90 営業とは、しつこさや、小手先の言い訳ことではない。誠実な弾(たま)を、相手の心の中心に撃ち込むことだ。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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おはようございます。15日より、エル・カンターレ祭が始まりました。22日(日)までエル・カンターレ祭を10時、13時、19時にて連日開催いたします。皆さまご参集ください。
主に心から今年一年の慈悲と知恵とご指導へと感謝と、さらなる報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
エル・カンターレ祭では、大宇宙を創り、生きとし生ける者を創り出され、永遠の愛を与え続けておられる「創造主の愛への感謝」を深め、主
大川隆法総裁先生より、この一年間に賜った数々の御慈悲を振り返り、心からの感謝・報恩の念いを捧げさせていただきます。そして、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、エル・カンターレ祭版「復活の祈り」を執り行います。
さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日からは経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
また、後半では、本日より経典『復活の法』第三章より『永遠の法』講義として賜りました御法話「天国に還る方法」を学んでまいります。
経典『復活の法』をお持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税抜き1800円】
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太陽のメッセージPart1
第3章「愛の力・神秘の力」
15 愛が神秘の力を発揮するとき
ここに一つのたとえ話があります。三羽の雀(すずめ)の話です。
一羽は「この世で一番素晴らしいものはお天道様だ。太陽だ。」というようにいいます。二番目の雀は「水がいちばんすばらしいのではないか。」といいます。三番目は、「いや、だれもが気づかないけれど、空気こそがいちばんありがたいのだ。というように三羽の雀が話をしていました。それを聞いていた一人の子供が、このような話は人間から聞いたことがない。雀からこのような話を聞くとは、何と人間は情けないものかと思うわけです。そして長老に相談します。すると長老はこのようにいいます。
「太郎よ、よく悟ったね。人間とは、いちばんすばらしいものさえ見失っているおろかな生きものなんだよ。そのおろかな生きものであっても、お互いに愛し合うことによって、その罪を許されている。人間は醜い。しかし、その醜さばかりをいくら見つめていても、醜さは消えない。神さまは、人間の罪を許し、醜さを消すために、愛という魔法の力をお与えになった。そして、愛があるから、その神秘の力で、人間は、万物の霊長であることを許されているんだよ。」
ここに愛の存在、愛の力、愛の法則、これが何のためにあるのかという説明があるわけです。世の中を見て醜いと言う人は多いのです。人間を見て醜いという人もいます。世の中を見て悪が満ちていると人はいいます。それはそうかもしれない。目にはそう映るかもしれない。
しかし、私たちにはこのような魔法の杖が与えられているのです。魔法の力が与えられているのです。それをなぜ使わないか。こう言われているわけです。魔法の力によって、世の中の悪、悲しみ、苦しみを消していくことができるのです。ですから、現に世の中がこうだからいけないというだけではなくて、この愛の力を忘れてはいけません。そしてその力に気づく前に「足ることを知る」という意味を知りなさい。すでに与えられているもののありがたさを知らなければいけないのです。それが、この太陽であり、水であり、空気であるのです。
この感謝の気持ちというのは、自分がどれほど与えられているかということの発見です。この与えられているということの発見がなければ、魔法の杖を振るということはできなのです。魔法の杖とは、ほんとうはみなさんが手に持っているのですが、この魔法の杖は透明であって、自分の目には見えないのです。目に見えないからその存在がわからない。そして使えない。ところがこうした感謝の心を起こしたとき、自らがどれほど恵まれている存在であるか、ほんとうにありがたいという心を起こしたときに、この魔法の杖が見えるのです。
この魔法の杖が見えてきたときに、これを一振りすると回りに奇跡が起きてくるわけです。世の中の醜さや、苦しさや、悲しさが、次々と消えていくのを目にすることができるのです。この魔法の杖を手にする方法は、実はこの「足ることを知る」考えであり、また感謝ということであります。このことを知ってください。このことによって、初めて内なる力を発見できるのです。このたとえをよく心に止めて置いてください。
16 人生の苦しみにあって
“愛に敵なし”ということを語ってみたいと思います。ここは、愛の観点からいわゆる光明転回の思想もとらえているわけです。この世に苦悩や苦しみがあるということは、私たちに選択をせまっているのです。
