83 「老害」と言われ始めたら、五年後、十年後の「弾」を準備せよ。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。
新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)
12/15(日)~22(日)まで、「エル・カンターレ祭」を開催致します。エル・カンターレ祭は、7月の御生誕祭と並んで幸福の科学の二大祭典です。12/15(日)13時より、総本山・正心館より、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催します。12/15(日)19時の回以降は、10時、13時、19時の回を中心に、各支部・精舎(HSU・学園含む)の状況に合わせて、録画上映(「復活の祈り」を含む)にて連日開催いたします。
エル・カンターレ祭では、大宇宙を創り、生きとし生ける者を創り出され、永遠の愛を与え続けておられる「創造主の愛への感謝」を深め、主
大川隆法総裁先生より、この一年間に賜った数々の御慈悲を振り返り、心からの感謝・報恩の念いを捧げさせていただきます。そして、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、エル・カンターレ祭版「復活の祈り」を執り行います。
さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日からは『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
また、後半では、本日より経典『復活の法』第三章より『永遠の法』講義として賜りました御法話「天国に還る方法」を学んでまいります。
経典『復活の法』をお持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税抜き1800円】
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太陽のメッセージPart1
第2章「魂の世界とその真実」
7 心の自由性と悟りの第一関門
魂は自由自在な性質を持っていますが、悪を想ったり働いたりすることもできるのでしょうか。「地獄をつくったり、罪悪を働くことも、魂の創造性によるのか。」といった問いかけに対する答えは、「然り、然り。否、否。」という答えになります。なぜ然りかといいますと、「魂には創造の自由性が与えられている。自由であるということは、規則がないこと、妨げるものがないことであり、この意味において、もし規制や妨げがあるとするならば、これは自由とはならない。」ということであります。
地獄におちるのがいけないのであるならば、神様は人間にもう悪いことが思えないようにしてしまえばいいのではないかという考えもあります。たとえば、ロボットはプログラムさえ間違っていなければ地獄にはおちないであろうと思われるからです。悪いプログラムをして、どんどんその方向に進めていけば別かもしれませんが、まったく完全な心としてプログラムをピシッと入れておいて、そのとおりに動くようにしておけば、地獄におちることがないでしょう。
しかし、人間の心には自由性があってロボットのようにはまいりません。ですから、自分の心が自由にならない、制御できないという方は、かえってこの自由性を恨んだりすることもあります。
心というのは、暴れ馬のような感じになるときがあり、このときが修行のなかで最初の関門として、いちばん苦しいときなのです。特に真理に目覚めて、霊言集などを読み、そして、「そうだなあ、そうしなければない。」と思いつつ、自分自身の一日の思い、一年の思い、
あるいはそれ以上の思いを反省してみると自由になっていないことが多いのです。「自由になるはずなのにならない。」ということで、自分の心が暴れ馬、悍馬(かんば)のようで、それを抑えようとするのですが、ふり落とされるのです。そのような自由にならない苦しみがあると思います。しかし、これは、修行者として当然の苦しみなのです。
これはどなたにも、過去に大なり小なりはあるでしょうが、悟りというものに縁のあった方はみなこれを通り越してきたのです。ですから、本書をお読みになっている読者のなかにも、こうした心を制御することができずに苦しんでいる方は、そうとういらっしゃると思いますが、まさしくこれが、第一関門であると思わなければいけません。
