92 また町中でも、商売繁盛のための、稲荷神社が路地に建っている。それは、ビルの屋上にもある。狐霊か、それを自称する人間霊が、ご祭神になっていることが多い。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
11 男女の愛も、仏法真理から見ると、「与えた」か、「奪った」かで、天国地獄が分かれる。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正念】忘れることの大切さ
〇【正念】「忘れる」という技法を大切にする
ここで、一つ大切なことを述べておきます。
それは、真の意味で「正念」ができるようになるためには、「忘れる」ということも大切な技法であるということです。これは大事なことなのです。
さまざまな思いにとらわれ、その思いに縛られるということは、実は自己実現を妨げているわけです。
したがって、「忘れる」という技法を大切にしてください。これも大切な「徳」の一つです。
「忘れる」ということは、嫌なことを忘れ、都合のよいことだけを覚えておくといわけではありませんが、例えば、他人が自分を害したような言葉等を忘れるのも、「愛の行為」の一つだということです。
【大川隆法『真説・八正道』第八章「正念」284pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。
今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、この世へ執着と煩悩を断つ方法として『漏尽通力』を共に学びます。経典をお持ちでない方は、ぜひお求めください。【1700円税抜】
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第七章 信仰と仏国土建設への道
○命落とすとも
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
さて、私は信仰の大切さを説いてきた。
いつの時代においても、この信仰というものは大切である。
もし、あなたがたの生命の安全と信仰とのどちらかを選べ、
と言われたならば、
迷わずに信仰を取れ、
信仰を取ったところで、あなたがたは永遠の命を失うことはない。
あなたがたは永遠の栄光のなかにあるだろう。
しかし、地上の命と信仰とのどちらを取るかと言われて、
命のほうを取った者は、
やがて地上を去ってから、激しい後悔にさいなまれることとなる。
あれだけの固い意志で、堅固な意思で、修行を重ねてきたのに、
あんな誘惑でもって、その信仰の道から、離れたということが、
地上を去った後、幾百年、幾千年もの間、汚辱(おじょく)となって残るのだ。
そして、魂の後悔は止むことがない。
そのような魂の後悔は、
たとえ地上にありて、鋸(のこぎり)にて身体を引き裂かれようとも、
これほどまで苦しくはないと言わんばかりの苦しさであるのだ。
過去、偉大なる仏陀が地上に降りた時も、
信仰心を失い、そして師への罪を犯した者たちは、
地上を去った後、
どれほどまでの苦しい、苦渋に満ちた魂生活を送ったかということを、
あなたがたは知っているだろうか。
このように、信仰を失うということは、
命を落とすよりも大変なことであるのだ。
命落とすとも、信仰を失ってはならない。
また、地位や名誉や金銭のために、
また、異性への情欲のために、
信仰を失ってはならない。
あなたがたの人生において、迷うべき時があるであろう。
そして、どちらを選ぶかをひじょうに考えるであろう。
たとえば、会社に勤めているものであれば、
地位や体面というものもあるであろう。
また、社会的名声のあるものであるならば、
名誉ということもあるであろう。
また、金銭ということもあるであろう。
また、妻や夫の愛情というものもあるであろう。
しかし、いかなるものをも秤にかけるとも、
信仰より重いものはないということを知りなさい。
信仰とは、仏と一本に結ばれるということ。
仏と一筋に結ばれるということ。
仏と一つになること。
この地上に、仏より重いものはないということを知りなさい。
いかなる秤にかけようとも、
いかなる地上的なるもの、金銀を、財宝を積もうとも、
しかし、仏より重いものはない。
信仰とは、仏と一体となること。
この仏と一体となるということを、決して忘れてはならない。
この信仰なくして、仏国土の建設などありえないのだ。
私は、そう思う。
【大川隆法『仏陀再誕』第七章「信仰と仏国土建設への道」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第六章 心の平静と祈り
1 静寂の大切さ
本章では主として、「心の穏やかさ」「平静さ」「平安」ということについて話をしていこうと思います。
まず、私は、「静寂ということの大切さ」について語ってみたいと思います。現代文明のいちばんの問題点が一体どこにあるかといえば、結局のところ、「忙しすぎる」、あるいは、「喧噪(けんそう)のなかにある」という点にあるのではないかと思います。
とにかく騒がしい文明です。この文明の側面を音楽的に見るとするならば、たとえば、ジャズであるとか、ロックであるとか、心静かな人にとっては騒音としか思えないような音楽になると思います。これが現代文明の一つのあり方であろうと思います。一時代前のクラッシック音楽の時代が過ぎ、そうした高級霊が指導していない場合の地獄的なる音楽が氾濫している時代と言えるかもしれません(例外はある)。
