(8/30-2)61『仏陀再誕』を読む―政治と経済―足ることを知る―【漏尽通力】霊的人生観

『仏陀再誕』を読む

68 鬼には、赤鬼、青鬼、黄鬼、緑鬼、茶鬼、白鬼そして黒鬼がいる。赤鬼は感情的に、青鬼は理性的に善悪に反応する。両者が主流で、「黄」「緑」「茶」「白」などは、部下であることが多い。「黒鬼」は課長、部長的な判断をすることが多い。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

36 生前、民衆を処刑していた軍人たちが、鶏(にわとり)の大軍になって、次々と、首を、鬼の斧で斬られていくところを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正命】正命の現代的意味
〇正命とは、現代的には「時間の活かし方」と「ライフスタイル」

「正しく生活をする」ということに関して述べてみたいと思います。

「正業」と「正命」の違いについては、「職業」と「生活」との違いというように考えればそれまでですが、正命のなかにはもっと違った意味合いがあります。現代的に言い換えるとするならば、この正命というのは「時間の活かし方」というように考えてよいでしょう。時間の活かし方に関する本は数多く出ているので、目を通したことのある人も多いのではないでしょうか。

また、この正命は、別の言葉で言うならば、「ライフスタイル」という言葉に置き換えてもよいかもしれません。「あなたは、どのようなライフスタイルをよしとするのか」という問いかけです。「あなたは、どういう時間の使い方をよしとするか」、そして、「どういうライフスタイルをよしとするか」ということは、現代にも生きています。

現代社会のなかにおいて、「みなさんが理想と考えるライフスタイルはどうであるか」という問いかけをされたら、サラリーマンのみなさんは、「正業」と「正命」の違いが分るでしょう。アフターファイブというように考えてもよいかもしれません。「アフターファイブの生き方はどうなっていますか」ということです。この無限の時間をみなさんはどのように使ってきたでしょうか。その結果、現在、自分がどうであるのでしょうか。そして、今後どうなっていくのでしょうか。これを考えてほしいのです。

【大川隆法『真説・八正道』第6章「正命」210pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、この世へ執着と煩悩を断つ方法として『漏尽通力』を共に学びます。経典をお持ちでない方は、ぜひお求めください。【1700円税抜】

