(9/13-2)75『仏陀再誕』を読む―転生輪廻とは何か―今世と来世―平凡のなかの非凡

『仏陀再誕』を読む

82 「竜神を守護霊に持て」とかすすめている密教教団がある。現世利益に集まってきた蛇霊(じゃれい)をもらい、やがて、小悪魔、魔王と取り憑いてくるので、できるだけ早く離れることだ。幸福の科学で説く「因果の理法」以外で救われることはない。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

22 キャー、キャー、ギャー、ギャーと騒ぐだけで何ら世の中に貢献なき者は、猿のような姿となって群れている。(バカ・ミュージックのミーハーファンなど。)

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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〇【正念】希望実現の法則
②「プライド」にとらわれる自分との対決

これはいったい何が傷つくのかといえば、やはり、よく言う「プライド」のところでしょう。「自分は”高級車”だ」というプライドです。前には進みたいけれども、傷ついたら大変なことになる。そうすると、「回避」ということを始めます。逃げるわけです。まず傷つくことを恐れる。問題との直面を恐れるのです。そのなかでいちばん簡単なことは回避です。逃げていきます。対決しないわけです。

本当は「欲しい」と思いつつ、逃げるのです。こういう傾向の人は、七割程度はいるはずです。もっといるかもしれません。このようなタイプの人は大勢いるでしょう。こういった構造が基本的だと思ってください。

○腰を入れた光明思想を実践する
では、自らの念いを”戦車”にまでするには、どうすればよいでしょうか。

一つには、光明思想です。反省法のなかに光明思想を入れるなら、この「正念」のところに入れるべきだということです。ここに光明思想を打ち込んでいくわけです。

ただ、にわかに光明思想を実践しようとしても、うまくいかない人はたくさんいます。空回りしてしまうのです。「wish」の段階で終わってしまい、ここまではいけないのです。「断じて行う」【※desire】というところまで行けば、行くのですが、たいていの場合、そこまでは行かず、腰砕けになります。そうすると、信じられなくなっていき、次第に、また不幸を愛するようになってしまうわけです。

私は、「実地で光明思想を実現していくためには、腰を入れなければ駄目だ」と説いています。腰を入れなければ駄目であり、口先や頭だけで光明思想を思っても、現実の問題が起きたら、飛んでしまうか、回避してしまうことが多いのです。必ずそうなっていきます。

ですから、本当に実践するのであれば、しっかりと腰を入れてあたっていかないかぎりは駄目です。プライドなど言っているようではできないのです。「実際は、『自分が何を実現したいのか』ということをはっきりしなさい」ということです。やるのであれば、グワンとやらなければいけません。

そこまでいかない場合には、弾けるか、回避するかのどちらかになります。そして、もとの”あばら家”を愛する人が極めて多く出てくるわけです。

【大川隆法『真説・八正道』第8章「正念」263pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、この世へ執着と煩悩を断つ方法として『漏尽通力』を共に学びます。経典をお持ちでない方は、ぜひお求めください。【1700円税抜】
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第六章 転生輪廻とは何か 
○今世と来世

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
さらに、私の話を続けて聞くがよい。
おまえたちの幸福は、また、今世限りのものではない。
今世おまえたちが、この世にて味わった幸福は、
この地上を去った時に、あの世にて、どのような世界が、
おまえたちを待ち受けているか、それを明確に表しているのである。
おまえたちの今世得た心境が、
来世おまえたちが住む世界の境涯を決めるのである。
おまえたちはすでに学んでいることであろう。
あの世の天国と言われる世界にも、
さまざまな境涯があるということを。
下には、もちろん地獄という世界がある。
地獄という世界から上にも、まだまだ迷いの世界にいる人びともいる。
その上に、善人の世界もあり、
その上に、優れたる高級霊たちの世界もある。
世界は、幾層、幾十層に分かれており、
その細かい区分は、あの世に住んでいる者でさえ分からないほどだ。
しかし、これがやはり真実であるのだ。
おまえたちが天界と呼んでいる世界も、
数多くの層にて出来上がっている。
その人間の心のありようが、明確に規定されるのである。

地上にいた時には、その肉体のよし悪しや、
肉体を用いた自己実現によって、
さまざまな結果が現れたであろうが、
来世において、おまえたちを待ち受けているものは、
それは、おまえたちの心の境地を高下(こうげ)しかない。
心髙ければ高き世界に行き、心低ければ低き世界に行く。
それ以外の基準はないと思わねばならない。
ただ、心しなければならないことは、
地獄へと行っている人は、
この世的に成功しなかった人ばかりではないということだ。
この世的には成功しても、地獄へ行っている者は数多くいる。
それらの者たちは、人の幸福を祝うことができず、
自分の幸福のみを求めた人たちである。
いや、他人の犠牲のもとに自分の幸福を達成し、
自分の幸福を追求してきた者たちが、地獄界で苦しみのなかにある。

それは、生きていた時に、
その人を成功させるために苦しんできた人たちの
怨嗟(えんさ)の声であるということだ。
生きている時に、その人の成功のために犠牲になっていった人たちの、
その悲しみや苦しみの念波が、
その者たちを、そのように苦しめているのだ。
いや、生きている時に、多くの人たちを苦しませ、
悲しませたという事実が、その人の魂に蘇(よみがえ)り、
その人の魂自身が、
今、そのカルマを刈り取っていると言ってもよいだろう。
およそ、心の世界とはそのようなものなのだ。
地上にいた時に、
自らは肉体のなかに宿っているがゆえに、鈍感であり、
他の人びとの感情に気がつかなかったかもしれないが、
もし、肉体を持っている時に、
あたかも地上を去った後のごとく敏感であるならば、
生きているうちにて、そのような地獄を感じたのである。
そのような地獄の波動を感じたのである。
されど、数十年の後に、
あの世にあって初めて、そのように苦しむ者もあるのだ。
それをあざ笑うことは、何人もできない。
なぜならば、そのあざ笑う人自身が、
やがてそのようになる可能性が高いからだ。

