(12/23-2)86『仏陀再誕』を読む―信仰と仏国土建設への道―心から世界へ―祈りの本質

『仏陀再誕』を読む

95 現代の妖怪の三大聖地は、鳥取県、徳島県、岩手県だが、奈良や京都とは違った土着信仰の影響も大きかろう。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

6 地獄には、犯罪者の権化のような、罰せられている鬼と、仏宝護持をしている鬼とがいるのだ。後者は仏の御使いである。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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〇大乗仏教の中心は六波羅蜜多―①布施波羅蜜多

釈迦の教えの四番目の柱は、利自即利他の教えです。これは、いわゆる六つの完成といわれる六波羅蜜多(サス・パーラミター)の思想です。波羅蜜(パーラミター)とは、内在する叡智という意味であり、多とは、その叡智があふれ出てくるさまをいいます。

一 布施波羅蜜多(ふせはらみた・ダーナ・パーラミター)
これは、施(ほどこ)しの完成ともいい、慈悲のこの世的なる現われです。物質的に、あるいは、精神的に人々に施しを与え、救ってゆこうとする姿勢であり、キリスト教の愛の思想に通じるものだと言えます。

【大川隆法『黄金の法』より抜粋】
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○布施波羅蜜多
六波羅蜜多の最初には「布施波羅蜜多」があります。これは、別名「施しの完成」とも呼ばれています。
釈迦の思想では、「施し」が非常に重要視されています。「施し」という言葉は、いかにも仏教的な響きを有していますが、その根本は愛の思想であると言ってよいでしょう。キリスト教における愛の思想が、仏教では、布施の考え方、「施す」という考え方のなかに流れているのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第三章「六波羅蜜多の思想」から抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
そして、主から頂いた奇跡の一年も残りわずかとなっています。
主から本年一年に賜りましたご指導に対して、心からの感謝を捧げます。「エル・カンターレへの感謝・報恩研修」は年末まで開催しています。個別対応もいたしますので、ぜひ受講ください。

皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第七章 信仰と仏国土建設への道 
○心から世界へ

すべてのユートピアの根本は、
各人が自らの家庭を調和してゆくところにある。
これなくしてのユートピアはない。
これを言っておく。
これがユートピアの、実に九割を占めることなのだ。
この地上を仏国土にせんとするならば、
家庭ユートピアの建設こそ、その九割を占めることなのだ。
この九割をおさえて後、はじめて全体のユートピアというものはある。
それは、わずか残り一割の仕事であると言ってもよい。
残りの一割、そのなかにおいて、
いかに社会全体が、いかに国全体が、
調和に満ちた姿を、そして繁栄に満ちた姿を演じてゆくか、
それが次なる課題となるのだ。
しかし、各人が家庭において、まずユートピアを創ったならば、
どうしてその社会がうまくいかないことがあるであろうか。
それぞれの者が調和に満ちた光を出し、
はじめて全世界はよくなってゆくのだ。
各家庭に何ひとつの不平も不満もなくなった時に、
さて、国家にどれほどの難しい問題があるであろうか。
おそらく、それは単なる疑心暗鬼にしかすぎまい。
単なる取り越し苦労にしかすぎまい。
そう、国家は、最後にはその仕事がなくなってもよいのだ。
ユートピア家庭の集まりがあれば、それがすべてとなる。
そのような世界こそ、理想とすべき世界である。
他の人の力をもって、他の人の介在をもって、
ユートピアができるという考えは、
極力、排除してゆかねばならない。
あくまでも、小さな出発点、各人の、自らの心から出発して、
全世界をユートピアにしてゆくという道を考えてゆかねばならない。
それが、いつの時代も、不変の、不滅の、久遠の法であるのだ。
永遠の法であるのだ。
このことを、深く深く心に刻み、忘れることなきを、肝に銘(めい)じなさい。
(完)

○あとがき(旧版)

本書は、
私が今まで書き下ろしてきた本のなかでは、きわめて特異な体裁をとっています。

まず、本書のスタイルとして、諸々の比丘、比丘尼たち、すなわち修行者であるところの僧侶、尼、現代的に言うならば男性および女性の修行者に対するメッセージとなっております。

そのなかには、きわめて厳しい内容が含まれていると思いますが、私がみなさまにお教えしているところの仏法真理の道とは、実にこのように厳しいものであります。生半可な気持ちでもっては、この仏法真理の山はとても登頂できないのです。

ですから、本書は読み方によって二通りの読み方ができるでしょう。一つは、すでに仏法真理の道に入った者に対しては、これほど厳しい生き方があるのだということへの警告ですし、いま一つは、いまだ仏法真理の門に立ちかねているものに対して、これからの道程(みちのり)がどれほどあるかということを示すための手ごろな教科書と、入門書となることでしょう。