その選択とは何かといえば、一人一人が与えられる側の人生を選ぶのか、それとも与えられる側の人生を選ぶのか、その選択を迫られているのだということです。これはすでに光明転回理論ということで何度か語ってまいりましたが、この光明転回の理論、あるいは光明思想、積極的な人生展開の方法は、この愛の観点からも考えることができるのです。
この苦悩や苦しみから抜ける方法としては、実はそのようなときにこそ、自分たちに選択が迫られているのだという考え方をしてみなさいということなのです。人生の挫折のなかにあるときに、あるいはデッドロック(※交渉などの、行き詰まり。膠着
(こうちゃく)
状態)に陥ったときに、どうしてこれほど苦しいのか、このような失意のなかになければならないのか、とそう思ったときに、ハッと思い起こし、その瞬間に自分はいま与える側に立つのか、与えられる側に立つのかを迫られているのだと考えることが出発点となるという意味なのです。
このように考えるときに道が開けます。与えられることだけを願ってきたからこそ、今この苦境の中にあるのではないか。その苦境のなかにあって、「そうか、これは今選択肢を提示されたのだな、よし、与える側に立とう。」と思った時に、自分としてやることは無限に出てくるはずであります。しかし、そのことに気づかず、ひたすら与えられる側に立とうとしたときに、これはいたずらに日が暮れて泣き暮らすということになるでしょう。
ですから、苦しみや、悲しみに出合ったときに、これは与える側につくのか、与えられる側につくのか、これを試されているのだと思い、そして愛の理論によって乗り切っていきなさいということです。これが愛の理論による光明転回の方法であります。
17 愛のみかえりを人に求めたとき、愛は死ぬ
愛の本質とは、やはり与えることにあるのです。そしてその根源は、神が無限の愛を私たちに供給してくださっている、というところに帰せられるということです。みかえりを求めるということは本当の愛ではない。これはよく言われていることですが、なにゆえにそうであるのかと考えますと、ひとつの答えとして、実は「愛のみかえりは、ほかの人間から来るものではなくて、神から来るのだ。」ということなのです。
人間にみかえりを求めてはいけないと言っているのです。愛のみかえりは、人間から来るものではないのです。神から来るのです。すなわち愛を与えよと言ってもなかなかそれができないのは、与えただけ損をすると思うから、そこに間違いがあるのです。
与えた愛は与えた人のものになるのです。これが神の世界の法則です。霊の世界の法則です。与えただけ豊かになるのが霊の法則なのです。与えた愛は、与えられた人のものになるのではないのです。与えた人のものになるのです。このような法則があるのです。だからこそ、みかえりを求めるなと言っているわけです。愛を与えれば与えるほどに、与えた人自身が神近き人間となっていきます。それが神の見返りなのです。これがほんとうに実感されるようになるまでには、みなさん、まだまだ年月がかかるかもしれませんが、頑張ってほしいと思います。
与えた愛は与えた人のものになる。これは真実のことです。やはり人にみかえりを求めてはいけないのです。与えるという行為を出したということ自体が、その人にとって得たことになるのです。これはみなさんが地上を去るときにわかるのですが、たいていの人は、地上に生きてきた自分の過去というものを人生のドラマのシーンとして見せられます。そのときに自分の過去のなかでいちばん光っているもの、拍手が沸くところはどこかといいますと、この愛を与えたところなのです。ここで拍手が沸き、それがその人のいわゆる得点になり、勲章になっているのです。愛を与えてときにその人の頭上に守護霊が微笑み、光を投げかけているのです。
それゆえ、愛を与えるときにはすでに、愛を与えられているということのです。ここが大切です。ところが得よう得ようとしているときに、光は降りてきていないのです。これははっきりしています。そしてたいていの場合に執着をつくって真っ黒な曇りがでてきます。このようなシーンをやがてみなさんも見せられることになるでありましょう。ですから人に求めるなというのは、このことを言うわけです。
18 与えるということの意味
では、与えるということの定義をしてみましょう。
「与えるとは、どうすれば一人でも多くの人びとが幸せに生きられるかを考えながら、日々生きているということです。与えるとは、一人でも多くの迷える人びとの心に、愛の光を投げかけてゆくということです。また、一人でも多くの人びとを困難と挫折の人生から立ち直らせ、知恵と勇気の日々を送らせるかということです。」
これが与えるということの意味であることをよく理解しておいてください。与える愛、愛を与えるとはどのようにするのかというのは、このようなことだということです。どのようにすれば人びとが幸せに生きられるかを、考えながら生きるということ、これも与えることなのです。そして、現実に迷っている人に愛の光を投げかけることも与える愛です。また、困難と挫折の人生から立ち直らせること、知恵と勇気の日々を送らせること、これも与える愛です。そうしてみますと、与えるということは単に物を与えるのではないということがわかると思います。
