(9/28-2)90『真説・八正道』を読む―正定―最初に『正心法語』を読誦してから、精神統一に入る―悟りと漏尽通力

『真説八正道』を読む

99 妖怪の例は多すぎて書き切れない。おそらくは昔の信仰が、仏教や儒教、キリスト教らの思想の高さに裏側に追いやられて、天上界とも地獄界とも言いかねる「恐怖」と「こっけいさ」が同居した民間信仰として残ったのだろう。

100 しかし玉藻前(たまものまえ・九尾を持つ狐の妖怪)に準ずる、九本狐、七本狐、五本狐などの妖魔も、地位ある男性を狙う現代妖怪としては存在するし、たいていの動物妖怪は、畜生道に堕ちた人間霊であることに、注意を喚起しておきたい。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

2 自分の心が、現象化したものが、地獄だ。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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〇大乗仏教の中心は六波羅蜜多―⑤禅定波羅蜜多(ぜんじょうはらみた)
五 禅定波羅蜜多(ディヤーナ・パーラミター)
これは、精神統一の完成です。いわゆる禅定により、実在世界との交流を目指す方法です。

【大川隆法『黄金の法』より抜粋】
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○禅定波羅蜜多
「禅定波羅蜜多」は、別名「精神統一の完成」とも呼ばれています。
これは八正道の「正定」と重なるところもありますが、正定とどう違うかと言えば、正定は、正しく定に入ったかという、定に入るときの精神状態、思いのあり方を、作法として反省するところに力点があるのに対し、禅定波羅蜜多は、精神統一を日々に重ねていくという実践の徳目を指しているのです。
たとえば、日曜日などの閑暇(かんか)が訪れたときに過去を振り返るのは、そう難しいことではないかもしれません。しかし、毎日を忙しく過ごしていながら、日々、みずからの心の内や行動をふり返るのは、容易なことではありません。こうした日々の積み重ねをしていくのは大変なことです。
したがって、日々、自らの内を見つめる時間を確保しつづけることができた人は、それだけでもすでに非凡な高みに上がっていると言えます。
私はみなさんに、自分自身のことに思いを巡らせていただきたいのです。生まれてから現在までのことを思い出すのは、それほど難しいことではないかもしれません。しかし、日々に自らの心を発見し、探求し、確認するという作業を積み重ねることが、どれほど困難なことかわかるでしょうか。それは大変な努力を要するものなのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第三章「六波羅蜜多の思想」から抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、この世へ執着と煩悩を断つ方法として『漏尽通力』を共に学びます。経典をお持ちでない方は、ぜひお求めください。【1700円税抜】
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第9章 正定 
5 幸福の科学としての正定の方法
○最初に『正心法語』を読誦してから、精神統一に入る

そこで、幸福の科学としての「正定」の具体的方法ですが、まず心の波長を整える必要があるので、深い深呼吸をし、そのあとで、できれば『正心法語』の読誦(どくじゅ・声を出してお経を読むこと)をしてほしいと思います。これは十分ぐらいあれば十分でしょう。そして、反省をするのならば、そのあと、反省に入っていきます。本書で具体的に述べた、八正道についての反省に入っていくのです。

また、祈りをする場合には、『祈願文』あるいは『エル・カンターレへの祈り』を使って、祈りに入っていくとよいと思います。

時間の取り方は、もちろん人によって違うでしょう。あまりに長時間では、逆にまた効果も薄くなってしまいます。一回限りになってしまってはいけないので、時間はその人のスケジュールに合わせて決めればよいのです。極めて忙しい人であれば、多くの時間をとることは難しいでしょうから、習慣として無理なく続けられるぐらいの時間帯にするとよいと思います。十五分から三十分でも結構です。一日に一回ぐらい、そういう瞬間が取れたらよいということです。

○仏陀の生命体の言葉である『正心法語』は、光の波動が非常に強い
最初に『正心法語』を読誦することを述べましたが、なぜかいうと、『正心法語』は言魂でできているため、光の波動が非常に強いからです。『正心法語』のなかの言葉すべてがそうです。同じ日本語ですが、言葉の響きと配列によって、光のリズムが出てくるのです。ちょうど和音のようなもので、言葉の配列によって、一定の信号になり、天上界への合図が出ているのです。『正心法語』を読んでいる人を霊視すると、口から光の玉が出ていっている姿が明らかに視えます。

