87 「リベラル」は「愛」ではなく、なだらかに地獄へと続く、舗装道路である。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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おはようございます。15日より、エル・カンターレ祭が始まりました。22日(日)までエル・カンターレ祭を10時、13時、19時にて連日開催いたします。皆さまご参集ください。
主に心から今年一年の慈悲と知恵とご指導へと感謝と、さらなる報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
エル・カンターレ祭では、大宇宙を創り、生きとし生ける者を創り出され、永遠の愛を与え続けておられる「創造主の愛への感謝」を深め、主
大川隆法総裁先生より、この一年間に賜った数々の御慈悲を振り返り、心からの感謝・報恩の念いを捧げさせていただきます。そして、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、エル・カンターレ祭版「復活の祈り」を執り行います。
さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日からは『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
また、後半では、本日より経典『復活の法』第三章より『永遠の法』講義として賜りました御法話「天国に還る方法」を学んでまいります。
経典『復活の法』をお持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税抜き1800円】
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太陽のメッセージPart1
第3章「愛の力・神秘の力」
1 愛の発展段階説の誕生
『太陽の法』のなかにある「愛の大河」という章は、その本のなかでもメインの部分になるのではないかと思います。ひじょうに特色があり、愛についてこのようなかたちで一章をまとめている本というのは、なかなか、ほかには見当たらないのではないかと思います。それもいろいろな角度から切り込みながら書いた文章でありまして、興味をもって読んでいただけるのではないかと思います。
「幸福の科学」の教えの一つとして、愛の発展段階説というものがあります。これは比較的に以前からあるのです。私の考えのなかにはけっこう古くからありまして、この本全体につい、ぜんぜん構想がなかった時点においても、この発展段階説だけはわりに昔からありました。私は二十四歳くらいのときに霊道を開いたわけでありますが、(※1891年3月23日大悟)、二十七歳くらいのときには、この愛の発展段階説が、だいたい自分の考えのなかにでき上がっていたと記憶しています。
このときはまだ、商社勤めをしていたころで、私もいろいろと考えとしてはまとまっていたのですが、何しろ発表する機会がないということで、思っていたことを原稿に一部書きとめていたりしていたこともあったのです。あるときちょうど社内報に執筆しないかという話が舞い込んできまして、それではこれを書いてみようと思いまして、この愛の発展段階説、いまと多少違うところもありますが、要約はだいたいこのような内容で書いたみたのです。
原稿用紙四枚程度で書きまとめ、私の写真入りで出してみたところ、反響はありました。もちろん思想的なバックグラウンドがあるということはみなさんご存じなくて、その原稿用紙四枚分だけを読んでの反響ではありましたが、けっこうたくさんありました。そして、写っている写真がぼけていたところが憎かったという感じで言われたりしましたが、ずいぶん評判があがりました。
また、何か目に止まるところがあったのでしょうか、そのころ、ある新聞に、それが掲載されることになりました。社内報からということで、たぶんその新聞社ではいろいろな会社の社内報などを研究しているのでしょう。たまたま私が書いたものが目に止まったらしく、この愛の発展段階説を半分ぐらいに縮めて要約したものが、五、六年ほど前に(※1989年当時)、掲載されたことがありました。そういう意味でも懐かしい部分です。
なぜそれほどに愛について考えたのかと申しますと、「たぶん愛されなかったから、愛をいただけなかったので、与えることに専念した」という考えもあったのではないかとか、それに至るまでにはいろいろと複雑な背景事情もあったのではないかとかんぐる方もいらっしゃると思いますが、私としては「愛の本質を探ろう」ということで、とにかく与える愛の専門になりました。ですから、このあたりについてはいろいろと深く蓄積があるのです。
