(9/7-2)69『仏陀再誕』を読む―忍耐と成功―忍耐と徳―霊道を開く

『仏陀再誕』を読む

76 性愛と、貪欲から逃れ慣れない人々が、死後、大蛇に変身して、もだえ苦しんでいるところはよく観察される。二匹の蛇が、からみ合って、白い腹を見せ合って転げている姿は、おぞましさの極致である。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

28 地獄狐のうち、悪賢いやつが、悪質な霊能者や教祖に取り憑いて、仲間を増やしているのを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正念】未来を拓くための積極的反省
〇反省には「過去の悔い改め」だけでなく「未来の発展への芽」もある

「正念」とは「正しく念ずる」と書きますが、この意味はそう定かには分からないのではないでしょうか。仏教書などを見ても、この「正念」の意味が分かっている人はいないと思われます。看破していないのです。やはり、言葉の意味にとらわれ、本当に意味での「正念」とは何かということが分かっていないのです。

それは、「心の作用」としてのさまざまなあり方について実体験している人が「正念」を語っていないからです。この「心の作用」についての実体験を通さずに「八正道」を語り、「正思」や「正念」などについての話をしたとしても、その本当の意味は分からないわけです。

私の話を聴いても、実は、それを単に聴くだけでは分かりません。それを実践に移し、実体験することによって、初めて分かってくるのです。

私がこれから「正念」について述べようとしている内容は、従来の仏教的反省を離れた部分になってくるでしょう。それは、「真説・八正道」においては、この「正念」のなかに、従来の仏教的反省よりももう少し積極的なところを盛り込んでいるからです。『釈迦の本心』や『太陽の法』等のなかでも少し触れているように、この「正念」の位置づけを「未来に対する心のあり方」という考え方でかなりまとめ上げています。この考え方を入れておかなければ、当会が四正道として説いている教えのなかの「反省からの発展」という思想につながっていかないのです。

「反省」を、単に「過去に対する悔い改め」ということだけに限定していると、「反省からの発展」という考えは出てきません。しかし、反省そのもののなかに、実は「発展への芽」がなければいけないのです。

「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」と反省を深めていくなかで、自分の心を明瞭化し、心の汚れを取り除いていく作業を終えたあとに、「未来に向けての布石」というものがなければならないわけです。

この転換点が、実は、「八正道」の七番目に出出くる「正念」であると考えてください。

【大川隆法『真説・八正道』第五章「正精進」242pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、この世へ執着と煩悩を断つ方法として『漏尽通力』を共に学びます。経典をお持ちでない方は、ぜひお求めください。【1700円税抜】
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第五章 忍耐と成功 
○忍耐と徳
私はいま、たいへん平凡なことを言った。
平凡な中に悟りの香りがあるという話をした。
さて、ではこの成功の条件であるところの悟りの香り、
魂が光っているという感覚と、
忍耐ということはどういう関係にあるか、わかるだろうか。
すなわち、忍耐と成功とは、
平凡という言葉によってつなぎ合わされることとなるのだ。
非凡な毎日、非凡な生活のなかでは、
忍耐というものは、それほど大きく働かないかもしれない。
しかし、平凡な毎日を積み重ねてゆくというとは、
限りなく忍耐を要求されることであるのだ。
平凡な毎日を送ってゆくということは、限りなく忍耐が必要となる。
平凡な毎日を送りながら、
そのなかで、天国の懐かしい情景をときおり心に思い巡らせて、
そしてそれを理想として生きてゆくということは、
絶えず困難で、絶えず難しい問題であると思える。
しかし、こうした弛(たゆ)みない努力こそが
人をして、永遠に進歩させ続けるのだ。
修業の過程において、一躍(いちやく)悟ることは難しい。
一躍大いなる進歩をすることは難しい。
一冊の本を読み上げることができなくとも、
たとえ一行なりとも読み、
今日は一歩前進したと思えるような毎日を積み重ねることが、
実は大いなる未来を開いてゆくための鍵となるのだ。
成功には、忍耐が必要で、
忍耐を用いて成し遂げた成功は、
決して他の人びとの嫉妬をかうことはないであろう。
それは、その人が費やしたそれだけの努力が、
他の人びとの尊敬を受けるからである。
このように、忍耐を通して得られた成功には、
必ず徳というものが光っている。
この徳は、
他人の嫉妬心や僻(ひが)みの心を完全に消し去るだけの解毒剤を有している。
すべからく成功者は、
このように、忍耐によって徳を身につけることが大事である。
さすれば、必ずその努力は、
報いがあって、しかも余りあるものとなるだろう。
余得(よとく)というもが生まれてくるに違いない。
私は、そう思う。

