(8/8-2)39『仏陀再誕』を読む―我、再誕す―三宝帰依―「空」と「無」

『仏陀再誕』を読む

41 妖怪の代表格は「天狗」である。日本霊界には、日本オリジナルの「天狗」が存在している。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

58 ある時、生前、仏陀の悪口を言っていた者が、両手を木の枝に縛られ、黒いカラスに生皮をはがされ、狼にその肉を食われるところを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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〇【正語】言葉は「世界をよりよく創造していく愛」にも「世界を破壊する暴力」にもなる

五年前、十年前の他人の言葉が心のなかに残っていないでしょうか。心に突き刺さっている言葉というものは、何年も前の言葉が多いはずです。「そのとき、その人の不用意な一言」が突き刺さって自分を傷つけているというようなことは、ずいぶん多いはずです。そして、その言葉を発した当の本人がそれを覚えているかといえば、覚えている人は、まず一割にも満たないものです。より厳しく見積もれば、二、三パーセントもいるかどうかでしょう。

【大川隆法『真説・八正道』第4章「正語」138pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第一章 我、再誕す 

○三宝帰依
縁生の弟子たちよ。
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
わが声を聞け。

かつて、我はあなたがたに教えたはずだ。
三宝に帰依せよと。
三宝とは、これ仏・法・僧なりと。
「仏」とは、ほとけ。現成せる仏を意味す。
これ、悟りたる人、覚者なり。
「法」とは、これ仏の説く法なり。仏の説く教えなり。

仏の説く教えは、
過去・現在・未来を通して、一乗なり。
一つの乗り物、一つの教え方、一つの内容なり。

過去、幾百万年、幾千万年、
あるいはそれを超える歳月のなかで、
人間は、さまざまな社会をつくり、
さまざまな時代をつくり、
さまざまな文化をつくってきた。
その時代、時代に、
その地域、地域に、
その文化に、文化に、
異なった色彩はあれど、
されど、仏法は一乗なり。
すべての時代を貫いて、
真実なる仏の教えがあったということだ。
わが声を聞く、あなたがたの多くは、
かつて、幾転生のおのが人生の途次で、
さまざまなかたちで、わが教えを聞いたであろう。
それらの教えは、いつも唯一のことを教えていたはずである。
大宇宙には、その大宇宙の統べるところの偉大なる大霊がある。
この偉大なる大霊が、その分身を地上に遣わした時、
これが、現成の仏陀となる。
現状の仏陀は、その使命、立場のゆえに、
偉大なる大霊の法を説く。
偉大なる大霊の法は、仏陀を通して説かれ、
仏陀を通して説かれたその教えが、
弟子たちの力によって、
法典として編纂(へんさん)されてゆく。
その法典のなかを流れている教えを、永遠(くおん)の法という。
この法に基づき、この法のもとに、人々は生きねばならない。
この久遠の法は、仏陀が地上に下生しているかどうかを問わず、
仏陀が地上を去ったのちも、多くの人々を導く光となるであろう。
多くの人々を導く灯台の灯火となろう。

人びとよ。
仏陀ある時に生まれしは幸いなり。
仏陀なき時に生まれし人びとは、法を拠りどころとせよ。
法に依拠(いきょ)せよ。
法のもとに生き、法のために生きよ。
そうして、この仏法を育て、守り、広げてゆくものが、僧である。
すなわち、これ弟子たちの集団、サンガなり。
仏法がいかに、広く、多くの人々に伝わるか否かは、
この僧団の力による。

○久遠の価値
縁生の弟子たちよ。
今世、ただいまの、この時代の価値観に、迎合することなかれ。
現在ただいま、数多くの魅力的なる職業があるであろう。
この世的に、花形と言われるような職業があるであろう。
されど、あなたがたは、そのようなものに心をとらわれてはならない。
あなたがたは、人の噂に心をとらわれてはならない。
あなたがたは、人の言葉に、心をぐらつかせてはならない。
あなたがたは、永い永い転生のなかで、
いつも、わが言葉を聞き、
わが言葉に従ってきたはずである。
あなたがたの心の奥の奥なる真実の真心は、
久遠の価値とは何であるかを、知っているはずである。
久遠の価値とは、仏陀の説く法につながること。
仏陀の説く法のもとに生きること。
仏陀の説く法をおしすすめること、おし広げること。
仏陀の説く法を、一人ひとりの心に伝えること。
あたたかき血液となって、一人ひとり心に、
その法を流し込んでゆくこと。
これがいつもいつも
あなたがたが価値あることと思ってきたことではなかったろうか。