地上にいる者たちにも、伝えなければならない。
この世にて成功する者は、必ずしも天界髙く還るものではない。
この世の地位の高さは、必ずあの世の地位の高さを示すものではない。
そうではなく、それは地位が高ければ高いほど、
転落する時に痛みもまた激しいということを知らねばならない。
もちろん、あの世の、天界の世界というものは、
すばらしい世界でもある。
それも、もちろん、
そこへ行く人、それぞれの境涯に合わせた世界ではあるが、
いずれにせよ、この地獄という世界に比べたならば、
天界は、いずこも素晴らしい。
とくに、心清く、正しく生きてきた人たちは、
やすらぎの世界に迎えられるということは難(かた)くない。
彼らは、ごく当然に、
安らぎと喜びに満ちた世界に還ってゆくこととなるだろう。
この逆に、この世で悩み苦しみの渦中にあって、
それを拭い去ることができなかった者たちは、
あの世にてもまだ悩みを続けるであろう。
しかり、それゆえに、
悟りの第一の条件として、まず心しなければならないことは、
悩みや苦しみをあの世に持って還らないということであると思える。
すなわち、今世にて、今世ただいまにて、
その迷いを解き、その悩みを断ち、その苦しみを克服することだ。
悩みを持って地上を去った者には、悩みの世界が待っている。
苦悩を持って地上を去った者には、苦悩の世界が待っている。
悲しみを持って地上を去った者には、悲しみの世界が待っている。
しかし、
喜びを持って地上を去った者には、喜びの世界が待っているのだ。

【大川隆法『仏陀再誕』第六章「転生輪廻とは何か」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第四章 漏尽通力
5 平凡のなかの非凡

こうした観自在能力を持って生きている人間は、ともすれば、非常に異質な存在となります。そして、自分はそうしたことが分かるからといって、それをやたらと人に吹聴したくなってきます。「あの人はこうなるであろう」「あの人は過去にこういうことがあった」「あなたは今、こういうことを考えているだろう」ということをズバズバと歯に衣着せずに言っていると、この世的には、いわゆる奇人変人の類(たぐい)に入れられることになっていしまいます。そして、残念なことに、本人は不本意な気持ちで生きなければならないいようになっていくのです。

そうであるからこそ、高級霊体質であるとしても、観自在能力を持っているとしても、この世的には、もう一度、自分自身の箍(たが)を締め直さなければなりません。そういう面があるのです。これが、努力すべき目標として、「平凡のなかの非凡」という言葉で表されるものです。

「自分は明らかに非凡である」と思うと、それは異常な人格へとつながっていきます。誰が見ても、異様な人格、異常な人格に見えます。しかし、そうではなく、「平凡のなかの非凡」を目標とすべきです。通常人と変わらないような平凡な生活をしていながら、そのなかに非凡の芽を潜ませる。非凡な力を発揮していく、これは、静かに自己を発揮するということとも一致します。

成功したがる人間は、ともすれば、自己顕示の思いにとらわれます。どうやって自分をよく見せるか、アピールするか、人々によく思われるか。こういうことにのめり込んでいきます。そうして、だんだんと異常な性格となっていき、人生に両極端の波が訪れてきます。こうしたことがあってはいけません。

平凡のなかの非凡。平凡な生活のなかに、淡々と流れていくような毎日のなかに、非凡な光を放つ。これが大事です。通常人と同じようにしながら、おなじではない何かを感じさせる。これが大事です。

この平凡のなかの非凡さこそ、やはり誇るべきものです。「明らかに非凡であって、非凡な人が非凡に生きている」ということはまた平凡なことです。そうではない。普通の人でもできるような平凡な生活をしていながら、そのなかに魂の煌めきを残していく。光を残していく。これが大事です。どうか、そういう考えを大事にしていただきたいと私は切に思います。

非凡さそのものを追求してはいけません。非凡さそのものを追求しても、それは一回限りのことです。その人限りのことであり、他の人々の手本にはならないのです。他の人たちも生きられるような生き方のなかにおいて、魂の輝きを増す。光を放つ。これが大事です。

では、平凡のなかの非凡とは、具体的にいったい何でしょうか。例えば、ビジネスの問題があります。ビジネスに生きる人たち、ビジネス倫理のなかに生きる人たちは、宗教的信条を明らかにしたがりません。またねそれにとらわれたがりません。言いたがりません。そうしたものを信じていないというように装いたがります。確かに、それはそれで結構です。職場のなかで、ビジネスのなかで、「いかに神や仏が好きだ」とかいうことを常々言っている人は、この世的には、やはり、奇人変人と言われていくでしょう。そういうことであってはいけません。そういう意味での非凡さを求めてはいけません。

やはり、「この世的にきちんと仕事をやる。仕事を実践している。このなかにおいて、真理を学んだということが何らかの光を放つような生き方」、これをしていかねばならないのです。

たとえ神や仏の名を出さなくても、霊や高級霊、守護霊等の話などしなくても、ただ、生きているなかに、人間としての優しさ、心のあり方、心の不思議を追求、探求していく自分、そして、後ろ姿でもって、人々を指導していく自分、影響力でもって、人々を指導していくような自分であればよいのです。そういう、あなたがたであればよいのです。

【大川隆法 『漏尽通力』第4章「漏尽通力」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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