私たちが地上を去ったときに考えることは、たいてい、自分の過去を見て、「自分がそこにあったのに、どうして自分に縁のあった人たちを幸福にできなかったのか。ああ、また自分のまわりにああいう不幸な人が通りすぎて行った。あれは自分を機縁としてあのような不幸な人が出た。なぜあのときに、あの一つの言葉をかけられなかったのか。あの行動ができなかったのか。あのとき、手を差し伸べられなかったのか。何とかならなかったのか。」これが悔いとして残る部分なのです。
19 知恵をもって与える愛
そして、さらに与えるにさいしての注意点としては、知恵をもって与えなさいということです。これは、はっきりと言われていることです。
仏教においてもそうでありますし、イエス様もこれはある比喩で語られております。私はあまりその響きは好きではありませんが、”豚に真珠を与えるなかれ”というような諺(ことわざ)を彼は使ったことがあります。たしかに響きは悪いのですが、これは知恵をもって与えよと言っているわけです。愛を与えるということであっても、それがほんとうに知恵を伴わなければ、人を活かさないということになる場合もあるのです。
たとえば、困っている人にお金を与えるときには、それが愛の行為になることはあるでしょう。ところが、自分のその生暖かい温情主義で、ずるずると金を出していくことによって、その人自身が自力更生して立ち上がり、独立する機会を失わせることもあるのです。このようなことはよくあることでしょう。お子さんを育て上げられた方のなかにも、このような経験をされた方はいらっしゃるかもしれません。息子が働かずにいつまでもぐうたら、ぐうたらしている。しかし、お金を送らないと飢え死にするといてワァワァいうものだから、送る。そしてまた、息子は一ヵ月ぐうたらと生き延びる。そしてまた送る。こうしていつまでたっても働かない。このようなことがいくらでもあります。
仕事の関係でもよくある話でありますが、取引先で、いろいろと危機に陥って、援助を求められることがあるでしょう。そのときに真実それがどうなのか、これをどう判定するかは難しいのです。ほんとうに梃入れをして、この人にお金を貸して、あるいは援助することによって、立ち直ってよくなると思う場合には、そうしなければならないこともありますし、逆に実はずるずると泥沼に陥っていく道であることもあるのです。両方あります。どっちがその人にとってほんとうによいのか、これはよくよく考えて,知恵を持って与えなければいないのです。
「他人に金を貸すな」という言葉でも同じようなことがあります。「金を貸すと友人を失う」という諺(ことわざ)が昔からあります。お金とか本は返ってこないものの例です。私などもやはり金を貸すのは好きなほうではないのです。何度か貸したこともありますが、そのときには、そのままあげるつもりです。もう返って来ないという感じで、自分はいくらまでならあげてよいかを、考えた上で貸しています。そして、たいてい向こうが依頼してくる金額はやはりあげないほうがほんとうはよいのです。百万貸してくれと言われたときに、そのまま返すことができないのはわかっているのです。
ですから、返ってこなくても自分が腹が立たない限度はいくらであるのか、ということを考えればよいのです。百万貸したところで返ってこないであろうな、自分としては十万ぐらいなら貸すことができるかな、余裕があれば五十万くらいいけるかな、と思うことはあるけれども、このようにして、貸したならば忘れてしまうことです。返ってくればもうけもので、当然のごとく返らないと思っていて、腹が立たない限度を考えればよいのです。
しかし、それさえしないほうが本人のためにも良いと思えば、貸さないほうがいいのです。ほんとうにいい商売があって、お金さえあればいけるのだというのは、たいてい、ダメなことが多いと思って間違いがないのです。
ほんとうにいちばんだいじなことは、その人がちゃんと自力更生できる道を開いてあげるようにすることです。突き放すだけがよいことではありませんから、やはり、仕事のしかたを知らない人には、仕事のしかたを教えてあげる。お金の使い方を知らない人には、お金の使い方を教えてあげる。このような考えが大切です。
お金に関していえば、やはり自分で元手を作って、商売を始めたような人は、お金のありがたさがわかっていますが、他人のお金だけをあてにして商売をしてきたような人は、やはりうまくいかないのです。このような人にはお金を貸しても、けっきょく失敗に終わることが多いのです。
商売を始めるときであっても、自分自身で三百万なり、五百万なり、を自分自身で一生懸命働いて貯めたお金を元手にして商売を始めていった方というのは、成功する率が高いのです。それはお金のありがたみをよく知っているからです。このような人が、たとえば、あと百万あれば、うまくゆく方策がある、というときには出してあげても成功することがひじょうに多いのです。
ところが全然元手もないし、働いたこともないけれども、思いつきがあるので、五百万貸してくだされば新しい商売が始められるからといわれて貸したとすれば、たいていはだめであるし、自分にも一生悔いが残ることになります。そのようなことがよくあります。
このようなときに、知恵を使って与えることを考えなければいけないということなのです。
20 愛と知をどうとらえるか
「愛の発展段階説」、これはよく語ってまいりましたので、ある程度はわかっておられる方も多いと思います。ある意味で、突飛な考え方ではあると思いますが、この一説が仏教とキリスト教を融合する理論であると考えています。
