32 客が来なければ、常に原因を考えよ。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使
命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
〇まえがき
上巻に引き続き、この下巻も、中道論、涅槃論、空、無我、仏性論と、仏教の中核理論に対し、堂々と斬り込んでいる。仏教精神に関する、新たな理論書が追加され、幸福の科学の宝理論が一層厚みを増したといえるだろう。
本書の対象は、かなり専門的なものであるが、多くの読者のことを考えて、学術論文なる一歩手前で止めてある。また、形而上学的な議論が中心であるので、私の他の本同様、話し言葉の文体で、できるだけ分かり易くなるように心がけた。しかし、取り上げたポイント自体は、現代仏教学および、現代仏教の急所ともいえるところである。ながく仏教を勉強してこられた方にとっても、「これが、釈迦の真意であったか」と目から鱗が落ちる思いを体験する人もいることだろう。とまれ、ご精読をお願いする次第である。
一九九三年 六月
幸福の科学 主宰 大川隆法
【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』より抜粋】
■『悟りの挑戦(下巻)』第1章「中道からの発展」
1 中道とは何か
本書は、「中道からの発展」というテーマで述べたいと思います。
これはなかなか難しいテーマです。仏教系統の各種の文献その他の教養を見ても、「中道からの発展」というテーマについて書かれたものは、まったくありません。また、仏教のみならず、他の思想を見ても、「中道からの発展」といったテーマに正面から取り組んだ思想というのは、私の見た範囲ではありません。
したがって、この「中道からの発展」というテーマは、幸福の科学のオリジナルテーマの一つであると考えてよいと思います。つまり、非常に新しいテーマであり、幸福の科学らしいテーマでもあると考えてよいのではないかと思います。
まず、あらかじめ結論を述べておきます。「中道からの発展」とは、結局、こういうことです。
「正しい姿勢において、人格の向上と社会の繁栄をめざしなさい。すなわち、人間としての今世の修行態度、姿勢において、正しさを求めていきながら、人格の向上、社会の発展・繁栄をめざしなさい」
このような教えなのです。これが結論です。
中道という言葉は、みなさんも、いろいろなところで聞いていることでしょう。たとえば、政治関係で「中道政党」というように使われることがあります。この場合、中道というのを、「右翼でも左翼でもない真ん中辺」というぐらいの意味に使っているようです。もちろん、そうした考え方自体が間違いかといえば、そういうわけではありません。ただ、仏陀の思想としての中道が間違いかといえば、そういうわけでもありません。ただ、仏陀の思想としての中道とは、単に位置的に真ん中であるという意味では必ずしもありません。
これとよく似た思想に「中庸(ちゅうよう)」というものがありますが、まず、この中庸と比較してみましょう。
「中庸」とは、孔子の思想にも出てきますし、近代西洋哲学では、その祖ともいえるデカルトの思想のなかにも出てくる考え方です。
デカルトがどこまで理解したかは知りませんが、「人生の諸問題に遭遇する過程で、世俗的な事柄に関しては中庸を守る、すなわち常識的な見解にしたがって生きる」ということを彼は唱えていると、私は理解しています。つまり、「どちらが正しいのかわからないようなこと、あるいは、どのように処理したらよいのかわからないような瑣末事(さまつじ)に迷っているほど、人生というのは暇なものではない。そうしたことに関しては、世の常識ある人たちの考え、良識に合わせた生き方をしていくことがよい」という考えだったと思います。この際の中庸とは、「きわめて常識的な考え方」という意味に近いと私は思います。
これに対して、仏教で使われる中道はまた同じことなのか、そうではないのかが問題となります。もちろん、端整、バランスのとれた常識人の考え方という意味としては、似た部分もあるのですが、この「中庸」の「中」―真ん中という意味は、仏教の教えにおいては、実は「正しさ」という言葉に置き換えてよいものなのです。
「中道」とは、すなわち「正しい道」のことなのです。言葉を換えるとするならば、「中道に入る」とは、「八正道に入る」ということと、ほぼ同義なのです。
八正道とは、正しく見る、正しく語る、正しく思う、正しく仕事する、正しく生活をする、正しく精進する、正しく念くずる、正しく定に入る、こうした八つの項目のことです。これは、私の書物のなかでも説明をしていますが、八正道自体に、この正しさということの答えそのものは書かれていません。実はこの「正しさ」こそが、中道の「中」に当たる考え方なのです。
