(10/15-1)【基礎教学通信】288『太陽の法』を読む21「愛の大河」―愛とは何か―「悟りの挑戦(上巻)」五支縁起と十支縁起―『永遠の法』過去世の記憶

『太陽の法』を読む

28 無神論・唯物論の宗教家は、一人残らず詐欺師である。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使
命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。

ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、教典『悟りの挑戦(上巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
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■『悟りの挑戦(上巻)』第6章「業と輪廻」
3 五支縁起と十支縁起

さて、「惑・業・苦」がもう少し発展したものを「五支縁起(ごしえんぎ)」といい、五つに分解して説明しますが、これは、釈迦の生存中にもありました。

まず「愛」です。旧(ふる)い仏教用語では、「愛」は悪いほうの意味で使うことが多いのです。これは「渇愛(かつあい・タンハー)とも呼んでいますが、喉が渇いて水が欲しくてしかたがない感じです。あるいは、朝ご飯、昼ご飯を抜いたら、晩ごはんのときには、もう人間ではないようにがつがつ食べるときの感じです。そのように、貪る感じ、欲しい欲しいという感じが出てくる状態が、この「渇愛」状態です。

それから、「取(しゅ)」(執着)が出てきます。あることにこだわって、そのことが頭から離れない状態です。

そして、この「愛」「執着」が生まれてきて、その結果、迷いの生存という意味の「有(う)」―魂の存在あるいは傾向性ができあがってきます。

その結果どうなるかというと、来世に「生」―誕生というものがあり、さらに「老死」―老いて死ぬという苦しみが待っています。

このように、大きく三つに分解していたのを、さらに五つに分解しています。【※「惑・業・苦」の三道から「愛・取・有・生・老死」の五支縁起へ分解】

これをもう少し理解しやすく説明するために、たとえば貪欲というものを例に取ってみます。

「この世の生きがいは食べることにあり」というような人がいます。「食べることのみが人生のよろこびである。それなくしてはもう人生などはない。毎晩毎晩、おいしいご飯を食べるのが生きがいである」というような人です。こういう人は、食欲のかたまりそのもので、「どんなものを食べようか」「もうとにかくフランス料理、中華料理・・・」とばかり、執着を持ちます。こうして魂のなかに、食べ物に対する執着のようなものが刻印されていきます。

そうすると、あの世へ還ると肉体がありませんから、食べ物らしきものを食べるような気分も、もちろん霊的にはありえますけれども、満足がいきません。この世的な食べ物の感覚がありませんから、「もう一回この世に舞い戻ってきて、うまいものを食べたい」と思うのです。そして、この世への誕生があるわけです。そしてまた、「食べたい、食べたい」と食べて、歳をとって、「苦しい、苦しい」といって死んでいく。この繰り返しをします。かなり動物的生存に近いかたちになります。

もう一つの例として、異性に対する情欲というものを考えてみましょう。この「渇愛(渇愛・タンハー)」は、異性を見たらパッと目がいって、「美しい。素晴らしい」と、クラクラッとくる感じです。これがあって「執着」になっていきます。そして異性との関係にのめり込んでいきはじめます。食欲と同じように、「とにかく男女のつながりが最高なのだ。もうこれが最高の幸福であって、これ以外に生きがいなどというものはないのだ」という感じになってきます。そうすると、それが魂のなかに焼き付き、「有(う)」の状態になります。つまり、明確に存在してきます。

そうすると、あの世に還って肉体がなくなると、寂しくてしかたがないのです。もう一回生まれ変わりたくなります。「地上に生まれ変わって、また異性と楽しい生活をしたい。楽園は地上にあり」という感じになってきて、また生まれ変わってきます。そしてまた、さんざん遊んだ結果、歳をとって死ぬという苦しみを味わうのです。

このような「迷いの世界での転生輪廻がある」という説明を、釈迦はしていたわけです。釈迦が生存中に言っていたのは、このぐらいまでです。

その後、だんだん話が詳しくなってきて、さらに「十支縁起」という考えも出てきます。

ちなみに、ここで「縁起」という言葉の説明をしておくと、「縁起」とは、物事が成り立っていく様を時間的観点から説明した言葉です。この言葉の成り立ちは、「因縁生起」―因縁が生じ起きる、ということからきています。因縁生起のかなの二字をとって「縁起」という言葉ができています。

ですから、「十二縁起」といったり、「十二因縁」と言ったり、言葉の使い分けをします。厳密には、「因縁」とは、原因と条件、あるいは直接原因と間接原因と言ってもよいでしょう。「縁起」とは、ものごとがどんどん形成されて変転していくような様子をイメージしたニュアンスを持っています。【※十二縁起=無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死】