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第四章 政治と経済 
○足ることを知る
また、あなたがたは適材適所という言葉を聞いたであろう。
適材適所ということは、
その人の器、その人の才能、
その人の能力に合った立場につけるということだ。
この適材適所という考えが、なかなかわからなく、
また、なかなか肯定しがたいことのように思われるかもしれない。
その多くは、欲望が強いがために、
自ら自身を正しく評価できないことにある。
人は、その器相応に使われてこそ、
はじめて喜びを得るのだという事実を知らなければならない。
鋸(のこぎり)には鋸の幸福がある。
鉋(かんな)には鉋の幸福がある。
鑿(のみ)には鑿の幸福がある。
それを忘れてはならない。
鋸(のこぎり)は木を挽(ひ)くのに役に立つであろう。
木を上手に挽くのは鋸(のこぎり)の喜びであろう。
しかし、木を平らかにするのは鉋(かんな)の喜びであろう。
また、木に溝をつけるのは鑿(のみ)の喜びであろう。
この鋸(のこぎり)と鉋(かんな)と鑿(のみ)という違ったものは、
それぞれが尊いのだ。
それぞれが尊く、どれも無くてはならないものなのだ。
なのに、世の人びとが鋸(のこぎり)こそ素晴らしいと言えば、
だれもかれもが鋸(のこぎり)になろうとする。
世の人びとが鉋(かんな)こそ素晴らしいと言えば、
こぞってみんな鉋(かんな)になろうとする。
しかし、世の中にはいろいろな人がいて、
それぞれの持ち場で働いているからこそ、
世の中がますますよくなってゆくのだ。
あなたがたは、ともすれば、
目立つ鋸(のこぎり)という仕事を目標とするかもしれない。
しかし、鋸(のこぎり)の役割ができるためには、大きな力がなければならない。
大胆で、決断力に富み、迅速で、
そして仕事が速くなくてはならないだろう。
そうした性格の人は、鋸(のこぎり)の役割を担(にな)うのがよい。
しかし、一方では、几帳面でサービス精神に富み、
そして多くの方々に気配りができるような人がいるであろう。
こうした方がたは、
鋸(のこぎり)という役割は必ずしもその性分には合わないのだ。
そういう人びとは鉋(かんな)としていかに艶(つや)を出すか、
いかに滑らかに仕上げるかということを努力すればよい。
それが、本来の自己を生かす道であるのだ。
また、専門的にのみ生きている人もいるであろう。
狭く、細く、しかし力強い仕事をしたいと願う人もいるであろう。
これは、鑿の仕事であろう。
小さなところを削り、彫り、そして役に立つ。
これが鑿(のみ)の仕事だ。
こうした専門的な仕事を軽蔑する人もなかにはいるかもしれない。
あるいはそうした仕事についていて、
自ら自嘲的になっている人もいるかもしれない。
しかし、このような仕事はあるのだ。
鋸(のこぎり)によってしては、ほぞをつくることは難しい。
鉋(かんな)によっても、ほぞをつくることは難しい。
鑿(のみ)によってこそ、ほぞはつくることができるのだ。
このように、
それぞれ適材適所ということがあることを忘れてはならない。
さすれば、ある者は社長となり、
より多くの困難、波風に遭(あ)うかもしれないが、
その社長業を、自らがこなさなければ、
幸福でないと思うのは間違いかもしれない。
地位の上にある人、下にある人、
それはあくまでもこの世的なる序列であって、
それが真実の仏の序列ではない。
それぞれ、適材適所ということが実現されて
はじめてすべてのものがよくなってくるのだ。
決して、欲望の自由を満たすことが、素晴らしいことではないのだ。
みんなが社長になりたいからといって、
すべての人を社長にしていては、
その会社に働く人たちは、次々と失業して、
そして大いなる苦難をなめるであろう。
社長になるべき器があってこその社長であるのだ、
ということを知りなさい。
さすれば、自らの分相応に生きていることを決して悔いてはならない。
もちろん、経営する立場に立つ者は、
人事は公平にしなくてはならないであろう。
また、雇われる側にあっても、
公平な処遇をされることを願うことは正しいことであろう。
しかし、どうか私の語った鋸(のこぎり)、鉋(かんな)、鑿(のみ)の例を思い出してほしい。
それぞれの持ち場に使われてこそ、役に立つのであり、
そして喜びがあるということだ。
間違った場所で使われて、真の喜びはないということなのだ。
このことを、よく知りなさい。

足ることを知るということは、決して消極的なることではない。
足ることを知るとは、己(おのれ)を知ることになり。
足ることを知るとは、己(おの)が力量を知ることなり。
足ることを知るとは、己が才能を知ることなり。
足ることを知るとは、己が生きる場を知ることなり。
己が生きる道を知ることなり。
己が死に場を見つけることなり。
これ、足ることを知るという。

【大川隆法『仏陀再誕』第四章「政治と経済」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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『漏尽通力』改訂・新版へのまえがき

約三十二年前、著者三十一歳の原著は、『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』の基本三部作に続いて書かれた。だが時代を超越しすぎていたため、いったん絶版状態にしていた。

しかし、現今、高度な霊能力の諸相について語った書物は実に貴重であるので、改訂・新版として復刻すべきだと考えた。神聖な「霊言」を汚す者さえ出てきたことも理由の一つである。

伝統的な解釈では、漏尽通とは六大神通力の一つで、煩悩を滅尽する力とされていた。「有漏(うろ)」「無漏(むろ)」という言葉もある。「漏」とは、煩悩、欲望のことである。

しかし、菩提樹下で釈尊は悟りと同時に「三明」を得たとされている。その一つが「漏尽」である。だが、その時、釈尊は断食を中断し、中道に入ることを決めている。そして村娘スジャータ―の乳がゆのお布施を受けている。

