93 「経営の神様」とは、智慧のかたまりである。どんな技でも使い分ける。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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おはようございます。本年も残すところわずかとなりました。
主から本年一年に賜りましたご指導に対して、心からの感謝を捧げます。「エル・カンターレへの感謝・報恩研修」は年末まで開催しています。個別対応もいたしますので、ぜひ受講ください。
「エル・カンターレの感謝・報恩研修」の趣旨は以下のとおりです。
①「エル・カンターレの感謝・報恩研修」では、本年の「大川隆法総裁先生
復活の祈り」や、信仰の純粋化シリーズの公案研修、御法話研修、御法話セミナー、原曲研修等の学びを振り返り、改めて、主への感謝を深め、報恩の思いを共に固めます。
②仏法真理をお説きくださる主への感謝を深め、3500 回を超える御説法や、3150 書を超える経典、450
曲を超える楽曲、さらに祈願、精舎修行等の価値をあらためて実感していただくことで、御法話拝聴者や経典・楽曲普及、精舎修行参加者の増大につなげます。
③「大川隆法総裁先生
復活の祈り」において、主が根本仏であられ、造物主であられることへの理解を深める。そして、純粋な信仰心によって、主のご復活への祈りを捧げ、主が願われる信仰者へと新生することを誓います。
さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日からは経典『太陽のメッセージ』part2を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
また、後半では、本日より経典『復活の法』第三章より『永遠の法』講義として賜りました御法話「天国に還る方法」を学んでまいります。本日最終日です。
経典『復活の法』をお持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税抜き1800円】
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太陽のメッセージPart2
第1章「悟りとは何か、その極致とは」
8 新しい時代の新しい悟りの方法―真説・八正道
悟りの方法とは、神仏の境地と自己の境地が融合されていくための手立てです。神仏の心を心として生きるにはどうしたらいいのかという方法論であるということです。そしてその方法論としては、真説・八正道がひとつにあり、いまひとつには愛の発展段階説があるということを語ってまいりました。
そしてこのどちらを取ってみても、一生かかっても到達しえないぐらいの深遠さがあるということです。たとえば八正道のなかに「正しく見、正しく語る」【※正見・正語】という項目がありますが、この「正しく見る」、「正しく語る」ということを、ある程度の段階までマスターできたと思うまでには、普通の人であればやはり五年や十年はかかるということなのです。
そうとう修行が進んだと思っても、思わぬ人と出会ったり、思わぬような事情に陥ったときに、思わぬ意見が出たり、やはり取り乱すというのが人間の常なのです。そうしてたときにあっても不動の心でいられるまでになるのは、やはりその間の修行にはそうとうの時間がかかります。
9 「正見・正語」の深まりのある人
こうした「正見・正語」の悟りが深まってきた方はどのように見えるかといいますと、一見ひじょうに柔和に見えます。ですから、この人がそのような修行を積んでいるということを知らない人、あるいは、外からみてもわからない人からすれば、そ人の姿を見て、甘く見ることもたまにあります。なかには甘く考えるだけでなく、小馬鹿にするような態度をとるようなこともあるわけです。
ところが意外に根を張っているのです。一見してそうとう柔和なので、人びとは甘く考えているのだけれども、実はそういう修行を五年、十年と積んできた人は、外側は柔和だけれども内は剛といいますか、内面に非常に固くしっかりしたものができています。
ですから、小さなことにおいては全然とらわれていないのです。それで何をいわれても平気な顔をしているわけですが、大きな判断においては、人の意見に自分の判断を左右されません。このように柔和な感じの人が、ここぞというような判断のときには、自分の考えを絶対曲げないのです。私はこう考えるといえば、ほかの人がどう言おうと曲げないのです。普段は何を言われても、適当に合わせているために、甘く見られそうな人がそのような強さを発揮するわけです。柔和なるがゆえに、適当に話のツマや、刺身のツマにされているような人が、意外にここぞという判断のときに、絶対にぐらつきません。このような人が、このレベルをクリアーした方なのです。外柔内剛タイプの人です。