「支」とは「分かれている」という意味で、分類を表わしています。五つに分かれた縁起、それから十に分かれた縁起ということです。あるいは「十二支縁起」ともいいますが、十二に分かれた縁起のことです。

そこで、「十支縁起」の説明に入っていきます。「十支縁起」は「十二縁起」(十二因縁)の「無明」と「行」のところが欠落して、生まれ変わりのところから始まるわけです。【※識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死】生まれ変わりたいという意識(「識(しき)」)ができて、その意識が肉体的外形を伴って胎児になってくる「名色(みょうしき)」があります。それから「六処(ろくしょ・六入ともいう)」という「眼・耳・鼻・舌・身・意」がはっきりしてきて、「触」という、手触り、足触りなど、いろいろな触り方というものがあります。それから「受(じゅ)」すなわち感受性がはっきりしてきて、さらに自分の好み―「愛」というものがはっきりしてきます。好みがはっきりしてくると、「取(しゅ)」―こ・


�がほしいというのがはっきりしてきます。そして、それに執着をして、魂の傾向性というのがプリントされてきます。これが「有(う)」です。そうすると、また来世の生まれ変わり、「生」があって「老死」があります。これを「十支縁起」といいます。

なぜ、このような、胎児としての生まれ変わり的な説明をするのでしようか。これをよく「胎生学的解釈」といいます。釈迦の時代のインドでは、かなり解剖学が進んでいてよくお腹の解剖をして、なかを見たりしていたのです。当時としては、医学も仏教学もさほど区別はなかったわけで、人間を探究する態度は同じでした。

人間はどうして生まれてくるのか、死んでどうなるのかというは、やはり大きなテーマであり、生まれてくるシステムということは、みな知りたかったことなので、解明しようとしていたのです。当時のそういう医学知識が、この「十支縁起」の説明になかに入ってきたと言ってよいと思うのです。

ただ、ここにはすこし問題ががあります。それについて、「十二縁起」で説明しましょう。

【大川隆法『悟りの挑戦(上巻)』第6章『「業」と輪廻』より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、光とは何か。仏法真理とは何か。という問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第3章「愛の大河」
1 愛とは何か

本章では、「愛」について、みなさんと一緒に考えてゆきたいと思います。愛は、みなさんにとって、おそらくはいちばん関心があり、大切なものであるはずです。

人間として生きてゆく人生の過程において、もっとも大切なもの、いちばん輝かしいもの、それは、やはり愛なのではないでしょうか。人々は愛という言葉に、その響きに、魅せられてしまいます。愛という言葉には夢があります。愛という言葉には情熱があります。愛という言葉にはロマンがあります。

たとえば、今日一日という日が、あなたに残されたすべての時間だとしましょう。そして、夕べには死すべき運命であったとしても、誰かに愛をささやかれたら、すべての人間は、幸福の微笑を浮かべて、死へと旅立ってゆくことができるでしょう。

愛きな人生とは、疲れはてながらも、砂漠を歩む旅人の人生だといえます。一方、愛ある人生とは、道ゆく砂漠のなかに、そのところどころに、オアシスがあり、花が咲いている人生です。

ところで、愛とは、何なのでしょうか。一体何びとが、正確に愛を定義しえたでしょうか。文学者ですか。それとも、詩人ですか。あるいは、哲学者でしょうか。結局のところ、やはり宗教家でしょうか。

愛をどこまでつかめるか。愛の本質をどこまで洞察しえるか。これは、人類に与えられたひとつの課題です。ひとつの問題です。そして、それは、ひとつのよろこびであり、ひとつの幸福であり、ひとつの悩みであり、ひとつの苦しみでもあります。

愛は、両極端です。すなわち、本物の愛は最高の幸せをもたらし、偽物の愛は、最大の不幸をもたらします。愛は、人生のよろこびの大半であり、また、それを誤解した場合には人生の苦しみの大半でもあります。

愛の本質をつかみ、愛を自分の思うがままにあやつりながら、最大の幸福をめざしてゆく、その方向にはひと筋の光明がさし来っているかに見えます。その行く手には、神が、笑顔で、大きく手を広げて待っておられるようにも思えます。