2 愛ある人生
まず、「愛とは何か」というテーマであります。ここで、最初にわたしからみなさんへの語りかけといたしまして、愛という言葉のロマンについて述べてみたいと思います。たとえば、今日一日という日があなたに残されたすべての時間であるといたしましょう。そして、夕べには死すべき運命であったとしても、だれかに愛をささやかれたら、すべての人間は幸福の笑みを浮かべて死へと旅立っていくことができるでしょう。
みなさん、見栄とか、虚飾とか、このようなものをすべて去って、本心から話してみればどうかといいますと、ここに書かれているところが、ほんとうに真実であると感じられると思います。ほんとうに心から愛というものを感じることができれば、そのまま昇天してしまってもいいという気持ちがあるのではないかと思います。女性には愛にあこがれる方が特に多いのでしょうが、これは真実だと思います。
何か欲しいかと問われれば、それは食べものであってもおなかがすいていればほしい気持ちがしますし、お金であっても、無いよりはあったほうがいいのでありますし、服にしてもないよりあったほうがいい。
このようにいろいろあるでしょうが、やはり一生の思い出のなかで、こういう愛の体験といいますか、愛に深く心を揺すぶられた体験、その暖かいオーラののなかに浸っていた体験をした人と、していない人とではかなり大きな違いがあると思います。愛なき人生とは疲れ果てながらも砂漠を歩む旅人の人生ではないでしょうか。一方、愛ある人生とは、道ゆく砂漠のなかに、その所どころにオアシスがあり、花が咲いている人生です。
3 愛を感じ取るということ
そして、愛についての問題をさらに語るとするならば、「愛とは何か?だれが正確に愛を定義しえたか。」という問いかけがあると思います。こうしてみますと、この部分の定義はひじょうに難しいものになります。文学者であっても、詩人であっても、哲学者であっても、やはりこれを完全に「愛とは何か」というかたちで取り出して見せることができた人はいなかったのではないでしょうか。
愛の風景を語ることはできた。しかし、愛そのものを見せることも、愛とはこのようなものであるという存在証明に成功した人もなかったのではないかと思います。ほんとどが愛の風景説にとどまっていて、風景を語ることによってそれを感じ取れということであったと思います。しかし、愛とは人生にとって一つの大きなテーマであり、悦びでもあり、幸福でもあり、悩みでもあり、苦しみでもある。愛は両極端であって、最高の幸せと最大の不幸とを合わせ持っています。人生の喜びの大半であり、また苦しみの大半でもあるのです。
「人生は一冊の問題集である」というテーマがありますが、このテーマのなかで、共通問題として出されている一つがこの愛の問題だと考えてもよいのです。各人に課せられた問題集のなかにはその人固有の問題がたくさんあります。それは、その人自身の人生修行に関する部分、またカルマに関する部分として固有の部分がありますが、しかし共通のテーマもやはりあるのであります。
人生の問題集には各人が避けて通ることができない、このような共通問題が必ず出ているのです。その共通問題の一つがまさにこの愛であります。これは、だれの問題集にも必ず載っているのです。これを通らずしては、問題集の最後まではいけないようになっているのであります。
そこで私の力には限界があるかもしれませんが、いろいろな形で愛について語ってみたいと思います。また、イエス様と話をしましても、「現代人にこそまさしくこの愛、ほんとうの愛とは何かを語る必要があるのだ。」と、このように強く言われているわけであります。
4 愛の探究と八正道
幸福の科学の考え方、基本理論の枠組みそのものは、仏教の枠組みの発展形態で考えておりますが、しかし、そのなかに盛るべきものとして考えてみますと、この愛の部分というのはひじょうに大きなテーマとして考えられているのです。これが今回の幸福の科学の理論の一つの特徴であると言ってもよいでありましょう。したがって、「八正道プラス愛の探究」、これがおそらく現代人にとって最も望まれる修行の姿であり、現代人に対する福音ともなるはずです。
ここに一つの私なりの解釈を提示してみました。要するに、幸福の科学がここ二年ほどでさまざまなことをやっておりますが、(※1989年説法当時)いろいろな枝葉を切って、突き詰めて何を言っているかといえば、この八正道と愛の探究を言っているのです。中心はこの二本にあります。これをいろいろな形にアレンジし、また発展させ、変化させたりして、さまざまな理論を出しておりますが、やはり基本はこの二つです。
