(11/30-1)334経典『太陽の法』を読む 59エル・カンターレへの道―臥竜の時代・回想の青春―完成への道

『太陽の法』を読む

69 朝の来ない夜はない。次の一手を考え抜け。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)

12月8日は降魔成道記念日です。主エル・カンターレ 
大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。

12/8(日)~10(火)まで、「降魔成道記念日」感謝式典を開催致します。主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、「降魔成道記念日」感謝式典版「復活の祈り」を執り行います。

主のご復活を妨害する悪霊・悪魔・妖怪・妖魔・闇宇宙・唯物論の勢力といった悪しき者たちの呪いを打ち祓い、主がこの地にて「エル・カンターレの法」を再びお説きいただけるための、結界を皆様と共につくってまいります。皆様ぜひご参加ください。

さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。

基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、光とは何か。仏法真理とは何か。という問いに答える幸福の科学の教えの基本です。また、後半では、『永遠の法』も少しずつ読んでまいります。『永遠の法』は、エル・カンターレの空間論についての教えです。
経典をお持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税込み2200円】

本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。今、永遠の神秘が明らかにされました。伝説と神話のベールに覆われていた、地球系霊団の最高の秘密が明らかにされたのです。世界全宗教の統合、超越の悲願を掲げて、本書を世に送り出します。【『永遠の法』まえがきより】
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第6章 エル・カンターレへの道
9 臥竜の時代―回想の青春

さて、十代の頃のことから筆を起こしましょう。

小学校の高学年な時代の私は、小学生とは思えないほど、平気で長時間の勉強に耐えられる子供でした。黙々と勉強をつづけた成果はしだいに上がって、小学校の六年生になると、年間通算平均点が九十九・七もとるようなりました。それも、平均点が百点にならなかった理由は、ある国語の試験にケアレス・ミスで回答を記号で選ぶのを、間違えて言葉で記入して何十点を失ったからでした。

父は、その成績表を持って、知り合いのT大学付属中学の校長に進路相談に行きました。付属中学はおろか、灘中学でも合格できるのではないか、との意見ではしたが、将来、政治家にでもなる時には、地元に友人たちがいたほうがよいと父は判断し、地元の中学への進学を進めました。

結局、地元の川島中学校を受験、平均点百点で一番で合格し、総代として入学式に臨みました。中学時代は、私にとっては懐かしい黄金時代でした。生徒会長や、テニス部のキャプテン、報道委員長としての構内新聞の編集発行責任者としての仕事は、のちのち、指導力の源泉となるよい体験でした。

成績のほうも、五百点満点で二番以下をいつも五十点以上引き離した、抜群のトップを続けました。全国的なテストでも、全国で一番を何度かとり、職員室中を驚かせたことがあります。

中学三年の時の担任の先生が、「他の学年の一番の子は、同級生から反発されているのに、なぜかあなたのいうことはみんなよく聞く、鶴の一声ですぐきまり、みんなが黙ってついてくる」と不思議そうに首をひねりながら評していたのを、つい昨日のように思い出します。単なる秀才ではなく、宗教家的魅力を秘めた懐の深さがあったようです。

高校進学は、当時県下随一の進学校であった、徳島城南高校に決めました。私の受験の頃から、郡部の指定の市内流入を防ぐため、東京都の学校郡制度をまねた総合選抜制度が始まりました。入試の成績上位十パーセントの生徒は希望校に入れるが、あとの九十パーセントは、自宅から通える市内の生徒優先の抽選方式になったのです。抽選で進学校を決められては、納得がいかないと考え、猛勉強しました。その結果、郡部からの受験生としてはトップの成績で城南高校に入学しました。当時、同校からは毎年十数名東大に合格していたので、明確に東大進学を意識しはじめたのもその頃です。

しかし、高校時代は、中学時代のように楽しい思い出に彩られてはいません。高校からは始めた剣道部の猛練習と往復二時間半の汽車通学の疲れから、いつも睡眠不足で眠く、けだるい感じがしていました。ガタゴトと揺れる証明の暗い汽車の中でしか、英語の勉強はしなかったように思います。右に左にと揺れる車両のなかで、立ったまま、英語の参考書を右手に、クラウンの辞書を左手に、万年筆を指のまたにはさんで、英文法や英文解釈の問題を解いている私の形相のすさまじさに、四歳の女の子が立ち上がって席を譲ってくれようとして、恐縮したこともあります。

