58 役小角(えんのおづね)は、母、白専女(はくとうめ)を人質にとられたため、捕縛されたが、日本の仙人界では大きな力を持っている。飛鳥寺を本拠地としていた若き行基も、一時期、秘術体得のため、共に修行していたらしい。役の行者は奈良時代の修験道の祖であるが、法相宗の行基は、彼から、祈祷や呪術を学んだものと思われる。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
45 罪人は頂上で、わずかな空間を見つけ、生前の悪行の数々を神仏に謝罪する。主として肉体が犯した罪を肉体の痛みで応報刑(おうほうけい)として受けるのだ。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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8 仕事(ワーク)と労働(レイバー)【正業】
〇自分の役割を紙に書き出す
この正業の反省に入るに当たって、まず、その前提として考えなければならないことは、「自分に今、与えられている仕事」についてです。「仕事とは何か」ということをまず考えてみることです。
自分にはどういう仕事が与えられているのだろうか。仕事とは「役割の代名詞」と考えてもよいでしょう。自分に与えられている仕事、すなわち、役割は一体何であろうかと考えたときに、自分の役割というものを一枚の紙のなかにおそらく書けると思います。書ききれないほどの仕事をしている人もいるかもしれませんが、多くの方は、おそらく一枚の紙のなかに「自分の役割とは何なのか」ということを書けるでしょう。そして、幾つかの役割について、「どの部分をどのように実践しているか」と考えを巡らせることができるはずです。
たとえば、会社で社長をやっている人もいると思います。もちろん、その方の仕事はいくつかに分類されるでしょう。社長業以外にも仕事としてやっている立場はあるはずです。家庭のなかでも「父親」という一つの仕事をやっています。父親業というものも、やはりあるわけです。それ以外にも、他のいろいろなところで人間関係を持っているはずであり、そのなかにも、それなりの役割はあるでしょう。何らかの社会に、何らかのかたちで参画しているのが私たちなのです。
〇一つひとつの役割について「仕事(ワーク)」か「労働(レイバー)」かを考える
これを一つひとつ取り出して、「自分はそこで十分な役割をはたしているかどうか」を考えていただきたいのです。
そして、このときに、さらに考え方を深めていくとするならば、二段に分けてもよいかもしれません。つまり、この役割の概念を、「より高次な意味での仕事」と「労働」というものの二つに分解して考えてもよいでしょう。
労働という概念は、単純再生産のために必要とされる仕事のことです。みなさんが人間として生きていくために、どうしても必要とされる仕事です。毎日毎日しなければならい、生きてくための仕事、これが労働でしょう。
この上位概念としての仕事というものを取り出すとするならば、そのなかに含まれるべきものは何かというと、「生産的なもの」という考え方になります。「自分の働きによって、どれだけプラスアルファを生み出せたか」ということです。
こういう考え方でやってみると、あらゆる役割において、この二段階が出てくることになります。主婦であっても、朝食をつくり、昼食をつくり、夕食をつくるといった仕事のなかにも、大きく分ければ「仕事」的に考えられる部分と、「労働の上の概念としての仕事」に分けられる部分とがあります。英語というと「work(ワーク)」と「labor(レイバー)」の違いです。
【大川隆法『真説・八正道』第五章「正業」189pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
11月23日は初転法輪記念日です。初転法輪とは、今から38年前の1986年11月23日に、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生が、東京・日暮里の地(現初転法輪記念館)にて、初めての説法をされて、法輪を転じられたことです。この聖なる日に仏弟子相集い、心からの感謝を捧げるとともに、たとえ何があろうとも、主の御名と主の教えを地の果てまでも伝えていく伝道の発願を捧げさせていただきます。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
吾らの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
吾らを真なる幸福へと導きたまえ。』
今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第三章 愚か者となるな
○己自身を知れ
世の中には、しかしまだまだ愚かなる者は数多い。
愚かなる者の一つに、自分を知らぬ者がある。
自分自身を知らぬ者がある。