ここでは愛と知の問題について考えてみたいのですが、六次元の生かす愛の段階で、知性の愛、理性の愛ということがいわれています。それでは、知の部分というのは、愛のなかで六次元部分に相当するのかという考え方が出てくるわけです。
“愛は知にまさる”という言葉がありますように、愛は知を超えるものであるという考え方があります。もう一歩奥まで語っておけば、確かに知はこの六次元世界のものであり、それより高い愛のレベルが存在します。そしてその愛のいちばん奥にあるものはいったい何であるとかといいますと、これは叡智なのです。叡智のレベルでまた愛と知は一つに融合します。神の叡智のレベルで、大いなる愛と知が一つになるのです。このように考えてください。
そして、「生かす愛」、「許す愛」のこの境地は実際の説明としては、なかなか難しい部分があるのですが、体験を通してある程度わかることもあると思います。そして、この基準でみますと、その人の悟りの段階もわかるのです。修行の方法として、目標として、この愛の発展段階というものを考えてください。これも、必ずトータルなものではないとは思っておりますが、ある程度の目安にはなると考えています。
【大川隆法『太陽のメッセージ』第3章「愛の力・神秘の力」より抜粋】
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続きまして、『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。
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5六次元から七次元へ
〇まず阿羅漢の境地に達する
ここまでは、主として、地獄へ行かずに天国に入るための方法を述べました。
幸福の科学において、信者を指導する際のターゲットがどの辺にあるかといえば、第一段階としては六次元光明界上段階の阿羅漢の境地です。私は、「ある程度、菩提心があって、悟りを求めている人が、阿羅漢の境地にまで達するように導きたい」と考えています。
その次の段階としては、「実際に伝道活動を重視したい」という考えを持っています。なぜかというと、「数多くの菩薩をつくりたい」という願いがあるからです。法話を聴いたり、研修を受けたりして、仏法真理を勉強しているうちは、六次元的な修行ですが、他の人に伝道したり、教えを説いたりしはじめると、それは七次元的な活動になるのです。
「今世を縁として、できるだけ多くの菩薩をつくっていきたい」ということが、私の願いであり、考え方でもあります。多くの人が自分づくりをし、多くの人を導けるようになっていただきたいと思います。
仏法真理の勉強は、実は、地上界だけではなく、天上界でも行われています。
それは主に六次元で行われています。それぞれ、優れた技能を持って、六次元に入ってきた人たちであっても、その上の世界に入っていくためには、仏法真理について学ぶ必要があるのです。
仏法真理は、地上で学ばなくても、いずれ、あの世で必ず学ぶことになるので、地上で勉強しておいたほうがよいのです。
六次元で学ぶ内容は霊系団によって違うこともありますが、それは、地上の各大学に、いろいろな授業があることと同じです。
地上の各大学は、それぞれ先生が違うため、教えている内容は、さまざまですが、そこには、「これだけのものを履修すると卒業できる」という単位制度があります。それと同様に、六次元光明界では、所属する団体や教えの違いによって履修単位は違うものの、一定以上の単位をクリアした場合には、「六次元の修業は終わった」ということが認定されるのです。
【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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本日の『永遠の法』講義「天国へ還る方法」では、六次元光明界から七次元菩薩界へと悟りを上げるためにまずは六次元上段階である「阿羅漢」の境地までに達する精進の道を示していただきました。『永遠の法』で、私たちはあの世の世界が悟りの程度によって住み分けされている霊的事実を教えていただいています。天使・菩薩は人助けのプロであり、仏の御手足てしての奉仕を使命として聖なる仕事をしています。七次元世界の登竜門である「阿羅漢」の境地を日々の宗教修行のなかで、目指すことがとても大切です。
主におかれましては、光を生み出し、物質化によって人類を創造し、空間として、地球という魂の修行場をつくり、時間としての転生輪廻の仕組みをつくったのは、ひとえに人間に宇宙の二大法則である進歩と調和を実現するためです。だから主はこの愛の星地球で、数多くの光の天使・菩薩を生み育てたいと願われています。主の願いは、「自も他も生かす生き方」による空間縁起による「中道からの発展」とこの世においても、あの世においても幸福であるという時間縁起による「中道からの発展」です。私たちには、菩薩になり、根本仏の御手足として主の仕事を手伝うという聖なる使命があります。光の使命を共に果たしてまいりましょう。
共に、主のため、世のため、隣人を救い助けるために精進の道を歩んでまいりましょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
文責:蒲原宏史