八正道に収斂(しゅうれん)されていく考え方としての心の探究、正しき心の探究にかかわるいろいろな考え方があると思います。そして愛の探究です。この二つが大きな二本柱としてあると言ってよいと思います。ですから、幸福の科学の会員は、いったいあなた方は、何を勉強しろといわれているのか、何を修業せよといわれているのかと聞かれたとき、「八正道と愛の探究です。この両方ができたら、だいたい一人前であるといわれています。」と答えればよいわけです。
もちろん講師になるには試験に受からなければならないということはありますが、会員である以上は、八正道のことを毎日、一時間くらいは頭のなかにおいて、また生活においては、愛の実践に生きていれば、何となく幸福の科学の会員であるような気がするというところです。
そして、簡単ではありますが、現代の日本人および外国人の方も合わせてみなさんにやってほしいことなのです。この二本がだいたい広がってゆき、みんながだいたいこの二本の軸で考えるようになっていけば、基本的なところにおいて、成功ではないかと思っています。
八正道、あるいは正しき心の探究と考えてもよいのですが、これと愛の探究の部分。一般的にはこの二つを常づね頭において、生きていっていただけるならばもうそれで十分であります。しかし、これだけのことが全国に、そして全世界に浸透し、伝播(でんぱ)するためには何十年もの時間がかかるのです。ひじょうに膨大な時間がかかるということであります。
5 愛の臨在
私達が愛について考える機会はたくさんありますが、愛そのものを見たという人は一人もいません。愛とはそれを手にとってみることもできないし、これが愛ですと言って取り出して人に見せることもできません。しかし、確かに存在するのです。私自身、愛の存在を信じていますし、また、みなさんもやはり見たことはなく、また取り出して見せることはできないとしても、愛というものはあると信じておられると思います。
神への信仰のみを信仰と考える方が多いなかで、それでは愛ということはどうなのであろうと、考えてみたときに、ここに書かれてあるところにひじょうに近い部分があるのです。イエスは「神は愛なり」といいきっておりますが、これを違うかたちで話して見るとこのような形で話してみるとこのようなことになるのではないでしょうか。
「神という言葉をいったん消し去りましょう。貴方は愛というものを信じますか?」、こういうかたちで聞いてみればよいわけです。「愛を信じます。」という方はけっこう多いでありましょう。
「どうしてそのように思われるのですか?」と聞いたときに、やはり返答に困ると思います。「うーん・・・。なんだかよくわからないが、あるような気がします。」というわけです。「説明してください。」といいますと、たいていの場合は人間関係の話をすると思います。
たとえば、夫婦があってお互いに仲むつまじく暮らすと、それが愛であるとか、子供と親とが仲よくやっているのが愛であるとか、恋人どうしで慰めあっているのが愛であるとか、このようにケースごとの説明はできるのです。
ではいったい、理念としての愛とは何か。純粋に愛とは何かを説明してください。こう問われたときにわからないのです。答えきれないのです。
しかし、説明はできなくても愛というものが存在するということを、人は人ずることができるのです。まさしく、進行の原点はここにあると考えることも可能です。
神を信じよとは言わないでもよい。「愛を信じよ」といってもよいのです。その愛こそは、実に神とよく似た存在ではないでしょうか。
愛とはすなわち風のようなものです。だれもがその存在を信じ、それが存在するという感覚を共有しながらも、それを客観的に証明してみせるわけにはいかないのです。私たちは愛の存在を証明することはできません。しかし、愛の臨在を感じ取ることはできるのです。これが愛であると取り出して見せることはできなくとも、そこに愛があるということを感じ取ることはできるのです。愛とはなんと神によく似た存在でしょうか。「神は愛なり」というイエスの言葉を私なりに説明するとこのようになるわけです。こう言われてみれば、、なるほどと思われる方も結構多いのではないかと思います。
6 真実永遠なるもの