いずれにしても、本書を読んでいただければ、「釈迦の本心ここにあり」ということがおわかりのはずです。

どうか、繰り返し繰り返し、この言魂を味わっていただきたいと思います。

一九八九年七月 
幸福の科学 主宰 大川隆法

○新版へのあとがき

弟子たちよ、強くありなさい。

この世的誘惑や邪見に打ち克って、私のもとに集ってきなさい。

仏陀の直説(じきせつ)・金口(こんく)の説法を聞くためには、不退転の覚悟が必要です。優曇華(うどんげ)の花は、三千年に一度しか咲きません。そして同時代には、仏陀は一人しか生まれない約束になっています。

「いざ、再誕の仏陀のもとへ!」―これが、光の菩薩たちの合言葉です。

一九九四年十月
幸福の科学主宰 大川隆法 

【大川隆法『仏陀再誕』より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第六章 心の平静と祈り
4 祈りの本質

ここでは、祈りの本質について、話をしておきたいと思います。

祈りは、いろいろな宗教のなかにずいぶんあります。もちろん、祈りをやらない宗教もありますし、仏教のなかでは、基本的には、祈りということはあまり言いません。もちろん、祈願というものはありますが、祈りはあまり言わないかもしれません。

この祈りの本質とはいったい何なのでしょうか。何をもって「祈り」というのでしょうか。また、祈りはいったいどのような経緯から生まれてきたのでしょうか。そうしたことを考えてみたいと思います。

先ほどの長距離ランナーの話でいくならば、まず、祈りとはなにかというと、スタートする前に、「どうか四十二キロを完走させてください」ということが祈りでしょう。「最後まで走れますように、走り抜けられますように」ということでしょう。実際にスタートラインからスタートしたときには、「このあと、どうか、自分が人後に落ちず、納得のいくようなかたちで走れますように」ということでしょう。

また、途中の十キロ、二十キロで苦しくなったときには、「どうか、この苦しさを取り除いてください。へたばらず、へこたれず、スタミナを落とさずに最後まで走り抜けられますように」という祈りもありましょう。

あるいは、後半の三十キロ、四十キロになったら、「ラストスパートができますように、最後の仕上げができますように」という祈りもあるでしょう。

あるいは、ゴール目前となれば、「見事にゴールインできますように」という祈りもあるでしょうし、ゴールインすれば、今度は、「どうも長い間ありがとうございました」という祈りもありましょう。

そのように、祈りも、その人の置かれた時点時点で、また内容は変わってくるものと思われます。

ともあれ、祈りの本質はどこにあるかというと、結局は、「自分以外のものに対する帰依」、あるいは、「自分を超えるものに対する帰依」ということではないでしょうか。これが祈りの本質にあると思います。

なぜ、「自分を超えるものに帰依する」、すなわち、「お任せする」という気持になるのでしょうか。それは、「人生は一寸先が闇」とも言われるように、人間は先のことが分からないけれども、「自分もまた、根本仏の創られた大宇宙の一員であり、大生命の一端である」という自覚があるからではないかと思います。

「大生命の一端であるからこそ、自分の内には大宇宙の根本仏に通じるものがある。その自分の内なるものを求めていったときに、大いなる神仏に通じるものがあるのである」ということです。そうした神仏に通じるものを呼び出さんとする姿が、祈りではないかと私は思います。

祈りとは、増上慢になることであったり、うぬぼれることであったり、自己本位のまま、自我我欲のままに欲求を出すということでは決してないと思います。

それは、「本来、自分の内にあり、また、神仏の属性でもあるところのものを呼び出すための儀式」と言ってよいかもしれません。「無限の力、無限のエネルギーを呼び出すための儀式」と言ってもよいのではないでしょうか。

こうしてみると、祈りの際に、特に注意しなければならないことがあると思います。それは、自分以外のところに、本当は力を求めているのではないということです。祈りは、本当は、自分のなかにあって自分を超えたものに通じんとすることです。自分の内なものを発見していって、自分を超えたものへ辿(たど)り着かんとすることが祈りなのです。

これは、もちろん、心霊学的に見れば「高級霊」と言ってもよいし、「神」と言っても「仏」と言ってもよい人たちへの通信ということにもなりましょう。ただ、それは、自分とまったく別個の存在ではなく、本当は魂のなかにおいて、つながりがある人たちなのです。

そして、このときに大事な技法、手段、方法があります。それは何かというと、心を空しくしなくてはいけないということです。

あの世の実相世界に通じるパイプというものは、ともすれば詰まりやすいのです。なぜ詰まるかというと、この世の人間には「欲」があるからです。支配欲、独占欲、権勢欲、金銭欲、性欲といった「欲」です。地上の人間の欲のままに生きていると、このパイプが詰まっていきます。

このパイプを常に詰まらないようにするためには、淡々として、「無執着の生き方」をしていくことです。何があっても、何もないかのごとく生きていくことが大事なことであろうと思います。