このような『正心法語』を読むことによって、「ある程度の悪霊などを遠ざける」という効果がありますし、「邪念・雑念を取り払う」という効果もあります。そして、そうしたものを取っておいてから精神統一をしたほうが、やはり、よいのです。悪霊などが憑いたままで精神統一に入ると、危険です。非常に危険な面があります。

とりあえず、習慣としては、『正心法語』を読んでから精神統一に入るようにするとよいでしよう。

『正心法語』は、ご存じと思いますが、仏陀の生命体の言葉です。ですから、『正心法語』を読むことによって、幸福の科学の中心的な光を引いてくることになり、力が出てくるのです。幸福の科学にはいろいろな教えがありますが、中心にあるのは、やはり仏教的精神です。それが根本にあるので、『正心法語』を読むことによって、そこに光の回路ができてくるのです。そういう意味合いがあります。

○反省の項目はあまり欲張らず、一つひとつ片付けていく。
反省の項目や内容は、あまり欲張らずに一つひとつ片付けていくことです。「正語」なら「正語」、「正見」なら「正見」、そして、事柄を限っていくことです。

すなわち、とりあえず、自分がいちばん悩んだ時期などに光を当てて反省していくことです。これが大事です。

欲張りすぎて、結局、何もやらないよりは、少しずつでも、やったほうがはるかによいのです。

○非常に体調が悪いとき等は、精神統一ではなく、真理の学習を
だた、『正心法語』から精神統一に入るという話をしましたが、非常に体調の悪い人、明らかに霊障になっていると思われる人、妄想が湧いて湧いて霊が働きかけてしょうがないタイプの人は少し危険です。こうしたタイプの人に勧められるのは、精神統一ではなく、『正心法語』や法話の音声CDを聴いたり、DVDを観たり、仏法真理の本を読んだりするような仕事です。こうしたことのほうに力を割いていただきたいと思います。もう少し状態がよくなってから、精神統一をしてほしいのです。

霊現象がたくさん起きてき始めた場合には、いったん精神統一はストップしてください。霊現象を喜んではいけません。自分の心の状況を見て、「そんなによい状況かどうか」を点検し、そんなによくもないのに霊現象が起きているなら、ストップしたほうがよいと思います。勇気を持ってストップしてください。

以上が、正定の方法です。

【大川隆法『真説・八正道』第九章「正定」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第七章 『漏尽通力』講義
2 漏尽通力の現実への適用
(前回①霊的世界の感覚と肉体的感覚との調和)の続き)

② 直観力が以上に働き始め、「学問の時間」とズレたときの対応
漏尽通力が現実への適用される際に現われる第二の問題点は、「直観力が異常に働き始める」ということです。

この直観力とは、「物事の本質を洞察する力」でもあります。物事の本質を洞察してさまざまなことが分かる力です。例えば、「人の考えていることが分かる」、「仕事において核心の部分が分かる」、「会議において結論が先に見える」というようなことがあるわけです。

さて、このときに次なる課題として出てくるのは、「『地上の時間』と『霊的直観の時間』では、時間的なズレがある」ということです。それは、まるでよどんだ川の流れのように、ゆっくりゆっくりと流れているのですが、そうした霊的能力を持った人間にとっては、結論はたいていの場合、一秒、すなわち瞬時のうちに出るのであり、霊的直観が鋭く働くようになるわけです。また、その直感の裏づけには「高級霊界からの指導」というものがあります。

このように結論の見える人間には現実社会が一体どのように見えるかというと、非常に異常な雰囲気、”スローモーション”で動いているような雰囲気に見えるのです。

したがって、第二の問題として現れる現象には次なる展開が必要となってきます。すなわち、「どのように他の人が感じているかを知る」という能力が求められるのです。

自分自身の感じのみをよしとするのでは足りません。他の人は、自分が感じていること、あるいは思っている結論のところまで、瞬時に行き着けるわけはないのであって、「他の人がその結論に行き着くには、一体どれだけの時間がかかるのか。どれだけの説明が必要なのか」
ということを見抜く必要があるのです。