ゆえに、中道を知るということは、正しさを知るということであり、その正しさを知るということは、「仏婦の悟りとは、いったい何であったのか」ということを知ることにほかならないのです。
そのような観点に立って、中道とはいったい何であるのかということを考えていきたいと思います。
中道を考えるに際して、大きく分けて二つの視点があります。
第一の視点は、実践論としての観点です。これは、具体的な行動指針、あるいは修行の態度、生き方という意味での実践論です。実践論としての中道が一つにはあります。
そして、もう一方には、ものの見方、考え方という意味での、見方としての中道論があります。これは、価値判断と言ってもよいかもしれませんが、ものの見方、考え方、取り組み方についての中道というものがあります。
これが本章の中道の話の大きな二本の柱としての考え方です。
【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』第1章『中道からの発展』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、光とは何か。仏法真理とは何か。という問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『太陽の法』第3章「愛の大河」
5 愛に敵なし
愛は最大の力であり、愛には敵なしなのです。そこで、愛が無敵であることについて、お話ししたいと思います。
人間は、生きてゆく過程において、さまざまな困難にぶつかります。つまり、そうしたなかで、魂の修行をしていくわけです。これは、あらかじめ計画されていることです。困難とは、どういうものでしょうか。すなわち、病気があり、貧困があり、挫折がある。失恋があり、事業の失敗があり、友人の離反があり、、愛する者との別離がある。嫌いな人との出会いもあります。さらには、年を取り、醜くなり、体が不自由となり、やがて死んでゆくのです。
こうした現象を現象とだけ見れば、人生とは、苦悩と悲しみに満ち満ちているものかもしれません。しかし、苦悩には苦悩の意味があり、悲しみには悲しみの意味があるのです。つまり、苦悩や悲しみがあるということは、私たち人間に、選択をせまっているのです。選択とは、何か。つまり、私たちのひとりひとりが、与える側の人生を選ぶか、与えられる側の人生を選ぶか。その選択です。
愛の本質とは、やはり与えることなのです。愛とは、神が人間に与えてくださったものを、自分ひとりのものとだけしておかずに、人にわけ与えるということなのです。神の愛は無限です。ですから、私たち人間が、その愛をいくら与えても与えても、つきることはありません。神は、私たちに、愛を供給してくださっているのです。
愛の本質とは、まず、与えることなのです。この点を、よく理解していただきたいと思います。
愛に苦しむ人々よ、よく聞きなさい。なぜあなたがたは、苦しむのですか。なぜ愛において苦しむのですか。愛を与えることによって苦しむのですか。見返りを求めてはいけません。見かえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。ほんとうの愛とは、与える愛です。与える愛とは、すなわち、無償の愛です。あなたが与える愛は、本来、あなたのものではないのです。あなたの愛は、神から与えられた愛なのです。その愛を神にかえしてゆくために、私たちは、ほかの人々を愛するべきなのです。
苦しみの原因は、自分はほかの人を愛しているのに、ほかの人は自分を愛してくれないと思っているところにあるのです。いえ、ほかの人が自分を愛してくれないのではありません。自分が期待しているほどには、ほかの人が自分を愛してくれないと思うからこそ、愛ということを機縁として、人間はひとつの苦悩におちいってゆくのです。愛の見かえりは、ほかの人間からではなく、神からくるのです。
神からくるみかえりとは、なんでしょう。それは、すなわち、愛を与えればあたえるほどに、あなた自身が神近き人間となってゆくということです。それが、神のみかえりなのです。
神の本質を見てごらんなさい。神は、燦燦とふりそそぐ太陽の光のごとく、無所得のままに、無限の愛と慈悲を万物に与えているのではあませんか。あなたたち、ひとりひとりの生命でさえも、神に対して、一文の支払いをすることなく与えられたエネルギーではありませんか。
さすればまず、与えることからはじめてごらんなさい。与えるとは、どうすれば一人でも多くの人々がしあわせに生きられるかを考えながら、日々に生きるということです。与えるとは、ひとりでも多くの人々を、困難と挫折の人生から立ち直らせ、知恵と勇気の日々を送らせるかということです。
知恵をもって、与えなさい。物質を与えることだけが、与えることではありません。慈悲魔になることだけが、与えることではないのです。