【大川隆法『仏陀再誕』第五章「忍耐と成功」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第二章 霊的現象論
4 霊道を開く

「反省的瞑想」ができるようになると、「霊道を開く」という現象が起きてきます。「自分の心にかかったカーテンを、一枚一枚、開けていく」「心のガラス窓に付着した曇りを、雑巾で拭き取っていく」という作業をしているうちに、どこからか明かりが射してくる。あるいは、だんだんに外が見えてくる。そういうことになるわけです。これが「霊道を開く」という現象です。

霊道を開くとどうなるかというと、まず自分の守護霊との通信が可能になってきます。守護霊との通信が可能になるとどうなるでしょうか。これには直接と間接がありますが、瞑想などをしていると、守護霊の声が聞こえてきたりします。心の内側から響いてくるようなかたちで声が聞こえるようになるのです。

あるいは、もっと明確に、「霊言」というかたちで、口を通して守護霊が語ることも可能です。人によっては、その人の手を使って守護霊がいろいろなインスピレーションを与えることがあります。これを「自動書記」といいます。

また、単に「言葉そのもの」ではなく、「いろいろな啓示、インスピレーション」というかたちで与えられることもあります。

こういう現象が「霊道を開く」という現象です。

この第一段階は「守護霊との通信、交信」です。自分自身の守護霊との通信は、潜在意識的な能力、あるいは先天的な能力とかかわりなく、努力すれば、誰でも、ある程度まで可能です。反省的瞑想をやって、仏法真理をしっかりとつかみ、それを行じていれば、自然と、ひとりでに霊道が開いていくようになります。

「霊道を開く」という現象の程度の差はあります。「間接的なインスピレーション」「直接的なインスピレーション」「霊言ができる」「自動書記ができる」「霊聴、霊視ができる」など、いろいろなかたちがありますが、多少、程度の差はあっても、何らかのかたちで守護霊の意見を聞けるような状況が出てきます。これについては万人が可能です。

ただ、「霊道を開くに際しては守護霊の許可が必要だ」と一般に言われています。守護霊が「本人にとっていい」と思うときに霊道を開かせる場合が普通です。そういう条件設定はあると思います。守護霊は、それを開かせたらいいかどうかが分からないときには、より高次の神霊に伺いを立てて許可を取ります。このようにするのです。

これ以外に、「巨大な霊能力者、光の大指導霊が地上に肉体を持っているときに、その光によって霊道を開く」ということも可能です。ただ、この場合には、その後よほど注意しないといけなくて、本人の自覚がなければ、開いた窓から間が侵入し、心を混乱させることがありえます。そういう危険性があるわけです。

「霊道を開く」ということ自体は、ごく自然な行為ですし、理論にもかなった行為ですが、「その結果の維持は非常に難しい」ということになりましょう。このために、後ほど述べる「漏尽通力」ということが非常に大事になるわけで、「霊道を開いても、この世的にきちんと生きられるかどうか」というチェック基準が大事になってきます。

ここで大切なことは、「いろいろな宗教によくあるように、『霊道を開いた』ということだけでもって有頂天になってはならない」ということです。

霊の声にもさまざまなものがありますし、「高級霊の声が聞こえる」ということは非常にまれであって、「地縛霊、あるいは低級霊、動物霊たちが、さまざまにそそのかす」ということが多いのです。

こういう、そそのかしから身を護るためにはどうしたらいいかというと、「日々、謙虚に生きる」ということ、「自我我欲、うぬぼれの思いを持たない」ということ、「焦燥(しょうそう)感や怒り、妬み、愚痴、嫉妬といった思いを持たない」ということが大事になります。

このように「心の透明感」が大事です。透明感溢れる心で生きていることが、低級霊体質にならないための秘訣なのです。

そういうことを特に注意しておきたいと思います。

【大川隆法 『漏尽通力』第2章「霊的現象論」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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