ともあれ、私は、本章において、愛の本質、愛の段階、愛と悟り、そして、神と愛について考えてゆくつもりです。

私は、天上界のイエス・キリストと、愛について、よく話をすることがあります。

キリストは、もちろん、愛の大家であり、愛の専門家であり、また、神の愛の体現者でもあります。そのキリストが、「現代人にこそ、まさしくほんとうの愛とは何なのかを告げ知らせ必要がある」というのです。というのは、愛が、現代ほど誤解されている時代は、有史以来めずらしく、わずかにアトランティスの末期や、旧約聖書にあるソドムとゴモラの時代ぐらいしか見当たらないからだそうです。

いずれにせよ、私は、この「愛」というものを真正面からとらえ、現代人の疑問に答えてゆきたいと思います。

八正道プラス愛の探究。それは、おそらく現代人にとって望まれる修行の姿であり、現代人に対する福音に対する福音ともなるはずです。ですから、私は、これから愛について多く語ってみようと思います。話は「愛」という定点からとらえた人生観、世界観、真理観となっていくはずです。

【大川隆法『太陽の法』第3章「愛の大河」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。

人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第1章 四次元の世界
9 過去世の記憶

天国・地獄について、いろいろと述べてきましたが、四次元世界において最も驚くべきことは、過去世の記憶がよみがえってくることです。あの世に還った霊にとって、これが最も珍しくもあり、驚きでもあります。

地上にいるときには、赤ん坊として生まれ、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と、勉強しながら大人になり、やがて歳をとっていくという人生経験を誇っているわけです。しかし、あの世に還ってみると、ほんとうの人生経験というのは、それほど短いものではないことが分かります。

しかも、それは数千年、数万年といった程度ではなく、百万年でもありません。もっともっと古いものです。数千万年、数億年の歴史を、みなさんの魂は刻んでいます。あの世に還ると、こうした過去世の記憶が戻ってきます。そして、「はるか昔から自分は人間として生きてきたのだ」ということを知るのです。

ただ、地獄にいる人たちには、過去世の記憶がなかなかよみがえってきません。地獄は非常に苦しく厳しい世界であり、現在ただいまにおいて苦しみが多いと、過去を振り返ることがなかなかできないからです。

たとえば、歯痛のために七転八倒の苦しみをしている人に、「自分の過去を思い出してみなさい。過去を反省してみなさい」と言っても、そう簡単にはできないでしょう。それと同じく、苦しみのなかでのたうちまわっている地獄霊にとっては、ほんとうは過去世の記憶をひもとくことが可能であっても、事実上、できないのと同じなのです。

一方、天国に還った人たちには、過去世の記憶がよみがえってきます。

といっても、過去世を思い出す能力には人によって差があります。平凡な人間として生き、あの世に還った人の場合は、せいぜい一代か二代ぐらい前のことが、かすかに思い浮かぶにすぎませなん。それは、「はるか昔に、そうしたことがあったな」という程度の記憶です。

しかし、さらに上段階の霊に進化していくと、過去世のことをもっと明確に思い出すことができます。菩薩は数万年ぐらい前のことまで思い出すことができます。如来になると、もっと昔のことまで思い出していくことができます。如来は、数十万年、あるいは百万年ぐらい前のことまで、思い出そうとすれば思い出すことができるのです。

そして、九次元の大如来になると、天地創造のことからの話を思い出すことができます。「はるかなる数億年の昔に、どのようにして自分たちが生まれ、どのようにして地球が生まれ、どのようにして人類が進化してきたか」ということを、一つひとつ思い出すことができるのです。

このように、過去世の記憶を思い出すといっても、その霊の置かれた立場によって、思い出す領域が違ってきます。

これは展望台に上るのとよく似てています。高い展望台に登れば登るほど、遠くまで見渡すことができますが、展望台が低ければ近いところしか見えず、地下室に降りてしまえば何も見えません。これと同じです。地下室、すなわち地獄にいたのでは何も見えませんが、高く登れば登るほど、遠くまで見ることができます。つまり、大昔まで思い出すことができるということです。

このように、過去世の記憶といっても、一代前しか思い出さない人、何代も前まで思い出す人、何十代、何百代前まで思い出す人と、いろいろです。この辺が非常に神秘的なところです。霊的自覚を積めば積むほど、本当の意味で、過去・現在・未来というものが見えてくるようになるのです。

【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第1章「四次元の世界」より抜粋】
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「人生は一冊の問題集」という言葉は幸福の科学では有名な言葉となっています。この人生の問題集に答えを出すに当たり、とても重要な教えが「愛」です。
本日の引用ではこのようにありました。

『愛は、両極端です。すなわち、本物の愛は最高の幸せをもたらし、偽物の愛は、最大の不幸をもたらします。愛は、人生のよろこびの大半であり、また、それを誤解した場合には人生の苦しみの大半でもあります』

