3 仕事に行き詰まったら、常に整理整頓をやりなさい。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。
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さて、ここからは、幸福の科学の基本書3部作『黄金の法』を通して、エル・カンターレの歴史観を共に学んでまいります。『黄金の法』は、光の菩薩たちが主の悲願である地上仏国土ユートピア建設のためにどのような活躍をなしたのかを記すものです。人類の歴史に隠されていた地球神を、光の天使・菩薩たちはどのように実行したのか、その一端を学びます。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
『エル・カンターレが観た歴史観であるとともに、エル・カンターレが立案したところの、地球的仏法真理の大河の鳥瞰図でもあります』(「『黄金の法』まえがき」より)
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第5章 愛の押し寄せる時
3 光り輝く者・アポロン
アポロンは、ゼウスの息子です。アポロンは、母(ギリシャ神話では母をレトとする)の容貌を受け継いで、光り輝くばかりの美少年であり、王宮内はもちろんのこと、国内全域に、その天使のごとき立居振舞(たちいふるまい)が評判になっておりました。
アポロンには、三歳年上の姉アテナ(ギリシャ神話では父をゼウス、母を思慮の女神メティスとする。近代ではオーストリアの女帝マリア・テレジアとして生まれた。※その後の霊査で、大川家三男として転生している)がおります。アテナは、小さい頃から男まさりで、十六歳の頃から、早くも鎧兜(よろいかぶと)に身を固め、自ら部隊を率いて、戦場に繰り出す勝気な女性でした。アテナが二十三歳、アポロンが二十歳のとき、彼らの父ゼウスが四十七歳の生涯を閉じます。ゼウスの死は、戦場で流れ矢を左脇腹に当てたことが原因です。その傷が化膿し、三ヵ月ほどの病の床についた後、亡くなりました。
ゼウスの死後、重臣たちも動揺します。長女アテナは、いくら勇敢だといっても、まだわずか二十三歳の女性です。一方、二十歳になったアポロンは、政治や軍事にはさほど関心もなく、心の世界の探求に日々を費やしている、優美さをたたえた青年でした。結局は、姉のアテナが全軍を取り仕切ると宣言、重臣たちがアテナに忠誠を誓うことによって、一件落着したのです。
そして、二十歳の青年アポロンは、王宮を出て、神々が集うというオリンポスの山に登ります。ここで、彼は、出家者のごとく、洞窟を寝床として、修行を始めたのです。彼は、現在の坐禅のように、禅定をして、反省と瞑想の日々を送りました。彼は、愛された幼かった頃のこと、姉アテナとよく喧嘩したこと、重臣たちのなかには、心清く忠誠を尽くす人もあれば、陰謀をたくらんでいる人もいたこと、平民の子供のように、自由には遊べなかったこと、霊現象を見て神秘感に打たれたことなどを、ひとつひとつ思い出しては、善意なる第三者の立場で、反省してゆきます。
アポロンが禅定を始めて、一ヵ月の月日が過ぎ去ろうとした頃のことです。ある星のきれいな夜、アポロンが半眼を閉じて瞑想していると、目の前に、亡くなったはずの父ゼウスが現われます。そして、ゼウスは、アポロンに、こう語ったのです。
「アポロンよ、私は今、地上を去って、はるか彼方の黄金郷に住んでいる。ここに住んでいる人たちは、みんな、心がきれいで、たいへん調和のとれた生活をしている。私が生きていたとき、人間は、魂と肉体という二つの部分からできており、この両者の調和こそ大切であると思っていたが、こちらに還って来てみると、人間は、そのような二つのものからできているわけではなく、魂がすべてなのだと気がついた。
肉体は魂の影であり、永遠の生命から見るならば、地上に生まれている間の、ほんの一瞬の乗り物にしかすぎない。この一瞬の乗り物を自分の実体だと思い、肉体の快楽欲、保存欲のままに生きている人々の、なんと哀れなことか。戦いというものは、むなしいものだ。勝者も、自分の肉体を護るために戦っているのだが、その戦いは、実を結ぶことのなか戦いなのだ。たとえ勝者となったとしても、やがては死んでゆく身であるならば、争いのままに一生を送ったことを、こちらの世界に還ってから後悔することとなろう。
