(9/6-2)68『仏陀再誕』を読む―忍耐と成功―平凡のなかの悟り―反省的瞑想

『仏陀再誕』を読む

75 これ以外にも、最近「妖怪蛤(はまぐり)」の例が報告されている。やっとのことで血の池地獄から逃れたと思って、ビーチでくつろいでいると、巨大化した蛤(はまぐり)にぱっくりとくわえられて、猛速度で海の中へ引きずり込まれ、溺れるのである。「セックス依存症」で妖怪になり、男を食うのである。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

29 生前、人の生き血を吸うような仕事をやっていた者が、吸血コウモリとなって、地獄の洞窟を飛び回っているのを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正精進】〇知識を実践で示せ

ただ、どうしても私が言ってきたいのは、「いくら仏法真理を学んだとしても、実生活において奇人変人のように見られる態度だけは、私は許さない」ということです。

私たちが目指しているのは、「どこででも通用する人材の育成です」「仏法真理の空間だけ通用して、それ以外では通用しない」というような人をいくらつくっても、世の中は変わりません。仏法真理を学んで心が変わり、そして、その光を世の中にも還元できるようなみなさんであって初めて、修行が生きていると言えるのです。

女性であれば、仏法真理を学んで悟ったことによって、ますます優しくなり、ますます多くの人に愛されるような女性となって当然であり、学んだことによって自分が偏った生き方をするならば、問題外なのです。

若い男でもそうです。今まで素直に生きていたのに、学んだことによって天狗になり、堕落していくなら、何のために仏法真理を学んだのか分からないのです。

年配の人でもそうです。それで出来上がってしまい、急に威張り始めるようであれば、そんなものは何でもないのです。実力がつけばつくほど、謙虚になり、物腰が柔らかくなり、他の人に愛されるような人間、そして、もちろん、それ以上に愛を与えるような人間となっていかなければ、そういう人格となっていかなければ、この修行の意味はないわけです。

私たちの正精進とは、決して、「千日回峰」のように山のなかを歩いたり、滝に打たれたりすることもでもなければ、仏法真理の知識をたくさん詰め込んで、それを競うようなものでもありません。これらはあくまでも材料であり、仏法真理を学ぶことによって実生活にその光が出なければ、まったく意味がないのです。そういう意味での正精進です。

ですから、
「学んだ仏法真理を、学んだ知識を実生活で示せ。
その悟りが本物であるならば実践せよ。
実践されているかどうかは、周りを見れば分かるはずだ。
他の人の自分への接し方を見れば分かるはずだ。
そして、それが退化することなく、
いっそう素晴らしいものとなっているかどうか、
自己確認する姿勢を持ちなさい」
と言っておきたいのです。

正精進は、決して仏法真理漬けの特殊な人間をつくるためにあるのではありません。むしろ、仏法真理に触れることによって心がくらりと一転し、ここを開き、自己変革に取り組み、自分の欠点を修正し、いっそう素晴らしい、今までになかったような完成度の高い人間になっていただきたいのです。

そして、その途中においては、「悟りの維持はどれほど困難か」ということを決して忘れないでいただきたいのです。入り口に立っているだけで「悟ったつもり」になってはいけません。「悟りはこれからが本番だ」ということを、決して忘れないでいただきたいと思います。

正しい努力のあり方としての「正精進」は、大川隆法著『漏尽通力』なども参考にしてください。

【大川隆法『真説・八正道』第五章「正精進」237pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、この世へ執着と煩悩を断つ方法として『漏尽通力』を共に学びます。経典をお持ちでない方は、ぜひお求めください。【1700円税抜】
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第五章 忍耐と成功 
○平凡のなかの悟り
さて、以上のたとえ話で私が何を話したかったか、
あなたがたにわかるだろうか。
この大男と村人というのは、けっして別々の人のことではない。
実は、あなたがたの心のなかに住んでいる住人であるのだ。

