(12/19-1)353経典『太陽の法』を読む 太陽のメッセージ―愛の力・神秘の力2―善悪に対する考え方

『太陽の法』を読む

88 従業員の家族を護るためにも、営業員は、二枚腰、三枚腰で粘り抜け。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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おはようございます。15日より、エル・カンターレ祭が始まりました。22日(日)までエル・カンターレ祭を10時、13時、19時にて連日開催いたします。皆さまご参集ください。

主に心から今年一年の慈悲と知恵とご指導へと感謝と、さらなる報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

エル・カンターレ祭では、大宇宙を創り、生きとし生ける者を創り出され、永遠の愛を与え続けておられる「創造主の愛への感謝」を深め、主 
大川隆法総裁先生より、この一年間に賜った数々の御慈悲を振り返り、心からの感謝・報恩の念いを捧げさせていただきます。そして、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、エル・カンターレ祭版「復活の祈り」を執り行います。

さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。

今日からは『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】

また、後半では、本日より経典『復活の法』第三章より『永遠の法』講義として賜りました御法話「天国に還る方法」を学んでまいります。
経典『復活の法』をお持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税抜き1800円】
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太陽のメッセージPart1
第3章「愛の力・神秘の力」
8 真・善・美を哲学的にとらえると

哲学的な議論に多少なるかもしれませんが、私たちが物をみて美しいと感じるのは、人間がその美しさをいろいろと研究した結果、美しいと感じるのかどうか、というところに論点がいくわけです。

たとえば目の前に花瓶があるとします。そして美しい色とりどりの花があって、これを私が美しいと提起したとしますと、たいていの方は賛同されると思います。
美しいということでは賛同されるのですが、これをなぜ美しいと感じるのかという問題です。これについて説明してくれと言われたときに、どのような説明ができるでしょうか。ピンクの色が美しいとか、緑とこの赤っぽい色との対比がいいとか、バランスがいいとか、薄紫がいいとか、いろいろあると思いますが、なぜそれがいいのかといわれたときに、この説明はひじょうに苦しいのです。説明ができないのです。説明はつかないけれども、しかし、見ると美しいし、いいと感じるものがあるのです。

すなわち、私たちがある事実に基づいて判断した結果、これが美であるとか、善であるとか、真実であるとかという価値が生じるのか、私たちが研究し分析した結果として認定されるものなのだろうか、あるいは美というものなら、私たちが研究分析しなくても美はもともとあるのか、私たちが議論をする前にあるのかどうか、ここに問題があるのです。こう考えますと、私たちは花が美しいというときに、その美しさについてその理由を、だにでも納得できるように説明をすることができないのです。

なぜあの海が美しいのかといわれても何ともいえないのです。「何とも言えない輝きが美しい。」というような言い方になってしまいます。そうです。これなのです。いま私は美という例を引きましたが、善というものをとっても同じです。やはりいろいろな説明がされます。これはこうだから、こうだと言い、これは善いこと、悪いこと、というように言うことはできる突きつめていったときの善とはいったい何なのであろうかといったときに、これはひじょうに難しいものがあります。

あるいは真実の真です。これは真であるということでも、突きつめていくとやはり難しいのです。研究分析の結果、真であると証明されるのかどうかです。この真であるという証明を科学実験のように、何回くり返しても同じになるから真である、という方法論に限定したときに、私たちはそこから外れるものが数多くあることを発見せざるをえないのです。

たとえば、地球が自転しています。これは一つの真理であり、真ということでしょう。確かに回転しています。しかし、何ゆえにですか。これを説明できるでしょうか。なぜ、自転するのでしょうか。なぜ、何億年も回転していなくてはならないのでしょうか。この理由はありましょうか。そして、その地球は何ゆえに太陽のまわりを公転しなくてはならないのでしょうか。何か理由があるのでしょうか。いつも同じ方向にどうして回らなければならないのでしょうか。たまには気まぐれを起こして逆回転をしたり、上に上がったり、下がったりいろいろしてもよいのではないでしょうか。