まず心の自由性に気づくところまではよいのですが、そのあとで、これが思い通りにならないということで苦しむのです。このギャップがあるわけです。このような思いさえ出なければ、どれほど楽であるかわからない、そして思うまいと思えば思うほど、悪いことを思ってしまったりするのです。また、人を恨んではいけないと思いつつ、どんどん恨んでいったり、嫌な人だな、と思ってはいけないと思えば思うほど、いやだな、という気がしてくるわけです。
そして次第しだいにとらわれていき、いつも心がそこに行ってしまう。これが第一関門なのです。どうしもこれを突破しなければなりません。これを突破したときに、この自由性の持つ素晴らしさがわかるのです。
この心の自由性の素晴らしさというのは、けっきょくこの悍馬(かんば)、暴れ馬を自由に乗りこなせるようになってくるということなのです。この乗りこなせるようになってくるという心の状態が、一つは平常心ということです。平常心とは、いつも心が波立たないような状態です。これが持てるようになってくるのです。
もう一つは、平常心よりももう少し意志の力が強くなってくる心の状態があり、これが、苦難・困難に際しての不動心です。これが出てくるのです。平常心というのは、通常の生活のなかで、心が揺れないようにしていくための力でありますが、不動心というのは、もう少し大きな苦難・困難が出たときにも、これに打ち克って盤石(ばんじゃく)、岩石のようにガンとした感じで向かっていくことができる、これが不動心です。
こうしたものが、次第しだいにできてきます。ここに至る途中においては、いろいろな悩みを経過せざるをえません。やはり、これを乗り越えていかないと、ほんものの平常心や、不動心はついてはこないのです。けっきょく、これは何かといえば、運転技術そのものであると言えるでしょう。
8 心の運転技術
人間は自由意志というものを神から与えられましたが、この自由意志とはハンドルさばきのことを言っているのです。自分の心、あるいは魂といってもよいのですが、この自分という車の運転をまかされているといえるのです。車の中に入りドアを閉めて、そのあとどう運転するかは、各人の自由であるとされているわけです。
これは実際に私達が車を運転するときも同じで、いったん車に乗ってしまえば、あとどうするのかは自分次第です。教習所であれば教官がブレーキを踏んでくれたりもするわけでありますが、いったん免許を取って自分の車に乗ったのであるならば、まったく自由に任されるわけです。
極端なことをいえば、人を跳ね飛ばそうと思えば可能でありますし、また崖から落ちようと思っても不可能ではありません。また、交通違反もいくらでも起こすことができますし、反対に、交通ルールを守ろうと思えば守れるというように自由自在です。まさしく車のようなものです。
けっきょく、何をコントロールするために練習しなさいといっているのかと申しますと、ハンドルであるということです。「ハンドルさばきの練習をしなさい。交通法規をしっかり学んで、一万キロくらい運転すれば、だいたいどのような事態があっても乗り越えていけるようになりますよ。」ということです。
いつも街中でノロノロ運転ばかりしている人が、はじめて高速道路に出たりすれば、やはり恐れを感じます。また、いつも明るい昼間ばかり乗っている人が、夜や雨の日に運転すれば、やはり慣れていないために恐れを感じます。それでも、運転しているうちにだんだんと慣れてくる。これと同じようなものです。
したがって、霊格の高い人というのは、運転という意味でたとえるならば、かなり運動神経が発達しているハンドルさばきの上手な方といえましょう。仮免許の試験において、一回で受かる人もいれば、何回も落ちる人もいるといったように、いろいろな方がいらっしゃると思いますが、これは持っている能力の問題であって、なかにはしかたのない部分があります。ですから、自分の悩みがどうにもならなくて苦しんでいるという状態の方がいらっしゃると思いますが、これは車の運転であると思えばよいのです。
運転の免許を取得するときにおいても、年代の数だけかかるとよくいいます。これは、五十代の人は五回くらい受けないと受からないとか、二十代の人は、だいたい二回で受かるとか、十代は一回で受かるとかいう意味で言われているようです。
同じように、人生においても、四十年、五十年、突っ走って来てはじめて心の世界に触れたような人である場合、この運転技術をマスターするのには時間がかかるということなのです。早いうちにこの心のコントロールに気がついた人はやはり上達が早いのです。
つまり、二十歳ぐらいでこのような心のコントロールに気がついた人は、そののちそれほど罪を犯すことなく生きていけるというわけです。ところが、五十、六十で初めて真理に触れた人はやはり、ハンディがあります。教習所で免許を取るにしても、やはり五回くらい落ちなければ、受かることができないように、それだけ努力がいるわけです。