真に与えるとは、真に人を生かす道であり、真に人を生かすためには、知恵が、なければならないのです。だからこそ、私たちは、知恵をもって、勇気をもって、与える人生、すなわち、無償の愛を人々に与える人生を歩んでゆこうではありませんか。
愛に敵はありません。愛は無敵です。なぜならば、本当の愛とは、与える愛であり、無償の愛であり、あらがうことを許さない無限の力だからです。愛は大河です。無限の上流より無限の下流へと流れていく大河です。
そして、いかなる者も、この大河に逆らうことはできないのです。すべてを与え、すべてを押し流してゆく力だからこそ、永遠に愛にあらがいつづける悪など、この世には存在しないのです。
【大川隆法『太陽の法』第3章「愛の大河」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。
人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『永遠の法』第2章 五次元の世界
3 魂の喜び
四次元幽界では、「魂の喜び」というものを充分に味わうことは、まだできませんでした。幽界の人びとは、「魂の驚き」―魂であることの驚きや新鮮さというものを体験しています。「霊になると、いろいろと不思議な体験ができるのだな」ということを感じているのです。しかし、五次元善人界では、人びとは魂の喜びを感じていくことができるのです。
これは、四次元幽界では地上生活との区別がまだ十分にはついていないということです。幽界に住んでいる人は、幽体といって、一種の肉体、衣服のようなものをまとっています。しかし、五次元善人界に来るときに、これはを脱ぎ捨ててきているので、五次元ではさらに魂が精妙になってくるのです。
すなわち、五次元においては、魂というものが前面に出てくるのです。魂とは、人間としての意識を持った霊のことです。この魂が喜びを感じ始めるわけです。
それはいかなる喜びでしょうか。いかなる喜びを魂は感じるのでしょうか。魂が喜びを感じるときは、大きく二つあります。
魂が喜びを感じる第一のときは、自分が向上したと感じるときです。自分の向上が感じられたとき、たましいは喜びを感じるのです。
どのようなときに魂は自分の向上を感じるのかといえば、自分が善なる存在であることを確認できたときです。それを確認できるのは、自分が他人の役に立っていると感じたときです。そのときに魂は喜びを感じるのです。
これは地上にいる人間でも同じです。「あなたがいてくれて、よかった」「あなたのおかげで、うまくいった」―こうした言葉をもらうと、非常に喜びを感じます。なぜならば、自分が他の人びとの役に立っているのを知ることは、自分が拡大した時の喜び、自分が向上した時の喜びとなるからです。
単に自分だけの人生を生きているのではなく、「自分という存在があることによって、他の人びとが喜んでいる」と感じると、それは「自分一人の人生」以上の人生を自分が生きていることになります。つまり、自分ひとりの人生の場合の何倍もの生き方をしていることが自己の拡大であり、自己の向上でもあるのです。
このように、魂が喜びを感じる第一のときは、他人に喜ばれ、善きものとしての自分を確認したときです。
それでは、魂が喜びを感じる第二のときとは、いかなるときでしょうか。それは、新たな知識を獲得した時です。他人が喜んだとき、他人の役に立ったときが第一の場合であれば、第二の場合は、新たな知識を獲得したときということになります。
しかも、この新たな知識とは、地上で言うような試験勉強のための知識ではなく、仏が創った世界についての何らかの発見のことです。こうした新たな発見をしたときに、魂は喜びを感じるのです。
魂には、さまざまな性質、さまざまな能力、さまざまな力があります。しかし、五次元善人界の人は、魂の力のすべてについてはまだ知っていません。
五次元には、食事をしているような人もまだいることはいます。食べなくても生きていけることを彼らは十分にしているのですが、食事をすることに生きがいを感じる人もいれば、食べ物をつくることに生きがいを感じる人もいるのです。生前に農業を営んでいて、作物を育てることに生きがいを感じている人は、あの世でも、畑で野良仕事をしたり、田植えをしたりしています。
五次元世界では、こうした人たちが生活をしています。
しかし、彼らは、そうした仕事をしているうちに、「これはほんとうのあり方ではないのだ」と思うようになります。「こうした作物をつくらなくとも、人間は霊的な喜びを感じながら生きていけるのだ」ということが、しだいに分かってくるのです。
たとえば、サツマイモと見えしものが、三次元的な物質のサツマイモではなく、自分の心のなかにできた霊的なサツマイモであること、そして、自分の心が富んでいればいるほど、自分の心が豊かであればあるほど、美しいサツマイモが取れることを知ります。