そして、私たちが人生の問題を解決するに当たり、どのようにすればよいかについてもこのように説かれました。

『八正道プラス愛の探究。それは、おそらく現代人にとって望まれる修行の姿であり、現代人に対する福音に対する福音ともなるはずです』

八正道と愛の探求を日々の心の修行の中心において、ともに精進を重ねてまいりましょう。

『愛をどこまでつかめるか。愛の本質をどこまで洞察しえるか。これは、人類に与えられたひとつの課題です。ひとつの問題です。そして、それは、ひとつのよろこびであり、ひとつの幸福であり、ひとつの悩みであり、ひとつの苦しみでもあります』

今世の人生修行のなかで、どれだけ主の愛を発見して、それを私たちの隣人に分け与えることができるか。それが私たち被造物としての人類に根本仏から与えられた課題です。

主からは、正しき心の探究において、「真説・八正道」は日々の反省で毎日精進するべき短期目標の修行課題であり、「愛の発展段階説」による愛の探究は、中・長期的な努力目標であることも教えていただいています。また、愛と反省は日々の心の修行において習慣化できる修行課題であることも教えていただいています。愛の探究と反省の実修はぜひ習慣化しましょう。毎日、コツコツ取り組むことが大切です。

本日も、主の愛を発見して、与える愛の実践を共にしてまいりましょう。

また、『永遠の法』では、この世の使命を果たして、あの世に還ったら、過去世の記憶がよみがえってくるという事実を学びました。そして、その記憶も、悟りの段階に応じて、遠い過去世まで思い出すことができるということでした。高級霊になればなるほど古い時代の記憶をよみがえらせることができるということです。反省によって、悟りの力によって、心の透明度が上がれば、より高次元世界へと還ることができるようになりますが、それは、展望台で高いところへ行けば行くほど遠くを見渡せることに似ているという教えがとても印象的でした。悟りの段階に応じて、遠くの過去を知る能力というものが、帰天後よみがえるということは、新鮮な驚きです。

また、地獄に堕ちた霊が、過去世の記憶を思い出せない理由も、地獄霊たちは、現在ただいまの苦痛や苦しみ、悲しみ、あらゆる暗い想念、ネガティブな感情に囚われていて、とても過去世を思い出す心の余裕がなくなっているからであるという説明に納得がいきました。やはり心に執着があると霊としての本来の力が生かされないことがよく分かります。

では、なぜこのように、生きている間にあの世のことや、前世記憶を思い出せないのか。その理由は地球での地獄の成り立ちととても関係が深いことを、第五節にて守護霊・指導霊の仕組みにて学びました。この世とあの世に地獄領域ができるまでは、地上に生きている人間は霊界との交信が可能で、過去世のことも、地上に生きながら覚えていました。しかし、一億二千万年前にルシフェルが高級霊に反乱を起こし、地獄領域が四次元世界に出来上がったときに、地上三次元世界が急速に地獄化したことを受けて、この地球でのルールが一部書き換えられています。『太陽の法』のp92にはこのようにあります。

『そのとき、アモール、すなわち、現在のイエス・キリストの提案で、次の三つのことを決めたのです。

一、悪霊の完全な支配を避けるため、今後、地上界の人間には、原則として、霊界と同通させないこととし、物質世界で、よりよき人生を選びとる方向で努力させる。

二、地上に誕生するとき、各人に守護霊を一名つけ、地獄界からの誘惑から身を守らせることとする。

三、実在界のことを完全に忘却されてはこまるので、今後、一定の周期ごとに、光の大指
導霊を地上に派遣して、宗教を説かせ、あの世の実在世界について、人々に知らしめる。

この三原則は、それ以降、一億年以上にわたり、守られております。しかし、地獄界がかなり巨大なものとなったため、一名の守護霊の力だけでは、魂修行をしている人間をまもりきることが、とてもむずかしくなってきました。しかも、宗教家以外の一般の人々は霊界通信が禁止され、したがって、過去世の記憶を思い出すことが不可能になったため、かえって、この世の物質的欲望にのめり込んでゆくようになりました』

このように、過去世の記憶というものは、基本的には、あの世に還ったときでなければ思い出すことができなくなってしまいました。これは、地上での私たちの魂修行が円滑に行えるようにする配慮ではありましたが、これが地上での唯物論・無神論を広げる遠縁にもなっているので、とても難しい問題です。このことは『太陽の法』を読み解くことでしか理解することができない学びでありますので、共にさらに学びを深めてまいりましょう。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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