あなたがたの心のなかには、
実はどうすることもできない粗暴な大男がおり、
またその大男に対して、脅(おび)え、恐れおののく
小心な自分というものがある。
誰の心のなかにも、こうしたものはあるのだ。
自分の心を統御しようとしても、
どうしても欲望にひかれてゆく心があるはずだ。
その欲望にひかれている心は、
たとえば異性を見ては、心が狂い、
金銭を見ては、心が狂い、
また他人の持ち物を見ては、心が狂い、
あるいは他の人が幸福になるという話を聞いては、心穏やかではない。
そうした荒れ狂う台風のように統御できないものが、自分のなかにあるはずだ。
その統御できないものこそ、
実はこのたとえ話に出てくる大男であるのだ。
しかし、この統御できない大男も、
かつて鎖につながれていた時に、
どこかの誰かに統御されてきた、
支配されてきた、
飼いならされてきたという、懐かしい気持ちが残っている。
その懐かしい気持ちを思い起こさせたならば、
すなわち懐かしい笛の音(ね)を聞かせてやったならば、
この大男をおとなしくすることはできるのだ。
それは、もっともっと力の弱い、
小さな村人だと思われるものであっても、
その大男を統御することができる。

その通り―。
まず恐れというものをなくさねばならない。
自分の心は自分の手に負えぬものだと思ってはならない。
自分が自分ではないような、
まったく魔に踊らされ、魔に自由にされるような、
そんな自分であると思ってはいけない。
自分は必ず、自分自身の心を統御できると思わなくてはならない。
そして、統御する方法はというと、
実は決して腕力によって統御するのではない。
脅かしたり、傷つけたりすることによって、統御するのではない。

これが何を言っているかわかるだろうか。
それは、決して難行・苦行によって、
自分の心を統御することができるわけではない、
ということを言っているのだ。
滝行をしたり、あるいは断食行をしたり、
いろいろな難行・苦行があるが、
難行・苦行によって、
その心をなだめよう、心を統御しようとする試みは、
弓矢を射かけたり、あるいは罠をしかけたりして、
大男を何とか取り押さえようとするのと同じで、
かえって大男を狂暴にさせてしまうことになるだろう。
心はいっそう自由にならなくなる。

そうではない。
もっと平和的で、
もっと小さな気づきを用いて、
もっと楽しい方法によって、
心というものは統御できるのだ。
つまり、私は、
決して非凡な世界のなかに悟りというものがあるのではない、
決して非凡な経験のなかに悟りというものはあるのではない、
ということが言いたいのだ。
日々の平凡な生活のなかに、実は悟りへのよすががある。
実は、悟りへの道があるのだ。
そして、平凡な日々のなかの、
平凡な一日一日のなかの悟りとは、
実は、本の小さな発見にあるということを、私は言いたいのだ。

ほんの小さな発見とは何であるか。
それは、かつて、私たちが実在界・天上界にいた時に、
知っていたところの音色だ。
その音色を思い起こすということなのだ。
私たちが悟りに到るためには、
実在界で味わっていたところの、その音色を思い出すことだ。
それが、大事なのだ。
実在界で味わっていた音色とは何であるか。
それは、人に対する優しい気持ちでもあっただろう。
人に対する祝福の気持でもあっただろう。
また、欲望を強くせず、足ることを知る心でもあっただろう。
あるいは、ともに相和し、ともに協力し合い、
ともに生かし合う姿であっただろう。
決して、自分一人が幸福になろうとする心ではなく、
また我欲をつっぱるのでもない。
そういう姿があっただろう。
限りなく透明感にあふれ、限りなく優しい、限りなく暖かい、
そうした気持ちがあったであろう。

しかり、そのような世界こそが天国である。
そのように地上に降りて生きていても、
この天国のことを思い出して、日々、生きることだ。
天国の生活を、日々、思いにおいて描いて生きることだ。
さすれば、その時に小さな小さな草笛を吹いていることになる。
やすらぎの世界のことを常に思い描いて日々を生きることだ。
そのときに、大男は静まり、やがてあなたがたの敵でなくなるだろう。
あなたがたを味方し、あなたがたの思いのままに動いてくれる、
大切な大切な力となるであろう。

【大川隆法『仏陀再誕』第五章「忍耐と成功」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第二章 霊的現象論
3 反省的瞑想

「想念帯に曇りがある」という話をしましたが、それを取り去るための作法があります。
これは古くはインドの時代に釈迦が教えた教えです。

釈迦は「八正道」というものを提唱しました。そして、禅定に入り、「正しく見る」「正しく思う」「正しく語る」などということを一つひとつ基準にして、自分の一日の思いと行いを反省してみる子ことを毎日やっていましたし、これを弟子たちに教えました。人生は、日々、決算である。一日一日が決算であり、一日一日、心のなかの点検が必要である。こういうことを考え、それを実践していました。