地上の世界では、水や肥料のやり方について、科学的な方法がいろいろとあるでしょうが、あの世では必ずしもそうではなく、丹精をこめてつくれば、心を込めてつくれば、目に鮮やかなサツマイモが取れるのです。
霊的世界のこうした仕組みを彼らは知ります。「思ったことが実現していく世界である」ということの本質を、しだいに知っていきます。この「知る」ということが、彼らにとって第二の喜びとなるのです。
【大川隆法『永遠の法』第2章「五次元の世界」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
心に沁みとおる教えでした。すべてが重要ではありますが、特に心打つ言葉を以下取り上げてみました。
「愛は最大の力であり、愛には敵なしなのです」冒頭の言葉がとても感動的でした。
『愛の本質とは、やはり与えることなのです。愛とは、神が人間に与えてくださったものを、自分ひとりのものとだけしておかずに、人にわけ与えるということなのです。神の愛は無限です。ですから、私たち人間が、その愛をいくら与えても与えても、つきることはありません。神は、私たちに、愛を供給してくださっているのです。
愛の本質とは、まず、与えることなのです。この点を、よく理解していただきたいと思います』
『苦しみの原因は、自分はほかの人を愛しているのに、ほかの人は自分を愛してくれないと思っているところにあるのです。いえ、ほかの人が自分を愛してくれないのではありません。自分が期待しているほどには、ほかの人が自分を愛してくれないと思うからこそ、愛ということを機縁として、人間はひとつの苦悩におちいってゆくのです。愛の見かえりは、ほかの人間からではなく、神からくるのです』
『愛に敵はありません。愛は無敵です。なぜならば、本当の愛とは、与える愛であり、無償の愛であり、あらがうことを許さない無限の力だからです』
「人生の問題集に答えを出すのは愛である」と、あらためて感慨にふける次第です。その本題集を解く鍵になる言葉が、与える立場に立つのか、奪う立場に立つのか。私たちは、愛について考えるときに、大きな選択を迫られています。
「つまり、苦悩や悲しみがあるということは、私たち人間に、選択をせまっているのです。選択とは、何か。つまり、私たちのひとりひとりが、与える側の人生を選ぶか、与えられる側の人生を選ぶか。その選択です」
「愛の本質とは、まず、与えることなのです。この点を、よく理解していただきたいと思います」
「神からくるみかえりとは、なんでしょう。それは、すなわち、愛を与えればあたえるほどに、あなた自身が神近き人間となってゆくということです。それが、神のみかえりなのです」
「愛に敵はありません。愛は無敵です。なぜならば、本当の愛とは、与える愛であり、無償の愛であり、あらがうことを許さない無限の力だからです。愛は大河です。無限の上流より無限の下流へと流れていく大河です」
心に留めておきたい、まさに神の言葉です。
また、後半の『永遠の法』では、四次元幽界での魂の驚き―自分の本質が霊であるという驚きをこえて、五次元善人界では、魂の喜びを感じることができる霊的世界であることを学びました。その魂の喜びとは、「他人に喜ばれ、善きものとしての自分を確認したとき」と
「新たな知識を獲得した時」でした。
その新たな知識とは、地上的な知識ではなく、霊的な知識です。つまり「思ったことが実現していく世界である」ということの本質を知るということです。これは霊的人生観の基礎になる部分です。
五次元世界に必要なのは、霊的覚醒のさらなる進化です。心が善であるということを越えて、心こそが自分の本体であることの認識をさらに深め、真・善・美の世界に入ることが大切です。
私たちも地上にいながら、思いが、念いのレベルになると心のなかの現実がやがて物質化することを悟ることができたならば、五次元善人界の悟りに近い心境にあるのではないかと思います。
利他の喜びに気がつくこと、思いの創造性という心の力に気がつくことが五次元世界における魂の喜びであるということを学びました。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■□■□■□■
。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
■□■□■□
E-mail:ise@sibu.irh.jp
□■□■□
https://hsise.com/
□■□■
TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
文責:蒲原宏史
■
(10/19-1)【基礎教学通信】292『太陽の法』を読む25「愛の大河」愛に敵なし―「悟りの挑戦(下巻)」中道とは何か―『永遠の法』魂の喜び
