光を放っている太陽の奥に、霊的に光を放っている霊太陽があるのです。あの世の世界における霊太陽は、実は地上にさんさんと光を降り注いでいる太陽の霊体なのです。霊的太陽があの世の世界を照らしているのです。
このように、太陽は地上に熱などのエネルギーを与えるだけはなく、あの世の世界においても、ほんとうの意味での霊的エネルギーの供給をしています。それは、地球もまた太陽系の一員であり、太陽系を司る大きな意識からエネルギーを得て、その存在が許されているのです。
太陽に宿っているエネルギー体というのは、この太陽系における恒星意識です。十一次元恒星意識として、太陽系意識霊というものがあるのです。
そして、この太陽系意識霊が、地球にある三体の惑星意識を通して、七色の光を地球に振り注がせています。
このエネルギーが、九次元にある十体の霊を通して、さまざまな光に分光されていき、地上および、あの世のすべての世界へと、流れが分かれているのです。
こうしたことについては、五次元善人界の人たちはまだ充分には知りませんが、地上の太陽と同じく、霊界の太陽が自分たちにエネルギーを供給して、力を与えてくれていることを知ります。そして、霊太陽の光エネルギーを受けて自分たちが生命を保っていること、そのエネルギーによって自分たちが生かされていることを知るのです。
したがって、五次元の人たちは、霊太陽に対する感謝を忘れてはいません。仏神に対する素朴な信仰以前に、霊太陽に対して非常に感謝しているのです。彼らは朝晩、手を合わせて太陽を拝むような姿をよくしています。
このように、光が流れていく姿を感じられるのが五次元世界なのです。
【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第2章「五次元の世界」より抜粋】
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愛には発展段階があるという教えでした。つまり愛にはレベルの高低があるということです。まず初めに私たち信仰者が学ぶべき愛は「愛する愛」でした。
愛する愛は「五次元善人界」世界を貫く愛の形です。この愛が天国世界の原型ともなります。
メシアの法において、主におかれましては、「主なる神を愛しているという証明として、汝の隣人を愛せよ」と教えていただきました。メシアの法ではこのようにあります。
『ですから、逆に言えば、神を愛することが一番目ですけれども、「神を愛している」ということの証明が、「汝の隣人を愛している」ということです。そういう、利害関係がなくても愛していることを示すことによって、「神を愛していること」を証明していることにもなるのです。こういうことをイエスはいっているわけです』
よって、主におかれましては、地上のものに溢れた三次元世界を、精神性のある五次元世界へ導きたいと考えておられます。現在三次元世界は、地獄界に引っ張られる形で、地球人類の霊的人生観が低下しており、転生輪廻のシステム崩壊の危機にあります。この危機的な状況を打破すべく、説かれたのが『地獄の法』です。『地獄の法』は天国世界の逆証明として編まれた救世の法です。『太陽の法』・『永遠の法』・『黄金の法』とともに読み込みたい大切な経典です。
愛には発展段階があるという教えでした。つまり愛にはレベルの高低があるということです。まず初めに私たち信仰者が学ぶべき愛は「愛する愛」でした。そして次の段階が「生かす愛」です。
生かす愛とは、一言でいえば「指導者の愛」と呼ばれています。自分自身が、神仏に臨まれる人格をつくりあげて、周りの隣人の成長や発展を促し、育てることができる人が六次元光明界の愛です。
この六次元の「生かす愛」について、主このように説いています。
『この「生かす愛」は、誰にでも実践できる愛ではありません。なぜならば、人を生かすことのできる人とは、すぐれた人であり、自らの才能と努力とによって、人を導けるまでに自分というものをしっかりとつくっていなければ、真に人を生かすことはできないからです。
つまり、生かす愛とは、すなわち、導く愛なのです。ですから、その愛の実践の前提として、まず、優秀な人格を築いておかねばなりません。なぜならば、盲人は盲人を手引きすることができないからです』
生かす愛として、人に与えるためには、それだけ魂の研鑽が必要であることが分かります。