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90 営業とは、しつこさや、小手先の言い訳ことではない。誠実な弾(たま)を、相手の心の中心に撃ち込むことだ。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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おはようございます。15日より、エル・カンターレ祭が始まりました。22日(日)までエル・カンターレ祭を10時、13時、19時にて連日開催いたします。皆さまご参集ください。
主に心から今年一年の慈悲と知恵とご指導へと感謝と、さらなる報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
エル・カンターレ祭では、大宇宙を創り、生きとし生ける者を創り出され、永遠の愛を与え続けておられる「創造主の愛への感謝」を深め、主
大川隆法総裁先生より、この一年間に賜った数々の御慈悲を振り返り、心からの感謝・報恩の念いを捧げさせていただきます。そして、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、エル・カンターレ祭版「復活の祈り」を執り行います。
さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日からは経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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経典『復活の法』をお持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税抜き1800円】
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太陽のメッセージPart1
第3章「愛の力・神秘の力」
15 愛が神秘の力を発揮するとき
ここに一つのたとえ話があります。三羽の雀(すずめ)の話です。
一羽は「この世で一番素晴らしいものはお天道様だ。太陽だ。」というようにいいます。二番目の雀は「水がいちばんすばらしいのではないか。」といいます。三番目は、「いや、だれもが気づかないけれど、空気こそがいちばんありがたいのだ。というように三羽の雀が話をしていました。それを聞いていた一人の子供が、このような話は人間から聞いたことがない。雀からこのような話を聞くとは、何と人間は情けないものかと思うわけです。そして長老に相談します。すると長老はこのようにいいます。
「太郎よ、よく悟ったね。人間とは、いちばんすばらしいものさえ見失っているおろかな生きものなんだよ。そのおろかな生きものであっても、お互いに愛し合うことによって、その罪を許されている。人間は醜い。しかし、その醜さばかりをいくら見つめていても、醜さは消えない。神さまは、人間の罪を許し、醜さを消すために、愛という魔法の力をお与えになった。そして、愛があるから、その神秘の力で、人間は、万物の霊長であることを許されているんだよ。」
ここに愛の存在、愛の力、愛の法則、これが何のためにあるのかという説明があるわけです。世の中を見て醜いと言う人は多いのです。人間を見て醜いという人もいます。世の中を見て悪が満ちていると人はいいます。それはそうかもしれない。目にはそう映るかもしれない。
しかし、私たちにはこのような魔法の杖が与えられているのです。魔法の力が与えられているのです。それをなぜ使わないか。こう言われているわけです。魔法の力によって、世の中の悪、悲しみ、苦しみを消していくことができるのです。ですから、現に世の中がこうだからいけないというだけではなくて、この愛の力を忘れてはいけません。そしてその力に気づく前に「足ることを知る」という意味を知りなさい。すでに与えられているもののありがたさを知らなければいけないのです。それが、この太陽であり、水であり、空気であるのです。
この感謝の気持ちというのは、自分がどれほど与えられているかということの発見です。この与えられているということの発見がなければ、魔法の杖を振るということはできなのです。魔法の杖とは、ほんとうはみなさんが手に持っているのですが、この魔法の杖は透明であって、自分の目には見えないのです。目に見えないからその存在がわからない。そして使えない。ところがこうした感謝の心を起こしたとき、自らがどれほど恵まれている存在であるか、ほんとうにありがたいという心を起こしたときに、この魔法の杖が見えるのです。
この魔法の杖が見えてきたときに、これを一振りすると回りに奇跡が起きてくるわけです。世の中の醜さや、苦しさや、悲しさが、次々と消えていくのを目にすることができるのです。この魔法の杖を手にする方法は、実はこの「足ることを知る」考えであり、また感謝ということであります。このことを知ってください。このことによって、初めて内なる力を発見できるのです。このたとえをよく心に止めて置いてください。
16 人生の苦しみにあって
“愛に敵なし”ということを語ってみたいと思います。ここは、愛の観点からいわゆる光明転回の思想もとらえているわけです。この世に苦悩や苦しみがあるということは、私たちに選択をせまっているのです。
