(8/11-2)42『仏陀再誕』を読む―我、再誕す―高次なるもののために―因果の理法

『仏陀再誕』を読む

45 「天狗」の第三の特徴は、そのトビのような口ばしにある。ピーヒョロヒョロと鳴くトンビのような口ばしである。相手の弱点を攻撃する鋭い言論攻撃になったり、相手の弱みをえぐる鋭い一撃を加えることがある。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

55 ある時、貸し渋り、貸しはがしをした銀行家が、ハゲタカに、クチバシで、目玉も、内臓も、えぐられていくところを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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○【正語】プライドを捨て、素直に謝る
・反省する姿を見ると、天使は喜び、悪魔は近寄れなくなる

天上界において最も崇高な姿の一つに、反省する姿があります。自分の過去を反省して涙を流している姿を見れば、天使たちも喜びますし、悪魔たちであっても、もうどうにもできません。反省して涙を流している人の姿を見たら、悪魔たちも近寄れないのです。そういう人に対して、そそのかすことはできません。「申し訳なかった」と言っているような人には、もはや何もできないのです。

自分にとって長年の苦しみだと思っていることというのは、実はプライドで引っかかっているだけのことがあります。「上司が自分をいじめ続ける」など思っていても、何のことはない、実際は自分のほうが言うことをきかずに、何だかんだと生意気に反抗したり仕事をしなかったりしているわけです。そのようなことが引っかかっているだけのことであって、態度を改めて「申し訳ございませんでした」と言えば、もうそれで済むようなことを、”永遠の地獄”として自分でつくりだしているのです。このようなことが実に多くあります。

地獄霊たちは特にそうです。「絶対に反省しない」と頑張っています。「絶対に認めない。おれは悪くない!」と言いきっています。こういう者に対しては、「ずっとそこにいなさい」という以外にありません。「申し訳ありませんでした」という反省が、彼らにはできないのです。

これを「自我」と言ってもよいでしょう。あるいは「自己保存欲」「エゴ」と言ってもよいでしょう。美しく言えば「プライド」です。自分のプライドであり、「自分がかわいい」と思う心なのです。

しかし、本当に自分がかわいいのであれば、自分を救うことをこそ考えなければなりません。自分を苦しみから救出しなければならないのです。

そのためには、間違ったと思ったら、素直に「ごめんなさい」という気持ちを出さなければならないのです。これだけのことで、どれほど幸福になるか分かりません。それだけのことで、自分が幸福になり、相手も幸福になるのです。周りの人も幸福になれるのです。

【大川隆法『真説・八正道』第4章「正語」146pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第一章 我、再誕す 

○高次なるもののために
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
執着を断てと語った、私の教えを思い出すことができるであろうか。
執着と語ったものの内容を思い出すことができるだろうか。
人間の地上での意志はともすれば弱くなり、肉体に隷属しがちである。
肉体の欲望に、
あるいは肉体を基盤として発生するところの欲望に流される。
そういう傾向があると、私は語った。
人間の欲そのものを悪しきものとは言うまい。
なぜならば、人間も一種の生物として
その種族の保存という、法則のもとに生きているからだ。
しかして、この種族の保存は、
ただ単に、動物・植物のように
保存されることのみをもって、よしとはされない。
あなたがた、法を学んだ者たちは、
やはり、それ以上のものでなくてはならない。
単なる地上での生存を目的としてはならない。
地上での生存は、生存以上の目的があって、
はじめて肯定されるものなのである。
したがって、生存のための手段を、目的と間違えてはならない。
生存は、
それはより高次なるものを支えるための手段であるということ、
地上に生存するということ自体が、
より高次なる目的に奉仕するものであるということ、
それを忘れてはならない。

あなたがたにも、欲望はあるであろう。
その欲望そのものは、
あなたがたの生命力と不可分になっているであろう。
欲望すべてを断つということは、
生命力を断つということにも等しいかもしれない。
それゆえに、私はつねづねあなたがたに語っていたはずだ。
淫らな想いを断てと、
よこしまな想いを断てと、
そのように語っていたはずだ。
淫らなる欲望を断て。
よこしまなる金銭欲を断て。
よこしまなる支配欲を断て。
よこしまなる飲食壁を断て。
そうしたことを、私は言っていた。
淫らな言葉を語るな。
よこしまなる心のもとに行動するな。
そうしたことを、いつもいつも我は語ってきたはずである。

○正しき心の探求
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
この我が教えが、
今、いかに展開されているかを気づいているか。

