(8/28-2)59『仏陀再誕』を読む―政治と経済―政治の真実―如来の本質

『仏陀再誕』を読む

65 「鬼」の定義は、多様、多種類である。唯一の共通項は、頭に角が生えていることである。一本角の鬼は、一途なところがあり、直線的である。二本角は、受信と発信機能を持っており、性格的には、陰陽の両面がある。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

38 小さな蜘蛛たちが、動物の死骸のまわりに集まっていた。生前、人々から小銭をせびっていた人たちだった。突然、火球が降って来て、彼らは、丸焦げとなった。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正業】環境に感謝する姿勢
〇「自分独りの力で成功した」と勘違いせず、まわりに感謝する

ともすれば、私たちは誤解することがあります。自分自身が光っているわけではないのに、他の光を当てられることによって、その反射光で光っているにすぎないのに、すなわち、”月のような存在”であるにもかかわらず、自らを”太陽だと勘違いしてしまう”ことがよくあるのです。

それは、みなさん一人にすべて言えることです。月のように、実は反射光で光っていることが多いのに、「自分は太陽だ」「自分で光っている」と思ってくる瞬間があります。これがいちばん危険な時です。

大企業に勤めている人は、特にそういう危険があると思います。「すべて自分の力だ」と思ってしまいやすいのです。仕事が進んだり、対外的な交渉がうまくいったりすると、「自分の力だ」「自分の器量だ」と思ってしまいがちですが、やはり、会社の看板がそこに効いていることがあります。あるいは、官庁に勤めている人もそうです。その官庁のバックがあって初めて仕事ができるのであり、これを取られた時にどうなるかを考えたら、けっこう無力な自分を見いだすのです。

ですから、自分の個人的信用でできた仕事ではなかったのです。その組織の背景なり、看板なりによって仕事ができていたのを、自分個人の信用だと思ったり、実力だと思ったりしたら、この次の段階で苦しみが始まります。

役所などでも上り詰めた人に天下りということがよくあります。もちろん、天下りでも成功する人はいます。それ相応の実力がある人は成功を収めていますが、逆もまた多いのです。・・・

これは、普通の会社の部長や役員でも同じです。「自分がいなければ、この会社はもたない」と思っていても、その人が退職したあとも会社は動いているのではないでしょうか。「自分がいなければ、この部は回らない」と思っていても、新しい人に変わってもすぐに動いていくようになります。やはり、ここに大きな考え違いがあることが多いのです。

(成果の)八割ぐらいは、「組織の力」、あるいは「法人の力」「みなの力」であり、残りの二割ぐらいが”自己の個性によって味付けをしている部分”であることが数多くあります。そこを勘違いしてしまうわけですが、ここをよくよく考えなければならないということです。現在成功している人も、それを「自分独りの力だ」と思わずに、その成功を支えている要因に対してじっくりと分析をし、そして、自分を支えてくれた人に対しての「感謝の思い」を持つことが大事なのです。

『成功の法』にも書いてありますが、少なくとも、他の人の引きなくして成功する人はいません。「ゼロ」と思ってください。なぜなら、人間社会というものは、そのように成り立っているからです。

自分独りだけで生きているロビンソン・クルーソーのような世界もあるかもしれませんが、彼の場合でも、フライデーという召使いが出てきて発展したわけであり、自分独りではなかなか発展というのはないのです。

【大川隆法『真説・八正道』第五章「正業」205pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第四章 政治と経済 
○政治の真実

今の日本という国の政治を見ていて、
いちばん嘆かわしい点がここにある。
諸党派相(あい)争い、自らの利害を主張し合う。
これを民主主義と言う人もいるのであろうが、
こうした政治が、決して仏の心にかなうとは、私は思わない。
ほんとうに仏の心にかなうならば、
ほんとうは、諸党派相(あい)集まって、
ほんとうに世の中を、人々の心を、
明るくし、幸せにしてゆくには、どうしたらよいかということを、
真剣に考え合わねばならない。
真剣に提案し合わねばならない。
欲望の民主主義は真実の政治ではないということを知らねばならない。
欲望に基づいてお互いの利権を主張し合うことをもって、
自由と混同してはならない。
自由とは欲望の自由ではない。
自由とは欲望を競わせることではない。
そんなことが本当の民主主義であってはならない。
欲望の民主主義であってはならない。
煩悩の民主主義であってはならない。
自らの政治の利便のために、
自らの生活の利便のために、
欲望のために、候補者を選び、
そしてそのためだけに政治をやらせてはならない。そうであってはならない。
より多くの人々が、
いや、万人が満足できるような社会をつくり出してこそ、
はじめて素晴らしい政治だと言えるのだ。
そのためには、心から争いを去ることが大事だ。
心から争いを去らねば、真の調和は生まれない。
今、いろいろな政党が相争っている。
仏の目からみて、これがいかに嘆かわしいことであるかがわかるか。
また、同一政党のなかにおいても、各派が相争い、
自らが首長になろうとして、競争している。
それはそれで進歩の原理にかなうところもあるのではあろうが、
しかし、「それにしても・・・」という感が拭えないのはなぜであろうか。
それは、人びとに、
争い事を好む人を上には置きたくない、
という気持があるからなのだ。
下々のものが争うということは、
見ようによっては、
子供たちの他愛もない喧嘩のようにも見えるであろう。
しかし、自らの上なる人、
人びとの上に立つ人たちが相争う姿を見て、
どうして国民が心穏やかに生きてゆくことができるだろうか。
争いを上において、下が、何ゆえに穏やかになるだろうか。
調和できるであろうか。
調律できるであろうか。
そんなことは、矛盾でしかない。
矛盾以外の何ものでもない。
人の上に立たんとする者は、
秩序と調和というものを大切にしなくはならない。
そして、常に多くの人に見られ、
多くの人びとに、
徳ある人として尊敬される人間でなくてはならないと思う。
国会という国の政治を議論する場において、
粗暴なる言動は許されない。
人間として恥ずかしい行為は慎まなくてはならない。
そして、いかに自らが当選し、自らの権益を拡張したいからといって、
他を追い落とし、他の人格を批判するがごとき言動は、
厳に慎まなければならない。
そうしたことを、言論の自由と呼んではならない。
私はそう思う。