自分自身がいったい何者であるかを知らず、
そうして、得々としているものがあるのだ。
しかし、何万巻(がん)の書物を読むとも、
たとえ、全世界を旅行してまわるとも、
己自身を見極めることができれば、
その人は智者とは言わないのである。
たとえ、いかほどの智慧を詰め込もうとも、
たとえ、生き字引となろうとも、
たとえ、ありとあらゆる地域を旅行し、踏破し、
全世界を経巡(へめぐ)ったとしても、
己が心を知らず、己が本質を知らぬ者は智者とは言わないのだ。
逆に、その知識拙(つたな)くとも、その見聞狭くとも、
よく己の心を知り、
よく己の心を治め、
その自分自身を知りえた悟りは、智者たるに足る。
人よ、
その順序を間違えてはならない。
まず、己自身を治めるということが大切なことであるのだ。
己自身を知り、己自身をよく治めるということなくば、
いかほど費用をかけ、いかほど月日をかけ、
いかほど多くの人の力を借りて、
どのような業績をあげるとも、それは智者であるとは言わない。
よく、己自身を知れ。
己自身を知ることのなかには、
己自身が仏の子であるという事実を知ることを含む。
いかに、この世的に世の人びとから尊敬さるるとも、
己のその身、その魂が、仏より与えられたものであることを知らず、
己の内なる仏性に気づかずに生きたる人間は、
決して智者と呼ばるることはないであろう。
よくよく、あなたがたに言っておくが、
まず、自分自身をよく知っている人間となれ。
それを、まず最初の目標とせよ。
自分を知ることなく、世界を知ったといくら言おうとも、
他の人をいくら知ったと言おうとも、
それはあなたが賢いということにはならない。
自らを知ることなくして、いくら他の知識を集めたところで、
愚かであると言わざるをえない。
○最たる愚者
人びとよ、
次にもまた愚かなる人がいる。
この愚かなる人びとは、
他の人びとを動揺と混乱に陥れることをもって悦びとしている。
他の人びとの心に毒をまき、
他の人びとの心に焦りを生じさせ、
他の人びとを誘惑の淵に導き、
他の人びとに妄言(ぼうげん)し、ささやき、そして、
道に精進しようとするものを迷わす者もいる。
このような者も愚かなる人びとである。
わが教えを学ぶ者のなかにも、このような者が出てくることがある。
自分の悟りが進まないがために、
自分が重用されないがために、
同行の士を巻き添えにしようとする者が跡を絶たない。
同じく修行の道を歩もうとする他の人の、
その堅実な心を揺さぶろうとし、そして自分の仲間を増やそうとする。
自分と同じく、不平不満を持つ者を増やそうとする者がある。
人びとよ、知れ。
このような心は、このような思いは、このような行動は、
すべて地獄に通じるものであるということを。
地獄には、数多くの亡者たちが生きている。
地獄の亡者たちは、自ら自身が助かろうとはしない。
自らが助かろうとするのではなく、仲間を増やそうとする。
仲間をつくろうとする。
他の人びとにも同じような苦しみを味わわせ、
他の人びとにも同じような迷いを与え、
他の人びとも同じような欲望の淵に落とすことによって、
自らの苦しみを和らげようとするのだ。
しかし言っておくが、このような行為を続けて、
本当に心が安らぐということは決してない。
そのようなことであってはならない。
自らの苦しみを薄めるのに、他の人を用いようとするな。
他の人を仲間にしようとするな。
他の人に愚痴を言おうとするな。
自らの苦しみは、自ら一人にて足れり。
自らの苦しみは、自ら一人にて対決せよ。
自ら一人にて、自ら自身の問題と対決せよ。
それを、他の人と徒党を組み、
共に自己の正当化や合理化に走ってはならない。
ゆめゆめ、そのようなことは、してはならない。
およそ、教えに付き、法を学ぶ者であるならば、
自らの正当性のために、教えを曲げたり、
歪曲(わいきょく)したり、間違って伝えたり、
あるいは、人びとを誘惑するようなことをしてはならない。
このようなことは、すべて地獄に通じるものであるということを知れ。
よって、私は言おう。
愚かなる者の最もたるものの一つに、
こうした、道に精進する人々を迷わす人がいるということを。
このような人は、自らが愚かであるということを認識していない。
自らは、愚かであるとは思わない。
自らが正しき者であると思い、賢き者であると思う。
そうして、仏の教えをも、自らの小さな知によって、
曲げ、歪曲(わいきょく)し、そうして自らに都合のいいように説明しようとする。
しかし、このような考えが
いかなる罪を生むものであるかということを、
賢き人たちは、知らねばならない。
その底にあるのは欲望である。
その底にあるものは、
法を説く者と同じく、偉い立場に立ちたいという欲望である。
しかし、諸人よ、
よく知りなさい。
人には、それぞれの器というものがあるのだ。
人が人を導くには、順序というものがあるのだ。
永年の転生輪廻の過程において、
魂優れ、実績優れたる者は、
先を歩く者として、後からついてくる者を導くこととなる。