イエス自身も神の姿を人に見せることはできなかったけれど、次のように語っていました。「私の言葉を聞く者は、私の天なる父の言葉を聞く者である。父が我に来て今、語っておられるからである。私の業を見る者は私の天なる父の御業を見るに同じである。父が私にこの業をなさしめているからである。これは、いつもイエスが言っていたことであります。自分の語る言葉、行いを通し、あるいはそれに接して神を感じとりなさいと常に言っていました。その権威ある言葉、そしてその無限のやさしさ、そこに神を感じ取れと、イエスはいつも語っていたわけであります。ここで私たちはさらに考えを進めることになります。
しかし、神に似たものというものは、それは愛だけであろうか。こう考えてみますと、ほかにもあるのではないでしょうか。たとえば勇気という言葉、英知という言葉、善・やさしさ・美・調和・進歩・慈悲・真理・真心・無心、こうした言葉を私たちは無前提によいものだと考えているけれども、その本質はいったい何なのでしょうか。「その存在を証明してみせてください。」と言われたときにできないものばかりです。できないものではあるけれども、いちばん値打ちがあるものなのです。こう考えてみますと、この世の中でいちばん値打ちがあると思われるようなものは意外に証明になじまない、ということを知るにいたるのです。
それゆえに、証明しなければ信じられないという論法は、これは神、あるいは霊という一点に集約されていたのかもしれませんが、この論点を別のところに向けて、それでは、勇気とは何かを証明できるでしょうか。英知とは、善とは、やさしさとは、美とは何ですか。それを科学的に証明できますかと言われたときに、もはや、これは土台が違う、座標軸が違う、土俵が違うということを感じなければいけないのです。
感覚的に訴えるもの、あるいは計量的に計られるもののみがすべてではなく、ほんとうに意義のあるもの、ほんとうに値打ちのあるものは、そのままこの世界に跳入(ちょうにゅう)していかなければ分からないところのものであります。
7 信仰の立脚点
けっきょく、肉体人間の感覚てもってはわかりえず、霊となって、生きながら霊的に認識力を駆使して、直観把握しなければほんとうに大切なもの、ほんとうに人間にとっていちばんだいじなものはつかみきることはできません。
しかし、この部分がなければ、哲学や、文学や、詩や、宗教といったもの、こういうものは一切いらないのです。この部分があるからこそ、この不可思議な、しかしてだれもが感じ取りながら、それをつかみ出すことができない世界があるからこそ、哲学や、宗教や、詩や、文学や、さまざまなものが存在するのです。そして、それを追究することが、何千年、何万年と続いてきたのです。そのように考えていただきたいと思います。
ここに信仰という言葉の説明が出てくるわけです。推定することはできるが、それを証明することはできない。しかし、そのなかにすばらしいものがあり、、それがあると思うことによってすべてが光り輝いて見える。このような事実を受け入れること、これを信仰というわけです。
二〇次元以降の超高次元の存在とおぼしき神、これを三次元の基準ではかることは、きわめて困難であります。三次元といわず、四次元、五次元の存在でさえ、あるいは六次元、七次元の存在でさえ、私たちはひじょうに遠いものと感じています。そして、彼らの存在様式、活動様式はなかなかわかりません。ましてや、その根源の神というものの証明ということはどれほど難しいかを感じさせられるものであります。
したがって、この信仰という言葉は、けっきょく、本源なるもの、真実なるもの、その内の内なるものを善と認めるところから出発するのです。それを善きものと、ア・プリオリに(※先天的に)、先験的によきものがあるということを認める立場なのです。これは、人間社会、あるいは神がつくられた社会のなかで、人間が、それがよいと認めたからよいというものではなくて、人間のこの判断や、理解を越えて始原的にもともとよいものがある、すばらしいものがあると考えるかという分かれ目なのです。
【大川隆法『太陽のメッセージ』第3章「愛の力・神秘の力」より抜粋】
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続きまして、『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。
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3五次元の心境を維持する方法
〇男性が注意すべき「正見」の内容
その反面、男性には、内心の思いと外に表れた言動とが、かなり違っていることがあります。したがって、「正しく見る」ということによって、内心の思いをチェックしていくのがよいでしょう。