つまりこの世的欲望を完全になくすことではなく、この世的欲望に振り回されることなく高度な霊能力を使いこなせることこそ、漏尽通であり、「世間解(せけんげ)」という立場、「智慧」の立場とも両立すると考えられる。これは本来の仏陀による新説である。新刊に際し、原著を講義した、第七章も追加したことを附記(ふき)しておく。

二〇二〇年 四月 十日
幸福の科学グループ創始者兼総裁 大川隆法

〇まえがき
本書『漏尽通力』は、霊能力の諸相をふまえながら、現代的霊能力の極致、窮極の霊能者の姿とは何かを説き明かした理論書です。釈迦には六大神通力がありましたが、人類史上、他の宗教者と比較しても、最大の霊能力だと目されるのがこの漏尽通力です。伝統的には欲望を滅尽させる能力ですが、入滅のすすめと、とられかねません。私としては、錆(さび)をつくらず光り、かつ、切れ味のよい日本刀のような、生き年の霊的生活を生きる能力だと思います。

すなわち、巨大な霊能者でありながら、通常人と全くかわらない生活をし、「平凡のなかの非凡」を実践してゆく能力です。

現代人にとっての「悟り」とは何かを考えてゆく際にも、この漏尽通力のあり方は、まさに黄金の鍵の役割を果たすものと思われます。この点からも本書は真理探究者にとっては必読の一書となることでしょう。

一九八八年 三月
幸福の科学グループ創始者兼総裁 大川隆法
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第一章 霊的人生観
1 人生の転機

人間は、それぞれに「自分の生きがい」というものを探求して生きているわけですが、その人生の途上において、さまざまな転機に見舞われることとなります。

そうした場合のいちばんの大きな転機として、やはり、「宗教的な出会い」というものが待ち構えているように思います。宗教的な出会いとはいったい何かというと、「この世ならざるものとの接触、遭遇」ということです。

どんな人間であっても、必ずそういう時期は来るものです。

例えば、幼少時には、「病気をする」ということがあるかもしれません。あるいは、片親がなくなるとか、両親の別離であるとか、こういうことがあるかもしれません。

小学校のときには、いじめに遭うとか、中学校のときには、クラブ活動で挫折をするとか、高校進学のときには、進学で悩むとか、こういうことがあるかもしれないのです。

それから、高校卒業に当たっては、「就職の道を選ぶか、大学進学を選ぶか」で悩んだりしますし、大学に進学するにしても、「どの学校に行くのか」で悩んだりします。たいていの場合、第一志望のところにはなかなか行けなくて、自分の意図とは違うところに進学していきます。

このほか、大学に入ってからも、なかなか学業についていけなかったり、留年あるいは中退をしたりすることもあります。

就職のときにもそうであって、進学のときと同じように、第一志望のところに入ることはなかなか難しく、いろいろなところで就職の面接試験を受けても、一次選考や二次選考を通ったのに、三次選考で落ちたりすることがよくあるわけです。

また、思い通りの会社に就職できたとしても、そのなかにおいて、さまざまなつまずきが待ち構えていることはよくあります。自分より早く同期のものが出世したり、思わぬことでビジネス上の失敗をしたり、過労がたたって病気をしたりすることがあるわけです。

最初は注目されていたエリートが、思いもよらない失敗によって、左遷されたり脱落していったりすることがあります。

また、まったくの問題外で、ライバルとは見られていなかった人が、意外に力を伸ばしてきて、どんどんと上に上がってくることがあります。場合によっては、自分の後輩が自分の上司になることもあるのです。こういう衝撃があります。

会社のなかでもそういうことがありますが、これ以外にまた、個人的事情として「結婚」という問題があります。結婚は一つの関門であって、これも人生の一つの試練であろうかと思います。会社の選択と同様、配偶者の選択も決定的です。

「人生には三つの関門がある」と言われます。「進学」「就職」「結婚」の三つです。

この書物を読んでおられる方の大多数は、「進学」という問題をすでに終えられているでしょう。また、学生ではない方々の大部分は、「就職」という問題も終えているでしょう。そして、何割かの方は、「結婚」という問題に対して、いろいろな悩みを持っておられるのではないかと思います。