その選択とは何かといえば、一人一人が与えられる側の人生を選ぶのか、それとも与えられる側の人生を選ぶのか、その選択を迫られているのだということです。これはすでに光明転回理論ということで何度か語ってまいりましたが、この光明転回の理論、あるいは光明思想、積極的な人生展開の方法は、この愛の観点からも考えることができるのです。
この苦悩や苦しみから抜ける方法としては、実はそのようなときにこそ、自分たちに選択が迫られているのだという考え方をしてみなさいということなのです。人生の挫折のなかにあるときに、あるいはデッドロック(※交渉などの、行き詰まり。膠着
(こうちゃく)
状態)に陥ったときに、どうしてこれほど苦しいのか、このような失意のなかになければならないのか、とそう思ったときに、ハッと思い起こし、その瞬間に自分はいま与える側に立つのか、与えられる側に立つのかを迫られているのだと考えることが出発点となるという意味なのです。
このように考えるときに道が開けます。与えられることだけを願ってきたからこそ、今この苦境の中にあるのではないか。その苦境のなかにあって、「そうか、これは今選択肢を提示されたのだな、よし、与える側に立とう。」と思った時に、自分としてやることは無限に出てくるはずであります。しかし、そのことに気づかず、ひたすら与えられる側に立とうとしたときに、これはいたずらに日が暮れて泣き暮らすということになるでしょう。
ですから、苦しみや、悲しみに出合ったときに、これは与える側につくのか、与えられる側につくのか、これを試されているのだと思い、そして愛の理論によって乗り切っていきなさいということです。これが愛の理論による光明転回の方法であります。
17 愛のみかえりを人に求めたとき、愛は死ぬ
愛の本質とは、やはり与えることにあるのです。そしてその根源は、神が無限の愛を私たちに供給してくださっている、というところに帰せられるということです。みかえりを求めるということは本当の愛ではない。これはよく言われていることですが、なにゆえにそうであるのかと考えますと、ひとつの答えとして、実は「愛のみかえりは、ほかの人間から来るものではなくて、神から来るのだ。」ということなのです。
人間にみかえりを求めてはいけないと言っているのです。愛のみかえりは、人間から来るものではないのです。神から来るのです。すなわち愛を与えよと言ってもなかなかそれができないのは、与えただけ損をすると思うから、そこに間違いがあるのです。
与えた愛は与えた人のものになるのです。これが神の世界の法則です。霊の世界の法則です。与えただけ豊かになるのが霊の法則なのです。与えた愛は、与えられた人のものになるのではないのです。与えた人のものになるのです。このような法則があるのです。だからこそ、みかえりを求めるなと言っているわけです。愛を与えれば与えるほどに、与えた人自身が神近き人間となっていきます。それが神の見返りなのです。これがほんとうに実感されるようになるまでには、みなさん、まだまだ年月がかかるかもしれませんが、頑張ってほしいと思います。
与えた愛は与えた人のものになる。これは真実のことです。やはり人にみかえりを求めてはいけないのです。与えるという行為を出したということ自体が、その人にとって得たことになるのです。これはみなさんが地上を去るときにわかるのですが、たいていの人は、地上に生きてきた自分の過去というものを人生のドラマのシーンとして見せられます。そのときに自分の過去のなかでいちばん光っているもの、拍手が沸くところはどこかといいますと、この愛を与えたところなのです。ここで拍手が沸き、それがその人のいわゆる得点になり、勲章になっているのです。愛を与えてときにその人の頭上に守護霊が微笑み、光を投げかけているのです。
それゆえ、愛を与えるときにはすでに、愛を与えられているということのです。ここが大切です。ところが得よう得ようとしているときに、光は降りてきていないのです。これははっきりしています。そしてたいていの場合に執着をつくって真っ黒な曇りがでてきます。このようなシーンをやがてみなさんも見せられることになるでありましょう。ですから人に求めるなというのは、このことを言うわけです。
18 与えるということの意味
では、与えるということの定義をしてみましょう。
「与えるとは、どうすれば一人でも多くの人びとが幸せに生きられるかを考えながら、日々生きているということです。与えるとは、一人でも多くの迷える人びとの心に、愛の光を投げかけてゆくということです。また、一人でも多くの人びとを困難と挫折の人生から立ち直らせ、知恵と勇気の日々を送らせるかということです。」
これが与えるということの意味であることをよく理解しておいてください。与える愛、愛を与えるとはどのようにするのかというのは、このようなことだということです。どのようにすれば人びとが幸せに生きられるかを、考えながら生きるということ、これも与えることなのです。そして、現実に迷っている人に愛の光を投げかけることも与える愛です。また、困難と挫折の人生から立ち直らせること、知恵と勇気の日々を送らせること、これも与える愛です。そうしてみますと、与えるということは単に物を与えるのではないということがわかると思います。