なにゆえ同じ方向に回転するのでしょうか。このあたりが納得いくでしょうか。どうでしょうか。真ということであっても、なぜにということがわからないのです。そのような領域は数多くあり、そのなかにこそ、ほんとうのものといいますか、いちばんだいじなものがあるのです。よくはわからないけれども、それはそのとおりだなという部分がやはりあるのです。

このようにア・プリオリ(※先天的)という言葉で、哲学的にはいいますが、アというのは前提的に・先天的にという意味なのです。先天的というのは生まれる前からということです。仏教でいえば、父母未生以前(ぶもみしょういぜん)の自己というようなもので、両親が出てくる前の自分は一体なんであったのか。というような自己像です。これと同じことでありますが、存在の前にあたかどうかです。存在に先立って理念があったかどうか。このような問題になるわけです。

9 哲学の二つの流れ

このように考えていきますと、美とか、勇気とか、正義とか、善とか、このようなものは、私たちが研究し分析してそれがよいと認めたからそうあるのではなくて、人間がその議論をつくす前に、知識によって考える以前にやはりあるのではないか、という観点が強くなってきます。これが先験的立場です。

この立場とは逆に経験論的立場というものがあります。これは、人生で経験したものだけが真理であるという考え方です。経験論哲学の流れであります。実際に経験され、そしてそれが真理のレベルまで消化されたものだけが真実であるという考えです。いろいろな経験を通して得られたもの、それが普遍性を持ったときだけ真実であるという考え方です。これが経験論です。この経験論と、経験論でない先験性を考える理論と、これは哲学界でも二つの流れとして現にあるわけです。

しかし、真実はどちらかといえば、明らかに私たちの議論の以前に真実はあるという世界です。これを認めざるをえないのです。私たちの価値判断の以前に、現に美しいものがある、現に善いものがある、現に真実のものがある、という考え方、これが実は宗教的にいえば信仰ということなのです。これが信仰というものの本質です。

ふたたび、哲学的に表現すれば、第一原因論ということにもなってゆくでありましょう。物事はいろいろと結果が現われておりますが、結果の前には必ず原因というものがあります。みなさんがあるには両親がありましたし、今日そこにいるということに到る前には、そこに移動したという事実があります。必ず前の行為があって現在という結果があります。その前に何かがあって、今、みなさんはあるのです。

私が着ているこの服にしても、結果として、このような服になっておりますが、これにも原因行為があるのです。もちろん布を作る前の糸の段階、糸のもっと前である繊維の段階からあります。糸ができて、これを織りあげる段階があり、かたちができて、サイズを計って作る。それを持ってきて売り場に出し、そして買います。そのような過程があってはじめてここにあるのです。

しかし、原因結果の連鎖を深く深く探っていっても、最初の部分というのはわからないのです。あの鶏と卵の議論と同じです。鶏が先か、卵が先か、考えれば考えるほどわからなくなるといいます。さらに、それ以上にいろいろなものを考えていっても、第一原因へと遡(さかのぼ)っていきますと、わからない部分があります。つまり、ここはわからないけれども、第一原因として考えるか、考えないかということです。ここにも哲学的議論で行き止まりがあります。

これを第一原因である人智を超えたものとして、やはり何かあったのだと考える考え方は、これは哲学的アプローチからいった信仰であります。ですから、経験論的立場に立つのか、そうでない先験的立場に立つのかは、このどちらかが大きな分かれ目となってくるわけです。

10 経験論哲学を超えて

経験論哲学の流れのほとんどは、経験論哲学を論じている人たちが数学者であったりする事実と関係があるのです。彼らはそのように理論的に説明できないものは納得がいかないことが多かったわけです。しかし、その数学の以前のもの、すなわち、たとえば0という考え方、あるいは数字の1でもよいのですが、これは何であるかということです。これでいきますと、けっきょく数学の世界であっても、実は信仰の世界に入っていくのです。