これを見抜けない方がけっこう多いと思いますが、この「正見・正語」を修行してきた人の姿はそのように見えるということです。それとは対照的に外見からしてもすごいタイプで、見るからにワーワーと自己主張をしそうなタイプはまだこれができていないのです。まだはっきりと自分の考えが明確に出てしまうタイプ、はまだこれができていないのです。まだはっきりと自分の考えが明確に出てしまうタイプ、すなわち目は口ほどにものを言い、口は口以上にものを言う人です。この人たちはまだまだここができていないのです。
この修行は、やはり外に出す前に、自分の言葉をいったんフィルターに欠けるという訓練によって出来てくるのです。人は「自分はこう見た」と言います。たとえばあなたが、ある人を見てその人をこのような人である思ったとします。けれども、思ったときにそれをすぐバーッと口に出すようであっては、この修行はできていないわけです。この修行においては、こうだなと思うけれども、第一判断は留保するわけです。そうだろうと思うけれども、もうしばらく観察を続けるわけです。
この人には、このような点はあるけれども、あそこはもしかするとちょっとかわる可能性があるかなという部分では評価をひかえるべきかもしれないし、他の人が見たならば評価が違うかもわからないなと思う部分、そのような部分についてはあえて口に出さないでストップしておくのです。そしてどうしてもこれは確実であると思えるところについては、必要があればその人について言うことができる。必要がなければ言わない。このような「正語」の修行ができるかどうかです。
そして「正見」の「正しく見る」の「見る」でありますが、「見る」と言っても自分の目に映ったものを、なんでもかんでも事実ととらえるのではまだ本物ではありません。自分が見たものだけではなく、聞いたものも読んだものも同様でありますが、これらをすべてそのものが事実であるととらえるようであってはいけないのです。やはり自分が得た情報であっても、たとえば第三者を通して得た情報もあるし、直接得たものもあるでしょう。そのようにして得たものであっても、誤解はけっこうあるわけなのです。意外なところに誤解というものが潜んでいるのです。
10 「ピンの発見」と「正見」
一九八八年三月の講演会「知の原理」のときに、「ピンの発見」ということをお話したことがあります。このもまた何かの機会に詳しい話をしたいと思っておりますが、意外にピンの部分があるのです。本人も気づいていない、そして他人も気づいていないこのようなピンの部分があってそれが人をいろいろな方向に走らせている場合がけっこうあるのです。それはじっとこの「正しく見る」の延長で見ていきますと、わかってくることがあります。
いろいろな悩みを持っている人が、みなさんのなかにもいらっしゃるでしょうが、その悩みのほんとうの原因は、本人が思っているものと全然違うところにあることがあるのです。本人も気づいていないというところにあるのです。なぜ気づいていないのかといいますと、それを意識したくないからなのです。ほんとうは意識したくないがために気づこうとしない。そしてそれを覆っているのです。ほかの原因のせいでそうなっているとずっと思っている。ところが意外なところにあることがあるのです。これを自分で発見するとハッと思います。
そして同じ他人についても、あの人は変わった行動をするなと思って見ていることがあると思いますが、やはり、これもじっくりと観察していますと、その人のピンを発見することがあるのです。実はもしかすると、これでこの人はこのように判断して行動するのではないかということがあります。それに気づいてしまうとなぜそうなるのかがわかるのです。逆にそれに気がつかなければ、十年でも二十年でも変わった人だなと見続けるわけなのです。意外なところに原因があるのです。その人自身がそのように動かざるをえない原因というものがあるのです。
これが極端に出るのが、やはり優越感と劣等感の部分であると思います。いちばん誤解をされやすいのが、優越感でギラギラしているタイプで、ひじょうにプライドが強く見える人です。みなさんのなかにもそのような傾向の方もいらっしゃると思いますが、このような人はひじょうに誤解を受けやすいのです。人からは、なぜかんなにうぬぼれているのか、あいつは何様だと思っているのかと、こう思われがちなのです。
そしてたいていの場合、それを探っていくと、このような人はどこかに根深い劣等感を持っていることが多いのです。そして、それをどこかで晴らそうとして、動いておられるわけなのです。けれども、ほかの人にはそのピンの部分が見えないのです。そして本人自身も気づいていないこともあるのです。自分がそのような劣等感の裏返しでやっているということに、実は本人自身も気づいていないのです。ですから、そのに気づいたときに、その虚勢のようなものが一瞬のうちに消えてしまうことがあります。