圧倒的な勉強時間の不足は否めませんでしたが、それでも、クラスでは一番の成績でした。特に国語の勉強が好きで、高校一年の時、通信添削で六回連続全国で一番になったのが大きな自信になりました。この記録は現在でも破られていないはずです。国語の勉強その者は、大学入試ということのみを考えるならば、そう大きな時間配分をすることは間違いであったと思いますが、こうねん、大量に歩を読み、数多くの書物を書き、大勢の前で講演をする仕事につくための、力の源泉になったように思います。また、入試には直接関係のない教科でしたが、地理や地学、生物学も得意でした。文科系の教科は英・国・社ともよくできたので、苦手意識を克服しようと思って、高校二年の時には、数学と物理の必修時間の多い理系クラスに進・
・ました。私が東大の理科三類(医学部)に進学するのではないか、といううわさが流れたのもこの頃ですが、ジ分としてはつぶしのきく法学部進学を考えていました。

高校一年、二年と続いて、文化祭には劇の主役として登場しました。自分としては大変不本意な人選をされたと憤慨しましたが、あとあとまで、演劇部の女生徒から入部を勧誘され続けたことを考えて見ると、何らかの才能はあったのかもしれません。後年、数万人の前で講演するようになって、あの頃、演劇部にでも入って舞台勉強をしておいたほうがよかったかもれしないと思いましたが、後の祭りでした。

高校三年の時は、再び、国立文科系向きのクラスに変わりました。このクラスは優秀で、同級生のなかから東大文Ⅰ(法学部)五名、文Ⅱ(経済学部)一名合格しました。自分としては、もう一つ成績が伸び切らず不本意でしたが、大学入学後は、私の成績が一番良かったので気分が晴れました。こうして高校時代は松柏賞という優秀賞を受賞して無事に卒業しました。

さて、大学受験に関しては、昭和五十年の暮れには、大手予備校の東大入試模擬試験で、東大文Ⅰ(法学部)なら、上位一割以内、文Ⅱ(経済学部)文Ⅲ(文学部)ならトップか、それに準ずる成績で合格するとの予測結果を得てホッとしました。本書では、この模擬試験より、さらに三~四十点(四百四十点満点中)高得点だったようで、秘かに一ケタ合格を期待しました。そして、昭和五十一年、春、首尾よく東京大学文科一類に入学しました。

しかし、東大法学部の学生は、全国から集まった秀才ばかりで、たちまちにして私は、不安感に襲われました。猛勉強の必要を感じ、修行に関することのみならず、広く学問の世界を渉猟(しょうりょう)すべく、夜を日に継いで勉強しました。勉強の範囲は、法学、政治学のみならず、社会学、歴史学、、哲学、社会思想史、経済学、経営学、自然科学、国際関係論、さらに洋書の原書購読にまで手を出し、英語といわず、ドイツ語といわず読みふけりました。なかでも英語は、大学入試の頃、全国トップレベルの学力を持っていたのが効いたのか、教授や助教授の何倍かの速度で原書が読めることを発見しました。いきつけの喫茶店に、夜フラッと姿を現しては、四~五百ページもあるヨーロッパ政治史に関する英語本を読みふけって・
・ると、店のマスターが、私の勉強の邪魔にならないよう、来客を門前払いしている姿が目に入って、大変恐縮したこともありました。

しかし、学問ばかりをやっていたわけではありません。天気の良い人の夕暮れ時には、下宿の近所の羽根木公園をぐるっと巡ったあと、梅が丘の町を散策し、時折インスピレーションを得て詩を書いていました。黄昏時の西の空を見つめながら、ギリシャの哲学者プラトンの霊界思想や、西田幾多郎の「純粋経験」や「見性」について想いを巡らせていたのもその頃です。すでに、宗教家の卵となるための精神的目覚めが始まっていたのです。