1というのはいったい何なのかといったときに、これはひじょうに難しい問題です。コップを1であると考える。グラスを1であると考える。マイクを1であると考える。この1とはいったい何なのか。それぞれを客観的に見たときに全然違うものです。しかし、1という言葉では同じに表されているのです。この1の意味は何であろうか。これを考えていったときにわからないのです。物を分析していけば、いろいろなものの集まりなのですから、マイクが1本とはどのようなことなのか。グラスが1個とはどのようなことなのか。よく考えていただきたいと思います。

数学の世界でも、確かに1+1=2であるとか、2×2=4であるとか、このようなことであれば、そのとおりでありましょうが、その前提の部分、0とか1とかいった概念、これを説明できるかといえば、できないのです。けれどもこれを先験的に認めているのです。1というものをみなさんは認めます。グラス1個といいます。

しかし、この1個のグラスの1とはいったい何なのかと考えたときに、これを顕微鏡でのぞいて見たならばものすごく多数の粒子の集まりです。これを1というのです。あるいはコップ1杯の水があります。水の場合、これを一杯といいますが、これはいったい何なのだと考えてみたときにも、わからないのです。

数とはいったい何なのか。そもそも0とは何であるのか、0の概念も遡っていくと、これは仏教でいえば空と無の理論、このあたりと関係してきます。そして0とは空か無か、どちらのことを意味するのか、と考えたときにかなり難しい理論になってきます。はたして無なのか、無のことを0というのか。

しかし、0が無であるとするならば、0が数学に持ち込まれて使われるということはいったいどのようなことであるのか。1×0=0になる。2×0=0になる。これはどういうことなのだろうか。

たとえばグラスと瓶が2個あります。この2個というものに0を掛ければ0になるということはいったいどのようなことでしょうか。0とはいったいどういうことなのでしょうか。不思議です。まるでブラックホールのようです。現にあるものに0を掛ければなくなるのです。消えてしまう。これはどのようなことでしょうか。これを信じられるというのは、数学者は信仰の世界に生きているということなのです。そう思わざるをえないのです。私は納得がいかないのです。

現にりんごが2個あるといたしましょう。2個に0を掛ければ0になる。これはどういうことなのか。なぜりんごの2個が消えるのか。この説明をしていただきたい。できないのです。この0とはいったい何であるのかわからないのです。あるとするならば、創造と破壊の神がいて、0とは破壊の神のようなものです。一瞬にして消し去る力ですから、神様でなければ、このようなことはできないのです。

もちろんそのほかにも無限大という、難しい考え方があります。このように数学の世界、証明ができていると思っている世界に入っても全然証明ができない部分があるのです。究極は信仰の世界に入っていきます。そのようなものなのです。ですから、自称、論理的に物を考える人でさえも、突きつめていくと、最後のところで行きづまってまいります。

11 信仰の原点

やはり、どうしても前提的に認めなければいけない部分があるのです。これがいったい何なのかということであり、それは人間の知性の産物としてるされる存在か、または人間としての知性的な活動の以前にあるべきものかということになってきます。

これを思ったときに、やはり私たちは謙虚に考えなければいけないのです。ギブアップせざるをえないところがあるのです。白旗を上げ、両手を上げなければいけない瞬間があるのです。これがやはり結論であろうと思います。ここに信仰の原点があるということです。私たちの理解や、あるいは認識で説明がつかないもの、そして無前提にやはり宇宙の根源であると思われ、そして善いもの、すばらしいもの、と思われるものがあるということです。これを認める立場を信仰というのです。

「信仰とはナンセンスだよ。君。」という人にぶつかったときは、このような話してもしてみてください。

「それでは、数字の1というものを説明してください。どういうことでしょうか。0とはいったい何でしょうか。」これを言っていただきたい。

このようなことを考えていけば、神を考えなければしょうがないのです。すべてを消し去るような0というものは考えられないのです。「このように0というものを君たちは平然とコンピューターにインプットして計算してはいるけども、いったいどういうことなのか。」といわれたときに彼らはわからないのです。これが数学における信仰の世界です。私はそう思います。このように哲学的にでもよいのですが、さまざまなアプローチで、全世界をつくっているもの、あるいは人間の心のあり方を探求するときに、そこにやはり人間心を超えたものがある、ということを認める立場を信仰といいます。特定の神様を拝むことが信仰ではありません。このように理解していただければけっこうです。