諸人よ、この世的なる値打ちに迷ってはならない。
諸人よ、この世的なる価値観に迷ってはならない。
諸人よ、あなたがたの生命の真なる意味を考えよ。
人間には永遠の生命があると、いつもいつも私は説いてきたはずだ。
永遠の生命のなかを生きる時に、いちばん大切なことは、
永遠の生命を、人々に保証しているその大いなる力に気づき、
大いなる力に感謝し、
大いなる力のために生きんとすることではないのか。
さすれば、この大いなる法輪のなかに、
自らの転生を回転させよ。
自らの人生を回転させよ。
仏・法・僧は、それぞれに尊く、
それぞれに独立しているようでありながら、三位一体である。
仏ありても、その法伝える僧なくば、その法は死せるなり。
僧ありても、仏なくば、心に拠りどころはない。
このように、仏・法・僧は、たがいに生かし合う関係にあり、
仏・法・僧は、まとまりて一つの力となる。
その通り。
法とは何かを考える時に、
それは人間の生命を離れたものではないということなのだ。

【大川隆法『仏陀再誕』第一章「我、再誕す」より抜粋】

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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第四章 空の思想
9 「空」と「無」

「空」の思想と非常によく似た考え方に、「無」の思想があります。「無」の思想自体は非常に大きなものであり、「無」ということを考察するだけで、一冊の書物が出来上がるだろうと思いますが、本節では、「無」とは何かということを簡単に説明しておきましょう。

「空」は「空っぽ」と書き、「無」は「無い」と書きます。これらは同じことのようにも思えますし、違うことのようにも思えます。

しかし、すでに述べたように、「空」は何もないという意味ではありせん。「空」とは、あるものが変化していくことを意味しています。仏のエネルギーがさまざまに変化していく姿をいいます。形あるものが形なきものへと変わり、形なきものがまた形あるものへと変わる―こうしたプロセスを、「空」という言葉で読んでいるのです。

したがって、「空」は一つの循環の法、宇宙の運動法則を意味するものだと言えます。「生成・発展・衰退・枯死(消滅)」という宇宙の運動プロセスを、「空」という言葉で表しているのです。

これに対し、「無」という言葉は、宇宙の運動法則を表しているわけではありません。「無」は否定であり、「無い」という意味です。

これ観点から見ると、「空」と「無」という言葉は、実はそれぞれ、「時間」と「存在」を暗示していると考えられるのです。

「空」という言葉の意味を説く鍵は「時間」にあります。時間の本質を、「空」という言葉で表しているのです。

時間の概念のなかには、「変転していく」という意味があります。何ものも変化しない空間においては、時間は存在しません。それは、静止している状態、停止している状態と言ってよいでしょう。万物が変転し、流転することによって、初めて時間が発生するのです。

「空」の思想は、実は時間論にほかなりません。時間というものは、「生成・発展・衰退・枯死(消滅)」という循環プロセスを意味しているのです。

一方、「無」の思想は存在論であり、時間と対比される「存在」に鍵があると考えてよいのです。

それでは、存在論としての「無」とは何なのでしょうか。何をもって、存在論としての「無」の思想と言いうるのでしょうか。

これは結局、「この宇宙を創っている意志をいかに見るか」ということと、かかわってくるのです。

人間は、存在というものを、固定化したもの、固形化したもの、動かないもの、しっかりとしたものといった観点からとらえがちですが、そうした観点がはたして正しいのかということを、禅のごとく問うのが、「無」の思想なのです。

「あなたがたが住んでいる家は、ほんとうに存在しているのか。地球は本当に存在しているのか。自分自身は本当に存在しているのか。

大地はどうだ。石はどうだ。動物はどうだ」

要するに、「時間の変化をなくしたとき、時間を止めたとき、万物が存在しうるのか」ということについての考え方が「無」の思想なのです。

「空」の思想において時間が流れていますが、「無」の思想においては時間は静止しており、それは、「時系列の一点において時間を止めたとき、世界は存在するのか、大宇宙は存在するのか」という問い掛けをしているのです。

こうしてみると、人びとが「確固たる世界だ」と思っているものが、実は、根源なる仏の意念(いねん)、念いの、反映、投影にすぎないことが分かります。

すなわち、九次元世界、八次元世界、七次元世界、六次元世界、五次元世界、四次元世界、三次元世界といっても、それらの世界は、実は仏の意志がそれぞれの次元という”スクリーン”に投影されているだけなのです。「それらの世界は、いわば映画のスクリーンに映った景色や人物にしかすぎない」ということを知らなければなりません。

そのスクリーンに、如来たちが映ったり、菩薩たちが映ったり、六次元光明界の住人たちが映ったり、地獄界の姿が映ったりしますが、それはあくまでもスクリーンに映った姿であって、映写機から発せられる光を止めたときには、そうした世界は忽然と消えてなくなるのです。これが、宇宙を創っているものの真相です。

すなわち、「存在は、忽然として現われ、忽然として消えるごときものであり、仏の意念、仏の意志のみによって投影されているものである」という見方が、実は「無」の思想なのです。

「空」と「無」は非常に似た思想のようにも見えますが、その裏には時間論と空間論をふくんでいて、時間論から考えた思想が「空」であり、存在論、あるいは空間論から考えた思想が「無」です。「空」と「無」は、時間と空間、時間と存在を立脚点とした世界観だと考えてよいのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第四章「空の思想」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。   その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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