こうして幸福な駒場(教養学部)時代が終わり、本郷(法学部)へ進学しました。成績は相変わらず上位でしたが、私の記憶に残ることとしては、大学三年の春休みに政治哲学の研究論文を執筆したことが挙げられます。ギリシャ的政治思想を憧憬(しょうけい)するアメリカの女性政治哲学者、ハンナ・アーレントの研究として『ハンナ・アーレントの価値世界について』という論文を作成しました。アーレントの英語はドイツ語的で難解だというのが定評ですが、それでも全著作読破し、二週間ほど明け方の六時まで作業して論文を書き上げました。友人たちは「あまりに何回で、理解を拒絶している」と批評しましたが、教授からは「マチュアー(成熟している)ですね。君は学者になれば大活躍できるだろう。この論文も、序文を・
・き添えて、内容を倍ぐらいに引き延ばせば、法学部卒業後、助手が三年後に書く助手論文(博士論文程度)の合格レベルをすでに超えている。しかし、こういう哲学思想のできる人が、法学部のプラグマティックな実定法の勉強ができるかどうか。君は法律のほうはちゃんと勉強していますか」という言葉をいただきました。

当時二十一歳の私は、どうやら学問的天才性を見せはじめていたようです。しかし『憲法』や『民法』や『刑法』などの実用性のある学問を軽視し、形而上学に強く惹かれる傾向は、なかなか改まりません名でした。教授は私に期待をかけてくれるとともに、法学部の学生として、実社会に通用するプラグマティズムの大切さを力説しました。

こうして遅まきながら、本郷の図書館で六法全書をつかい、判例集を読み込んでいる人々の群れに加わるようになりました。正直言って、法律学が学問であるのかどうか疑問がありました。たとえば、『憲法』一つとってみても、その成り立ちと意図そのものが、果たして正しいのかどうかという根本的問題が脳裏を去らず、条文の丸暗記と学説の記憶に励んている友人たちに、一種の気の毒さを感じたのは事実です。『刑法』にかんしても、人は、何ゆえに他の人に罰を与えうるのか、罪の定義とその根拠はどこに求めるべきなのか、『刑法総論』の解説では納得がいきませんでした。『民法』に関しても「ヘーゲルの法哲学」との関連性が気になってしかたがありませんでした。『商法』に関しても『会社法』や『手形・小切手法』の・
・強は、思想性に富んだ私にとっては、あまりにプラグマティックすぎました。

一方、『政治学』の方も、柳田国男の民俗学や山本七平の日本人論を取り込んで『政治過程論』を講義する、ある教授の論理性のなさに失望しました。多少なりとも興味を引かれていた『国際政治学』も、左翼的立場から安保反対を唱えうるある教授について、理論はよく切れているが、結論は間違っているのではないかとの感想を抱きました。その教授の東西冷戦についての見解が間違いであることは、十数年後、ソ連邦の大崩壊が現実化してはっきりしました。私の直感は正しかったのです。

かくして私は、『法律学』や『政治学』の学問性と価値論の不在・貧困に直面し、東大法学部には、自分が師事(しじ)すべき教師がいないことを悟りました。

かくなるうえは、独力で道を切り開くしかありません。経済的基礎を築き、自分の納得いく学問を見いだすか、万一、それが見つからないならば、自分自身の手で新しい学問を創り出すかのどちらかしかないと考えました。

大学四年に上がる頃、就職の一環としてとりあえず、司法試験の受験をすることにしました。

半年通った司法試験の予備校では、六回一番となり、私の論文の参考答案で勉強した人が、かなりの数、司法試験に最終合格しました。私はといえば、短答式試験は、合格点を十点(九十点満点)ほど超えてアッサリと合格しましたが、友人の多くの予想に反して、論文式試験では不覚をとってしまいました。実務家的答案ではなく、学者的答案を書いたことが原因であるように思えました。私は、あまりにも学問的に成熟していたのです。当時、すでに、学説や判例を明確に批判する自己独自の視点を持っていたからです。しかし、最高裁の判例を鋭く批判した答案に、採点官は後込(しりご)みしてしまったのです。

ただ後のち、高級霊たちの意見を聞いてみると、国家試験合格や自分の満足のいく就職実現は断固妨害して、この世的成功をあきらめさせ、宗教家への道を選ばせるつもりだったとのことですから、どうあがいても成功はさせない肚(はら)だったのでしょう。