みなさん自身もそうであると思います。気づいたときに、ああ、実は自分はこんなところに劣等感が根ざしていたんだなというのがやはりあると思います。それで変なところで突っ張っていたんだなというところがおそらくあるのではないでしょうか。
たとえば女性でも、きっと中途半端な年齢の方もいらっしゃると思います。独身主義者など言う方もたくさんいます。そういう方はだいたい自称独身主義でかためています。親に聞かれても、「私は独身主義者なの」といって、全然異性のことなど考えたこともないし、私はもう自分の考え方で生きたいのですと、一生懸命自分にそう思いこませようとしていて、親や友達にもそう言っていることがあるかもれしれません。
しかし、これなどもよくピンを探っていきますと、意外なところにあることがあります。その人に独身主義者という哲学を説かせるのだけれども、ピンが意外なところにあって、昔〇〇さんにこのようなことを指摘されて、それ以来それを思い出すだけでも嫌いになってどうしようもないなどというところにあることがあるのです。ほんとうに人から見ればささいなつまらないところに、このピンがあることがあります。
11 自分のピン・他人のピン
ピンとは、実は潜在意識下にグーッと沈んでいて、自分ではもうふたをして覆っていたいことなのです。表現はあまりよくありませんが、そのようにズーッと臭いものにふたをして、五年、十年と長いあいだ、発酵させてしまいますと匂い漂ってくるわけです。それが独自の哲学をつくり、プライド強くいろいろな主張をさせたりすることがあります。これは女性の例を出して申しわけありませんでしたが、男性でもそうしたことはいくらでもあるのです。
このように「正しく見る」ということのなかにも、このピンの発見が含まれています。自分自身が人から見て、中道に入った動きをしていないと思われるときや、あるいは人の批判を買ったり、非難を買ったり、怒られたりするようなことがあるときには、やはり人の目からみて自分の発言や行動が異常な動き方をしているのです。
そのときによく見てみますと、そのような行動に自分をかりたてている何らかの原因があることが多いのです。その原因を発見することも、自分を「正しく見る」ということなのです。
また、自分が他人を見ていて、これはおかしいと思うことがありますが、全人格的におかしいとレッテルをパッと貼ってしまう前に、なぜ彼はそうなるのだろうかということをよく見てみるときに、自分がいろいろなことで悩んだことがあれば、わかることがあります。「ははあ、彼はことでだな。」というのがわかるのです。本人も気づいていませんが、それが分かってくるようになりますと、その人を理解できる鍵が手に入るのです。この人はこれでこのような突拍子もない行動をとるのだなというのがわかるのです。
このようなところをつめていかなれば、「正しく見る」ということはほんとうにできないのです。ですから、今日は美人を美人と評価して、不美人を不美人と評価したから、これで自分は正しく見て評価したなどといって、それで満足していたのでは「正しく見る」ということにならないのです。こうしたことではなく、もっと深く入っていかなければないけないということです。
12 阿羅漢の心
正しく仕事をし、生活をするということもだいじです。そして正しく思い、道に精進するということができるようになれば、だいたい阿羅漢に近いということが言えると思います。阿羅漢とは六次元の神界から菩薩界に入るための登竜門の部分であるということは、よくご存じの方もいらっしゃると思いますが、ある程度自分づくりができた状態を言います。したがって、人のささいな言葉で心が動揺したり、ちょっとしたことでカーッしたり、地位欲や名誉欲に心が揺れているようでは、阿羅漢とはいいがたいということなのです。
ですから、これは宗教的な悟りを試すのにひじょうに便利です。いろいろな団体で先生をやっている方もたくさんいらっしゃると思いますし、読者のなかにもほかのところで学んでこられた方、あるいは現に学んでおられる方もいらっしゃると思いますが、ここを見るとわかるのです。そこの指導者と言われる先生が、すぐカーッとなる性格であったり、脅したりすかしたりするようなことがあれば、少なくとも阿羅漢ではないのです。けれども本人は如来、菩薩であると思っているのかもしれません。それでは足が遠ざかって当然です。そのようなことです。