男性の場合、他人を正しく見ていないことが多いのです。どう正しくないのかというと、先入観が入っているわけです。
いちばん多い先入観は、「敵か味方か」という考え方です。人を見るときに、まず、「自分の敵か味方か」という基準で分類するのです。そして、敵として分類した人に対しては、さまざまなかたちで嫌がらせをしていきます。逆に、味方として分類した人とは、ゴルフやマージャンなどをして、仲よしクラブをつくっていきます。そのように、男性は、まず、「自分にとって、有利な人か、不利な人か」ということを考えるのです。
さらに、自分が気に食わない人と仲のよい人についても、敵に分類して一線を引いてしまいます。そして、「あいつには情報を漏らさないぞ」と思ったり、「彼は、こんなことをしていますよ」などと上司に言って、その人を蹴落とそうとしたりするのです。
正見の部分で、男性が最も気をつけなければいけない点は、この「敵か味方か」という考え方です。ここから間違いが始まります。
男性は、いったん、「敵」あるいは「自分にとって有害な人」という分類をしてしまうと、なかなか、その分類を変えようとはしません。しかし、「そういう分類をするのは少し待ちなさい。結論を出すのは、まだ早い」と私は言いたいのです。
すぐに白黒をつけず、しばらくは、可能性を持った灰色として眺めてみる必要があります。
相手が、現在、そういう言動をし、そういう立場に立っていることには、たいてい、なんらかの背景があるのです。それを理解せずに、「敵・味方」の分類をしてしまうことには問題があります。自分にとって、仕事の面で不利になるような動きをしている人であっても、「なぜ、そのように動いているのか」ということを探求してみることが必要なのです。
そういう人は、実は、姿を変えた先生であることも多く、自分の心の反映である場合も、実際、数多くあります。
ある人を見て、「あいつは駄目だ。出世しない」と思っていると、しばらくして、相手もそれに相応した態度に出てきます。「あの男は絶対に出世しない」という考えが以心伝心で相手に伝わるのです。そして、向こうは向こうで、あなたに対して、「あんな男は絶対に出世するものか。あいつが出世したら、もう最後だ」などと思うようになります。ところが、こちらが「彼は、なかなかの人だな」と思っていると、向こうも、あなたに対して、同じように思うのです。
ほんとうは、最初の段階で、相手の持っているよいところがすべて見えるとよいのですが、たいていの人は、そこまで修業が進んでいないために、初対面でその人のよいところをすべて理解するほどの認識力をもっていません。
したがって、その見えていない部分については、可能性を持った灰色として見てあげなくてはならないのです。
そして、いろいろな人との接触を通して人間を知り、正見を深めていく必要があります。
自分が最初にした分類を、その後も変更しないのはいけません。もし仏が人間をそういう目で見ているとしたら大変なことですが、仏は、さまざまな目で人間を見ているのです。
五次元世界に入るための基準として正見を考える場合、他の人に対して、すぐに白黒をはっきりつけて分類するのではなく、「しばらくは希望のある灰色として見ながら、徐々に白黒の判断をしていく」という努力が必要です。
これが第一段階ですが、「人を見る」という意味では、もう少し発達した見方があります。それは、単に「敵・味方」として見るのではなく、一つの教材として、あるいは一人の先生として見ていくことです。どのような人には、自分にないものがあり、その意味で、勉強になることがたくさんあります。
世の中には、さまざまな人がいて、「トータルで、どういう人であるのか」ということは、なかなか分かりかねるため、男の世界では、お互いに「自分のほうが上だ」と思っていたりして、なかなか決着がつかず、トータルな判定がつかない状態で付き合いがなされています。
しかし、そういう力関係の見方ではなく、「相手のなかにあるよいものを、じっくり見いだしていく」という姿勢が大切なのです。
「よいものを見いだす」ということは、すでに、そのなかに、「学ぶ」ということを内包しています。見ることは、すなわち学ぶことであり、「正しく見る」ということは、「正しく学ぶ」ということでもあるのです。こういう考え方が大事です。
【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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本日の『永遠の法』では、五次元善人界の天国世界に心を常に同通させるために必要な精進を主に男性向きにこのように説いてくださいました。