アポロンよ、私たちの王家も、ここ数十年のうちに滅びてゆくだろう。やがては、宮廷も滅び、アテナも戦いに敗れる日がこよう。しかし、お前は、心動かすな。お前は、経を境にして、霊能力を授かることになろう。高級霊たちとよく相談して、自分の道を切り拓きなさい。そして、父ができなかった分まで、世の人々を救ってゆく、心の教えを説きなさい」
アポロンは、その後、確かに霊能力を授かり、天上界の高級霊たちと会話ができるようになりました。そして、オリンポスの山を出発して、デロス島やデルフォイを中心に宗教的集団を拡張してゆきました。
アポロンは、実在界では、七大天使のひとりで、天使長のミカエルと呼ばれている人です。今から三千六百数十年前、ギリシャに生まれて、光を中心とする教えを説いております。さらに、イスラエルの王ヨアシの子・ヤラベアム王の時代に、預言者アモスとして出ております。【※その後の霊査で、アポロンは現代に大川家長男として転生しており、地上で、時々覚鑁と共にいることが分かっています。新たな霊査で大川家長男の転生に楊国忠もいて、「欲界にいる」(『唐の盛衰と「九尾の狐」(下)』)ことが分かっています】
【大川隆法『黄金の法』第5章「愛の押し寄せる時」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。
9/28(土)朝10時〜10時45分 三重テレビ7チャンネルで2022年エル・カンターレ祭御法話「地球を包む愛」の放送が決定いたしました。「小さな地方局かも知れませんが、象徴的闘いでした。この勝利はとても大きい」
一般放送に当たっては、メディア支援植福という形で、テレビ放送の経済的支援を伊勢支部にて支えさせていただいています。法人での提供も募集していますので、詳しくは支部までお問い合わせください。主の奇蹟の復活を祈り続ける今、私たちの信仰心をこの植福に結集してまいりましょう。
幸福の科学は、この地上に真のユートピアを建設するために、日夜努力しています。私たちが「正しき心の探求」として「愛・知・反省・発展」の四正道の教えの実践と四正道の全世界への布教に向けて伝道しているのは、「仏国土ユートピア建設」のためです。
ここからは、経典『正しき心の探究の大切さ』第一章「未来へ」より教えをいただきます。
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〇伝道の原点は、「四正道」を簡単に伝えること
では、何を伝えてほしいかというと、原点に返れば、「愛・知・反省・発展」の「四正道」です。まず、「四正道を、どれだけ簡単に伝えられるか」ということが原点になります。
①いちばん最初に説かれている「愛の教え」
みなさんが伝道する際、おそらく、相手から、「幸福の科学の教えは何ですか」と訊かれるでしょう。そのときには、例えば、次のように話してみてください。
「幸福の科学では、いちばん最初に、『愛の教え』を説いています。『人を愛しなさい』と言っています」
「ああ、それは、よく聞いています。キリスト教でも言われているし、仏教では、『慈悲』なども説かれているから、まあ、そういうことでしょう?」
「そのとおりです。『人を愛しなさい』という教えです」
「では、『人を愛しなさい』とは、どういうことですか」
「それは、『人に優しくしなさい。親切にしなさい。人を思いやりなさい。相手の立場を考えて、ものを言ったり、行動したりしなさい。人のことを考えて生活しなさい』ということです。これが『愛の教え』なのです」
簡単に言えば、こういうことです。
【大川隆法『正しき心の探究の大切さ』第一章「未来へ」より抜粋】
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続きまして、経典『幸福の科学とは何か』より、与える愛について学びを深めます。
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〇与える愛と執着
さて次に、「与える愛と執着」について、話をしてみたいと思います。
仏教においては、古来より、愛という言葉を積極的にはとらえておりませんでした。この愛という言葉が、とくに日本において認められ始めたのは、おそらく明治以降であったでしょう。キリスト教が入ってきたのは今から五百年ほど前ですが、その頃にも愛という言葉は使われていなかったはずです。「親切」という言葉で表されていたと思います。こうしてみると、キリスト教でいう愛を「親切」という言葉で表してみるとするならば、そこには仏教とは何らの矛盾がないことが、発見されるのです。