ですから自分が偉いと思いはじめると、その偉い自分の考えを聞かない、言うことをきかない人というのはもう我慢がならなくなってくるのです。そして攻撃的に非難するようになってきます。そして自分が教えるということが終生になってくると、それが当然になってきて、それ以外の素晴らしい考えがあると思えなくなってくるのです。これがいちばん危ない部分です。そのような人たちのなかにも、いたんは、この阿羅漢に達したこともある人が多いのでしょうが、このような状態であれば、危ない状態にあると考えてけっこうかと思います。
心があまり揺れないということが、この部分の前提となっているわけです。自分がそれに達したかどうかを判定したいのならば、心が揺れないということを基準としてください。もちろんいろいろなことが毎日起こりますから、全然揺れないというわけにはいきませんが、心という池のなかにポトンと石を投げ込まれたとても、大波を起こして渦巻くようではだめだということです。少しは波紋が起こるけれど、スーッと静まっていく。そして一日二日すれば、そんなことはもう忘れ去ってまた平常に戻れるということであれば合格点を差し上げられます。
この心の管理ができていない人は、五年でも十年でも同じようなことで動揺するということがあります。このようなことは損得で考えてみてもつまらないことです。ですから、自分にとってはそれほど大して有益でないことは、心を動揺させないでサーッと流していくのがいちばんよいのです。悩むことがほんとうに自分を愛していることかどうか、悩んで得になったかどうかということを冷静に考えて、得にならないようなことは、サラリと流してしていくのも心の修行です。ですから思いつめることもほどほどにすることです。「まあいいや、時間がたてば忘れるだろう。」という気持を持つことも大切です。
『太陽の法』のなかでも、「基本的な悟りの方法としては、この世的なことで心が揺れず、心がつねに清明で、自らの守護霊と通じあい、他人の気持ちが手に取るようにわかる段階、すなわち阿羅漢の境地を目指すべきであります。ここを経ずしては、それ以降の修行も悟りも、ありません。」といっているはずです。これが出発点ですというわけです。ずっと登りつめていたつもりでいても、実はここからUターンしている人がけっこう多いのです。せっかくこのあたりまで達したにもかかわらず、Uターンして返っていくのです。このことはよくよく考えていただきたいと思います。
13 阿羅漢・不退転そして如心
さて、次に如心という段階について話をいたします。このあたりから少し難しくなります。阿羅漢のことについてよく聞いておられる方は、だいたい感じとしてつかめているかと思いますが、如心あたりから、少しわかりにくい感じになってくると思います。
一九八七年の五月の研修において、阿羅漢の少し上にある段階、具体的にいいますと、不退転という段階があるというお話をしたことがあります。あら化の段階では前述のように、まだ心が揺れて逆戻りすることがあるのですが、不退転の段階に入ると、もう逆戻りしなくなります。多少の波風が立っても、もう戻らないという強い部分があります。これが菩薩への第一歩です。
そして、この如心というのは不退転の奥にある境地で、さらに進化した世界です。この如心にも、実はいろいろな段階があり、バラエティーがあるのです。『観自在力』のほうには、如心を如来の悟りとして主に私は話をしてみたのでありますが、実にさまざまな段階があるのです。これは、みなさん全体が阿羅漢のレベルぐらいにならなければ、この如心のバラエティーや段階などを言っても通じないと思います。ですから、みなさんが阿羅漢に到達して、もう菩薩も近いなということになれば、如心の第一段階、第二段階、第三段階というように説明していくとひじょうに勉強になるのでありますが、今の段階では、説明してもあまり意味がないと思います。
ですから大まかに言って、菩薩界の第一段階の如心の感じと如来界での如心という話をしてゆきたいと思っています。ここではまず、阿羅漢と如心との違いを語ってまいりましょう。
①阿羅漢とは
阿羅漢は、まだ守護霊と交流可能な境地にすぎないということが言われています。したがって阿羅漢へはだれでもいけるとということで、ここまでは多くの人びとの共通の目標になっています。自分の守護霊と同通するというのは、本来、自分の到達しうる可能性があるところです。
ここまではもともと可能性があるのですから、ようするに上へあがっていく過程であると考えなくてもよいのです。自分の庭に埋もれているものを掘り出すと考えてもよいのです。そこに宝の箱、あるいは金塊が埋まっていて、浅さ深さはいろいろあるのでしょうが、もともと自分で埋め込んできたところなので、掘ればカチンと当たって出てくるという段階だということです。ですからこれはみなさんにも十分可能性があるということです。しかし、この上は少し難しくなってまいります。
②不退転への心のそなえ