9 自由意志の相克によるひずみ
本来は自由であるという以上、それを妨げるものはないはずです。しかし、魂の性質そのもののなかに、積極的に悪を働いたり地獄を創ったりするものがあるかといえば、そのようなものは本来予定されていないのです。つまり、悪とは、「魂そのものに潜む性質ではなく、その自由意志の相克するところに出てくる歪(ひず)みである。」ということができるでしょう。
この一行の文を知っているだけで、これも一つの悟りのなります。簡単な悟りではありますが、これを一〇〇人の人に説いたならば、九九人は知らない悟りであると思います。人間について考えたことのない人は論外として、これついて考えたことのある人のなかでさえも、性善説であるとか、性悪説であるとか、あるいは両方の折衷であるとか、さまざまな人がいるのです。
実際にキリスト教で専門にやっている人であっても、この悪の問題について答えきれない面があるのです。その理由としては、やはり魂そのものの性質として、魂そのもののなかに悪があると考えるからなのです。しかしこれは神の創造であるとしたときに不可解になるわけです。神が悪そのものを創られた事になるのであろうか。それを認めれば、神の御心のままに世界をよくしていこうとする考えそのものがまったく虚しくなってしまいます。
あるいは、もう一つの別な考え方として、悪というものは外部にあるという考え方もあると思います。ギリシャ神話のなかに、パンドラの箱に関する伝説がありますが、何かの拍子で外部に悪が出て、それがばらまかれて人間が汚染されたというような考え方です。これは、たとえば文明・文化が進化したことによってそのような悪が出てきたのだとするような外部要因に帰する考え方であります。これには多少の意味合いもあるかと思いますが、しかしほんとうのところ、他人の存在とのかかわりにおいてはじめて悪はその姿を現してくるということなのです。
たとえば、誰もいない建物のなかで、一人で悪をなそうと思ってもなかなか難しいのです。ぶり的な破壊はもちろん可能でありまずが、それ以外においては難しいと思います。ところが、人が大勢いるところでは、ひとを怒らせようと思えばいくらでもできますし、その人をふんがいさせて、夜眠れないようにしようと思えばすぐにできるわけです。いくらでもできるのです。試しに、まわりの人の頭をコツンとたたく、それだけで地獄は発生してきます。このように、他人との存在のかかわりで、悪は発生してくるのです。
10 地獄界からは生まれ変わってこない理由
「悪というもは、他人との存在のかかわりで発生する。」と思っただけでも、だいぶ心が楽になる面があると思います。もともと魂のなかに悪が埋め込まれている、あるいは地上には地獄から生まれ変わってきている人が半分いると思えば、これはひじょうにつらいことです。
私もこのような真理の世界に入る前には、ある程度宗教的なものや、魂も信じていましたが、よくある二分論、二分法に陥っておりました。
すなわち、天国から生まれる人もいるけれども、やはり地獄から出てくる人もいるのであろうと思っていたのです。そうして、人をじっと見ていて、「あの人は地獄から出てきたような顔をしている。」などといったように、人間評価をするときに、悪そうな人は地獄から生まれてきたのだと思ったわけです。だいたい、このように人間の色分けが始まるわけです。そうしますと、永遠に本当の意味で人を愛することはできなくなってしまいます。
そして、人を愛することができないだけではなく、自分自身の魂の進歩が止まってしまうのです。人物ができてきて、「よくわかる。自分の前にいる〇〇さんは人相がよくないから地獄から出てきたに違いない。」などというように思って、それでだいたい人間を見て分かったような気になって満足してしまうわけです。これは、やはり最初の迷いの段階です。
しかし、もう少し実際の勉強を続けていくにつれて、「やはり、地獄界からは生まれ変わってくることはない。」ということが分かりました。これは、悪霊の多くを体験してわかったのです。もし彼らが、地獄から生まれ変わてくることができるのであれば、赤ちゃんとして悪霊が誕生してくるはずです。憑依などする必要はありません。生まれ変わってくればよいのですから、生まれ変わってもう一回やり直せばよいのです。人生に失敗して、死後、地獄に落ちて苦しいのであれば、赤ちゃんに宿ってもう一回やり直せば楽なのです。
しかし憑依して出てくるということは、基本的にそれができないということなのです。ですからあのような悪さをするのです。そう気がついて、「ああ、やはり地上に出てきている人は、みんな最低限度は悟って天国から来たのだな。」と悟ったときにはじめて「ユートピアを創っていこう。」という気分が湧いてまいりました。そうではなくて、半分くらいは地獄から出てきていると思っているならば、やはりいやです。このような考え方を持たないだけでも、そうとう心は楽になると思います。