これは、実は、「対機説法能力」とも非常に関係があります。

悟った人間が自分の悟りを性急に教えようとしても、他の人にはなかなか変わらないため、伝道の過程においてはさまざまな問題が起きてくるのです。

ただ、現代の信仰者だけがそうした問題を抱えているわけではありません。過去、二千数百年前に釈迦が伝道を開始したときにも、この問題でいったんはつまずいています。

すなわち、自分悟りを他の人々に対して性急に教えようとしたものの、まったく教化することができず、帰依させることもできないという現実があったわけなのです。

結局、ここが、対機説法が必要となってくる局面であると言えます。要するに、「他の人がどう感じるか」ということです。「視点を自分ではなく、他の人の心のなかに置いてみたときに、どのように自分のことが見えるか」という判断が必要になるのです。これができなければ、漏尽通力は完成しません。

③霊的世界への憧れをいかに現実生活と合致させるか
漏尽通力を現実に適用するときに、第三の問題として挙げるべきものは、「霊的世界への憧れを、いかに、現実生活の日々と合致させるか」ということです。

高度な霊能力を持って、霊人たちと話をするようになると、人生観がどうしてもあの世的にならざるを得ないところがあります。そして、あの世の実相世界にあこがれるようになるのは人情の常なのです。

それゆえに、こうした霊的感覚に酔いながらも、「現実世界の意味をいかにして見いだしていくか」ということが三番目の問題として出てくるわけです。

霊的世界に対する視野が開けた場合、一瞬にして「現実」というものが”淡い色”に変わっていくことがあります。変色して”セピア色”に変わった写真のごとく、「現実」というものが”淡くぼやけた色”に見えてくることがあります。このぼやけた現実に、いかにして生気を吹き込むかということが大事になるのです。

あの世的な人間になりきってしまうのではなく、この世のなかにおいて、いかなる真実を発見するか。この世の生活のなかにおいてもキラキラと輝く魂の光をどう発見していくか。心の糧をいかにして得ていくか。

そのようなことが大事になってくるわけです。

この三番目の問題点を克服できないかぎり、漏尽通力は決して完成しないし、また霊的能力を駆使できる人であっても、この世的な幸福というものを完全に享受することができないのです。

現実問題としては、以上の三つを参考にしてください。

3 悟りと漏尽通力
さて、次なる問題は、「いわゆる『悟り』と称されているものと漏尽通力とは関係があるのか、ないのか」ということです。

結論から言うとするならば、『漏尽通力というものは、悟りを支えるための背骨の役割を果たしている』のです。

人々は、「悟り」という言葉に対して抽象的な意味づけを与え、またそれを瞬間的なるものと捉えがちです。

禅宗においてもそうであって、悟りとは「発見の悦び」、あるいは「魂が煌めいた時の悦び」を言うことが多いようですが、残念ながら、こうした悦びを伴う悟りも感動が長続きしないという欠点があります。そして、その悦びという名の至福の瞬間が、人生の途中で、あるときに訪れることがあったとしても、だんだんにその幸福感覚が薄れていくわけです。いったんは自らが「悟った」と思っても、その悟りの中身というものがだんだんに流れ去り、分からなくなっていくのです。

この「悟りにともなう幸福感」を最大限に享受しつつ、それを人生の長きにわたって味わい続けるために、漏尽通力というもがあるのです。それゆえに、「漏尽通力は悟りの背骨に当たる」と、私は言っているのです。この背骨があってこそ、他の肉体諸器官も発達していくわけです。

悟りの悦びというものを長く味わうためには、さまざまなる現実の波、風を受けながら、「動かざる自分」というものを持ち続ける必要があります。この「動かざる自分」「不動の自分」「神仏の子である自分」「流れていくもの、過ぎ去っていくもののなかにあって、過ぎ去らざる自分」というものを保持し、維持していくために、漏尽通力が必要となってくるわけです。これは、霊能力として最大のものであり、現実への適用能力を含めた力でもあります。

したがって、漏尽通力は、悟りそのものではありませんが、「悟りの中心部分をなすもの、背骨をなすもの、骨格をつくるための大切な柱である」と言い切ってよいと考えます。

【大川隆法 『漏尽通力』第7章「漏尽通力」講義 より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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