我は今世、正しき心の探求を標榜しているはずである。
これは、過去、わが教えたところの、
よこしまなる欲望や、淫らなる考えや、
邪悪なる感情を排除せよと言ったことと、まったく同じであるのだ。
これは、別の側面から見たならば、
正しさの探求ということであるのだ。
あなたがたは、正しい道に入らねばならない。
正しい道を探求せねばならない。
正しい道を探求するためには、
人間として生きている途中で生まれてくるところの、
感情や想念や行為を統御してゆかねばならない。
自分の心のなかに浮かんできたその想いを、統御せねばならない。
自分の行動の動機を統御せねばならない。
そしいて、自分の行動が、
もし、悪なる行為を意味しているならば、
それは、すなわち反省を必要とするものなのだ。

我は許しの原理をも、あなたがたに説いたはずだ。
人間である以上、間違った念いを心に抱くこともあるであろう。
人間であるからには、間違った行為をしてしまうこともあるであろう。
完全無欠でない、地上の迷える人間である以上、
そうした誘惑に身をさらし、
そうした誘惑のなかに、生きてゆかねばならぬことは、
数多くあるであろう。
しかれども、自らがそのような苦しみのなかにあることを、
嘆き、悲しんではならない。
自らがそのような苦しみのなかにあっても、
あなたがたには、反省という行為を通して、
自らの悪を消し、自らの心を清める方法が与えられているではないか。
これが、常づね私があなたがたに説いてきた
八正道ということではなかったか。
よくよく、それを考えなさい。

【大川隆法『仏陀再誕』第一章「我、再誕す」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第五章 縁起の法
2 因果の理法

縁について簡単な説明をしましたが、次に「因果の理法」について語っていきましょう。これも仏教のなかに色濃くある教えです。

たとえば、「今世で夫婦になったのは、過去世で縁があったからだ」という考え方があります。この考え方を一般的に展開すると、「ある原因行為があると、それが何らかの結果を生むことになる。よい原因をつくると、よい結果が生まれ、悪い原因をつくると、悪い結果が生まれる」という法則になります。

これは人生における最も基本的な法則の一つであり、仏教が哲学としても成功したのは、因果の理法について深い洞察がなされているからです。

親子や兄弟、夫婦の縁が、今世のみならず過去世からもきている理由は何でしょうか。過去世において、親子や兄弟、夫婦であって、「お互いに幸福だった」という思いがあるからこそ、今世においても、親子や兄弟、夫婦の縁となって表われてきているのです。

このように考えると、「人間は日々に因果の種をまいて生きている」と言えます。日々に種まき作業を行ない、その結果、まいた種がどのように発芽し、どのように成長していくか―そこに成果が見られるようになります。

したがって、因果の理法は仏教における成功哲学であり、また、幸福哲学でもあります。仏教は人生の苦しみばかりを説き、苦悩ばかりを見つめたように語られがちですが、実はそうではありません。多くの偉大な哲学者がそうであったように、釈迦もまた幸福哲学を説いたのです。そして、仏教の幸福哲学は何に集約されるかというと、それが「因果の理法」という言葉なのです。

すなわち、幸福という結果を手に入れるためには、幸福という果実が実るだけの種をまき、水や肥料をやり、日ざしをあてて、成長させる必要があります。これが成功哲学の一法則なのです。

これはあらゆるところに見受けられる法則です。「一生懸命に努力すれば、その努力は必ず何らかの形で実る」というのは、人間の経験則にもあてはまることです。

なかには、一生懸命に勉強したけれども、大学受験に合格しなかったということもあるでしょう。しかし、一生懸命に努力したことは、本人の将来のどこかで必ず良い影響を与えるものです。また、「悪事、千里を走る」といいますが、悪いことをしていると、やがてどこかで必ず露見し、破滅を生むことになるのです。

このように、人生を一つの法則、運動のダイナミズムとしてとらえるならば、「人生は原因・結果の連鎖によってできている」と言えます。まいた種は、今世では必ずしも実らないかもしれませんが、少なくとも朝顔の種をまかねば、朝顔の花は咲かないことも事実なのです。

それゆえ、釈迦は次のように説きました。

「みずからの不幸という結果を嘆いてばかりいるのではなく、将来に向かって、幸福の種をまいていきなさい。そのために、努力・精進があるのではないのか。そのために、人に布施をするのではないのか。そのために、多くの人びとを教化し、導こうとするのではないのか。

そうした功徳が、結果として、その人を幸福にしていくのではないのか。この地上では、結果が出なくても、天に還ってから、やがて必ずどこかで、その収穫に巡り合うことができるのではないのか。このように、『天の蔵に宝を積む』という考え方もあるのではないのか」

したがって、「因果の理法は、時間の流れのなかにおける一種の幸福論である」ということに気づかされるのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第五章「縁起の法」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。   その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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