たとえば、真の宗教指導者のもとで、それまで阿羅漢の境地に達した弟子がたくさん育ったとします。けれども、その指導者が死去したときに、そのようなお弟子さんたちであっても勝手なことを言い出して教団がバラバラになったりすることがあるわけです。どこかの団体のことを言っているのではないかと思う人もいらっしゃいますので、あまり深読みされると困るのでありますが、いわゆる特定のところを言うつもりで書いているわけではありません。
さらに『太陽の法』にも書かれておりますように、「ある一つの修行方法を通して、ある程度悟った者が迷いはじめるのは、それ以前に教え、他の修行方法に対する心のそなえができていないからなのです。」というとがあるのです。ですから阿羅漢に達するまでの導き方においては、わりに一つの事を教えて連れてくるということも可能なのです。ひじょうに知識的には狭い範囲で修行を与えても、それなりに修行を積んできますと阿羅漢まで来ることは可能なのです。
ですから、善の授業などでもそうです。真理知識的には大したことを教わっているとは、とうてい思えないのですありますが、とにかく禅寺に何年か行って、心を調和して澄んだ心になる心までうまく行けば、阿羅漢にまではこれるのです。それ以上はないのですが、これぐらいまでは可能性があるのです。禅以外の世界でもこれは十分ありえます。
そうしてみますと、その一つの方法論にはとらわれているわけでありますが、先生が亡くなった場合に、それ先生の教えの領域外のものがもし出てきたときに、いったいどうすればいいのかさっぱりわからなくなります。価値判断ができないのです。マザー・テレサの話もいたしましたけれども、マザー・テレサに、通訳を通してもいいのでありますが、もし彼女に私たちの話を聞かせたとしても、それが理解できるかと言えば、たぶんわからないと思います。彼女自身はもちろん阿羅漢の悟りではなく、さらに高い菩薩の悟りを十分に得ていますが、それでもわかるかと言えばわからない部分そうとうあると思います。
それは幅の狭さの部分です。ですから彼女の弟子ならばさらに何をいわんやで、わからないのです。キリスト教系の人は特にそのようなことがあるようです。ほかの考え方や教えについての寛容さがないのと、理解する材料がそもそも与えられていないということがあります。
それは教えの量が少ないということも原因の一つとしてあるのです。イエス様が三年間解いたけれども、その教えの量が聖書の中のあの程度になっています。聖書のなかには、いろいろな種類の福音書がありますが、イエスを囲む背景的な描写が多く、一冊に盛られているイエスの説かれた自春水な真理の内容はどのくらいかというと、当然ながら本書の一冊分もないかもしれません。
ですから、そこに書かれている以外のことを読み取るということは非常に難しいのです。先生が生きていれば、いろいろなことをきけば明確な答えが返ってくるのでわかりますし、判断ができるのですが、先生がいなくなればわからなくなるのです。そのようなことがあります。いろいろな教えをはかる心の物差しがじゅうぶんにできていないということです。
③「幸福の科学」の教えの体系化の意義
この点、幸福の科学はひじょうによく考えています。はじめたばかりの団体ではありますが、【※1989年説法当時】私が死んだあとのことまでもう考えてやっているわけで、死んだあとでそのようにならないようすでにじゅうぶん考えています。そのためには、教えというものを明確に体系化して、それぞれについての見解をはっきりしておく必要があるということです。
それと、学習方法というのを確立しておかなければならないのです。勉強のしかたと指導の方法、これを確立しておけば、あとが混乱しないのです。ここの確立を怠ると、あとで組織がガタガタになってしまいます。それはどこでもいっしょです。一人のスーパーマンだけの意見についていって、いざ、そのスーパーマンがいなくなったときは、あたかも船頭がいなくなった舟のように転覆してしまうのです。
私にはもう最初からそれがはっきり分かっているので、教えのレベルの差、段階として、初級・中級・上級というように分けたり、あるいはもう少し細分化してこれをはっきりどの次元の法、教えであるかということや、そしてそのなかにはどのようなバラエティーがあるのか、ということを明確にしようとしています。またねその学習の方法と教え方をどうするのか、このあたりをかっちりと固めてくつもりでおります。あと何千年は持たないかもしれませんが、二千年ぐらいはもたせるつもりで考えています。【※1989年時点の見解】
阿羅漢についての考え方は各種小冊子にもよく出ているので参考にしていただけば幸いです。
【大川隆法『太陽のメッセージ』part2 第1章「悟りとは何か、その極致とは」より抜粋】