私たちが地上を去ったときに考えることは、たいてい、自分の過去を見て、「自分がそこにあったのに、どうして自分に縁のあった人たちを幸福にできなかったのか。ああ、また自分のまわりにああいう不幸な人が通りすぎて行った。あれは自分を機縁としてあのような不幸な人が出た。なぜあのときに、あの一つの言葉をかけられなかったのか。あの行動ができなかったのか。あのとき、手を差し伸べられなかったのか。何とかならなかったのか。」これが悔いとして残る部分なのです。
19 知恵をもって与える愛
そして、さらに与えるにさいしての注意点としては、知恵をもって与えなさいということです。これは、はっきりと言われていることです。
仏教においてもそうでありますし、イエス様もこれはある比喩で語られております。私はあまりその響きは好きではありませんが、”豚に真珠を与えるなかれ”というような諺(ことわざ)を彼は使ったことがあります。たしかに響きは悪いのですが、これは知恵をもって与えよと言っているわけです。愛を与えるということであっても、それがほんとうに知恵を伴わなければ、人を活かさないということになる場合もあるのです。
たとえば、困っている人にお金を与えるときには、それが愛の行為になることはあるでしょう。ところが、自分のその生暖かい温情主義で、ずるずると金を出していくことによって、その人自身が自力更生して立ち上がり、独立する機会を失わせることもあるのです。このようなことはよくあることでしょう。お子さんを育て上げられた方のなかにも、このような経験をされた方はいらっしゃるかもしれません。息子が働かずにいつまでもぐうたら、ぐうたらしている。しかし、お金を送らないと飢え死にするといてワァワァいうものだから、送る。そしてまた、息子は一ヵ月ぐうたらと生き延びる。そしてまた送る。こうしていつまでたっても働かない。このようなことがいくらでもあります。
仕事の関係でもよくある話でありますが、取引先で、いろいろと危機に陥って、援助を求められることがあるでしょう。そのときに真実それがどうなのか、これをどう判定するかは難しいのです。ほんとうに梃入れをして、この人にお金を貸して、あるいは援助することによって、立ち直ってよくなると思う場合には、そうしなければならないこともありますし、逆に実はずるずると泥沼に陥っていく道であることもあるのです。両方あります。どっちがその人にとってほんとうによいのか、これはよくよく考えて,知恵を持って与えなければいないのです。
「他人に金を貸すな」という言葉でも同じようなことがあります。「金を貸すと友人を失う」という諺(ことわざ)が昔からあります。お金とか本は返ってこないものの例です。私などもやはり金を貸すのは好きなほうではないのです。何度か貸したこともありますが、そのときには、そのままあげるつもりです。もう返って来ないという感じで、自分はいくらまでならあげてよいかを、考えた上で貸しています。そして、たいてい向こうが依頼してくる金額はやはりあげないほうがほんとうはよいのです。百万貸してくれと言われたときに、そのまま返すことができないのはわかっているのです。
ですから、返ってこなくても自分が腹が立たない限度はいくらであるのか、ということを考えればよいのです。百万貸したところで返ってこないであろうな、自分としては十万ぐらいなら貸すことができるかな、余裕があれば五十万くらいいけるかな、と思うことはあるけれども、このようにして、貸したならば忘れてしまうことです。返ってくればもうけもので、当然のごとく返らないと思っていて、腹が立たない限度を考えればよいのです。
しかし、それさえしないほうが本人のためにも良いと思えば、貸さないほうがいいのです。ほんとうにいい商売があって、お金さえあればいけるのだというのは、たいてい、ダメなことが多いと思って間違いがないのです。
ほんとうにいちばんだいじなことは、その人がちゃんと自力更生できる道を開いてあげるようにすることです。突き放すだけがよいことではありませんから、やはり、仕事のしかたを知らない人には、仕事のしかたを教えてあげる。お金の使い方を知らない人には、お金の使い方を教えてあげる。このような考えが大切です。
お金に関していえば、やはり自分で元手を作って、商売を始めたような人は、お金のありがたさがわかっていますが、他人のお金だけをあてにして商売をしてきたような人は、やはりうまくいかないのです。このような人にはお金を貸しても、けっきょく失敗に終わることが多いのです。
商売を始めるときであっても、自分自身で三百万なり、五百万なり、を自分自身で一生懸命働いて貯めたお金を元手にして商売を始めていった方というのは、成功する率が高いのです。それはお金のありがたみをよく知っているからです。このような人が、たとえば、あと百万あれば、うまくゆく方策がある、というときには出してあげても成功することがひじょうに多いのです。
ところが全然元手もないし、働いたこともないけれども、思いつきがあるので、五百万貸してくだされば新しい商売が始められるからといわれて貸したとすれば、たいていはだめであるし、自分にも一生悔いが残ることになります。そのようなことがよくあります。
このようなときに、知恵を使って与えることを考えなければいけないということなのです。
20 愛と知をどうとらえるか
「愛の発展段階説」、これはよく語ってまいりましたので、ある程度はわかっておられる方も多いと思います。ある意味で、突飛な考え方ではあると思いますが、この一説が仏教とキリスト教を融合する理論であると考えています。