自分としては、予想をもしていなかった道でしたが、ある総合商社の人事担当者から「『三顧(さんこ)の礼』をもって迎えるから是非とも商社に」と懇願(こんがん)され、東大の先輩で、スタンフォード大学でMBAをとった常務から、「ウチに来てくれませんか」と頭を下げられて、男の心意気で、入社を決めました。

しかし、友人たちからは悪評さくさくでした。ある友人は、「政治学科から日本銀行への推薦枠が一名あるので、教授は君を推薦するというのにどうして辞退したのか」と不満顔でしたし、ある政府系の大手銀行の人事担当者は、「東大在学中に司法試験の短答式試験に合格した人は、私学とは違い五割以上は最終合格しますね。しかも、あなたは政治学科ですから、おそらくトップでしょう」とうれしいことを言って入社を勧めてくれました。確かにその年、政治学科から、国家公務員試験(上級)に一番の成績で合格して大蔵省入りした知人は、短答式試験に落ちていましたから、相手の言うことにも一理ありました。しかし、私は、寄らば大樹の陰的発想に反発していました。ゼロから自分の実力を試してみたい衝動に駆られていた・
・です。しかし、「酒も飲めず、マージャンもできず、社交は苦手で、海外に行ったこともない君に商社マンは無理だよ」と忠告してくれる親切な友人の言葉に、「進路選択を誤ったのだろうか」という疑問は日増しに増大してゆきました。

卒業をひかえて、再び学問への未練が湧き、カール・ヒルティの『幸福論』やハイデガーの『存在と時間』を読みふけって、「ああ、やはり思想家になりたいなあ」という想いが、押さえても押さえてもこみ上げてきました。人生の疑問に答えるべく、哲学宗教の書物も数多くひもときました。

【大川隆法『太陽の法』第6章「エル・カンターレへの道」より抜粋】
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続きまして、経典『永遠の法』より、空間(霊界構造)に関する教えを振り返ります。
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第五章 八次元の世界
10 完成への道

ところで、八次元如来界にいる人たちは、魂修行を十分に終えたのでしょうか。それ以上の修業はないのでしょうか。この点について考えてみましょう。

実は、如来であっても、地上に肉体をもって出てくる過程においては、まだまだ人間としての修業を積んでいるのです。

彼らは八次元においては専門家であり、一つの霊光線を体現した大いなる存在ですけれども、地上とのあいだを何百年か何千年かの周期で転生輪廻する過程において、いろいろなものを見聞きし、さまざまな体験をしています。また、地上生活を送ることによって、自分たちがよいと思っているもの以外のものを学び、自分が所属する霊光線以外の考えにも接しているのです。

その点では、如来であっても、まだ悟りへの修業の過程にあるのだと言えます。ただ、より完成に近い存在であることは否めない事実です。

そうすると、如来が魂修行を通して目指している完成への道とは何でしょうか。この質問に対する答えは、結局、彼らは大いなる統合、総合の観点から人間を見、教えを見、地球や人類の歴史をみることができるようになるため、魂修行に励んでいるということです。

すなわち、彼らの修業の目的は、さらに高度な認識力と洞察力を得ることです。認識と洞察の力を養うために、諸如来も修行をしていると言えるのです。

転生輪廻は、人類が進化、発展していくための一つの法則として、仏より与えられているものです。そして、すべての霊はこの法則から逃れることができないことになっています。

ただ、「如来は輪廻の法則から解脱している」「如来の条件は、転生輪廻の枠組みから離脱していることである」とよく言われます。この意味について説明しましょう。

結局、如来も、何千年、何万年、何十万年ものあいだ、転生輪廻をしなくてすむわけではありません。やはり転生輪廻をしています。ただし、彼らは自らの意志でもって、計画的に様々な転生をくり返しているのです。

それに対して、菩薩界以下の人びとの場合は、必要があってこの地上に送り出されるということです。それぞれの時代に合わせて出ざるをえないような、義務教育としての転生輪廻を負っているのです。

如来はそうした義務教育がすでに終わった魂なのです。ただ、社会人の生涯学習として、さらに勉強したいのならば、自分の考えに応じた勉強をしていくことができるのだと言えます。

すなわち、彼らは、義務教育は終わっているけれども、さらに高度なものを目指して、自ら学んでいるのであり、どのようなものかを学ぶか、その学びの内容については、各人の自由意志が許されているのです。