したがって、「反省的瞑想」ということが最大の課題であったわけです。

このときに主としてどういうことを考えたかというと、結局、「心のなかに波風が立ったことはないか。苛立ちはなかったか。怒りの心はなかったか。うぬぼれの心はなかったか。憎しみの心はなかったか。嫉妬心はなかったか」などということです。こういうことを一つひとつ点検していったわけです。

〇正見―正しく見る
その方法論として、例えば、「正しく見たか」とい観点がありました。

「正見」「正しく見る」といっても、人間は、「見る」ということを、なかなか正確にはできません。相手の存在を正しく見る。これだけでも大変なことです。ある人を見て、いろいろな人がいろいろな評価をします。しかし、そうした「いろいろな評価が出る」ということは、本当の意味において、「その人を正しく見ていない」ということです。

「正しく見ていない」ということでは、自分自身の姿も同様です。「他人の目に映る自分の姿が見えない」ということがあります。これ以外に、「神や仏の目から見た自分たちの姿が見えない」ということもあり、これも真実です。

そのように、「見る」ということ一つ取っても、なかなか大変です。神や仏の心で見て正確に見直すのは非常に難しいことなのです。

〇正思―正しく思う
「正思」「正しい思い」というものもあります。「正しく思う」ということで。これも難しいことです。

一日の自分を振り返ってみる。どういう思いが本当に正しい思いであったのか。他人に対して悪しき思いを持たなかったかどうか。自分自身に正直に生きたかどうか。偽りをしなかったかどうか。欲望のままに生きなかったかどうか。こういうことを点検する。自分のこころのなかに 
去来した思いを、もう一度、点検する。出した言葉だけではなく思いを点検する。こういうことも必要です。

〇正語―正しく語る
また、「正語」「正しく語る」という問題もあります。正語もユートピア建設のために非常に大事な作業です。

「この世の不幸は言葉から出ている」という考え方もあります。「憎しみに満ちた言葉、怒りの言葉、人を蔑(さげす)む言葉、苦しめる言葉、悩みの言葉、愚痴の言葉、こうした言葉が、結局、人生の不幸と苦悩をつくり出している」という考え方です。

さすれば、「言葉の調整をする」といことが一つの「幸福の鍵」となると言えるのではないかと思います。

やはり、愚痴が心の曇りをつくっていきます。しかし、それは、他人から指摘されないと、なかなか分かりません。愚痴の原因はなにかというと、結局のところ、自分自身の理想と現実とのギャップに関する不満感です。不満が生じてくるのです。

怒りもそうです。怒りは、心のなかから憎しみが込み上げくる場合に出ます。憎しみが徹底的に込み上げてくると、これが怒りの原因になるわけです。そして、怒りを相手にぶつけます。

これ以外に、「嫉妬」というものもあります。嫉妬の言葉です。あるいは、猜疑心に満ちた言葉があります。

こういう言葉を出さないでいればいいのです。出さないでいれば、まだ、自分のなかで、その毒がこもっているだけですが、出すことによって、この毒が伝染していきます。こういう”伝染病”です。

したがって、「正しい言葉を選ぶ」というのは非常に大事なことです。一日を振り返ってみて、正しい言葉を出すことができていなければ、そのことを反省し、次の日からまた、正しい言葉を出していくようにしなくてはならないのです。

〇正業―正しく仕事をする
「正しく仕事をする」などという「正業」の問題もあります。自分の今日一日を振り返って、例えば、「正しく仕事をしたか」を考えてみます。サラリーマンであったなら、「会社のなかで、本当に貢献できるような仕事をしたか。投げやりな仕事をしたのではないのか。本当に誠心誠意やったか」を点検するのです。

主婦であれば、「主婦として、こういう、魂の修行の場を与えられていることに感謝しながら、精一杯、生きたかどうか」を点検します。

ちゃんと子供の面倒を見たか。ちゃんと仕事をしたか。旦那さんのために何かをしたか。家庭の前進のために何かを考えただろうか。無駄なお金を使わずに、ちゃんと貯蓄に回したか。子供の教育に無駄な時間をかけなかったか。家事は諸事万端うまくいっているか。旦那さんが明日、素晴らしい気持ちで出勤できるようにしたか。