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続きまして、『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。本日最終日です。
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7 九次元の修行
『永遠の法』では九次元宇宙界についても述べていますが、結局、九次元の修行として最後に何かが残っているかというと、それは指導力なのです。
法の中身そのものについては、八次元までの人達によって、ほとんどの内容が説かれている面があります。八次元上段階、すなわち狭義の太陽界にいる人たちが説いていること自体は、九次元の霊人たちが説いていることと、あまり変わらないところまで来ています。
それでは、なぜ狭義の太陽の人たちは九次元にいないのかというと、指導力に差があると考えるべきです。彼らは、いつでもに入れるだけの準備はできているのですが、現に入っていない理由は、「指導力に差がある」ということです。あるいは、「魂としての力に差がある」と考えてもよいし、「役割としての違いである」と考えてもよいかもしれません。
九次元の修行としては、最後に指導力の修行が残っているわけですが、この指導力にも限界はありません。「どれだけ多くの人を指導したか。どれだけ多くの人を導いたか」ということにおいて、限界があろうはずはありませんし、地上の環境は次々に変わっていくので、それぞれの環境における指導の実績も、さまざまなものになります。こういう修行が最後に残っているのです。
みなさんの魂修行も、このプロセスを辿っていくことになります。
最後の段階である、指導力の修行をする前段階として、「悟りの高さ、感化力や影響力の深さ、悟りの幅の広さ」を求める修行が当然ありますし、その前には、「自分を空しゅうして、大いなるもののために奉仕する」という実践が必ずあります。
さらに、その前には、「真理そのものを学ぶ」という真理学習の体験があるはずですし、その真理学習の前には、「人間として、悪い生き方をせず、善人としての生き方をする」という修行目標があるはずです。
地獄界の修行目標については特に述べませんが、「少なくとも周りに害を与えない」という生き方、「マイナスよりはプラスを生み出す」という生き方ができることが必要です。
「あなたがいなければよかった」と言われる人間にならないことです。「あなたのせいで損害を受けた」と言われるようにでは、地獄で修行をすることになります。「あなたがいなければよかった」と言われる段階から、「あなたがいてくれてよかった」と言われる段階にまで、何とかしていかなければなりません。しかし、現実に地獄にいる人には、そのことについての認識が足りないのです。
本章では多次元構造の秘密について述べました。内容としては心の教えと次元構造を説いたことになります。
【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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『永遠の法』講義として賜りました「天国へ還る方法」では、九次元の修行として霊界の秘密を学びました。九次元大霊も修行しているということ自体が驚きです。根本仏は20次元以上の存在であるとも教えていだきましたので、私たちの修行は永遠の時のなかにあるということが分かりました。私たちに関連があるところでは、最後の教えが印象的でした。これは、教典『地獄の法』にも関連する教えであると思います。
『地獄界の修行目標については特に述べませんが、「少なくとも周りに害を与えない」という生き方、「マイナスよりはプラスを生み出す」という生き方ができることが必要です。
「あなたがいなければよかった」と言われる人間にならないことです。「あなたのせいで損害を受けた」と言われるようにでは、地獄で修行をすることになります。「あなたがいなければよかった」と言われる段階から、「あなたがいてくれてよかった」と言われる段階にまで、何とかしていかなければなりません。しかし、現実に地獄にいる人には、そのことについての認識が足りないのです』
私たちも、「あなたがいてくれてよかった」と隣人から言われるような生き方を目指して日々の心の修行に励んでまいりましょう。そして、主なる神を愛し、私たちの隣人を本当に愛するために「純粋なる信仰」を主に捧げてまいりましょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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