これはビジネスマンにとっても同じであって、「とにかく忙しい。電話、ファックス、メール、あるいは、来客、訪問といった分刻みの厳しいスケジュールのなかに生きていて、心が休まるときがない」と言えると思います。
そういう意味で、静寂というものの値打ちが失われているのではないかと考えられるのです。時折、人々は休みを取って、古都の京都であるとか、奈良であるとか、鎌倉であるとかを、ふと無性に歩いてみたくなることがあります。「そうした所で、古仏の顔を見ながら心を休めたい」と思うことがあるわけです。しかし、それも束の間であって、まだ、日常の喧騒(けんそう)のなかに、その姿が消えていくことが多いのではないかと思います。
静寂の大切さは教えられないとなかなか分からないものですが、人は時折、一年に一度、あるいは、数年に一度、そうした静寂ということに対して思いを巡らせます。例えば、新宿の副都心のような大都市の、五十階建ての超高層ビルのなかで忙しく仕事をしていて、「これこそが人間のあり方だ」と思っていた人が、ふと京都のような山寺の軒先に佇んでみて、
自分の世界とのあまりの違いに驚くことがあります。
そして、そうした所に座って、書物を呼んだり考えごとをしたりして、石庭などを眺めながら一日いろいろなことを考えてみると、「はたして、人間の値打ちとは何なのか。人間の幸せとは何なのか」ということをふと思い、分からなくなってしまいます。こうしたことに関しては、人々は、ほとんど指導されることもなく、それぞれの感性のままに流されていると言えるのではないでしょうか。
こうしてみると、「大都会の何十階建ての高層ビルで忙しく立ち働く」ことと、「庵、あるいは、お寺のような所で静かに自分の心を振り返ってみる」ことの、どちらがはたして人生にとって値打ちのあることかといえば、一概には言えません。人は華やかな世界を求めるわけですが、ふと、「心の故郷はそこにない」という感じを受けます。いろいろな書類を書いたり、電話で忙しく話したりすることのなかには、本当の心の安らぎはないのではないかと思うのです。
その感は、地上を去って、あの世の世界、すなわち霊天上界に還ってみると、もっと深くなってきます。地上的な忙しいビジネス世界というものは、霊格においては、非常に低い世界です。
高級霊界に行くほど、心は調和され、安らかな世界が展開しています。山々は緑であり、野原は美しいのです。花が咲き乱れ、蝶が舞い、鳥が飛び、人々は安らかな会話を交わしています。心は穏やかであって、「永遠の今」を生きているという感じがします。
ところが、下層霊界に行くと、人々は、時間に追い立てられるように忙しく立ち働いていることがよくあります。もちろん、上段階の指導霊であっても、仕事そのものはたいへん忙しく働いていることはあるわけですが、それでも、心の安らぎというものを常に持っています。そのようなことが言えるのではないかと思います。
こうしてみると、静寂というものは、やはり、心の奥深いところにある根源的なる欲求だと考えたほうがよいと思います。人間には、そうした静寂を求める気持ちがどこかにあるということです。何ゆえに静寂を求めるのでしょうか。それは、かつて魂の故郷において味わった感覚であるからです。魂の故郷において、そうした静寂のもたらす幸福感というものを味わったからです。
修道院などでは、一日に一定の時間、瞑想、あるいは、沈黙ということをさせるわけですが、誰とも話してはいけない時間というものがあります。そうした時間を設ける理由は、「自分の内を見つめて、みずからの内なる心を掘り出す。内なる心と対話する」ということを通して、昔、魂が味わった郷愁を思い起こすことができるからではないでしょうか。
これは、人間のいちばん根源的なる欲求のうちの一つなのです。外面的な派手さを求めるのは、どちらかといえば、魂においては偽我に近い方向です。外側の面であり、偽りの部分です。
ところが、静寂を求める心は、魂の奥の奥にあるものを求めていく行為、すなわち、神仏へと向かっていく行為でもあるわけです。こうした静寂の持つ意味というもの、その大切さということを現代人は忘れ去っているように思います。
「静寂なままに生きる。静寂のうちに考える。静寂のうちに生活する」ということは、それで一つの価値ある生き方なのです。忙しい毎日であればあるほど、忙しくいろいろな人と会っていれば会っているほど、「静寂な時間をとる」ということが大事であろうと思います。そして、自らの内を振り返り、いろいろなこの世的な波動に乱されることなく、心の楽しみを味わってみることです。
この心の王国、心の王国における自由の満喫は、何人にも犯されない永遠の幸せです。この永遠の幸せを守ることが大事なのです。
忙しく生きる人であればあるほど、もう一度、自らを振り返り、そうした静寂の時間を取ってみてください。何も話さず、何も聞かず、静かにしている時間です。それは五分でも十分でも十五分でも構いません。そうした時間があるだけでも、人間の魂はそれだけ霊的な瞬間を持つことになるのです。その霊的瞬間を忘れてはならないと私は思います。
【大川隆法 『漏尽通力』第6章「心の平静と祈り」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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