11 善悪を人間関係の調整論としてとらえる
したがって、善悪の問題を存在論にしないで、調整論とすることです。人間関係の調整論として善悪の問題を考える。これはひじょうに大切な考え方だと思います。そうしていけば、無限に研究の可能性があるのです。
たとえば、嫌な人が出てきた場合、もともとこれはそういう嫌な人であるのだから嫌なのだと思うかわりに、やはり彼と私にどこか合わないところがあるからこうなるのだろうと思う。ここに一つの魂の発展の余地があるわけです。どうしてこのようないやな感情が起きるのか。相手は本来悪い人ではないはずです。なぜかといいますと、自分とは合わなくとも、ほかにはその人を好きな人が絶対におり、友達がいたり、奥さんがいたりするわけですし、一概には自分の好みや趣味だけでは否定できないところがあるからなのです。
やはり、その人のことをいい人だと思う人もいるのですから、関係論において何か問題があると考えなければいけないのです。そうずれは、そこに何か方法があるであろう。それを考えてみよう。自分にも何か問題があるのかもしれない。このように考えていくときに、魂の発展の余地は出てくるのです。
このように考えずに、当初からそうだと思えば、もう救いがないのです。ただ、これを某団体のように、本来悪はないのだけれども、「本来悪なし」の一点張りで通せばどうかというと、やはりこれは厳しい面があります。現に地獄というものもありますし、悪霊というものがあるというのも事実です。これには目をつむることはできないのです。現実にないという人にも憑いていたりすることが多いのですから、しかたありません。こような存在がある以上は、あるものはあると現実的には認めて、これをなくすようにしなければいけないと思います。
光一元的な考え方も、存在論や状態論というもので善いものしかないというように考えたとき、やはり論理的にミスはあると私は考えます。本来はもちろんそのとおりだけれども、現実はどうかといえば、現実にはある。現実が悪いのは、悪人がいるのではなくて、めぐりあわせで、人間関係あるいは環境のなかで、そのようなひずみが出てきているのだと考えるからこそ、乗り越えていけると考えることができるわけです。私はこのあたりがやはり真理だと思っています。
【大川隆法『太陽のメッセージ』第2章「魂の世界とその真実」より抜粋】
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続きまして、『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。
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〇最初の関門―他人の幸福を祝福できるか
「現在の自分の心境が五次元善人界以上の心境であるかどうか」ということを知りたい人は、この五次元の「愛の悟り」が分かるかどうかを考えてください。
これが最初の関門です。
また、ボーナスを例にとると、自分のボーナスが同期の人より一万円多かったならば、やはり、うれしいでしょうが、逆に、同期の人が自分より一万円多かった場合、その人に対して、どういう思いを持つでしょうか。これもチェック基準です。
そのときに、「あいつは、何も仕事をしていないくせに、なんだ、これは間違っている。この会社はおかしい。辞めてやる」などと言う人は四次元のどこかに住み分けしなければいけなくなるのです。
他の人がボーナスの多いことを喜んでいる姿を見て、その人を祝福できる気持があるならば、五次元善人界に入れます。しかし、自分を阿羅漢や菩薩だと思っていたとしても、もし他人の幸福を祝福できなかったならば、まだ五次元の関門を通っていないと言えるのです。
そして、この関門を通り、清い心の世界に入ったあとに、「どれだけ役に立ったか」という基準が出てきます。総理大臣をした人でも地獄に堕ちることがある理由は、ここにあるのです。
ボーナスの話をしましたが、出世の問題でも同じです。
あなたが課長だとすると、部長に昇進したならば、うれしいでしょう。ところが、自分は課長のままで、同僚が部長に昇進した場合、それをどう思うでしょうか。「自分が部長になったらうれしいが、他の人が部長になったときに、うれしいか、うれしくないか」ということです。
部長になった同僚に対して、「よかったね」と言えたら、その人は、そのままで少なくとも五次元善人界には確実に入れます。ところが、同僚が偉くなったことを見て、嫉妬の思いがすぐに出るようならば、「どの世界に行くか」ということは、一生終わってみないとわかりません。