この「配偶者の決定」に際しても、やはり、人はいろいろと悩みます。
この世的には、いろいろな結婚コンサルタント会社があって、両家の条件をいろいろと出しては話をすることがあります。

男性から女性に対する希望であれば、やはり、容姿が端麗(たんれい)であるとか、最低でも短大を出ているとか、ご両親が健在であるとか、一人娘ではないとか、そういう条件がつくことはよくあります。あるいは、性格がいいとか、尽くすタイプであるとか、料理が上手であるとか、花嫁学校に行っていたとか、こういう条件を付けることもあります。

また、女性から男性に対してであれば、年収がいくら以上であるとか、次男坊であるとか、三男坊であるとか、親と別居できるとか、身長が百七十センチ以上あると、体重は何キロを超えていないとか、こういう条件があるかもしれません。

そういうときにも、この世的にいろいろと選択をしながらも、やはり、どこかで「神縁」というようなものを感じ、人間ならざる第三者の働きを考えます。具体的には、「守護霊あるいは指導霊たちが何かをやってくれているのではないのか」「生まれてくる前の縁があったのではないのか」ということを考えるに至るのです。

たいていの人間は、神や仏を無視し、霊的なものを無視するにもかかわらず、進学のときや就職のとき、結婚のときには、そうしたものに関し、何らかの感じを受けるわけです。

結婚に際しても、「赤い糸で結ばれている」という話を耳にします。若い女性たちの場合、ほとんど、そうしたことを信じていて、「八割、九割以上の人は赤い糸を結ばれていて自分の約束した相手がいるのではないのか」というように考えることがありますが、これなども、やはり、霊的な人生観を得るための一つのよすがになっているということが言えるでしょう。

結婚のあと、子供ができても、またね神秘的な感じを受けることがあります。子供というものは、「つくろう」と思ってつくれるものではなく、子供ができると、「授かった」という不思議な感じを受けるものです。

また、不幸にして離婚を経験される方もいますし、片方との死別もあるかもしれません。

こういう、人生のいろいろな流れのなかにおいて、人間はさまざまな転機を経験していきます。その転機とは、結局、どういうものかというと、一つの選択肢であるわけです。「右にすべきか、左にすべきか。あるいは、まっすぐに進むべきか、退くべきか」という転機が必ずあるのです。

これは決して優れた人にだけにあるのではありません。どんな人にも人生の転機は何度も何度もあります。「そうした選択肢を、そのつど、どう選ぶか」によって、結果的に、振り返ってみると、その人の人生はずいぶん変化しているものです。

これは迷路を歩いているのと同じであって、「右にするか。左にするか」を間違うと迷路から出てこられませんが、うまく選択すると迷路から出てこられます。

このように、結果的には、「右にするか、左にするか」という判断で人生は変わってくることがあるのです。

こうした「人生の転機」に当たって、人は、ともすれば、易をやってみたり、姓名判断をやってみたり、四柱推命をやってみたり、星占いをやってみたりと、さまざまな「この世ならざるもの」へ、すがろうとする思いを持ちたがるものです。「人知を超えたもの」に頼ろうとするわけです。

結婚の問題にしても、「Aさんと結婚するか、Bさんと結婚するか」という問題で心揺れたりすることがあります。こういうときに占いに走り、易者に見てもらったりして、「どちらの方が縁が深い」とか、「こちらであれば失敗する」とか、こういうことを言われ、信じる人もいれば、余計に迷ったりする人もいます。いろいろなことがあるわけです。

結局、人間は、原則を自分で考えていこうとするけれども、「より一歩先が見えることがありえないか」という希望も抱いているわけです。それはなぜかというと、やはり、誰もが「つまずきたくない」という気持を持っているからです。

半年後、一年後、三年後、五年後、十年後、のことは、なかなか人間にはわかりません。分からなくて、自分の認識を超えた領域であるからこそ、「他のもの、人知を超えた偉大な存在の計らいが、何か得られないか」ということを考えるわけです。

こうした「人生の転機」こそ、やはり霊的人生観への目覚めの契機ではないでしょうか。そのように私は思うわけです。

【大川隆法 『漏尽通力』第一章「霊的人生観」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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