仏教の根本は慈悲であり、多くものたちを慈しむという気持ちが、その出発点にあります。万象万物を慈しむ。動物であっても、食物であっても生あるものを慈しむ。また、生あるものの最もたるものである人間、この他者の存在を祝福し、そして彼らの苦しみを我が苦しみとして考える。これが慈悲のあり方でした。そうした慈悲のあり方は、おのずから他人に対して親切にならざるをえなかったといえましょうか。この意味において、愛も慈悲も、その言葉の使い方さえ注意すれば、根本的には違ったものでないとも言えましょう。
ただ、仏教において、なぜ愛が問題であるとされたかというと、それは、愛というものを煩悩の範疇においてとらえていたからなのです。すなわち、悟りを妨げるものとしての執着のひとつとして、愛が考えられていたのです。
これは、釈尊その人自身の生き方とも関係していたと言えましょうか。この釈迦時代の愛の考え方は、親子の愛、妻と夫との愛、こうしたものが中心であったと言えましょうか。この釈迦時代の愛の考え方は、親子の愛、妻と夫との愛、こうしたものが中心であったと思います。そうすると、釈迦の時代においては、王家に生まれてその跡継ぎにならねばならないというような、この親子の葛藤、また、幾人もの妻との愛情劇、また愛憎劇とも言うべきものが展開されていた、そうした人間関係のしがらみのなかで、どうしても悟りを開けなかったという現状があったのです。それゆえに、釈迦は、この愛というものをひとつの束縛と考え、これを脱しないかぎり、真なる解放、解けということはない、つまり悟りということはないと考え・
・のでした。
これは、たしかにそうした面はあるでしょう。妻子を養うということ、親兄弟がいるということ、これらが真理の道に突き進むための障害になるというのは、いつの時代にもあることです。そして、それがまさしく障害になるのは、彼らへの思いやりや、また慈しみが深ければ深いほど、それが障害になりがちであるとも言えるでしょう。
けれども、ここでもうひとつ考えねばならないことは、環境を乗り越えるという努力の余地はあるということです。現に自分を縛るものがあるからと言って、そのものをいつまでも縛りとだけとらえているのでは、孤高の人として閉じこもっていく以外に道がないのではないでしょうか。そうではなくて、本当の意味で回りを強化していく、その強化の努力の過程において、縛りは解け、お互いに本当に開放的に生きることもできたのではないでしょうか。
すなわち、愛と執着との混同、これはまだまだ自己確立ができていない段階で起きる問題と言えましょう。ほんとうの意味において悟りを開き、そして愛の器量が大きくなった人にとっては、執着の鎖はその人をつなぎ止めることができなくなっていくのです。そのようにして、おのずと家族にも、あるいはその周りの者へも感化がおよび、そして、彼らをも自然のうちに導かざるをえなくなってゆくのです。
しだかって私は、キリストが「預言者故郷に入れられず」という言葉で語っていたことと、釈迦の事象とを比べてみても、真の悟りは、逆に執着を取り除き、与える愛を復活させるものだと考えています。たとえ親であろうとも、兄弟であろうとも、妻であろうとも、子であろうとも、真の悟りを開き、その悟りを押し広げんとしている人に接した場合に自然に道を開いていき、よき協力者となるのではないかと思います。
それゆえ、与える愛というものは、縛りの愛、執着の愛、煩悩の愛とはまったく違ったものだとして分けてとらえるのは、やはりまちがっていると思います。愛のなかには、本質的に同じものもあるけれども、その方向性に違いがあるということです。より多くの人間のために役立つ方向で、その愛のエネルギーを使ったときに、本来執着の愛とか、与える愛とか言うような二分化は起きないのであり、愛は一元となってゆくのです。
【大川隆法『幸福の科学とは何か』第4章「愛の基本」より抜粋】
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伝道の原点は、「四正道」を簡単に伝えることであることを本日学びしまた。
これは大切な点です。
経典『地獄の法』の第五章「救世主からのメッセージ」では、
「正しき心の探求」としての「現代の四正道」を実践することをの大切さが説かれています。
主におかれましては、「信仰心を持って生きることを、大きな意味において『正しき心の探求』といいます。そして、その『正しき心の探求』の中身とは何であるかといえば、「愛・知・反省・発展」という「現代の四正道」に、今は集約されています」と説かれています。