12 愛のシャボン玉
「愛の力」について語ってみたいと思います。「愛とは私の知るかぎり、この地上では、最大の力をもっております。そしてこの世を去った実在界、四次元以降の多次元世界においても、愛は最大の力です。と『太陽の法』で述べてあります。

なぜ最大の力かということでありますが、愛の力とは実は、結びつける力であるからです。排斥し合う力が弱まれば、結び合う力は一人の力を二倍にも三倍にも強めていくのです。これはまことに不思議なことです。私たちは人間という立場から、人間と人間の間にある愛というものを考えますが、この立場、物事の観点といったものをかえて見るとどうなるでしょうか。

すなわち、愛というものがあって、そこの立場から人間を考えてみたときにどうなるかということです。ある人と私との間に愛が生まれるとします。すると二人の間に風船のようなシャボン玉のような愛ができ上がるわけです。直径二メートルくらいの愛があるとしましょう。このようなことが愛と人間との関係学でもありましょう。そして、逆に、この人と人との間にあるシャボン玉のほうから二人を見るのです。

この愛の観点から人間を見ればどうかと考えていくわけでありますが、そうしますと、まことに不思議な世界が、ここに展開してまいります。自分は愛というシャボン玉であるわけです。シャボン玉としての愛がこのように世界を見ていくのです。そうすると不思議なのです。自分という愛のシャボン玉が間に入っていくと、まわりの人間が変わってくるのです。目は生き生きとしはじめ、行動的になり、そして気力を増し、そして活動的になり、いろいなことを積極的にやりはじめます。そして世界がバラ色に見えてきます。どんどん仕事はするし、家庭のほうはうまくいく、そして人間関係は潤滑油があるかのように流れていきます。いろいろな人と会えば必ず笑顔を振りまきます。その人にあった人もなにかうれしくなって喜んでい・
・す。

このように、愛のシャボン玉の方の立場から見ておりますと、自分がここにいるだけで、何だか知らないけれども、人間と人間との間の力が増えていくわけです。別の言い方をしますと、人と人との間に一個の愛のシャボン玉があり、そのシャボン玉によって結ばれている人がいろいろなところを動いてゆき、またその人と接した他の人との間にも愛のシャボン玉が生まれていくのです。たくさん生まれていくのが見えるわけです。まことに不思議でありますが、まさしく、ゾンビの反対でありまして、地獄霊に取り憑かれておかしくなる場合と逆に、愛の霊に取り憑かれた場合といってもいいかもしれません。その愛の霊に取り憑かれた場合、伝染していくわけです。無間に増幅していくのです。ウイルスのごとく。この力はすごいもの・
・す。

13 広がる愛の輪

一人の人間が持っている力には限りがあります。また、いろいろと他の力を考えてみても限りがあります。それは人間のもっている力には有限性がどうしてもあるのです。自己増殖していくような力というのは考えてみても、あまりないのです。しかし、愛の力だけは、自己増殖していくのです。パンに入れたイースト菌のように、自己増殖してどんどん大きくなっていきます。

たとえて言えば、ゴルゴタで死んだイエスという人の愛があります。この人の愛というのも、考えてみれば、ものすごい増殖率です。イースト菌で発酵させたどころの話ではないのです。聖書のなかにも出ておりますが、要するにパンを何切れか取り出して、裂いて分けたら三千人、五千人の方が満腹になったと書いてあります。

物質化現象でそのようなこともありえるのでありますが、この部分をもっと深く考えれば、愛というものを分け与えたら、その愛が無限に広がった、という意味にも取れます。これは五千人どころではありません。イエスがこの二千年間に分け与えた愛というのは、いったいどれだれの量でしょうか。おそらく、億という単位でも数えきれないくらいの量であると思われます。一人の人間の愛がそれだけ増殖したのです。

人間の一日に歩ける距離、これは限られたものです。持ち上げることができる重さにしても、限度があります。いろいなものがありますが、その力は限られています。頭がよいと言っても、それは知れています。それほど人の何百倍も何千倍も頭のよい人などはいません。せいぜい人の二倍か三倍で、仕事の能力から言っても、せいぜい十倍ぐらいのものではないでしょうか。それ以上できるかといえばできいないのです。人間には限界があります。