ここでは愛と知の問題について考えてみたいのですが、六次元の生かす愛の段階で、知性の愛、理性の愛ということがいわれています。それでは、知の部分というのは、愛のなかで六次元部分に相当するのかという考え方が出てくるわけです。
“愛は知にまさる”という言葉がありますように、愛は知を超えるものであるという考え方があります。もう一歩奥まで語っておけば、確かに知はこの六次元世界のものであり、それより高い愛のレベルが存在します。そしてその愛のいちばん奥にあるものはいったい何であるとかといいますと、これは叡智なのです。叡智のレベルでまた愛と知は一つに融合します。神の叡智のレベルで、大いなる愛と知が一つになるのです。このように考えてください。
そして、「生かす愛」、「許す愛」のこの境地は実際の説明としては、なかなか難しい部分があるのですが、体験を通してある程度わかることもあると思います。そして、この基準でみますと、その人の悟りの段階もわかるのです。修行の方法として、目標として、この愛の発展段階というものを考えてください。これも、必ずトータルなものではないとは思っておりますが、ある程度の目安にはなると考えています。
【大川隆法『太陽のメッセージ』第3章「愛の力・神秘の力」より抜粋】
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続きまして、『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。
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5六次元から七次元へ
〇まず阿羅漢の境地に達する
ここまでは、主として、地獄へ行かずに天国に入るための方法を述べました。
幸福の科学において、信者を指導する際のターゲットがどの辺にあるかといえば、第一段階としては六次元光明界上段階の阿羅漢の境地です。私は、「ある程度、菩提心があって、悟りを求めている人が、阿羅漢の境地にまで達するように導きたい」と考えています。
その次の段階としては、「実際に伝道活動を重視したい」という考えを持っています。なぜかというと、「数多くの菩薩をつくりたい」という願いがあるからです。法話を聴いたり、研修を受けたりして、仏法真理を勉強しているうちは、六次元的な修行ですが、他の人に伝道したり、教えを説いたりしはじめると、それは七次元的な活動になるのです。
「今世を縁として、できるだけ多くの菩薩をつくっていきたい」ということが、私の願いであり、考え方でもあります。多くの人が自分づくりをし、多くの人を導けるようになっていただきたいと思います。
仏法真理の勉強は、実は、地上界だけではなく、天上界でも行われています。
それは主に六次元で行われています。それぞれ、優れた技能を持って、六次元に入ってきた人たちであっても、その上の世界に入っていくためには、仏法真理について学ぶ必要があるのです。
仏法真理は、地上で学ばなくても、いずれ、あの世で必ず学ぶことになるので、地上で勉強しておいたほうがよいのです。
六次元で学ぶ内容は霊系団によって違うこともありますが、それは、地上の各大学に、いろいろな授業があることと同じです。
地上の各大学は、それぞれ先生が違うため、教えている内容は、さまざまですが、そこには、「これだけのものを履修すると卒業できる」という単位制度があります。それと同様に、六次元光明界では、所属する団体や教えの違いによって履修単位は違うものの、一定以上の単位をクリアした場合には、「六次元の修業は終わった」ということが認定されるのです。
【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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本日の『永遠の法』講義「天国へ還る方法」では、六次元光明界から七次元菩薩界へと悟りを上げるためにまずは六次元上段階である「阿羅漢」の境地までに達する精進の道を示していただきました。『永遠の法』で、私たちはあの世の世界が悟りの程度によって住み分けされている霊的事実を教えていただいています。天使・菩薩は人助けのプロであり、仏の御手足てしての奉仕を使命として聖なる仕事をしています。七次元世界の登竜門である「阿羅漢」の境地を日々の宗教修行のなかで、目指すことがとても大切です。
主におかれましては、光を生み出し、物質化によって人類を創造し、空間として、地球という魂の修行場をつくり、時間としての転生輪廻の仕組みをつくったのは、ひとえに人間に宇宙の二大法則である進歩と調和を実現するためです。だから主はこの愛の星地球で、数多くの光の天使・菩薩を生み育てたいと願われています。主の願いは、「自も他も生かす生き方」による空間縁起による「中道からの発展」とこの世においても、あの世においても幸福であるという時間縁起による「中道からの発展」です。私たちには、菩薩になり、根本仏の御手足として主の仕事を手伝うという聖なる使命があります。光の使命を共に果たしてまいりましょう。
共に、主のため、世のため、隣人を救い助けるために精進の道を歩んでまいりましょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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