政治の貧困は、心の貧困に起因する。
政治は、国民から選ばれる人びとによって行われている。
国民から選ばれたる人々が、心不在の政治をするというのであれば、
彼らは選ぶ国民の側にも心が不在していると言わざるをえない。
そんなことであってよいはずはない。
真心の政治をせよ。
誠心誠意、人々のために尽くす人を選べ。
誠心誠意、世の中をよくするために行動する人を選べ。
そういう風潮を出してゆかねばならない。
今の政治は、憂うべきことである。
誰選ぶか、それが分からないのであるならば、徳高き人をまず選べ。
いちばん徳高き者は誰であるかを互選によって選べ。
数の力でもって決めてはならない。
金銭の多寡によって決めてはならない。
その人の政治手腕のみによって決めてはならない。
いかに仏に近き人を選ぶかということが、大事であるのだ。
そうして、政治のなかには、
決して諸党派の相争いを持ち込むのではなく、
どういうふうなことをするならば、
国民が豊かになり、幸せになるかということを、
常に念頭に置かねばならない。

【大川隆法『仏陀再誕』第四章「政治と経済」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第六章 人間完成の哲学
9 如来の本質

「千人の阿羅漢向のうち、菩薩になるのは五人もいればよいほうであり、また、阿羅漢から菩薩への修行には千年の年月がかかる」という話をしました。

それでは、菩薩が如来となるためにはどうすればよいのかと言うと、いろいろな時代や地域に、菩薩として、二十回、三十回と生まれ、どの時代のどの地域に生まれても、自分の目標を八割から九割以上達成できた人が、魂の安定感と仕事の能力を買われて如来になるのです。

それゆえ、菩薩が如来となるには、成功の経験を一万年以上は続けていかなければなりません。それも、「上段階の菩薩として」という条件があるので、非常に難しい修行となります。

菩薩として進化して、上段階の菩薩となったとしても、一万年ものあいだには、転生輪廻の過程で、ある程度の浮き沈みをつくり、間違いを犯すことがあります。菩薩として、人を生かし、利他行に励む立場にあるにもかかわらず、あるときには、新興宗教の教祖となり、魔にそそのかされて自分を宇宙の根本神のように思ってしまい、間違いを犯す例もなきにしもあらずです。

ただ、そうした間違いを犯しても、本来は霊格の高い人であるため、やがて立ち直り、元の世界に戻ってきます。しかし、そのときはまたゼロからのスタートになります。菩薩として千年二千年の修行をしていても、いったん転落し、二百年か三百年、心の垢落としをした場合には、もう一度、初めから修行を始めなければならないのです。

このように、「上段階菩薩として、一万年間、成功し続ける」ということが如来の条件であり、たとえ九千年間は成功したとしても、残り千年でつまずいた場合には、その九千年がふいになり、またゼロから一万年を始めることになります。それだけ難しい修業となっているのです。

そのため、上段階菩薩のなかで如来になる魂は、一万年間で五百人に一人ぐらいしかいません。五百人の上段階菩薩が努力に努力を重ねた結果、一万年に一人だけ如来になるということです。

現在、霊天上界には、如来を目指して修行中の上段階菩薩が二千人前後いると言われています。五百人に一人の割合だと、二千人では四人になります。つまり、一万年間に四人だけ、菩薩のなかから如来が出るのです。すなわち、如来が出るのは、平均すると二千五百年に一人ということになります。

現在、地上に約六十億人、霊天上界をふくめると約五百億人います。その五百億人が修行に修行を重ねた結果、二千五百年に一人だけ如来が誕生するのです。如来となる道はこれほど難しいものなのです。

しかし、たとえ二千五百年に一人であっても、その一人が出ることは、人類全体にとって大変な喜びです。部屋に一〇〇ワットの電球をつけるとパッと明るく輝くように、実在の世界においても、二、三千年に一度、如来が誕生すると、大きなシャンデリアが飾られたようになり、そのたびに喜びが満ちあふれます。新たな如来を迎えて、天上界の力が増すのです。

天上界では、こうした根気強い活動をうまずたゆまず続けています。如来となった人は、女王蜂のごとく、数多くの”卵”を産み、多くの者たちの精神的な中心になっていきます。新たな指導者の誕生です。如来はそれだけの年月をかけて努力を積んでいるので、不動の実力を持っており、その実力でもって多くの人びとを導いていくのです。

現在、天上界にいる如来は五百人にも満たず、四百数十名であると言われていいます。それだけの人数で五百億近い人間を指導しているのですから、如来には、一人で一億人ぐらいを指導できるだけの力が必要となります。

そうした指導力を養うために、上段階菩薩としての修行を一万年も成功させ続ける必要があるのです。しかし、それだけの実績を積めば、誰もが必ず入っていける道であることも時事なのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第六章「人間完成の哲学」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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