しかし、その身拙(つたな)く、その心拙く、修行十分でない者は、
やはり、今後も引き続き指導を受けねばならないのだ。
こうした立場の違いは、いつの時代にもあるということを知りなさい。
よく学ぶためには、よくわきまえることだ。
よく知るためには、謙虚になることだ。
よく悟るためには、よく自分自身を調律することだ。
それが大事であると思う。
【大川隆法『仏陀再誕』第三章「愚か者となるな」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第六章 人間完成の哲学
2 悟りの前提
それでは、悟りを得るためには、いかなる前提が必要なのでしょうか。また、そのために必要な心掛けは何でしょうか。
悟りには、主として三つの前提があります。
第一の前提は、「人間は無限の可能性を秘めている」という認識です。これがなければ、そもそも悟りは成り立ちません。「人間は、無限の可能性を秘めた存在、無限に伸びていく可能性を内包した存在である」と定義することもできます。
人間というものを、「運命という川のなかで浮きつ沈みつする、哀れでみすぼらしい存在」と定義するならば、悟りはありえないとこになります。しかし、仏教では、その根本において、人間の本質を無限によきものと見ているのです。
第二の前提は、「発心なければ悟りなし」ということです。「発心」とは、心から思い立つことであり、別の言葉では、「菩提心」ともいいます。菩提心とは、悟りを求める心のことです。
向上していこうとする心は、外から与えられもののではありません。そうした情熱が、自らの内から湧き出し、ほとばしてってこなければ、悟りを手に入れることはないのです。
したがって、発心が非常に大事です。発心をなすことは各人の義務であり、また権利でもあります。発心なくして悟りはありえないのです。
第三の前提は、「人間は努力を通して結果を得ることができる」という考え方です。これは、第5章「縁起の法」でも説明したように、「種をまけば果実が実る」ということです。これなくして悟りはありえません。「努力にはそれだけの報いがくる」という原因・結果の法則を、しっかりと身につける必要があります。
現象としては、努力が実らないこともあるでしょう。しかし、心の世界においては、原因行為、すなわち種をまく行為があれば、それは必ず実ることになっているのです。
たとえば、この世では、他人に親切を施しても、誤解されたり、実を結ばなかったりすることがあります。しかし、霊的世界においては、親切心を起こし、それを実行したならば、結果がすでに現れているのと同じなのです。
すなわち、「霊的世界においては、原因となる思いや行動があれば、すでに結果が出たのと同じである。悟りの世界では、因果の法則は確定している」と考えてよいのです。
一番目に、「人間は無限の可能性を秘めている」という人間観を持つこと。二番目に、発心し、勇気を奮うこと。三番目に、「悟りの世界においては、『種をまき、それを育てる努力があれば、必ず果実が実る』という因果の法則が、一〇〇パーセント的中するのだ」ということを知ること。
悟りの前提として、この三つが要求されているのです。
【大川隆法『釈迦の本心』第六章「人間完成の哲学」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について
・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。
・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。
日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。
・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。
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・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)
(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)
・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。
(『現代の武士道』)
・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
(「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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文責:蒲原宏史
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