しかし、この愛の力というのは、自己増殖力があるがために無限大に広がっていく可能性があるのです。この意味において最大であると言っているのです。地上においても最大でありますが、霊界においては、もっと強い力をもっているのです。この伝染力、すなわち、影響力というのが実在界においては、地上よりもっとストレートに出てくるのです。それゆえにこの力は巨大になっていきます。一人の人間に端を発した力がものすごく大きくなっていくのです。

以前にNHKで「大黄河」という特集をやっていました。私も少し見たことがあるのですが、黄河の淵源というのはチョロチョロ流れていて、水があるかがないかがわからないくらいなのです。それが下流にいきますと、あのように凄いうねりになっているのです。たとえていえばあのようなものでありましょうか。チョロチョロと静か苦を流したようなものがいつのまにか巨大な水流になってゆき、信じがたいほどの力を発揮します。あのようなものです。人間の持っている力においては、あのような形で大きくなっていくものは、ちょっとほかには見当たらないのです。このようなことを言っておきたいと思います。

【大川隆法『太陽のメッセージ』第3章「愛の力・神秘の力」より抜粋】
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続きまして、『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。
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4善悪に対する考え方
〇行為と実相を区別する
人と接していて、その人の悪いところしか見えなくなってきたら、自分の心は地獄にあると思わなければいけません。

実際には、悪く見えて当然の場合もありますが、そのときには、「行いを裁いて人を裁かず」という考え方が大事です。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もありますが、「他人のなかに、よいものを見いだす」ということは、霊的には非常に大切な考え方です。

他人の現在の言動を悪しきもと見るのは簡単ですが、その人の人格、人柄、魂のなかにあるもの自体を悪く思わずに、言動と分けて考えることは、難しいけれども大切なことなのです。

ただ、これを逆のほうに間違ってもいけません。善人の度が過ぎ、「みな、よい人だ」と言って無警戒であったために、悪いことを企んでいる人にもっと悪を行わせ、悪を増長させてしまう人もいます。こういう人は問題です。

これは行為と実相の区別がついていない例です。

有害な行為をする人、他人を害する傾向のある人、ユートピアを阻害する傾向のある人、仏の心に反する行為をする人に対しては、悪の行為を悪の行為として見ることも大事です。

ただ、実相までをも悪として見てしまうことには問題があるわけです。

逆に、「実相は善だから、行為もすべて善である」と捉えると問題があります。そこには、無政府主義、アナーキーが始まります。「みな、よいことなのだ。みな、よい人なのだ」と考えたら大変なことになります。「人間は、みな、仏の子、神の子である。だから、人間のすることは、みな、正しいことなのだ」と考えたならば、どうなるでしょうか。それを想像してみてください。

簡単なことですが、意外に、行為と実相の区別はついていないのです。

善一元論と善悪二元論の違いを考えるときも、ここが、いちばん大切なポイントです。一元論の危険なところは、実は、ここにあるのです。

実相と仮相の区別が大事です。仮相とは言葉や行動など表面に出てくるもののことですが、「実相が善だから、仮相もすべて善である」と考えたなら、もっと大きな善を逸(いっ)することにもなりかねません。

小さな善人であることは結構ですが、小さな善を得ようとして、もっと大きな善を失うことがあるのです。小さな善を得るために大きな善を失っていくならば、それは、ユートピア建設にとってマイナスに働く力となります。

たとえば、子供が火遊びをしていて、このままでは家に火が付きそうな状況のときに、「子供は仏の子、神の子だから、間違いはないのである」と考えて、知らん顔をしていると、家が燃えてしまいます。そのときには、「何をするか」と言って、厳しく叱らなければいけません。

その場合、仮相の場合、すなわち、表面に表れた行動の部分について、善悪の基準を立てて判断し、叱っているのであって、決して実相を憎んでいるわけではありません。子供を悪人だと言っているのではなく、行為自体がユートピア価値に反するからいけないと言っているのです。この区別が分からないと、一元論・二元論の議論は、まったく空虚なものとなっていきます。