こういうことを主婦は反省しなければいけないわけです。

また、「立場相応」ということがあります。新入社員のときには「新入社員の心掛け」というものがあったでしょうが、やがて課長になり、部下を持つと、長たる者の仕事はまた別になってきます。そういう心得が要求されます。これ以外にも、部長になったり役員になったりすると、ますます権限と責任が増大してきます。

人間は自分が偉くなることばかりを期待するけれども、偉くなるには偉くなるだけの理由があるし、偉くなった場合には、それだけの責任が出てくる。この責任を果たしているか。

社長となれば、自分の個人の事情だけでは判定や判断ができない。やはり、全社員の運命や幸福を握っている。そういうことで、一つの判断であろうとも、本当に点にもすがる気持ちで、必死の判断をしなければいけないことがいっぱいある。そうしたことを部下は知っているだろうか。

こうした問題があるわけです。

〇正命―正しく生活する
それ以外に「正命」があります。これは「正しく生活する」ということであり、「規則正しい生活、神の子、仏の子としての恥ずかしくない生活をしたかどうか」ということなどを点検します。

〇正精進―正しく道に精進する
「正精進」では「正しい道に精進したか」を点検します。自分は仏法真理の勉強をし、仏法真理の前進のために何らかのことをしたか。あるいは、他人の幸福のために何をしたか。人のために祈ったことがあったか。神仏への感謝の念があったか。こういうことをするのが精進です。

〇正念―正しく念ずる
「正念」もあります。これは「正しく念ずる」「正しく思う」ということです。人間には、「祈り」という方法が与えられていますが、この祈りの部分でもあるわけです。さまざまな念波が全地球を飛びまわっているわけですが、この念波が悪ければ、世の中はだんだん混乱していきます。

さすれば、一人ひとりの出す念は、非常に素晴らしいものでなければいけませんし、積極的で建設的で明朗なものでなければいけません。この意味において、念のコントロールは非常に大事です。正しき念を常に出す必要があるのです。

〇正定―正しく定に入る
最後に「正定」があります。これは「正しく定に入る」ということです。「精神統一の時間を持つ」ということ、そして、「神仏との交流」「自分の守護・指導霊との交流」「自分自身の一日や過去を振り返る作業」が大事です。

こうしたことがトータルで「反省的瞑想」と言われていることなのです。

これは必ずしも積極的先進のための材料でないかもしれませんが、少なくとも、この世から地獄をなくす、あるいは、あの世から地獄をなくす方法論であるわけです。

こうした反省的瞑想ができるようになれば、人間は少なくとも地獄には行かないですみますし、地獄にいる人はそこから出てくることができるのです。また、この地上から地獄界を消していくことができます。そういう偉大な力を持った修法です。

この反省的瞑想を復活させなければなりません。釈迦の時代の「反省的瞑想」の復活が大事です。

これは単に釈迦だけが教えたのではありません。キリスト教系には、「懺悔(ざんげ)」ということがあります。神に対して懺悔をし、自分の罪を詫びる。これは、結局、反省的瞑想と同じことを意味しているわけです。

また、日本神道系においては、「禊祓(みそぎはら)い」ということをやります。これも、「神のまえに、清い心でもって立つ。謙虚に坐す」ということではないでしょうか。これも結論的には反省的瞑想と同じです。

モーセの時代にイスラエルにおいては、「神との誓い」ということを大事にしました。『旧約聖書』における、「旧約」「新約」の「約」という言葉は、「契約」という意味であり、「神と人類との約束」ということです。「神との約束に、忠実に生きる」ということが反省の材料なのです。

今日は神との約束を破らなかったかどうか。「汝、殺すなかれ」という約束を破らなかったか。「汝、隣人の妻を貪ることなかれ」という約束を破らなかったか。「汝、隣人について偽りの証を立てることなかれ」という約束を破らなかったか。神を裏切らなかったか。神の期待に応えたか。

「この契約が守れたかどうか」を毎日毎日、考え、反省する。こういうことがありました。

すべて同じです。すへては、結局のところ、「神の子、仏の子としての正しい在り方を追求、探求する」という姿勢です。こういう意味において、「反省的瞑想」ということも捉えてほしいと思います。

【大川隆法 『漏尽通力』第2章「霊的現象論」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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