これは、わりに簡単な基準です。
たとえば、試験の成績が優秀な人を見て、嫉妬の炎が燃え上がったら、その人は四次元のどこかへ行きます。そうではなく、「あの人は、本当によく頑張って勉強したのだな。自分も見習わなければいけないな」と思う人は天国的な人です。ここからが五次元以上の世界になります。しかし、嫉妬の炎が燃え上がった人は、四次元のなかでまだ修行をしなければいけないのです。
同じような話は、他にもたくさんあります。
就職に際して、「自分よりも学校の成績がよくなかった友人のほうが、よい会社に入った」ということもあります。このときに、「おめでとう」と素直に言えるならば、少なくとも五次元善人界には入れます。ところが、悔しくて、布団をかきむしり、畳に爪を立てて、もだえているようならば、まだ五次元まで行っていないのです。
そういう人は、『永遠の法』を読んで、いくら八次元や九次元の勉強をしたとしても、五次元にも入れません。天国の門を通って、そこから上の世界へ行くことができないのです。
あるいは、主婦であれば、ご主人の出世の問題もあります。
会社の社宅に住んでいる主婦には、「どこそこの人が、ああなった、こうなった」という情報が、事細かに伝わってきますが、「自分の夫は偉くなるだろう」と思って結婚したのに、まったく偉くならない場合、昇給や人事異動の時期になると、そわそわして落ち着かなくなり、心が穏やかではなくなります。
そして、ご主人が家に帰ってきても、ご主人に対して不平不満ばかりを言い、「あなたと結婚するのではなかった」と言ったりします。
そのようなことを、いつも繰り返すことになるのです。
いう言う人も五次元へは上がれません。
もし隣の家のご主人が出世したならば、「どうしてだろう」と考えてみることです。
そうすると、「そういえば、隣のご主人は、朝早くから会社に出ていって、よく働いしているし、付き合いもいいようだ。また、ずいぶんと勉強家らしい」などと思い至ることがあります。
そして、その奥さんはどうかというと、「あの奥さんなら、ご主人も偉くなるに違いない」と思える部分があるでしょう。たとえば、その奥さんは、ご主人が苦労をしないように気配りをしたり、休日には部下たちを家に呼んであげるなど、とても面倒見がよかったりします。そこで、「もしかすると、奥さんの内助の功で、ご主人の評判がよいのかもしれない」と思います。
それに比べて自分はどうかというと、ご主人に、「私は料理も洗濯も掃除も嫌いだから、会社の人は絶対に連れてこないでください」などと言い、ご主人のほうも、「分かった、わかった。おまえには無理だろう」と言っていたりするわけです。
そのように、隣の奥さんのほうは、ご主人に対するサポートがしっかりできているのに、自分のほうは全然できていない場合があります。
こういうときには、心静かに思いを巡らせて、「隣のご夫婦は、ほんとうによかったな。うちも少しは考えなくてはいけない。どうしたらよいのだろうか」と考えなくてはなりません。
他人に対しては祝福の念を送り、自分については反省して工夫しようと思える人は、五次元に行けます。こういうことが実感として分かって、行動できる人は、難しいことは分からなくても、この世界に入れるのです。
【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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本日の『永遠の法』では、
『他人に対しては祝福の念を送り、自分については反省して工夫しようと思える人は、五次元に行けます。こういうことが実感として分かって、行動できる人は、難しいことは分からなくても、この世界に入れるのです』
この言葉がとても印象的でした。
嫉妬心の克服と他人の幸福を我が幸福として祝福の心を持つことが天国世界(五次元善人界)に入る鍵であることを学びました。先日に引き続き、これも重要論点です。普段の生活のなかで心がけてまいりましょう。
繰り返しますが、他人の成功や幸福に嫉妬せずに祝福できるかどうかが五次元世界に入る条件です。わかりやすい例えを織りまぜていただいていますので、分かりやすいです。入会まもない方々や、これから入会という方にもあの世のことや、霊界のことをしっかりお伝えするためにもしっかりと学んでまいりましょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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