そして、その学びの目標は、より高度な認識力と洞察力を養い、より地球的なより全人類的な立場で物事を見ることができるようになることです。そのために、大いなる魂修行をし、完成への道を歩んでいる人たちが如来なのだということができるのです。

【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第5章「八次元の世界」より抜粋】
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本日の『太陽の法』では、主の雌伏の時代である出家成道前の歴史が赤裸々に明かされました。主におかれましては、1981年3月23日、24歳の時に大悟されて、1986年10月6日に幸福の科学を立宗されるまで、さまざまに自助努力・研鑽に励まれ、自分を鍛え抜かれていたことが垣間見ることができました。人力を超えた精進の姿はまさに神の姿です。

この当時の情景は映画「夜明けを信じて」に描かれています。また、小説・鏡川竜二シリーズが説かれていますので、根本仏の精進の姿をさらに詳しく学ばせていただきたいと思います。小説・鏡川竜二シリーズは以下のとおりです。
〇竹の子の時代
〇若竹の時代
〇永遠の京都
〇内面への道
〇遥かなる異邦人

仏弟子必携の書となりますので、お持ちでない方は是非お買い求めください。

また、後半の『永遠の法』では、同じく如来界の修業についての教えを頂きました。
『如来であっても、地上に肉体をもって出てくる過程においては、まだまだ人間としての修業を積んでいるのです。』

『如来が魂修行を通して目指している完成への道とは何でしょうか。この質問に対うる答えは、結局、彼らは大いなる統合、総合の観点から人間を見、教えを見、地球や人類の歴史をみることができるようになるため、魂修行に励んでいるということです。

すなわち、彼らの修業の目的は、さらに高度な認識力と洞察力を得ることです。認識と洞察の力を養うために、諸如来も修行をしていると言えるのです』

とあり、如来の修行目的についても教えていただきました。これは主でなければ分からないとても貴重な教えであると思います。

私が、とても興味を引いたのは、如来の転生輪廻についての主のお答えでした。小乗仏教では、悟りを得た如来は転生輪廻のくびきから離れ、再び地上に戻ることはないされているからです。これについても明確に以下のように教えていただきました。

『「如来は輪廻の法則から解脱している」「如来の条件は、転生輪廻の枠組みから離脱していることである」とよく言われます。この意味について説明しましょう。

結局、如来も、何千年、何万年、何十万年ものあいだ、転生輪廻をしなくてすむわけではありません。やはり転生輪廻をしています。ただし、彼らは自らの意志でもって、計画的に様々な転生をくり返しているのです。

それに対して、菩薩界以下の人びとの場合は、必要があってこの地上に送り出されるということです。それぞれの時代に合わせて出ざるをえないような、義務教育としての転生輪廻を追っているのです。

如来はそうした義務教育がすでに終わった魂なのです。ただ、社会人の生涯学習として、さらに勉強したいのならば、自分の考えに応じた勉強をしていくことができるのだと言えます。

すなわち、彼らは、義務教育は終わっているけれども、さらに高度なものを目指して、自ら学んでいるのであり、どのようなものかを学ぶか、その学びの内容については、各人の自由意志が許されているのです。』

このように、小乗仏教、上座部仏教で通説となっている「仏は、再び転生してこないのではないか」という問いに対して明確に答えを出していただいています。

菩薩と如来では、転生輪廻の意味がまったく違うという意味において大変重要な教えであると考えます。本日の引用箇所も大変重要かつ貴重な教えでした。これを説けるのは、根本仏でしかないと確信を深めることがさらにできました。

私たちにとっては途方もなく遠大な悟りの世界がございますが、とにもかくにも、私たちが目指すべきは「阿羅漢」の境地です。
今世私たち伊勢支部の信者全員が「阿羅漢」になることをめざし、主の御手足として救世運動に参加してまいりましょう。今年そして、来年は、いよいよその救世事業本番の年であるということです。ともに精進を重ねてまいりましょう。

悟りの力がこの世とあの世の『地獄』を解消する大きな切り札です。『太陽の法』『永遠の法』を深く学ぶためにも、悟りへの理解を共に深めてまいりましょう。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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