【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】

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本日の『永遠の法』講義「天国へ還る方法」では、「行為と実相を区別する」という難しいテーマでした。これは私も社会人経験のなかで経験したことなのですが、例えば上司から仕事上で注意を受けたりしたときに、上司は仕事上の手続きについての不備を指摘していることに対して、受け取りが感情的になり、「上司は私を嫌っている」「上司は私の見方になってくれない」または、「自分は駄目な人間なのだ」など、正しい仕事運びとはまったく関係ない受け取りをしてしまうことが若いときにありました。仕事のことで叱られることは、その人の人格を否定しているのでは絶対ないということが、その当時私には理解できていなかったのです。このように、正しい仕事運びという「行為」(仮相)について、間違っていることを指・
・することと、その人の人格「実相」は全く別の問題です。

本日は以下のことを学びました。
『人と接していて、その人の悪いところしか見えなくなってきたら、自分の心は地獄にあると思わなければいけません。

実際には、悪く見えて当然の場合もありますが、そのときには、「行いを裁いて人を裁かず」という考え方が大事です。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もありますが、「他人のなかに、よいものを見いだす」ということは、霊的には非常に大切な考え方です。

他人の現在の言動を悪しきもと見るのは簡単ですが、その人の人格、人柄、魂のなかにあるもの自体を悪く思わずに、言動と分けて考えることは、難しいけれども大切なことなのです』

「行いを裁いて人を裁かず」
「罪を憎んで人を憎まず」
日常生活において、こういう場面はよく出てきますので、善悪の考え方としてしっかり身につけておきたいところです。
『善一元論と善悪二元論の違いを考えるときも、ここが、いちばん大切なポイントです。一元論の危険なところは、実は、ここにあるのです』

とも教えていただきましたので、とても重要な問題であると感じました。

最後の箇所はとても重要なのでもう一度繰り返します。

『簡単なことですが、意外に、行為と実相の区別はついていないのです。

善一元論と善悪二元論の違いを考えるときも、ここが、いちばん大切なポイントです。一元論の危険なところは、実は、ここにあるのです。

実相と仮相の区別が大事です。仮相とは言葉や行動など表面に出てくるもののことですが、「実相が善だから、仮相もすべて善である」と考えたなら、もっと大きな善を逸(いっ)することにもなりかねません。

小さな善人であることは結構ですが、小さな善を得ようとして、もっと大きな善を失うことがあるのです。小さな善を得るために大きな善を失っていくならば、それは、ユートピア建設にとってマイナスに働く力となります。

たとえば、子供が火遊びをしていて、このままでは家に火がつきそうな状況のときに、「子供は仏の子、神の子だから、間違いはないのである」と考えて、知らん顔をしていると、家が燃えてしまいます。そのときには、「何をするか」と言って、厳しく叱らなければいけません。

その場合、仮相の場合、すなわち、表面に表れた行動の部分について、善悪の基準を立てて判断し、叱っているのであって、決して実相を憎んでいるわけではありません。子供を悪人だと言っているのではなく、行為自体がユートピア価値に反するからいけないと言っているのです。この区別が分からないと、一元論・二元論の議論は、まったく空虚なものとなっていきます』

この論点は、日本神道系の神々や日本人の妖怪性の払拭に関して重要な示唆であると考えます。すなわち、「実相が正しければ仮相も正しい」とする一元論が変じて、「仮相が正しければ実相も正しい」となった場合、たちまちこの一元論が妖怪変化して、表面だけ正しく装えば、それは正しいかのように見える」という実質が伴わない実体論になります。これが妖怪性における生産性の無さを生み出しているとも考えられます。幸福の科学は、相対的二元論に近い考え方を基本的に取っています。安易な一元論、安易な光明思想は反省の法門をくぐることができず、結果的に悟りに至ることができません。この点をしっかり学んで、妖怪性の払拭に関する精進を共にさせていただきます。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
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文責:蒲原宏史 

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