そして、経典『「正しき心探求」の大切さ』では、
『(伝道において)では、何を伝えてほしいかというと、原点に返れば、「愛・知・反省・発展」の「四正道」です。まず、「四正道を、どれだけ簡単に伝えられるか」ということが原点になります』と説かれており、伝道において、「四正道」分かりやすく伝えることが大切である、と教えていただいています。
本日の引用では、「愛」の教えを分かりやすく伝えるために、愛をこのように定義していたただきました。
『それは、『人に優しくしなさい。親切にしなさい。人を思いやりなさい。相手の立場を考えて、ものを言ったり、行動したりしなさい。人のことを考えて生活しなさい』ということです。これが『愛の教え』なのです』
また、愛一元の考え方として、与える愛と執着について教えていただきました。とても難しい問題ですが、このように教えていただきました。
『愛と執着との混同、これはまだまだ自己確立ができていない段階で起きる問題と言えましょう。ほんとうの意味において悟りを開き、そして愛の器量が大きくなった人にとっては、執着の鎖はその人をつなぎ止めることができなくなっていくのです。そのようにして、おのずと家族にも、あるいはその周りの者へも感化がおよび、そして、彼らをも自然のうちに導かざるをえなくなってゆくのです。・・・
それゆえ、与える愛というものは、縛りの愛、執着の愛、煩悩の愛とはまったく違ったものだとして分けてとらえるのは、やはりまちがっていると思います。愛のなかには、本質的に同じものもあるけれども、その方向性に違いがあるということです。より多くの人間のために役立つ方向で、その愛のエネルギーを使ったときに、本来執着の愛とか、与える愛とか言うような二分化は起きないのであり、愛は一元となってゆくのです』
今日も、神から頂いた無尽蔵の愛を、見返りを求めることなく、隣人に愛を与えるために、『人に優しくしなさい。親切にしなさい。人を思いやりなさい。相手の立場を考えて、ものを言ったり、行動したりしなさい。人のことを考えて生活しなさい』という言葉を胸にこの奇跡の一日を主に捧げてまいります。
本日も愛と天使の働きをなすために、そして私たちの隣人を助けるために、主の教えと信仰心の大切さを伝え、入会・三帰へと導いてまいりましょう。そして、私たちは、人の不幸を呪うのではなく、人の幸福を祈る者になりましよう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について
・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。
・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。
日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。
・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福として、1
口 10 万円からお受けいたします。
・本植福に参加された方には、「『天御祖神
感謝報恩の誓い』奉納書」を拝殿の基壇部分に御奉納させていただき、大きな貢献をされた方につきましては、記念碑建立時に銘板をもうけ、そのお名前を記名し、顕彰させていただきます。
・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)
(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)
・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。
(『現代の武士道』)
・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
(「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)
日々のご支援に心より感謝申し上げます。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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文責:蒲原宏史
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