したがって、祈りとは、自己のなかにあるものが超越的意識に通じているということを認識し、その超越的意識に通じるパイプを常に詰まらさぬように掃除をしておくことになります。この部分が大事であって、掛け声だけの祈りや、自我我欲を増長させるための祈りというのは、まったく魔界に通じていく祈りとなるので、そのあたりは、常々考えておかねばなりません。

祈りにおいて大事なことは、そうした全託に近い、無執着の思いであろうと思います。祈り本質が自己実現にあるとしても、その自己実現が単なる自分の利益の身を生み出すような自己実現であるならば、この祈りは違った方向へと曲がっていくことがあります。それは、あるときには、仙人界、天狗界の念の性質のほうに入っていくこともあれば、あるときには、地獄界に通じることもあります。この「祈りの効果、方向性」という部分の研究が大事です。

すなわち、「常によきことを祈る。自分のみならず、人々にとって、世界にとって、社会にとってよきことを祈る祈りを出すときの自分の心は穢(けが)れていないかどうかを点検する。明るい心で祈っていく」ということです。

それは、ある意味において、「神仏との対話」とも言えましょう。「神仏との対話することが祈り」とも言えましよう。そういうことではないかと思います。祈りには、まず、「謙虚さ」、そして、「無執着」ということを特に重視していただきたいと思います。

この全託の精神というものは、別の観点から言えば、非常に投げやりに近いように見えるかもしれませんが、大事なことは、”棚からぼた餅が落ちる”ことを祈るのではなく、「常に自らを磨きつつ、その大いなる成果について神仏に委ねる」ということです。常に自らを磨いておくことが、祈りが答えられるための前提条件なのです。

何もせずに、「神よ。仏よ。われに答えたまえ。答えてくれるなら信じましょう。答えなければ信じません」といった祈りは本当の祈りではありません。

常に自らが神仏に近づいていくための努力をしながら、「神よ、仏よ、願わくば、この祈りを叶えたまえ」「適当な時期があるならば、そのときに祈りの答えを与えたまえ」「この祈りが、私の魂の向上にとって役に立たない祈りであるならば、どうか、神よ、仏よ、また、別の機会に我を指導したまえ、磨きたまえ」という考えです。こうした余裕が大事であると私は思います。

ですから、本当の祈りが通じるためには、日々、心を謙虚にし、無私にし、努力する姿勢が大事です。そういう姿勢があってこそ、初めて、「全託」ということも生きてきます。これがなく、まったく欲望のままに、まったくのお任せで祈るのが全託ではないのです。このような考え方が非常に大事であろうと思います。

この地上を去った高級霊界においては、さまざまな高級霊たちが活躍していますが、かれらは地上の人間以上の認識力を持っています。地上の人間が分かる以上のことが分かるのです。そういう彼らであるから、適当なときに、適当なもの、あるいは、適当な人を与えて下さるのは当然のことです。その適当な時期や方法、あるいは、相手というものを、地上の人間心で限ってはいけないのです。

例えば、結婚という自己実現があって、結婚のための祈りがあったとしましょう。このときには、純粋に、「自分は結婚したほうが、いろいろと世の中の役に立てる。人の役に立てる」という心でもって祈るならば、その祈りは正しい祈りだと言えましょう。

しかし、そのときに、例えば、自分が特定の相手を心に描いていて、「その相手と、どうしても結婚させてください」と言って祈りを続けるとどうなるでしょうか。たまたま、神縁や仏縁がある相手であるならば、その祈りは正しい祈りとして叶えられるでしょう。しかしそうでない祈りを念によって成就させようとするならば、相手を縛り、相手を自分の意のままに動かさんとする自己保存、自我我欲、エゴの祈りとなります。

したがって、こうした祈りをした人は、間違えば地獄界、また、少し外れれば仙人・天狗界へと通じていきます。

「自分の祈りや念によって他人を自由に支配したい」という思いは誤りです。そうであってはいけません。祈りのときには、必ず、「神仏の御心に適うならば、こうした祈りを叶えてください」というように、特定の相手を縛ったり、動かそうとしたりしないことです。それを人間心で判定してはいけません。

「もし、よろしければ、神仏の望まれる相手であるならば、あの人と結婚させてください。しかし、そうでないならば、御心のままにしてください。また、それ以外に私に合う人がいたなら、その人を私にお与えください。まだその時期が来ていなければ、その時期で結構です」

そうした謙虚な祈りが大事であって、「相手を、自分の思うままに、思う時期に、思うようにしよう」というような祈りは完全に間違いです。この点について、私は特に言っておきたいと思います。

【大川隆法 『漏尽通力』第6章「心の平静と祈り」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について

・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。

・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。

日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。

・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。

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・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)

(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)

・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。 
(『現代の武士道』)

・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
 (「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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