『男性には、内心の思いと外に表れた言動とが、かなり違っていることがあります。したがって、「正しく見る」ということによって、内心の思いをチェックしていくのがよいでしょう。男性の場合、他人を正しく見ていないことが多いのです。どう正しくないのかというと、先入観が入っているわけです。』
「正見」の大切さですが、たしかに私も物事を考えるときに先入観が邪魔になって失敗した経験がありました。それまでの人生経験によって積み重ねたことが逆に先入観になって、未来の発展・成長を邪魔してしまうことがあります。人や物事をありのままに見ることはとてもむずかしく、かなりわがままなものの見方をしてしまうのが人の性(さが)です。これを取り除くための教えをいただきました。
『男性は、いったん、「敵」あるいは「自分にとって有害な人」という分類をしてしまうと、なかなか、その分類を変えようとはしません。しかし、「そういう分類をするのは少し待ちなさい。結論を出すのは、まだ早い」と私は言いたいのです。
すぐに白黒を付けず、しばらくは、可能性を持った灰色として眺めてみる必要があります。
相手が、現在、そういう言動をし、そういう立場に立っていることには、たいてい、何なら果の背景があるのです。それを理解せずに、「敵・味方」の分類をしてしまうことには問題があります。自分にとって、仕事の面で不利になるような動きをしている人であっても、「なぜ、そのように動いているのか」ということを探求してみることが必要なのです・・・・
そして、いろいろな人との接触を通して人間を知り、正見を深めていく必要があります。
自分が最初にした分類を、その後も変更しないのはいけません。もし仏が人間のをそういう目で見ているとしたら大変なことですが、仏は、さまざまな目で人間を見ているのです。
五次元世界に入るための基準として正見を考える場合、他の人に対して、すぐに白黒をはっきりつけて分類するのではなく、「しばらくは希望のある灰色として見ながら、徐々に白黒の判断をしていく」という努力が必要です』
そして、さらに視点を変えて、相手から積極的に学んでいく姿勢が大切であることを学びました。作家の吉川英治さんの座右の銘で「我以外皆我師」という言葉を残しています。
自分以外の、人でも物でも皆、自分に何かを教えてくれる先生であるという人生の態度が必要です。主はこのように言われました。
『「相手のなかにあるよいものを、じっくり見いだしていく」という姿勢が大切なのです。
「よいものを見いだす」ということは、すでに、そのなかに、「学ぶ」ということを内包しています。見ることは、すなわち学ぶことであり、「正しく見る」ということは、「正しく学ぶ」ということでもあるのです。こういう考え方が大事です』
本日の引用の最後の言葉は、天国の門をくぐる条件としてとても大切な教えであると思います。
『五次元世界に入るための基準として正見を考える場合、他の人に対して、すぐに白黒をはっきりつけて分類するのではなく、「しばらくは希望のある灰色として見ながら、徐々に白黒の判断をしていく」という努力が必要です。
これが第一段階ですが、「人を見る」という意味では、もう少し発達した見方があります。それは、単に「敵・味方」として見るのではなく、一つの教材として、あるいは一人の先生として見ていくことです。どのような人には、自分にないものがあり、その意味で、勉強になることがたくさんあります。
世の中には、さまざまな人がいて、「トータルで、どういう人であるのか」ということは、なかなか分かりかねるため、男の世界では、お互いに「自分のほうが上だ」と思っていたりして、なかなか決着がつかず、トータルな判定がつかない状態で付き合いがなされています。
しかし、そういう力関係の見方ではなく、「相手のなかにあるよいものを、じっくり見いだしていく」という姿勢が大切なのです。
「よいものを見いだす」ということは、すでに、そのなかに、「学ぶ」ということを内包しています。見ることは、すなわち学ぶことであり、「正しく見る」ということは、「正しく学ぶ」ということでもあるのです。こういう考え方が大事です。』
心に染み入ります。「正見」の修業に限りはありませんが、毎日取り組んでまいります。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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