愛には発展段階があるという教えでした。つまり愛にはレベルの高低があるということです。まず初めに私たち信仰者が学ぶべき愛は五次元善人界の「愛する愛」でした。そして次の段階が六次元光明界の「生かす愛」でした。そして、さらに次の段階が七次元菩薩界の「許す愛」です。
許す愛とは、「宗教的境地の愛」です。
本日の教えのなかで、
『人間の本質をすべて仏の子として、神の分身と見ることができる人にこそ、敵と見えし者の本質に仏性を見ることができるのです。(般若の智慧)』
とありましたが、
イエス様のことばに「汝の敵を愛せよ」があります。敵と見えしものにも仏性や神性を発見することで、「人を憎まず、その罪を憎む」境地にある愛といえます。
しかし、すべてを許すのが愛でないことも事実であり、主はこのように説いてくださっています。
『許す愛、すなわち、菩薩の愛は、断じて悪魔の活動を許し、その活動を助長する趣旨に解してはなりません。悪魔は神の人間に対する愛を阻害する者であり、その存在自体が、愛のアンチテーゼです。菩薩は、悪魔に対して、「信仰心」と「無我の怒り」、「空心の怒り」でもって戦うものです』
宗教的な愛の境地にも、「聖なる怒り」が存在することも教えていただきました。私利私欲を超えた無我の怒りによって天使や菩薩は悪魔と対峙しています。悪魔が天使や菩薩に対するアンチテーゼであるならば、「地獄」の存在も、「天国」のアンチテーゼなのかもしれません。
また、『永遠の法』では、五次元世界の霊人たちが、自分の生命エネルギーの源が霊太陽のエネルギーであることを知っているということ。光が生命エネルギーの源であることに気がついていることがよくわかりました。私たちも朝日や夕日を見ては手を思わず合わせてしまうのも、こうした五次元世界での思い出が魂のどこかにあるからかもしません。私たち地上にいる人間にも、この認識は非常に大切です。太陽のように、すべてを育む力を地上に分け隔てなく注ぎながらも、見返りを一切求めない姿に神の慈悲と重ね合わせると、私たちの主エル・カンターレとは、本当に太陽のような存在であることを理解することができます。
『人間の肉体のなかに魂が宿っているように、太陽のなかにも、偉大な魂、偉大な霊体が宿っています。
すなわち、物質的に光を放っている太陽の奥に、霊的に光を放っている霊太陽があるのです。あの世の世界における霊太陽は、実は地上にさんさんと光を降り注いでいる太陽の霊体なのです。霊的太陽があの世の世界を照らしているのです。
このように、太陽は地上に熱などのエネルギーを与えるだけはなく、あの世の世界においても、ほんとうの意味での霊的エネルギーの供給をしています。それは、地球もまた太陽系の一員であり、太陽系を司る大きな意識からエネルギーを得て、その存在が許されているのです。
太陽に宿っているエネルギー体というのは、この太陽系における恒星意識です。十一次元恒星意識として、太陽系意識霊というものがあるのです。
そして、この太陽系意識霊が、地球にある三体の惑星意識を通して、七色の光を地球に振り注がせています。
このエネルギーが、九次元にある十体の霊を通して、さまざまな光に分光されていき、地上および、あの世のすべての世界へと、流れが分かれているのです。
こうしたことについては、五次元善人界の人たちはまだ充分には知りませんが、地上の太陽と同じく、霊界の太陽が自分たちにエネルギーを供給して、力を与えてくれていることを知ります。そして、霊太陽の光エネルギーを受けて自分たちが生命を保っていること、そのエネルギーによって自分たちが生かされていることを知るのです』
五次元善人界の霊人は光が自分の魂のエネルギー源であることを知っています。地上にいる私たちもそれを信仰を通して知ることができます。私たちは等しく霊であり、肉体でないという初歩の悟りを基本として、私たちに光のエネルギーを供給してくださる神仏への感謝を忘れずに今日もともに精進を重ねてまいりましょう。
本日の学びは非常に重要です。繰り返し、読んで理解を深めてまいりましょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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(10/20-1)【基礎教学通信】293『太陽の法』を読む26「愛の大河」愛の発展段階説―「悟りの挑戦(下巻)」実践論としての中道【苦楽の中道】―『永遠の法』光は流れる
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